六月の空の下で。

文字数 2,780文字

 停留所に来た都営バスに乗り込むと、車内には弱いが冷房が入っていた。ICカードで料金を支払い。バスに乗り込む。右側の一人席に座ると、入り口のドアが閉じてバスが走り出す。窓の外に視線を移して空を見ると、六月らしい澄んだ青空が以前よりも主張を増した太陽の光に照らされている。その下のコンクリートでうごめく人間達は、ほとんどの人間が半袖の服を着て、熱くなりつつある陽気に不満を持ちつつも、それは受け入れなければならないと観念しているようだった。
 僕はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を指でタップして通知を確認する。インスタグラムの通知が一件と、LINEの通知が二件あった。パスコードを入れてロックを解除し、LINEを確認すると妹からの連絡があった。

「駅に着きました。これから兄さんの部屋に向かいます」

 書かれていたメッセージはそれだけだった。絵文字も何もない簡素な物だった。
 僕を乗せたバスは目的の停留所に到着して、僕はそこでバスを降りた。停留所から歩道を横切って路地に入ると、近くの植え込みのアジサイがもう淡い青色の花を咲かせている。少し澱んだ空に、湿った空気とアジサイの花の持つ淡い青色のコントラスト。この組み合わせをいいなと思えるようになったのは去年の頃からだ。
 その路地を進み、僕が借りているマンションの前まで来る。エントランスを抜けて四階にある自分の部屋に行くと、ドア越しに妹の楽しそうな気配が伝わって来た。ドアノブに手をかけると、もう鍵が開いていた。
「ただいま」
 僕はドアを開けると同時に、何時もと同じような口調で部屋に向かって言った。声が部屋の中に消えて行くと、妹と愛菜の楽し気な会話が耳についた。
「お帰りなさい。妹さんが来たから入れちゃった」
 愛菜が部屋の中で答える。女同士の会話を交わして楽しい時間を過ごしていたのだろう。僕は靴を脱いで部屋に上がり、リビングに入って向かい合わせで会話する妹と愛菜を見た。
「ただいま。ミナも久しぶりだね」
 僕は妹の名前を呼んだ。妹と会うのは三月十四日の彼女の誕生日以来だから、約三か月ぶりだ。
「こちらこそ。多摩方面に来たから寄らせてなんてわがままを言ってごめん」
「いいよ。俺だって親類に会うのに飢えていたから」
 僕は苦笑いを漏らしながら答えた。二人がテーブルの上にインスタントコーヒーを注いだマグカップが置かれているのに気づくと、僕は食器棚に向かって自分のマグカップを手に取り自分の分のインスタントコーヒーを用意した。
「ミナは今日中に仙台に戻るのか?」
 僕はコーヒーの顆粒を入れたマグカップにお湯を入れながら質問した。コーヒーが解けて、焦げたような甘い香りが鼻先に漂ってくる。
「うん。明日仙台で、次の日は盛岡」
「忙しいんだね」
 僕の背中に向かって放った妹の言葉に、愛菜が答える。
「まあ一応。取材のあとすぐ文章に書きださないと」
 妹は少し照れくさそうに答えた。フリーライターという職業は、自由そうに見えて制約や果たすべき義務が多い仕事なのかもしれない。妹が執筆した地方の文化やアーティストを取材した記事は僕も見ているが、僕よりも知的で無駄のない文章を紡いでいる。その才能が羨ましかった。
 カップにお湯を注ぎ終えて、愛菜の側に座った。横目で見ると、窓の外にはバスの中から見た時とは少し違う、すこし曇りが出た空に変わっていた。
「あとどれくらい、こっちに居られるの?」
 愛菜が妹に質問する。
「午後五時に上野。その後新幹線で仙台。お昼ご飯は一緒に食べれられるよ」
 妹はそう答えた。そうなると昼食の用意を考えないといけない。
「どこか食べに行く?」
 僕は妹に質問した。
「どこかに食べに行くのは、取材で何時もだから大丈夫」
「じゃあ、どうするんだ?」
「兄さんの料理が食べたい」
 妹の答えに僕は驚いた。妹が来る事は事前に知っていたが、僕の料理が食べたいという返事が来るとは想像していなかったのだ。
「それでいいのか?」
 謙遜気味に僕は訊き返す。
「兄さんのが食べたい。ここに来たのはそれが目的」


 それから僕は昼食の用意に取り掛かった。幸いにも特売日に駆った一キロのスパゲッティがあったので、それを茹でて味付けして食べる事になった。合わせる素材は、紫玉ねぎとミニトマト、ケッパーの塩漬けにペコロス。ニンニクとオリーブオイル、鷹の爪のオイルパスタになった。
 十五分ほどで出来上がると、僕はパスタを和えたフライパンからそれぞれの皿にパスタを盛った。あり合わせのやっつけメニューだったので、午後に買い物に行く必要が出来てしまったが、構わなかった。
「どう?」
 僕は妹に味の仕上がりを尋ねる。妹は僕よりも数多くの名店に行っているから、舌が肥えているのだ。
「おいしい。ちょっと唐辛子が強くて兄さんらしい」
 妹は微笑みながら答えた。パートナーのとなりで妹に褒められた経験は初めてだったので、僕は苦笑しか出なかった。
 食事が終わると、パートナーである愛菜は新宿での買い物があったので部屋を出た。残された僕は妹と二人きりになり、親族水入らずの時間を過ごす事になった。
「兄さんはどう?上手くやっている?」
 先に口を開いたのは妹の方だった。
「一応ね。両親の墓参りも月命日ごとにやっているよ。お前はどうなんだ?」
「過酷なスケジュールだし、時々追い詰められる事もあるけれど、何とか平気。こうやって話してくれる人もいるから」
「そうか」
 僕は力なく頷いた。知らないうちに、妹は自分よりも強く芯のある人間になっているようだった。
「愛菜さんの事を、大切にしてあげてね」
 何の脈絡もなしに、妹は呟いた。
「何さ、いきなり」
「一人でいる事は孤独だから。私はこの後また一人になるけれど、兄さんと愛菜さんは違うから。誰かといる事を大切にして」
 妹はそこで言葉を終わらせた。僕に語られた言葉に一つ一つは確かな重さを感じられたが、それは妹の確固たる思い。そして願いが込められていた。
「ああ、そうするよ」
 僕は小さく答えた。妹の言葉と込められた意味を理解するのに余計な文章や表現は必要なかった。
 妹が家を離れる時間になると、僕は妹と一緒にバスに乗って、新宿に向かう私鉄の駅まで送った。妹は小さく別れの言葉を継げた後、改札へと消えゆく。僕は妹から聞いた言葉の感触を確かめながら、バスのロータリーへと向かった。
 空を見上げると、先程の濁った空は消えて、再び六月らしい淡い青空が広がっていた。抜けるような青さはなかったが、少なくともこれから曇るような事はなさそうだった。

                                     (了)

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