第1話

文字数 4,994文字

 ね。水が透き通るようにきれいでしょう?

 早川上水(はやかわじょうすい)っていうんです。本流の早川の方は小田原の外堀の役目を果たしていますけど、昔、天文の頃、北条のお殿様が籠城時の水の確保のために分水したのがこれ。今も生活に使われています。

 小僧さん、わざわざ江戸からいらしたの? 私に会いに、小田原まで?

 ……左近様にこんなかわいらしい甥御さんがいたなんて、ね。言われてみれば、涼し気な目元がそっくりだわ。
 であれば、まあ良いでしょう。あなたにだけは、私の秘密をお話し申し上げます。

 あそこ、御組(おくみ)長屋が見えますか? 上水をはさんで、東側には御先手(おさきて)組。西には勘定組。藩士が家族とともに暮らす建物です。

 左近様が住んでいらしたのは、勘定組の一番右側。今は空き家なので、板が打ち付けられてしまっていますけどね。
 で、その隣が私の家です。夫と子供が二人。他界した義理の両親と合わせると、一時は六人であの狭い家に暮らしておりましたのよ。

 私はね、同じ小田原でも東の方、林学小路から嫁いで参りましたの。実家は儒者の家系ですが、比較的のびのびと育ったんです。だから勘定組独特の雰囲気に最初は馴染めなくてね。
 勘定組は藩の御台所を預かる役職ですから、お堅い、真面目な方が多いんですけど、だからこそ皆さん、けっこう勝ち負けにこだわるんですよ。

 お隣の奥さんは、史乃様といいました。きれいなお方でした。上士の奥様方のお茶会や句会に呼ばれたの何のと、会うたびに怒涛の自慢話で、辟易したものです。
 それにうちの主人、作左衛門とは幼馴染だったとかで、若い頃の「与之助」の名で呼ぶなど、私の前で妙に馴れ馴れしくて。
 そういう女性に逆らわずに付き合う作左衛門の方も、どうかしていると思いましたけどね。

 うちの姑もまた、お隣さんを常に気にしていました。
「あの家は、ご家老様の口利きで良い婿を迎えたんだ。それで羽振りが良くなって、まあ」
 ……などと、それはもう激しい口調で。

 そう、婿とは、大和屋さんからいらした左近様のことです。町人の出ではありましたけど、江戸の裕福な呉服商から来たという触れ込みでしたもの。生活が派手になっていくのを、皆が羨望のまなざしで見ていたのでしょう。

 姑の言う通りでした。お隣には奉公人が出入りし、ご夫婦で良い着物をお召しになって、うちと同じ家禄では叶うはずのない豊かな暮らし。左近様は多額の持参金とともに養子入りをなさり、ご実家からはその後も援助があるのだと、近所ではもっぱらの噂でしたわ。

 左近様はこの辺りでは有名人でした。ご家老様の後ろ盾があるというのは強みです。実際、武家の婿養子になるだけの有能さもあったのでしょう。

 おまけに背が高く、あの端正なお顔立ち。左近様が現れると、皆がさっと道を開けていましたが、ご本人も自信があったのでしょう。他人の意地悪など涼しい顔でやり過ごし、肩で風を切って歩くようなお方でした。
 あの史乃様とお暮しになるのは大変そうだなと思いましたが、左近様とて強いお方。周囲には決して弱みを見せなかったようです。次第に誰もが何も言わなくなり、左近様は本当にそのまま、地域に溶け込んでいきました。

 そしてあの日は満月。夜になっても上水の水面が光を乱反射していたのを思い出します。

 私は家族が寝静まった後も、まだ山のように家事が残っていて。
 当時、うちでは姑が寝付いておりましたので、一日に何度もお薬の時間がありましてね。私、きれいな水で飲ませなくてはならなかったんです。
 で、甕の水が残り少ないことに気づいて。

 上水は各家の中にまで(とい)でも引かれていますが、水量はちょろちょろと細いのです。それに多少は土埃が混じっておりますもの、そのままでは洗い物にしか使えません。
 飲用にするにはまず甕に入れ、時間をかけて炭などで濾すんです。高齢の姑に飲ませるには、さらに煮沸が必要でした。
 もう遅い時間でしたが、私は翌朝のためにも、今のうちに汲んでこようと思ったのです。

 上水の畔には、石段で降りられるようになっています。
 私は手桶を持ち、月明かりを頼りにそっと降りて行きました。こんな刻限に何をやっているんだと誰かに怒られそうだったので、できるだけ音を立てずに、ね。

 そのときです。
「遅くまで、ご苦労なことですね」
 ぎょっとして、私は思わず桶を取り落としそうになりました。

 誰に声を掛けられたのか、すぐには分かりませんでしたけど、月光の中に現れたのは左近様でした。ほっとするとともに、私は明るい気持ちになりました。皆さんは相変わらず遠ざけているけれど、私にはいつも笑顔で挨拶を返してくれる、感じの良い人でしたから。

「こんばんは」
 大きな桶は隠しようもないので、私は観念して肩をすくめました。
「妙なところを見られてしまいましたわ」

 左近様はそれには答えず、流れる上水の方を指しました。
「ここは月がきれいなんですよ、ほら」
 空ではなく、水面を指すのが不思議でした。確かにそこには、輝く満月が揺れています。流れの動きに合わせ、光が跳ねるようです。

「まあ、本当に。こんな所でお月見ができるなんて」
 お世辞ではなく、本当にそう思って、私は水面を覗き込みました。すると、

「逃げたくなった時にはここへ来るんです」
 左近様がそう言って笑うので、私は思わずその顔を見てしまいました。
 笑顔の裏に、深い悲しみの沼があるのを感じました。それも、一度入り込んだら流れ出ることのない、底知れぬ沼が。
「今日も妻の機嫌が悪くてね」

 誰よりも幸せそうに見えた隣人には、やはり闇があるようでした。土地の侍たちの中で、月の住人も同然であるこの人は、恐らくとてつもない孤独を背負って生きてきたのです。
 何と返して良いかわからずに黙っていると、左近様の方がまた笑い出しました。
「まったく婿養子とは肩身が狭いものです」

 深刻ではない空気にほっとして、私も一緒に笑いました。
「大丈夫ですよ。史乃様のことですもの、すぐにご機嫌を直されますわ」

 すると左近様は、すっと目を細めたのです。
「沙織さんは」
 その瞬間、私の心の臓が止まりました。この人、私の名を知っていたんだと思いました。
「ご主人につらく当たったりなさらないでしょう?」

 低く艶のある声には、何やら危険で甘い響きがありました。
 理想の観音様であって欲しいというような、その程度の軽い言葉が、信じがたいほど私を酔わせていました。石の壁に囲まれた狭い空間に二人きり。世の掟をどこかへ吹き飛ばしてしまう勢いで、この人は私の中へ踏み込んできたのです。

 私は自分が分からなくなりました。
 優しい夫に不満はないし、子供たちも無事に成長して、言うことはないのです。それでも、先が見えてしまう年齢になったせいか、何という面白味のない人生かと思うこともあって。
 だって、そうでしょう? 家族のために身を粉にして働いてきて、世間からは何の評価を受けることもなく、このまま自分は朽ち果てていくのかって。この理不尽に愕然とするのです。

 陥穽だと分かっていながら、そこに飛び込みたくなる衝動。この愚かしい感情の渦をどうすることもできなくて。
 私が動けずにいると、左近様はさりげなく私の桶を取り上げました。そして流れにひたし、たっぷりと水を汲んでくださいました。

「重たい、ですね。御宅の玄関までお運びしましょう」
 はっとしました。うちの夫は、力仕事だろうが何だろうが、水汲みは女の仕事だと思っています。私が死に物狂いで働いていたって、そんなのは当たり前という態度です。

「いいえ、そんな。申し訳ないですから」
 恐縮して取り返そうとする私をよそに、左近様は軽々と桶を担ぎ上げ、石段を上ります。
「明日は非番ですしね。お気になさらず」

 正直、助かりました。そしてうれしかった。自分を大切にしてもらっているような気がしました。
 この人と、ちょっとだけ一緒にいたいと思いました。でも短い石段を上がり、長屋の入り口まではほんの数歩。うらめしくなってしまうぐらいの近さです。

 寝静まった我が家の戸の前に、左近様はそっと桶を置きました。
「……十日に一度、非番の日があります。その前の晩は、上水に」
 左近様は私を見ずに言葉を継ぎます。
「月が見られるとは限りませんが。良かったら、沙織さんもどうですか」

 あまりに自然に誘われたので、私は乗せられるようにうなずきました。よそのご主人とこっそり会うなんて鳥肌が立つような話ですけど、何も悪いことをするわけではない、少し世間話をするだけなのだからと自分に言い聞かせました。心のどこかに、夫と史乃様を見返してやりたいという思いがあったのかもしれません。

 いいえ、違う。
 私は間違いなく、月の光のような左近様の魅力に吸い寄せられていたのです。

 次の休日までの十日間はとても長く感じられました。
 いよいよ約束の夜になって、緊張しながら石段を下りて行くと、座り込んで待っていた左近様はさっと立ち上がり、私を見てうなずいて。

 堰を切ったように、二人ともよく話しました。いいえ、左近様が一方的にご自分のことをお話しになり、私はもっぱら聞き役でした。

 多くは苦労話でした。自分が江戸の豪商の家に生まれたのは事実だけれど、妾腹の三男坊だった上、産みの母は若くして死んだこと。成長したら厄介払いのごとく、養子に出されたこと。

 一方で、江戸で通っていた私塾で師匠に気に入られ、塾生を代表して漢詩を詠んだとか。あれは自慢話だったのかしら? とにかく自分の有能さを語ってもいました。
 でもこの人の場合、私に好かれたい一心でそんな話をするのです。どんな話題だろうと、さほど悪い気はしませんでした。

 別れる時、左近様はさらに距離を縮めてきました。
「また来て下さいますか」
 何かを訴える、強い目。
 その時です。私と人生をやり直したいと言われたような気がしたのは。

 もちろんすぐに我に返り、私は何を考えているのだろうと自分を戒めました。おかしな考えに囚われるぐらいなら、もう会わない方が良いのかもしれません。

 それでも結局、私たちは十日後に同じことを繰り返しました。陶酔を求めていました。わずかな時間、無難な言葉を交わすだけなのに、何という甘いひと時だったことでしょう。

 だけどその次に会った時、相手が一線を越えました。左近様は話しながら、唐突に私の手を握ってきたのです。
「ともに逃げましょう。金なら、あります」

 彼は本気でした。倒錯した、狂気めいた何かが渦巻いています。
 息がかかるほど、左近様の顔が近くにあり、その向こうに月光に照らされた雲が見えます。いいから来い、と禍々しい月が呼んでいます。

 断崖絶壁に落ちるまで、あと一歩。
 だけど空は薄曇りでした。人を狂わせるほどの光がなかったのです。魔の月があともう少し輝いていたら、私は踏みとどまれなかったかもしれません。

 そう、私はやっとの思いで、左近様の手を押し戻しました。それだけのことをする理由が、この人にはあるのかもしれないけれど、私にはありません。

「江戸では、すぐに見つかる。西がいい」
 左近様は簡単に諦めませんでした。
「手形を入手しました。箱根の山を越えられます」

「何のことか、分かりません……!」
 私は振り切って石段を駆け上がりましたが、左近様の声が追いかけてきます。
「待っています。満月の晩、ここで」

 満月は、その三日後のことでした。
 だけど私たちが落ち合うことはなかったのです。その日、お隣に足軽の一隊が踏み込んできて。何の騒ぎかと、近所中が震えあがりました。

「藩金横領、だってさ」
 夫は人垣の中で腕組みをし、淡々とつぶやきました。
「意外だよなあ。金に不自由してなさそうな人だったのに」
 一体その大金を何に使うつもりだったのかと、近所ではひとしきり噂になりました。

 左近様が切腹をなさり、ご家族が散り散りとなって、もう半年。
 そろそろ、私も気持ちの区切りを付けねばなりません。この上水の流れのように、一つの町を通り過ぎたら、その次の町へと向かうのです。

 小僧さん、江戸に帰ったらあの人の菩提を弔ってくれませんか。
 沼から這い出せなかったあの人の魂が、次の場所へと行けるように。水面の月が、狂ったあの人を清めてくれるように。
 私ができない、その分まで、ね。

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み