第3話

文字数 4,304文字

荒浜は仙台駅からレンタカーで東へ20分ほど走った所にあった。辿り着いた被災地には何もなかった。瓦礫もすっかりと拾われて土地は整然と片付けられていた。此処に多くの民家が立ち並び人々が暮らしていたとは思えない風景だった。バンバラケの景色が目の前に広がっていた。民家のあった区画の近くには黒い土で覆われた大きな田圃の後がいくつもあった。海水の塩分を含んだ土地にはもう作物が育たないと言われている。全てが流されたのだ。京子と僕は近くの空き地に車を止めると外へ出て少し歩いた。後ろを振り返ると数メートルほど盛土をされた上に高速道路が南北に走っていた。あの道路が無ければ被害はもっと大きくなっていただろう。創った人は津波を想定していたのだろうか。高速道路の近くにはこじんまりとした変電設備があったがそれも無事だったようだ。辺りをざっと見渡していると僕の目にふと一人の男性、老人の姿が目に入った。中肉中背で登山に行くような恰好で大きなリュックサックを背負って目の前に広がる、かつては田圃だった土地を眺めていた。あの人はいったい此処で何をしているのだろうか?津波が来る前に荒浜に住んでいた人なのか。それとも僕達のように何かに導かれて此処へ辿り着いた一人なのか。暫くして老人が僕の視線に気づき目が合った。老人は軽く会釈すると、何やら思い立ったように僕ら夫婦にズンズンと近づいて来た。
「やあ」
右手を軽く挙げるとニコリと笑い僕達を見た。近くで見るとその優しそうな目の周りに深い皺が刻まれていた。
「どうも」
僕は軽く頭を下げて挨拶をした。京子は僕の横に立ちながら少し戸惑った様子だった。
「やっぱり何もかも無くなってしまったんですね」
辺りを見渡しながら老人が僕に話かけた。
「此処にお住まいだったんですか?」
「いや、私は北海道に住んでいます」
「北海道?何んでまた荒浜へ?」
「実は二年前の震災の時、この地へボランティアで来ていまして。それでまた」
「そうですか。ボランティアで」
あの当時、日本全国から東北地方へ大勢の人達がボランティアとして訪れたと聞いていたが、こんな老人までが来ていたのだと驚いた。きっと七十代前半ではないか。老人によれば仙台にボランティアに訪れ、たまたま縁があって「荒浜」で活動する事になったのだと言う。当時はまだ此処に瓦礫が沢山残っており、特に高速道路の土手付近には流された車や大木がせき止められて山になって残っていたらしい。それを一つ一つ土木会社の作業員が操縦する建設重機と共に片付けていったのだと。最初は老人と距離を取っていた京子だったが、老人が被災直後に瓦礫撤去の仕事をしていたと知ると顔色が変わった。
「こんなこと聞いていいのか分からないけど、亡くなった方の遺体なんかもあったんですか?」
京子が老人に尋ねた。
「いや。私が来た時には、もう自衛隊や警察が捜索をした後だったから遺体は無かったです」
「そうですか。すみません。変な事を聞いて」
京子が申し訳なさそうにそう言うと
「とんでもない」
老人は短髪の白髪、日に焼けた浅黒い顔が精悍だったが、その目はとても優しい温度を保っていた。
「私達は・・」
京子がその老人の顔を見て、何かを言おうとしたが言葉に詰まってしまったので
「僕達は東京から来ました」
僕が代わりに話を始めた。
「ほう、東京から。そうですか。あの地震は未だに、こうして沢山の人達の人生を動かしているんですな」
そうだ。確かに震災の後、多くの人達の人生が動いた。地震は大地や海だけでなく人生をも揺り動かすのだ。
「どうかな、これも何かの縁だ。少し一緒に歩きますか」
老人はそう言うと、地震の影響で舗装の凸凹になった道路をゆっくりと歩き始めた。僕は京子の顔を見て、どうする?と無言で尋ねた。京子は僕の方は見ずに何も言わずに老人の後ろをついて行った。老人、京子、そして僕の順番で一列になって歩いた。
「ほら此処の、この水路。全部泥で埋まっていてね。一日中、スコップを突き刺しては掻き出したんだ。あっちも、ほら、そっちのやつも」
老人は田圃の脇にある用水路を指さして少し悲しそうな目をした。
「たまに小さな骨が見つかったりして。もしかしたら被災した人の骨なんじゃないかって言って、慌てて警察に連絡したりしてね」
「えっ、骨があったんですか?」
僕は少し驚いて大きな声で老人に尋ねた。
「何度かそういう事があったんだけど、結局、警察官の話では全て鳥や猫、小動物の骨だったみたいだ」
「動物のですか」
「残念だけどね」
「残念?」
「うん。実は当時、この付近に住んでいたお宅の赤ん坊の遺体がまだ見つかってなくてね」
「赤ん坊、」
僕はその老人から赤ん坊の遺体の話が出ると思っていなかったのでびっくりした。やはり人の縁は不思議な力によって結ばれるのだろうか。僕は思わず告白した。
「実は僕達その赤ん坊の事がずっと気になっていて此処へ来たんです」
「そうでしたか・・」
老人はそう言うと何か急に考え込んで黙ってしまった。僕は自分達夫婦のプライベートな話を、ついさっき会ったばかりの見知らぬ人に話すべきかどうか一度京子の顔色を窺ってみた。その時京子が
「私、若い頃に流産したんです」
と老人に言った。まさか京子自身がその話を自分の口から言葉として出すなんて僕は思いもしていなかったのでまた驚いた。老人は少し考えてから
「それは辛かったでしょう」
と京子の目をしっかりと見ながら言った。そして歩く足を止めてずっと遠くまで続く海岸線の道路を見ると悲しげな瞳で
「私も昔、今から三十年以上前に娘と会えなくなった。突然に、交通事故でね。私は何もしてやれなかった。愛する娘に、キョウコに」
と言った。
「キョウコ!」
僕は思わず叫んだ。こんな偶然があるのだろうか。いや偶然ではない。人生には奇跡が起こるのだ。老人は驚く僕を一度見て、そっと視線を逸らすとまた京子の方を見た。
「私達は此処で神様に引き合わされたようですね」
「そうかもしれませんね」
京子も老人を見て冷静に答えた。
「もう少し海の方まで歩きますか」
老人はそう言うとまたゆっくりと歩き出した。僕達は荒浜の大地を一歩一歩踏みしめながら歩いた。所々、家の基礎だけが残った土地があった。その景色が多くの人々が暮らしていた事実を僕達に教えてくれた。毎日この土地でご飯を食べて、働き、遊び、笑い、泣き、時に喧嘩をして、時に抱きしめ合いながら、多くの命が共に生きていたのだ。僕は京子の隣に並びそっと手を繋いだ。京子はそれを拒まなかった。僕が力を込めて握ると、京子もグッと握り返して来た。僕は京子の横顔を見た。京子は涙を流していた。一人の老人との運命的な出会いを果たして、今まで溜まっていた感情が溢れ出したのだろう。そんな京子に老人が絞り出すように言った。
「確かに私は悲しかった。最愛の娘と会えなくなったのだから。だけど私以上に娘は、キョウコは悲しかったと思う」
突然、京子が僕の手を振りほどき、前を歩く老人の背中にそっと寄り添った。老人は立ち止ると驚く風もなく京子を振り返り
「そうだ。これを」
と上着のポケットから何やら小さなものを取り出すと京子に手渡した。それは木彫りの人形だった。どうやら子供のようだ。
「これは北海道に住むアイヌ民族の彫ったもので、子供を宿した母親が持つと元気な子供が生まれて来ると信じられているものです」
老人はそう言って眩しいぐらいに優しく微笑んだ。京子はそれを両手で受け取ると胸に押し当てた。そして涙を流しながら
「ありがとう。お父さん」
と言って、その老人の胸に顔をうずめた。そしてひとしきり泣いた後
「私、もう大丈夫だから。だからお父さん心配しないで」
とくしゃくしゃの笑顔で言った。老人は京子の頭を優しく撫でながら何度も何度も頷いた。
その時、少し離れた後ろの方で大きな車のクラクションの音がした。僕は振り返った。だけど其処には何も無かった。はてと思いながら、前に向き直ると、もう京子しかいなかった。
(お父さん?)
混乱する僕の胸に京子の言葉が響いた。そして僕は老人が居なくなったのを見て全てを理解した。人生には不思議な事が起こる。僕は突然に思い出した。その昔、京子の生い立ちを聞いた時に、京子が死んだ父親の話をした事があった。若い頃から山登りが好きだった京子の父は山岳用品の卸売りをしていた。ある日の冬、急な仕事で北海道へ行き、深夜の海道でトラックを走らせていたのだが、慣れない吹雪の中でスリップし横転してしまった。事故の衝撃で車から投げ出された父親は用水路で倒れているのを地元の人に発見された。直ぐに救急車で病院に運ばれたが意識不明の重体だった。当時はまだ小学生だった京子は母と弟と共に北海道の病院に駆け付けたが父親は翌日に亡くなった。消えた老人が京子の父親だと僕は信じた。京子は父親の消えて行った海の方をじっと見つめていた。荒浜の海はほんとうに穏やかに其処にあった。あの真っ黒な津波を起こしたものと同じ海とは思えなかった。
「久し振りに描いてみようかな。弘君、買ったんでしょう」
京子は何か吹っ切れたような顔で僕にそう言った。
「ああ」
僕は肩から掛けていたカバンの中から美術館で買ったスケッチブックと色鉛筆セットを出すと京子に手渡した。京子は立ったまま色鉛筆を握るとサラサラと絵を描き始めた。長い間やってなかったとはいえ京子には才能があった。スケッチブックには海を背景にした家族の絵が描かれていた。モダンな一軒家の横に年老いた夫婦と赤ん坊を抱いた若い夫婦が立っていた。皆が笑っていた。楽しそうに笑っていた。海は優しい青色だった。全てを優しく包み込むような青色だった。僕はその絵を見て思った。もう大丈夫だと。やっと京子が帰って来たのだ。あれから長い長い時間が過ぎた。ほんとうに長い悲しみがあった。京子は絵を描き終えるとスケッチブックから切り離し、あの老人に、いや父親にもらった木彫りの小さな人形をその絵でくるんだ。そして、剥き出しになった家の基礎の下に埋めた。
「いいのか」
僕はせっかく父親からもらったお守りを手放した京子に尋ねた。
「いいのよ。弘君。このお人形は此処にあるのがいいの。それに、私にはあなたが居るから」
人形を埋めた場所の上に石を置くと、京子は屈んだ姿勢のまま振り返った。僕を見た京子の瞳には輝きが蘇っていた。悲しみを知り、だからこそ力を宿した瞳だった。僕は膝をつき京子と一緒に両手を合わせて荒浜の大地に祈りを捧げた。
「ありがとう。もう一度、始めるわ」
京子は祈り終えるとスケッチブックを手に立ち上がった。夕陽が目的地を赤く染めていた。


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