第1話

文字数 1,193文字

 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ福音書)


 聖書のこの言葉を読んだとき、どういうことだろうかと思いあぐね、『公正世界仮説(こうせいせかいかせつ)』という認知バイアスにたどり着きました。

 『公正世界仮説』というものは、
「人の行いに対しては、公正な結果が返ってくるものだ」
 と考える思い込みのことです。
 良い行いには良い結果、悪い行いには悪い結果。真面目に努力すれば報われるし、悪人には(ばち)が当たる。
昔話でよく聞かされてきた因果応報です。

 そしてそれは私たちの願望とも言えます。
世界は公正であって欲しい、治安と秩序が保たれていて欲しい。勧善懲悪であって欲しい。でないと安心できない。


 でも私たちは薄々(うすうす)気がついています。
実は、世界は、さほど公正ではない。
 災難は、「悪人」「善人」「正しい者」「正しくない者」それらを区別せずに等しく襲うものだから。

 でもそれを認めるのは怖い。
真っ当に勤勉に生きていても災難に見舞われる、そんなことは認めたくない。そんな理不尽は恐怖でしかない。


 そしてその願望が行き過ぎた結果、人は、災難に遭った人、つまり被害者に対し、
「本人になにか問題があったのではないか」
「自業自得ではないのか」
 と責めてしまうことがあるのだといいます。

 そしてあろうことか被害者自身も、
「私に落ち度があったから、こんな目に遭うのではないか」
 と、自分を責めてしまうことも。


 冒頭の聖書の言葉に戻って。

「悪人」や「正しくない者」にも恵みの光や雨を降らせるということは、『公正世界仮説』に馴染んだ私たちにとって、正直、釈然としないものがあります。

 しかし、『公正世界仮説』のフィルターにより、災難に遭った人、不遇な人、困っている人、そしてそのせいで世を儚んでいる人を、「悪人」「正しくない者」にカウントしてはいないだろうか。

 そして不遇な目に遭っている人が、
「私が至らないせいだ」
「こんなダメな私は幸せになれない」
 ひいては、
「私は幸せになる価値が無い、なってはいけない」
 ……そんな思考回路に(おちい)って、自分を「悪人」「正しくない人」と認識しているのだとしたら。


 私はここに記します。

 罰が当たって災難に遭ったのではない、あなたに落ち度はまったく無いのです。
 幸せが似つかわしくないと思い込む、あなたの呪いは解かれるべきなのです。
 傷を受けてなお、自分を責めないで欲しいのです。

 神様は人間の思惑を超越し、無条件に陽の光を、慈愛の雨を降らせている。
それをそのまま、ありのままに享受することの、難しさよ。


 不幸はときに居心地がよく、裏切ることなくあなたに寄り添うかもしれない。
そしてあなたの傷は、あなたのアイデンティティーとなっているかもしれない。

 それでも、あなたの抱えている傷に、温かな光と雨が降りそそぎますようにと、私は思わずにはいられないのです。
 



 
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