第29話 カラオケボックス

文字数 852文字

 女と男は、カラオケボックスに入った。男にとって、初めてのカラオケだった。
 この二人、どちらかといえば、女のほうが、男に惚れているようだった。それを感知していた男は、女の自分に対する好意が薄まらぬよう、デートのたびに努力していた。
(なるべく、無駄口はたたくまい。)
 以前、女は、「無口な人が好き」と言っていたからだ。
(つねに、格闘家のような顔つきであろう。)
 女は、「ブルース・リーが好き」と言っていたから。
 斯くして男は、女と会っている間、始終演技をしていた。そして彼女が満足すれば、自分も満足だった。
 だが、女は、(この男はいつもこうなんだ、自分というものがない。臆病な猫みたいに、わたしの顔色ばかりうかがっている。奴隷のような男だわ)と考えていた。

 さて、マイクを持つと、男は緊張した。歌う以上、無口でいられることができなくなったからだ。格闘家の顔つきも、滑舌のために壊れてしまいそうだった。
 男は、極度の不安に陥った。ブルース・リーが歌うとしたら、こんなふうにかな、と思いながら、「なごり雪」を歌い始めた。
 女は、満足した。
 男は、ブルー・ハーツを歌った。やはり男は、男らしい歌を歌わねばなるまい。彼女の好みは、そのような男に決まっている。
 汗だくになって苦しみながら歌う男を見て、女は、おもしろいと思った。笑う彼女を見て、男は満足した。
 女は、もっとこいつをシビレさせ、疲れさせてやろうと思った。スピッツを送信予約し、ミスチルのかなりハードな曲を立て続けに入れた。

 男は困惑しながら、彼女の笑顔のために歌い続けた。徐々に男は、彼女の素敵な笑いに、プリンのようにとろけていった。
 女は、自己との格闘に弱っていく彼の姿に、身ぶるいするほど快感を覚えた。
 不意に男はマイクのスイッチを切り、「結婚しよう」と真っ直ぐに彼女を見つめて言った。前後不覚にとろける前の、断末魔の如き、本心からのプロポーズだった。
 女は、こんなに苦しめ甲斐のある男なら、耐性があると判断し、彼の申し出を素敵な笑顔で受け入れた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み