第12話 田中実①

文字数 1,921文字

「食事の支度をしてきますね。」
「ああ、今日は何だい?」
「カレーよ。人参は少なめにしてあげる。」
「ハハハ。そうだな。そうしてくれ。」

さゆりはそう言うと、台所へといそいそと向かった。クローンのさゆりと出会ってから1か月が経つ。現実の世界では捜索願いでも出されているだろうか…。しかし、原田にとって最早現実は、目の前のさゆりとの生活だった。得られなかった時間を取り戻すかのように、原田はさゆりから離れなかった。この1か月、ここの医療技術も未来達から学ぼうとすらしなかったのは、一番助けたかったさゆりが目の前にいるからだ。今、原田にとってさゆり以外の事はどうでも良かった。

『天国』では経済活動をする必要が無い。ここでは現在500人程の住人と研究員がいる。株やFXなどのエキスパートも研究員にいて、潤沢な運営資金を得ている。この村は日本にある廃村を利用したものだが、周囲は森に囲まれ、人間が辿り着くことはまず不可能である上に、野村達が作ったシールドのようなもので空からも見えない。外部からの侵入は出来ないし、外へ出ることも出来ないが、住人は村の外に出る必要は無い。食料、衣料等、必要なものは全て配給され、電気や水道等のインフラも充実している。住居などは村にいる元大工の人間やロボットによって、いとも簡単に作ってくれる。趣味で農業や物作りをしている人もいるが、基本的には何もしなくても生活が出来るという事だ。どうやらこの村を『天国』と名付けたのは未来達ではなく、住人達だったという話だが、それも容易に頷ける。不便なことと言えば、外の世界との交流が出来ない事だが、自らが配信出来ないだけで情報を得ることは、何も制限が無い。

原田は、さゆりが食事の準備をしている間、縁側で待っていた。するとどこからともなく、知らない男が庭に現れ、突然原田に話しかけた。

「帰ったほうが良い。ここはいずれ滅する。」
「あなた、誰ですか?突然、何なんです?」
「私は、田中実。君も知ってるだろう、真知子は私の妻だ。ここの住人達から君の噂を聞いてきた。悪い事は言わない、原田先生、貴方は帰るべき人だ。」

男は、見た目30歳前後に見えるが、勿論そうではない。精悍な顔つきで鋭い眼光をしていた。

「真知子さんの…。あなた、どうして彼女を追い返したりしたんです?あなたと一緒に居たかったと、泣いてましたよ。」
「確かに可哀そうなことをした…だが、真知子の為だ。…人間は欲深い。あれにはそうなって欲しくなかった。一時は私もこの姿になる事を選択したが、今は後悔している。君も早く、帰った方が良い。私のようになってはいけない。」

田中実。彼は花の品種改良をしていた研究者だと言う。彼は青いバラを作ろうとして、その研究の最中に体を壊し、研究を続けられる状態ではなくなってしまったと話す。
青いバラ。英語で「Blue rose」と言えば「不可能(存在しないもの)」の象徴であった。実が当時研究をしていた時は、交配による品種改良では実現できなかった。

「…そんな時、認知症になって、ここへ来た。ゲートまで行くのは、その時の体では大変だったが、何となく感じていたよ。このまま導かれれば研究を続けられるってね。」
「そして、ここへ来て研究を続けたんですね。」
「そうだ。ここの技術ならその当時でも青いバラを作ることは簡単だったろうが、未来さん達は放っておいてくれたよ。自分専用の研究室を与えられて、自由に研究を続けられた。今考えればまるでピエロだな。本当は簡単に出来る事なのに、私はその研究に7年もかけたんだから。」

そう言うと、自分を嘲るかのように実は苦笑した。原田は少し気の毒に思ったが、話を続けた。

「でも、青いバラを開発されたんですよね?」
「ああ、出来たさ。自分が若い姿を手に入れた頃だった。青いバラも本当に美しく咲いて、満足もしたよ。でも正にその時、外の世界では、日本とオーストラリアの共同研究で青いバラが開発された。…打ちのめされたよ。と言うより憤りしかなかった。私は一人で開発した。でもそれを発表することも出来なければ、喜んでくれる人もいない。私は既にいない人間だ!」

原田は実の言葉に、はっとさせられた。ここに居続けるという事は、外の世界では死を意味する。それは死人として生きるという事だ。それは原田が思う以上に困難な事なのかもしれない。

「生きる事と生かされてる事は違う。そんな簡単な事に私はやっと気づいた。愚かだった…。ここは言ってみれば『地獄』だよ。」

台所で、カレーを煮込む音が聞こえる。
今の原田にとって、ここを地獄だとは思えなかった。
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登場人物紹介

原田努(ハラダツトム)

脳神経外科医。研究熱心で探求心も強く、脳神経の研究者としても活躍している。

未来(ミキ)

「天国」の創設者で科学者。脳科学が専門だが、あらゆる分野のエキスパート。

望田明美(モチダアケミ)

遺伝子学者で細胞学も研究。

野村慎治(ノムラシンジ)

物理学者でST(サイエンステクノロジー)のエキスパート。

さゆり

原田の亡き妻の情報を元に作られたクローン。

田中真知子(タナカマチコ)

2年前に「天国」から戻ってきた老婦人。

田中実(タナカミノル)

『天国』の住人。元々は青いバラの研究をしていた。

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