本編

文字数 1,995文字

 曽我喜三郎(そが きさぶろう)は、料亭が見合わせる茂みの中で、息を殺していた。
 江戸の郊外、道灌山の高台である。月見と虫の音の名所であり、事実として満月は美しく、蟋蟀(こうろぎ)が風流に泣いている。しかし今の喜三郎には、そんなものは目にも耳にも入らなかった。
 言葉は交わさないが、喜三郎と共に息を潜めている四人の同志もまた、似たようなものだろう。
 これから人を斬らねばならない。それ故の緊張だった。

(何を震えてやがる……)

 喜三郎は、自らの右手を掴んだ。
 人を斬ったのは、何も初めてではない。七年前、二十三歳の時に不貞浪人を斬って以降、散々(さんざ)っぱら斬ってきた。それに若干二十歳にして、坂根一刀流(さかねいっとうりゅう)の免許も得たほどの腕がある。自らの経験と才能があるから刺客に選ばれたというのに、何を恐れる事があろうか。
 そう言い聞かせても、やはり震えはある。何せ、相手が相手なのだ。これから斬る男は、安濃津(あのつ)藩第八代藩主・藤堂高悠(どうどう たかなが)伊賀無足人(いがむそくにん)である喜三郎には、仰ぎ見るどころか顔も合わす事も出来ない相手だが、主君である事には変わりはない。

「お殿様を斬らねば、いずれ藤堂家は改易になり多くの藩士が路頭に迷う事になる」

 そう言ったのは、家老の藤堂多門(とうどう たもん)だった。
 なんでも高悠は尊王の志が篤く、仙洞御所(せんとうごしょ)の造営には普請役を買って出て、藩財政を著しく傾けたらしい。それだけではなく、最近では公家や尊王論者たちと結びつき、何やら善からぬ企みをしているのだという。
 幕府は三年前に、尊王論を吹聴し江戸攻撃を企んだ尊王家を処刑したばかりで、京都の動きには過敏になっている。そんな中で高悠の動きは看過出来ないものだとも、多門は説明した。
 また、事態を憂慮して多門と組んだ高悠の実兄・高敦(たかあつ)は、わざわざ手を取って頼むと言ってくれた。伊賀無足人という軽輩の自分にだ。
 この暗殺には、大儀がある。しかし、これから自分が〔大名殺し〕をすると思うと、どうしても平静ではいられなくなる。
 気が付けば、汗がじっくりと単衣を濡らしていた。夜になり、やっと風に涼しさを感じるようになったが、それでも汗は止まらない。

(今更、弱気になってどうする)

 隣りにいた指図役の滝田宗兵衛(たきた そうべえ)が「来たぞ」と袖を引いた。
 料亭から、駕籠が出て来る。護衛は五人。屈強な武士たちだ。
 自分たちが刺客の第一段。万が一にも失敗した時の為に、十名ほどの刺客が第二段として控えている。

「いいか」

 滝田が全員を集めた。闇に血走った眼が八つ浮かんでいる。全員の緊張は最高潮に達しようとしていた。

「手筈通りだ」

 滝田が言う。滝田は最年長の四十歳で、経験豊富な使い手だ。そんな男でも声が上ずっている。

「これは義挙なのだ」

 誰かが言った。喜三郎も頷いた。

「行くぞ」

 滝田が叫けび、飛び出す。喜三郎も続いた。

「曲者」

 護衛が慌てて刀を抜こうとする。その暇は与えなかった。抜き打ちで首を刎ねると、逃げようとした駕籠舁きの袈裟を斬り下ろす。鮮血がほぼ同時に幾つか上がった。同志たちが、護衛を一息で掃討していた。
 喜三郎が、駕籠に手を掛ける。派手な着物の若者。白い肌は真っ青になっている。この男が高悠か。

「やめろ、やめてくれ。助けてくれ」

 喜三郎は、高悠を引きずりだすと、無銘の大刀を大上段に構えた。
 もう何も考えなかった。大名殺し。その汚名を背負う覚悟はしていた。両親は既にいないが、愛しい妻も子もいる。二人の為なら。
 振り下ろす。ごろりと、首が転がった。深い感慨は無い。ただ若者を斬った、としか思わなかった。

「よし、撤収だ」

 滝田が、肩に手を置いた。落ち合う場所は、谷中天王寺の裏の林。駆け出そうとした時、行く手を遮る一団がいた。
 先頭の男の顔が、月明かりに顔が照らされた。見た顔。第二段の指図役を務める、安達主馬(あだち しゅめ)

「止まれ」

 安達が腹に響く声で吠えた。四人は思わず足を止める。

「見事、本懐は……」

 と、一歩前に出て言った滝田の声を制するように、一団が刀を一斉に抜いた。

「こ奴らは藩主弑逆の謀反人だ。全員斬って捨てよ」

 全てを喜三郎は悟った。口封じ。その上に、罪を着せるつもりだ。

「やるしかねぇ」

 喜三郎は、無銘を抜くと四人も抜刀した。
 駆け出し、敵の中に躍り込んだ。刀を夢中で奮う。どうして? という疑問は湧かなかった。まぁ、こんなものだろうという、諦めしかない。
 斬り上げ、斬り下ろす。その隙を突いて、斬撃が伸びて来る。躱したが、二の腕を浅く斬られた。相手も中々のものだ。受けた傷は、これで三つになった。
 一人、また一人と斃れていく。滝田も血飛沫を上げて崩れ落ちた。
 その時、自分でも思わぬ言葉が、喜三郎の口から突いて出ていた。

「畜生」

 激しい憤怒だった。やはり、怒りはあったのだ。それは、高敦にか? 多門にか? 或いは、この結末を見抜けなかった自分自身にか。
 理由(わけ)もわからぬまま、喜三郎は四つ目の傷を背中に受けていた。

〔了〕
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