第8話 出立

文字数 1,032文字

 武蔵野を離れるときが来た。

 加流は、出来上がった武蔵鐙の一つを、丁寧に荷造りした。残りは、別便で後送させる。
 屋敷の前には、式女や家人、郷の者などが集まり、業平一行に土産を渡したりし、別れを惜しむ。
「また、おいでください」
「世話になりました。さようなら」
 見送りの中に、瑠璃の姿はなかった。
 一同が手を振る中、業平一行は、屋敷の表戸を出発した。

 進む一行に、入間の郷境の柵が見えてくる。
 丘の上に、誰かが立っている。
 女のようだ。
 近づけば、瑠璃姫であった。
 業平の従者たちは、微笑んで、声をかける。
「ごきげんよう、姫さん。どうぞ、お元気で」
 そういって、通り過ぎる。
 最後にやって来た業平は、一人、馬から降りると、ゆっくり歩き、瑠璃の正面に立った。
「やあ、来てくれたんですね」
「業平様、いろいろありがとう。うまく言えませんが」
「いえ、こちらこそ。私は都に戻ります。すばらしい武蔵鐙もできた」
「ええ」
 業平は、瑠璃の表情を見ながら、尋ねた。
「しばらく、お父様の看病を続けるのですか」
「はい」
 瑠璃は、先ゆく従者たちを目で追い、続けた。
「そのうち、郷の誰かと一緒になるかもしれません」
と、業平を見つめ返す。
 業平は、緩やかに伸びる紫草の野を見渡して言った。
「武蔵野はいいところです。また来ることがあれば、きっと入間の郷、あなたのお屋敷に寄りますよ」
 瑠璃は、うなずく。そして、顔を上げると、胸元から折りたたまれた紙を取りだし、業平に差し出した。
 受け取った業平が、真白な折りを開くと、そこには歌が一首、詠まれてあった。

 こころの残り火で
 身を焼くよりも つらいのは
 都と(さと)とで 別れることです

 業平はそれを見、思いとともに、瑠璃を見た。
 そして手にした手綱(たづな)を引き、馬を寄せると、文の道具を取り出し、紙に歌を記していく。

 おぼえていてください
 遠く離れ 雲のようになっても
 空に月がゆき まためぐり会うまで

 業平は、記した紙を重ね、瑠璃に贈った。
 そして言った。
「さようなら」
 瑠璃は、手にした紙を胸に、精一杯の笑顔で返す。
「さようなら」
 二人の瞳がつながった。

 業平は、馬にまたがり、瑠璃に微笑みかけ、告げる。
「あなたの名前、すてきですね。瑠璃」
 さっと、右手で頭の烏帽子(えぼし)を少し上げ、挨拶する。
 意外な仕草に、瑠璃は、はっと目を引かれた。

 業平は、馬に手綱を打つと、先の一行を追って、一本道を駆けてゆく。
 瑠璃は、一人立って、その姿が見えなくなるまで見つめていた。

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