第11話 憑依先候補者:倉森羽矢那

文字数 31,426文字

 一条境で戸部と対話した次の日の夕方、鷹尚・トラキチコンビは彩座水科にいた。
 研究・教育機関等が一区画に集められた通称・学び並木を歩き、莉央の通う私立豊教学院が見えた辺りで鷹尚は腰のポシェットからスマホを取り出し、徐ろにチャットアプリを起動する。
 当初の予定では、この日この時間に鷹尚が彩座水科へ赴く手筈ではなかった。
 ”どんな展開になるかも分からないし、今回は以室商会だけでことに当たる。”
 基本方針はそこで、元々は鷹尚が学校へ行って授業を受けている間にトラキチだけが彩座水科へ赴き事前に用事を片すという流れで考えていたのだが、莉央サイドがそれを良しとしなかったのだ。
 冥吏から請け負った大元の依頼とは関係のない案件へと首を突っ込むことになるかも知れないことをチャットで丁寧に伝えたのだが、折り返しで掛かってきた通話に対応している内にあれよあれよと「協力者」として莉央も同行する流れに落ち着いてしまっていたのだ。
 ともあれ、そんな経緯を経て鷹尚はトラキチを伴って私立豊教学院までやって来た格好で、これからチャットアプリを用いて莉央と「予定通りに到着した」旨やりとりをしようかという状況だった。
 チャットアプリで莉央に連絡を入れ既読が付いたことを確認し、私立豊教学院の校門前に佇むこと5分弱。
 中等部校舎の玄関前にはポツポツと大体2~3人からなる小集団が屯していたのだが、ひょこっと顔を出した莉央はすぐに鷹尚コンビを発見できたらしい。右手を挙げて自身の存在をアピールすると、ゆったりとした動作で鷹尚コンビが背を預ける外壁付近へとやってくる。
「や、お待たせ」
「お疲れ。じゃあ早速だけど、移動しようか? どうして次のターゲットが「倉森羽矢那」になったかだとかいった詳しい話は移動しながらするよ」
 私立豊教学院の制服にスクールバックを背負う格好で現れた莉央を前に、鷹尚は「すぐに出発しよう」と声を掛けるのだがそこでまず待ったが掛かる。
「えっと、その前にちょっといいかな。今夜の目的地ってどこなんだっけ? もし一条境とか櫨馬方面に行くなら一度着替えたいかなって」
 莉央のその希望には「一条境とか櫨馬方面に行くなら……」という前提条件が付与されていた。だから、鷹尚は「その対象ではない」と答えようとするわけなのだが、内心「対象外というだけでは済まない話になったりするんじゃ……?」という半ば確信めいた予感も生じる。
「目的地は、北浦穂(きたうらほ)だよ」
「北浦穂、か。ほぼほぼ知らない地域だなー。彩座水科から見ると、確か四上宿方向にあるんだっけ?」
「そう。彩座水科からだと四上宿方面行きの各駅停車に乗って3駅。ルート検索アプリで調べた限りでは、最短経路で20分弱ってところだったかな」
 嫌な予感を肯定するかのように、目的地が「一条境・櫨馬方面でない」と答えても莉央の反応は悪い。
「んー、大丈夫かなぁ」
 渋い顔は一向に改善せず「できれば着替えたい」という雰囲気は崩れないのだ。
 すると、ここで「どうしよう?」なんて悩んでいるぐらいなら「さっさと着替えてくればいい」と言わんばかり。トラキチが着替えるという選択肢をチョイスした際の難易度を莉央に問いかける。
「着替えてくるのにはどれぐらい掛かる? 莉央の家ってのはここから遠いのか?」
「友吉台(ともよしだい)って言って分かる? 距離的には彩座水科・田本寺町間よりも全然近所。だけど、徒歩だとここから30分ぐらい掛かるかな。ちょうど、あの辺に見える高台を整地して作った分譲地の中なの」
 莉央が視線を向ける先は、彩座水科の駅とは反対方向の小高い丘のある方向だ。なだらかな丘が広範囲に広がっていて、遠目にも無数の住宅地が立ち並んでいるのが見て取れる。ちなみに、そのさらに向こう側には冬季間に路面凍結の警報が頻繁に発令される急峻な星曳峠(ほしびきとうげ)を有する山間部を経て、長束町(ながつかちょう)に至る。
「いつもはどうやって通学してるんだ? 30分歩いてここまで来てるのか?」
「まさか、あたしは基本バス通学。朝夕だけだけど市内を無料のスクールバスが循環してるの。ちょうど一緒の時間になるような時はパパに車で送って貰ったりとかもするけどね。最悪、朝から用事があったり寝坊しちゃったとかで時間がやばいって時は、帰りの登坂で苦しむことを覚悟で自転車で行くこともあるよ」
 別段、特急で北浦穂に行かなければならないというわけではない。
 ただ、鷹尚としてはアポなしド直球でまずは倉森家を訪問するというアプローチを取るつもりであり、余り遅くなるのは好ましくなかった。戸部から聞き出した情報でも倉森は家族と同居しているとのことだったので、尚更夜間に差し掛かる訪問は避けたいのが本音だった。
 もちろん、どこからが夜間に差し掛かる時間で「好ましくない」と受け止められるかはそれぞれの家庭によって異なるだろう。ただ、偏に言えることは「早いならば早いに越したことはない」ということだ。
 そんなことを考えながら「なぜ着替が必要なのか?」を聞き出すタイミングを窺っていると、基本「さっさと着替えてくればいい」という方向に思い切り舵を切ったトラキチがさらに一歩踏み込んだ問いかけを続ける。
「スクールバスだとどれくらい掛かるんだ?」
「待ち時間は当然あるけど1時間に4本ぐらい巡回してて、混雑度合いにもよるけど大体片道10分ぐらいだから……」
「往復20分プラスアルファぐらいか、かなり縮まったな。そのぐらいなら、俺達はその辺で時間を潰してるっていうんでもいいな」
 往復1時間プラスアルファと言われると一気に難色を示したくもなるが、往復20分プラスアルファと言われるとトラキチ同様「それぐらいなら……」となってくるから不思議なものである。もちろん、前述した通り、倉森家への突撃は早ければ早いだけ好ましいという判断のため、できるならそのロスすらも避けたいところが本音ではあるのだが。
 しかしながら、莉央がハッと思い出したかのように「トラキチが算出した時間での移動が不可能かも知れない」ことを言い出して、その案も敢え無くおじゃんになった。
「あー、でもこの時間だと、友吉台方面から豊教に戻って来るバスは回送とかになってて乗せて貰えないかも……」
「別にもう制服でいいんじゃないか? 西宿里川まで来て貰った時とかも制服だっただろ?」
 口を挟む形で同意を求めた鷹尚を前にして、莉央は相変わらず渋い表情を崩さない。
 そうして、西宿里川を例に出したように「どうしてそこまで拘るのか?」について鷹尚が言及しようとしたところで、莉央からは渋る理由についても語られる。
「最近、夜遅くまで遊び歩いてる生徒への取り締まりが超絶厳しいらしいんだよね。一条境とか櫨馬方面が特別厳しい感じらしいんだけど、これも別にそっちに限った話でもなくて……。まぁ、これ、そもそも豊教だけの話じゃなくて彩座水科近隣にある学校全体で取り組んでいる運動みたいなんだけどさ」
 そんな理由が語られた時点で、鷹尚は内心当初の予定ではそうだったように「北浦穂の倉森家突撃から莉央は外れて貰った方がいいんじゃないか?」という思いだった。それこそ、莉央と連絡を取った当初の目的は、追加で生成された概念毒フレグランス溶液と細環封柱の回収だったのだ。
 そうは言っても、いざ「莉央が同行する」と言い出した時、それはそれで鷹尚が「良かった」と思ったのも事実であるから心情的にはかなりややこしい。今取り得る手段で万が一「憑鬼を捕縛する」となった際に莉央の協力が必要であるという点に加えて、これから倉森に面会を試みるという点で何かと好都合だと思ったわけである。
 そんな鷹尚の内心など知る由もなく、莉央は「如何に夜遊びしている生徒への最近の当たりがきついか」「自分に取ってリスクがあるか」をつらつらと語る。
「実際、補導された娘の名前とかもちらほら聞くし、そんな中「制服姿で」っていうのはリスクが高いかなーって。いや、さっきも言ったけどほぼほぼ知らない地域だから、北浦穂界隈が目を付けられるような場所かどうかとか実際に先生が見回りしてるのかとかは分かんないんだけどさ。でも、学校でにゃんこ被って頑張って優等生する内申点稼ぎの身としては、補導されるのは「ちょっとないかなー」って思ったり思わなかったり?」
 言わんとするところは「感覚的に着替えておいた方がベター」というニュアンスなのだが「絶対そうしなければならない」と主張するわけでもないから鷹尚はどうしたものかと溜息を吐く。まして、これは「頑なに拒絶する姿勢じゃない癖に、いざ説得するとなったら多分面倒臭い奴だ」と第六感が仕切りに訴えかけて来て、気分までげんなりしてくる。
 そうして、莉央サイドの視点に立つと、豊教の制服というものがアウターを羽織るぐらいではどうにも特徴を隠しきれないデザインになっているところが「万が一」を心配する気持ちへと繋がっていることも分かるのだ。特徴的なスカートのラインだとかいったところは、確かに見る人が見ればあっさりわかるレベルである。
 ここで「今回、やっぱり実利を取って莉央は待機で!」なんてビジネスライクに言ってしまえたら「どれだけ楽だろう……」なんてところを鷹尚は考えずにはいられなかった。尤も「実利って何?」と詰められたら角が立たないよう返答に窮したりするし、これから倉森と接触するに当たって本当にそれが利に繋がっていないかはかなり疑わしい。
「正直、俺も北浦穂がどんなところかは知らないけど、今回はド直球で倉森家へ突撃するつもりだから繁華街とか盛り場をうろうろすることにはならない、……筈」
 ここまで言ってそれでもまだ莉央が渋るようなら、鷹尚は寧ろ「制服姿で倉森家へ行きたい」旨を語るつもりだった。
 取り締まりについて莉央が言及したように、制服姿とはある意味で「学生という制約を受ける身分」が保証されているからだ。そればかりか、何ならその格好のまま然るべき場所に顔を出せるぐらいにはきちんと礼服としても扱われる。
 当然倉森家という立ち位置から見れば、私服姿の何だか分からない連中がいきなり訪ねて来るよりかは、同じ何だか分からない連中でも制服姿の面々が訪ねて来る方が心証は良いに決まっている。
 しかしながら、鷹尚が「寧ろ制服の方が都合がいい」を説こうかという直前になって莉央があっさりと折れる。
「んー、じゃあ、鷹尚クンのその言葉を信じて制服姿で行きますか。豊教の制服も、まぁ周りから見られて「ダサ!」って思われるレベルのデザインではないし、この辺の学校の中だと割とマシなタイプの方だから「まぁ、これなら許容範囲」って奴?」
 あっという間に、話の趣旨が「豊教の制服姿で北浦穂界隈をうろつくことに対するリスク」から「豊教の制服姿でうろついても他校生からダサいと思われないか?」に置き換わってしまったことに辟易しながら、鷹尚は莉央とのその一連のやり取りの中でふと気になった疑問について尋ねる。
「ちなみに、そのマシじゃないタイプの方の代表格は?」
「んー、中学だと水科山手(みずしなやまて)。高校だと、水科工業大付属と城山中央(しろやまちゅうおう)かな」
 莉央は徐にスカートのポケットからスマホを取り出すと、画面をスワイプさせて何かを表示させようとしているようだ。すると、すぐに目当てのものを見付けたらしい。鷹尚相手にスマホの画面を見せてくる。
「これが水科山手で、こっちが城山中央。こう言っちゃうとあれだけど、余りにも色合いが雑いよねー。ペラくてテカテカして見えるから安くて出来の悪いコスプレ用の衣装みたい。水科工業大付属は知り合いがいないから写真がないけど、あそこも自分が着るには「ちょっとないかなー」って感じ?」
 手厳しくも「マシじゃないタイプ」にラベリングされた制服を着た女子学生の写真を眺めながら、鷹尚は「そういう見方もあるんだなぁ」と思いながら莉央の寸評を頷きながら聞く。次いで、同じくふと気になった「マシなタイプの方」についても尋ねる。
「……マシなタイプの方の代表格は?」
「それはもちろん円領(えんりょう)学園だよ。普通科以外に被服科・デザイン科・美術科なんて専門学科があるだけあるよ。もうね、細かいところの装飾まで凝ってるし、卒業生の現役デザイナーがプランニングしただけはあるよ」
 スマホをスワイプしながらノリノリで「マシなタイプの方」の参考画像を探す莉央だったが、鷹尚がぼそりと呟く言葉を前にピタリと動きが止まる。
「へぇ、参考にさせて貰うよ」
「ていうか、女子の制服だけど、……何の参考? 鷹尚クン、もしかして制服フェチって奴?」
 やや蔑みの混ざった視線であらぬ疑いを掛けられそうになり、鷹尚は慌てて否定する。
「いや、そんなんじゃないよ! その、デザインが良い悪いって視点で他校の制服を見たことってなかったからさ、そういう視点で見てみたら気付きがあるかなって!」
 これまた「その気付きっていうには具体的にどんなものを想定しているの?」だとか詰められたら答えに窮する主張だったのだが、幸運にもそこからさらに莉央が踏み込んでくることはなかった。尤も、あらぬ疑いは掛けられたままのようで、莉央が「マシなタイプの方」として一推しする円領学園の制服に袖を通した友人・知人の写真を見せてくれることはなかった。
 ともあれ、結局豊教学院前で着替えるだの着替えないだの……の無駄なやりとりをした後、鷹尚一行は制服姿のままの莉央を伴って彩座水科の駅へと向かい、北浦穂を通過する彩座四上方面行きの私鉄へと飛び乗る。
 無駄とは言ったものの、もし豊教学院の校門前で莉央と交わした着替云々のやりとりに有意義な何かがあったとするならば、一つは私鉄の混み合う時間帯をたまたま回避できたという点だったろう。
 学生や社会人が帰宅の途につく時間帯からちょうど外れる形になったことで、乗車率100%越えの電車で鮨詰めにされるという事態には為らなかったのだ。件の北浦穂辺りまではお隣・櫨馬市のベットタウンとして機能している側面もあって、それこそ下手な時間に乗車しようものなら大都会ばりの乗車率を体験できたりもする。
 もちろん、それは彩座市が有する人口が大都市のそれと比較しても遜色ないレベルだから……とかいう理由から発生しているのではなくて、あくまで人員を輸送する私鉄側の問題らしい。何でも、私鉄の駅のホームの構造上、車両の最大編成数が5~6両程度が限界らしく、一度の運行で輸送できる人員の数がかなり少ないらしい。実際問題、通勤退勤ラッシュの時間帯以外は何ら輸送人員数で問題が生じるようなことはなく、私鉄としては運行本数を増減させることで調節したいらしいのだが、少なくともここ数年来に置いて上手く行っている嫌いはないらしい。
 ともあれ、疎らに空席のある私鉄の座席に腰掛けると、鷹尚は昨夜の戸部との対話を一つ一つ思い起こしていく。そうすることで、憑依先候補者「倉森羽矢那」について要点を絞った情報を簡潔に伝達できるようにするためだ。もちろん、鷹尚自身、昨日の今日で得られた内容を反芻する意味合いもそこにはある。
 昨夜、戸部によって語られた憑依先候補者「倉森羽矢那」の情報は、そうして整理を挟まないと余りにも観察者の私情や恣意的な意見が差し込まれたものだったのだ。


 戸部と空中遊歩道で面会した昨夜のその後は、一条境のメインストリートから三本程裏通りに入った場所にある小汚い外観(失礼)の焼肉・えびす庵という店に案内された。
 何でも、その焼肉・えびす庵はすぐ隣にある個人経営の精肉店と同じオーナーが経営しているらしかった。精肉店の方は既にシャッター降ろして営業を終了していたが、戸部の目当てのえびす庵の方は入店待ちの行列こそ発生していなかったものの店内はほぼ満席に近い状態のように見える。
 戸部曰く、肉に対する目利き具合が素晴らしく、且つ精肉店での販売で捌けなかった部位が「本日のオススメ」として安価で提供されるのが特徴であり最大の売りポイントらしい。特に「本日のオススメ」も注文可能な食べ放題プランの満足度は飛び抜けて高いらしく、一条境の界隈で「肉を食べたい」となった際には外せない店舗の一つとのことだった。
 ともあれ、焼肉・えびす庵に入店するなり、戸部は鷹尚・トラキチコンビにメニューを選ばせず「食べ放題・梅の60分コース、ソフトドリンク付き3名で」と注文した。
 焼肉・えびす庵の店内は、通りに面した側から簡素な衝立で仕切られただけのお座敷席がまず4つ。そこから、店内中央部にテーブル席が4つ。後はお一人様用のカウンター席が三席といったこぢんまりとしたものだった。全体的にモダンな落ち着いた色合いの内装で若干設備や調度品の古臭さなんかは感じさせるものの、さすがに飲食店だけあって手入れは行き届いていた。
 鷹尚達はたまたま空いていたお座敷席の最奥に案内されたが、他のお座敷席とテーブル席は全て埋まっていた形だった。もう少し訪問のタイミングが悪かったなら、席が空くまで入店を待たされたかも知れない。何の変哲もないただの平日の夜にこれだけ混み合っていれば、相当繁盛していると言えるだろう。
 案内されるままお座敷席へと座り、ソフトドリンクが運ばれてきて、一通り最初に注文した品が揃ってきた辺りで、戸部は間に合わせに垂れ流していた差し障りのない会話を切り上げる。手慣れた手付きで中央部にコンロが設けられた焼肉用座卓の火加減をやや弱火に調整し、牛カルビを金網の上へと並べながら話は本題へと移行する。
「まず、心当たりの知人の名前だけど「クラモリハヤナ」っていう東南アジア系の血が混ざった可愛らしい女の子だよ。ハヤナちゃん自身も余り詳しくは知らない様子だったけど、何でもその「ハヤナ」って名前自体がもう半分の血の国でも意味を持つとか何とか。何でも、もう半分の血の国であっても日本であっても響きがおかしくないように親御さんがあれこれと考えて付けた名前らしい」
 改めて、憑依先候補者リストを確認するまでもなかった。
 響きが奇麗で特徴的な名前だったから記憶に残っていたのだ。
 それでも同じ響きの漢字違いだとかいった可能性を加味して、鷹尚は腰に付けたポシェットからボールペンを取り出し紙ナプキンと合わせて差し出す形で「クラモリハヤナ」という氏名を綴るよう促す。
「漢字で書けってことだな? オーケー」
 戸部が紙ナプキンにボールペンで「倉森羽矢那」と綴る文字を一字一句相違がないか確認していく。
 ……間違いはないようだった。
 この彩座界隈で鬼郷に縁があって、時期的にも整合する。だけど「同姓同名の別人で」なんて偶然が重なる可能性がどれだけあるだろうか。もちろん、年齢だとか言ったところをまだまだ付き合わせて確認はするが、十中八九は間違いなかっただろう。
「どうだい? 冥吏がピックアップしたリストに名前はあるかい?」
 戸部はそう確認を向けはしたものの、鷹尚の雰囲気からそこに「どんな回答が返って来るか」なんてものは分かってしまっていただろう。
「ありますね」
「はは、そいつは何よりだ」
 さも「憑いてるな」と言わんばかりの雰囲気を醸し出して置きながら、戸部は続ける言葉でこうも述べる。
「まぁ、間違いなく憑依されている筈だっていうのに、その状態にある奴を探している以室商会のターゲットに入っていないわけがないとは思っていたけどな。しかも、時期だってドンピシャだぜ?」
 それは即ち、半ば「確信を持って以室商会にコンタクトした」といったに等しい内容だったのだが、対する鷹尚は顔には出さないまで内心困惑しきりだった。そもそも、憑依先候補者リストに記載がある「倉森羽矢那」という名前が出た時点で強く動揺していたのだ。
 紘匡と憑依先候補者リストを読み合わせた限りでは、この「倉森羽矢那」は確度の低い人物だった筈なのだ。……にも関わらず、戸部はこの「倉森羽矢那」が「間違いなく憑鬼に憑依されている」と主張するではないか。
 もしこれが全く聞いたことのない名前だったら、彩座界隈には鳴橋が追う憑鬼以外にも「やっぱり紘匡が追うターゲットも闊歩しているんだな」と納得したかも知れない。
 もちろん、倉森が憑依されているとする戸部の主張が余りにも頓珍漢な内容で、ここから鷹尚が首を捻る事態になる可能性がないとも言えない。だから、自身に生じた動揺を押し殺し、鷹尚は真摯に戸部の話へと耳を傾けるのだった。
 一方で、戸部はそんな鷹尚の様子など微塵にも察した風もなく、どこか思い詰めたような雰囲気の片鱗を覗かせながら自身が知る倉森についての情報開示を進めのだった。
「さっきも軽く触れたけど、俺はガキの時分から鬼郷と現を何度も何度も行ったり来たりしているんだ。鬼郷にも種類っていうかエリアみたいなものがいくつもあって……って、いや、そこは別に説明しなくてもいいか。俺もどうしてそうなるのかだとか言った原理については又聞きで多少知ってるだけで詳しいわけではないしな。それよりも、ここで重要になってくることは「鬼郷を再訪することになった場合は大体毎回同じエリアに行く」ってことだ」
 そうやって「鬼郷」に絡む話を始めた矢先、鷹尚達の座るお座敷席にバタバタと忙しなく動き回る足音が近づいてくる。すると、肉を焼くガス火の熱に煽られて、ソフトドリンクで満たされたグラスの中の氷がカランと音を立てた。まるでそれが合図だったと言わないばかり。件の「本日のオススメ」を片手に鷹尚達の居るお座敷席へと店員がやって来た形だ。
 戸部が一旦話を中断したところで、お座敷席には若い男性店員のハキハキとした元気のいい声が響き渡る。
「失礼しまーす! 注文の品をお持ちしました」
 若い男性店員は鷹尚達一同を見渡し軽く会釈した後、ささっと注文の品をテーブルへと並べ始めた。
 今のところ追加注文はなかったのだが「食べ放題・梅の60分コース」に必ず付属してくるコンソメスープだとかカット野菜だとかいったところに加え「本日のオススメ」として「みすじ」と「カイノミ」が新たに机には並んでいく。
 一旦話を中断した戸部としては、一先ず店員が場を後にするのを待って再開するつもりらしい。
 恐らく、客席でどんな会話が為されているかなんて店員は全く気にしていないし、何なら軽く聞き流してしまうだろう。それでも、そうやって誰からともなく黙ってしまうのは「誰かも分からぬ第三者ではあるものの、聞かれてしまうのは好ましくない」という共通認識があるからなのだろう。
 もちろん、えびす庵という店の構造上、悪意を持った相手がその気になれば会話なんてものはほぼ筒抜けになってしまうのだが、それでも開けっ広げに「鬼郷」なんてものの話をするべきではないのは確かだ。
 ともあれ、これで一通り注文の品は運ばれて来たらしい。
「えー、現在ご注文いただいているものはこれで以上となります。ソフトドリンクのお代わりや追加注文がありましたら、テーブル脇の呼び出しボタンを押してください。もし、もう追加が決まっているようなら、今伺いますよー、後「本日のオススメ」ですけど、是非とも当店の特製ダレの中のピリ辛旨ダレで召し上がってみてください。一推しですよー」
「へぇ、何度も店に来てるけど部位によって薦める特製ダレの種類が違うのか。ありがとう、試してみるよ」
「店の総意じゃなくて、あくまで店員1個人の好みで推してる場合もありますけどねー。まー、試してみてください」
「追加の方は、今は大丈夫」
「そうっすか? では、ごゆっくりどうぞー。失礼しまーす」
 一礼をして去っていく店員を尻目に、戸部は頃合いを見てガス火に曝される金網の上へと「本日のオススメ」をトングで並べながらついさっき中断した会話を徐に再開する。
「鬼郷に足を踏み入れる度に何度も何度も同じエリアに行くことになると、まー、顔見知りなんてものもできるわけよ。そう言ったってそこはあくまで鬼郷なわけだから、相手が住人に扮した冥吏とかでもない限り大抵の奴は一回袖触れ合ってそれで終わり。俺が行ったり来たりするスパンにも寄るけれど、多くても3回以上同じ顔に会うようなことはまずない」
 それが鬼郷に置ける大体の「普通」だと前置きし、戸部は「では倉森羽矢那がどうだったか?」を続ける。
「ところが中には例外も居る。その例外の一人が、今名前を挙げた羽矢那ちゃんだ。鬼郷なんて場所で、しかもそれなりに間を空けているにも関わらず何度も顔を合わせるんだから、そりゃあ気になって話し掛けもするよ。そうしたら、どうやら俺と同じように鬼郷へ迷い込むって形で行ったり来たりしているらしいってのが分かった」
 鬼郷で何度も何度も顔を合わせる例外。
 それは即ち、戸部と同じような体質であるか、もしくは何らかの問題を抱えているだろうことが推察された。
 すると、戸部は不意にやるせなさそうな顔を覗かせ倉森という例外についてこうも呟く。
「……まぁ、何度か話をしている内に来るべくして来ている奴なんだってのが後から分かったんだけどな」
 その言い分が殊更トラキチは気に掛かったらしい。良い具合に火の通った「本日のオススメ」を箸で挟んで口へと持っていく途中でその手を止め、戸部にこう尋ねる。
「倉森って奴は病弱なのかい?」
 それは「来るべくして来ている」といった言葉を受けてのものだが、鬼郷に足を踏み入れるレベルに何度も陥る状態を「病弱」なんて言葉で言い表してしまっていいとは思えない。
 だから、それは「何か別の要因がある」と踏んだ上での問い掛けだったろう。
 そんなトラキチの推察通り、戸部はふるふると首を横に振る。
「いいや、肉体的には至って健康、……な筈だ。でも、まぁ、精神的には健康とは言えなかったんだろうな」
 精神的という単語が出て来た時点で、鷹尚はそこから続く内容が余り気持ちの良い話にはならない気がした。その直感を肯定するかように、戸部の口調もどこか淡々としたものでありながら俄かに重々しい雰囲気なんてものを混ぜる。
「東南アジア系の血が混ざっていると一目で分かる容姿から周囲に馴染めず、クラスメートの女子から些細なきっかけを発端としていじめを受けるようになったらしい。そこからは、孤立するようになってすぐに学校に通わなくなった。馴染めなかったから苛められたのか。運悪く苛められるようになってしまったから馴染めなくなってしまったのかは、俺には分からん。それとなく聞いてみたことがあるけど、要領を得なかった。羽矢那ちゃんに取って苦しく辛い記憶として塗り固められてしまっていて紐解くのはもうゴメンだって感じだった」
 そこまでは、……こういってしまっては元も子もないが、ある種良くある話だ。
 問題は、そこからどのように「鬼郷」なんてものに繋がってしまったのかだ。仮に「自殺未遂をやらかして」というような痛々しい事態に発展したのだとしても、それが「何度も足を踏み入れる」に繋がるためには何度も何度も繰り返す必要がある。
 もちろん、精神を病んでしまってそういう事態に陥った可能性もあったが、戸部の口からは鷹尚に取って意外と言える展開が語られる。
「で、そんな精神的苦痛から逃れるために、羽矢那ちゃんはオーバードーズを繰り返すようになったらしい」
「オーバードーズ……」
 ぼそりと鸚鵡返しに呟いた鷹尚の言葉に、戸部はゆっくりと頷き倉森がどのような薬剤に誤った形で救いを求めたかについても語る。
「第1類医薬品の鎮痛剤の中に、多量摂取するとダウナー系の効果が出てリラックス状態になれるのに多幸感も得られるって一部の界隈で評判の薬がある。ま、量をちょっと間違えると意識混濁から脈拍異常状態になったりするらしいけどな。……羽矢那ちゃんが鬼郷に足を踏み入れるようになってしまった最初の切っ掛けがそいつだ」
「そんな効果を得られるものが、そんなに簡単に入手できるものなんですか?」
 そう戸部へと質問を向けたはいいものの、答えなんて聞くまでもなかった。
 事実、手に入るからそんな事態が発生しているのだし、どんなに「健康に良い」とされるのもだって扱い方を間違えればその限りではないのだ。それこそ、極端な話としてただの水だって飲み過ぎれば毒である。
 もちろん、今回の対象物は「第1類医薬品の鎮痛剤」という入手性にやや制限のある物である。本来ならばオーバードーズに使用できるほどの量を安易に入手出来てはならない筈なのだが、入手すること自体が法に引っ掛かったり特別希少性の高いものというわけでもないのならば、そこは推して知るべしだろう。
 まして、戸部が語った「第1類医薬品の鎮痛剤」の氾濫具合は、鷹尚の想像を軽く凌駕する内容だった。
「ちょっと知識があればコンプラの緩いネット薬局からいくらでも買えるらしい。仮にそっちで引っ掛かっても、個人売買の通販サイトを覗いてみれば、嘘申告で薬を手に入れた連中が小銭稼ぎで膨大な量を出品してたりする。巷のオーバードーザーの中では、こいつは入手経路に何ら困らない初心者向けのブツらしい」
 そういう情報に触りに行ったことがないから鷹尚に取ってそれは驚きの連続だったのだが、初心者向けという言葉が本当ならば自傷行為をする人達に取ってそれは「常識」の範疇なのかも知れない。
「鎮痛剤としての本来の使われ方でも薬物耐性が付くのが早く常用には向かない。依存性は低いが、多幸感を得るために服用し続けているとあっという間に膨大な量を摂取することになって病院送りになってドクターストップが掛かる。そういう意味でも「初心者向け」だって話だ。道を踏み外す奴はここからドンドンヤバいのに手を出していく」
 続けて、戸部はなぜその「第1類医薬品の鎮痛剤」が初心者向けなのかについても語ってくれたのだが、鷹尚はただただ眉を顰めて困惑するだけだった。
 そんなやり取りを経て、それ以上鎮痛剤関連の話題を深堀りしていくことに然したる意味がないと思ったからだろう。戸部はそこですぱっと話題を本筋へと戻さんとする。
 それもそうだろう。オーバードーズは「倉森羽矢那」が鬼郷へと足を踏み入れた重要な要因の一つではあるが、それを以て戸部に黒だと言わしめた証拠ではなかったからだ。
 そこに至って、戸部の口から決定的な状況証拠が語られる。
「……と、まぁその手のオーバードーズのことやら何やら色々と話を聞いている内に、俺は羽矢那ちゃんから相談を持ち掛けられた。ハウロンって名乗る冥吏から「近い内に現の世界へと渡らなければならない理由がある。もし良かったら、その際、一時だけでいいから体を貸して欲しい」と頼まれたってね」
 余りにも直球過ぎる内容が後に続いて、鷹尚は思わず戸部に聞き返していた。
「倉森さんはそれを了承したんですか?」
「了承したと、羽矢那ちゃんから言質を取ったことはない」
 戸部はきっぱりと「確認できていない」と答えたが、その一方で「羽矢那ちゃんが黒だ」と自身が確信した理由についてこう続ける。
「けど、俺が「それは断った方が良い」とか「悪い」とか言うよりも早く、ある一時を境に羽矢那ちゃんの言動は大きく変わっていった。どこかオドオドしていて、たどたどしく話す内気な娘だったけど、そこを境に「復讐」だとか強くて物騒な言葉をはっきりと口にするようになった。そう、あの時を境に「別人になってしまった」とさえ思ったよ。……憑鬼に憑依されたことによって良くも悪くも精神面を支えられるようになったからだと思う」
「別人、ですか」
「ああ、別人だ」
 聞き返すかのように呟いた鷹尚の言葉に、戸部は再び神妙な顔付をしてきっぱりと言い切った。それだけ、強く印象に残る劇的な変化だったのだろう。
 すると、戸部は大きく開いた両手の指を一つ二つ……と曲げていって、その変化が生じた境である「あの時」について続ける。
「ちょうど今から8日前の話だ。夢の中で会ったんだ、羽矢那ちゃんに。……いや、多分、会ったって言い方は正しくないんだろうな。呼ばれたんだ、夢の中のあの場所に」
 8日という時間がどれだけ致命的なのか、それとも余裕があるのか。それを判断できる材料を、その場の誰も持ち合わせてはいなかった。
 仮に肌感覚というところで、まだまだ長いとは言えない以室商会アルバイトとしての経験を持って鷹尚が独断でその尺度について語るなら「かなり時間が経ってしまっている」と述べただろう。尤も、それは戸部にしても同感覚だったろう。言葉の節々に鬼気迫る色合いはまだなかったものの、そこには俄かに切迫感が滲み出ていた。だから、その場には俄かに重々しい空気なんてものも張り出してくる。
 それでも、境となる「あの時」について可能な限り言語化して伝えることが「重要だ」と戸部は考えているようだ。ゆっくりと、しかし、はっきりとその情景を思い起こすかのように「呼ばれた」と表現した倉森について高い解像度で言語化する。
「ふと気付いたら、俺は打ちっぱなしのコンクリートでできた空間にある折返し階段を一段二段と上っていた。余りにもリアルで、触るとコンクリートはごつごつした感触で、所々錆びの浮いた金属製の手摺りには冷え切った無機質の温度とかそういうものもあって、ジージーと低いノイズ音を鳴らしながら時折思い出したかのように明滅する天井の薄暗い蛍光灯だってそうだ。余りにもリアルで……。「どうして俺はこんなところに居るんだ?」って困惑した。それでも、どうしてかそのまま上り続けないといけないような気になって、二つ三つと踊り場を挟んでひたすら進んで行ったんだ。そしたら、ふと目の前に金属製の重々しい扉が現れて、……それを開いた」
 戸部が自身の説明の中で述べたように、それは夢の中だというには余りにもリアルだ。音も色もあって、触感もあって、温度も、何なら戸部によって言語化されなかったもののそこには現実と見紛うレベル寸分違わず匂いも確かにあったのかもしれない。そして、それらは何ら不整合を感じさせないというのだ。戸部がはっきりと言葉にはしなかったものの、節々に実感として鏤めてみせたようにそれはただの夢ではないのだろう。
「扉の先はどこかのマンションの屋上だった。で、その屋上にある巨大な円柱形の給水塔に、羽矢那ちゃんはこちらに背を向けるような格好で腰掛けていた。視線のその先を目で追うと、眼下に広がっていたのは北浦穂の駅前のように俺には思えた」
 北浦穂の駅前をマンションの屋上から眺めることのできる構図が実際に存在するかは分からない。ただ、ふとそうやってリアルに寄せた世界にすることで、それが「無意味で荒唐無稽なただの夢ではない」と戸部に思わせるようにしたような気がした。
 なぜ、そうする必要があったのだろう?
 そう考え始めたところで、戸部がその夢の中で倉森とやりとりした内容の詳細が語られる。
「羽矢那ちゃんはこちらを振り返らなくても、屋上にやってきた誰かが「戸辺稔」だって分かったみたいだった。背筋が凍るぐらい感情のない声でこう言った。「自分をこんな風にした相手に復讐することにしました。同じ目に遭わせてやります」ってね。「こいつ、本当に羽矢那ちゃんかよ!?」って思って横顔が拝める位置まで駆け寄ったんだけどさ、……そいつは確かに「倉森羽矢那」の顔をしてた。俺を一瞥することすらしなかったけど、身震いするほど冷たい目をしてたぜ」
 戸部の語り口から「感情のない声」「身震いするほど冷たい目」って辺りの表現が如何に倉森にそぐわないものだと思っているかが滲み出る。そして、当時を思い返しながら語る言葉の節々からは、別人と化した倉森に対する恐怖みたいなものが透けて見えた。
「全く持って口を挟めるような雰囲気じゃなかったが、これでもかって程に冷や汗を浮かべながらも意を決して俺は聞いたんだよね。「どうしてこんなところに俺を呼び出して、わざわざ犯行予告を伝えるんだ?」ってね」
 それまで黙って「本日のオススメ」を味わったり、上牛カルビを金属箸で金網の上に並べていたトラキチが口を挟む形で自身の見解を述べる。
「決意表明って奴だろ。そうやって口にすることで自分を追い詰め後に引けなくするためだ。まだ迷ってる証拠だぜ」
「……あぁ、そうかも知れない」
 全くそんな風には思っていないだろう顔をしながら戸部はそう相槌を返した。恐らく、それはトラキチの見解を真っ向から否定するのは間違っていると考えたからだろう。もちろん、全く納得していないだろう反応を返した見せたのだから、そこにはトラキチの見解を否定する言葉とそう考えるに至った理由が続く。
「俺の質問に羽矢那ちゃんはこう返した。「最後になるかもしれないし、お世話になったから直接会って話をしておきたかったんです。これでも色々助けられたって思ってるんです。ありがとうございました」ってね。ようやくそこでちょっとだけ羽矢那ちゃん本来の温かみみたいなものを感じられた気がした。……俺にはそれがただの決意表明だとは思えない」
 それは確かに、トラキチが言った「自分自身を追い詰めるための決意表明」というよりか、覚悟ががんぎまった後に絞り出した「お別れの言葉」であるかのように聞こえる。
 戸部も、その意味するところは後者だと思っているようだ。
「実は、あんまり時間は無いかも知れない」
 場は何とも言えない沈黙に包まれ、じゅうじゅうとガス火が肉を焼く音だけが耳につくようになる。
 そこまで聞くと「悠長に焼肉なんか食べている場合ではないんじゃないか?」という考えに襲われるわけだが、今すぐこの場を後にして倉森の元に赴くなんてわけにも行かない。憑鬼が絡んでいる可能性が高い以上、前以て下準備をしないと「いざ駆け付けてみたところで凶行を止める手段さえ持っていませんでした」なんて事態も考えられるのだ。
 尤も、明日の朝のニュースに「昨夜遅く、無職の女性(15)が元・同級生を北浦穂の路上で刺殺するという事件が発生……」なんてショッキングな文面が躍り「手遅れになってしまいました」なんて事態に陥ることも十分あり得るのが非常に厄介なところだ。
 そんな具合に焼肉・えびす庵での戸部との会話を反芻しながら、鷹尚は要点を掻い摘んで憑依先候補者「倉森羽矢那」についての情報を莉央と共有していった。
 現時点で分かっている情報だけでも「限りなく黒に近い灰色」だと言えてしまう倉森の情報を聞き、莉央は何とも言えない表情を見せていた。それこそ「憐れんでいるのか」「悲しんでいるのか」、それとも「怒りを感じているのか」とも受け取ってしまえる神妙で鎮痛でありつつもどこか感情の色を特定させない曖昧な顔付きだったと言って良いだろう。
 ただ、だからと言ってそこで口を噤んでしまうわけにもいかない。この際、莉央が倉森に対してどんな印象を抱いたかは余り重要ではない。あくまで「倉森羽矢那」という憑依先候補者が置かれる現状について、正しく情報共有することが最低限達成しなければならないことなのだ。
「倉森さんは何度も緊急搬送されていて、そういう意味では何度も鬼郷に足を踏み入れていてもおかしくない。ここ最近だと、不眠を患った時に処方された睡眠薬三週間分を一気にオーバードーズして昏倒。近場の緊急受入に担ぎ込まれている。胃の洗浄処置を受けて事なきを得るも、丸一日に渡って意識不明。回復後「どうしてそんなことをしたのか?」って問い詰められて「自分の悪口を言う声が聞こえてきて震えが止まらなくなったから」と答えたらしい」
「あらら。絵に描いたような病み病みちゃんの顛末記だね」
 倉森の直近のやらかしを聞き、莉央はさっきまでとは打って変わって呆れたように苦笑する。
 そこに対して「どういう反応を返したらいいのか」が分からなかったのだろう。鷹尚は何とも居心地の悪そうな表情を見せた後で、結局そこには何も言及することをせず淡々と倉森の直近の現状についてのみを語る。
「で、倉森さんがそうなってしまった原因を辿っていくと「中学校で完全に躓いた」ってところに行きつくみたいなんだ。このご時世、外国の血が混じっていて見た目が日本人じゃないぐらいの奴なんて五万といる筈だと思うんだけど、運悪く溶け込めなかったらしい。小学校の高学年辺りから疎外感を感じ始めて不登校気味になって、それでも「義務教育だから」と中学には進級するけど、そこから引き篭もるようになってふと気付けば丸五年……という感じだったって聞いた」
「おー、この界隈でのハーフ・クオーターの引き籠もラーとしては王道を地で行っている感じだねー。オーバードーザー界隈から良くない知り合いが増えて来て……て感じで、これからあっという間に道を踏み外しちゃいそうな危うい雰囲気。羽矢那ちゃんのご両親も気が気じゃないんじゃないかな。でも、いきなり押し掛けて行ったところでそんな精神状態の娘が会うのを許可してくれるとは思えないけど?」
 莉央のその倉森に対する見通しも疑問も、ある種当然のものだったろう。
 鷹尚的にも、見知らぬ人間がいきなり訪ねて行ったところで顔を見せてくれるかどうかすら甚だ疑問というのが正直な思いのようだった。そこを踏まえて、鷹尚は倉森家へと突撃する意図について「この一回で全てを片付けるつもりではない」と述べる。
「すんなりと対面できるとは俺も思ってないよ。まずは駄目元……までは言い過ぎだけど、ジャブを打って反応を見つつ、色々探りを入れていって付け入る隙がないかってところを窺いたいんだよね。これは倉森さん本人に限らず、倉森さんの両親に対しても……って意味でさ」
 現在、鷹尚が持っている情報は戸部に提供されたものだらけで、現実としてどこまで整合性が取れているのかを確認できていないのだ。戸部が嘘を言っているとは思っていないが、先入観だったり思い込みだったりと言うものが相当数混ざっている可能性がある。
 倉森羽矢那その人にしても戸部からの伝聞に置いては「引き籠り」と表現されているものの、その度合いは世間一般で認知されているところの定義に合っているかは疑わしい。部屋から一歩も出ることがないレベルで全く面会も望めないのか、それとも「学校には行かなかった」というだけで食事や散歩といった用事で外出するレベルであるのか。
 ともかく、今の生の情報を拾い上げたいというのが鷹尚の思いだった。
 そうして、倉森が「全く面会も望めないレベルの引き籠り」ではないだろうと推察するに至ったエピソードについても鷹尚は続ける。
「倉森さん、聞いた話だと引き篭もりの期間中にフリースクールなんかにも顔を出したことがあるみたいなんだ。長続きはしなかったみたいだけど。この長続きしなかったフリースクールで前に顔を合わせたことがあるっていう体で倉森家に突撃しようと思ってる。最初から倉森さんと対面できれば万々歳。でも、恐らくはそういう流れにはならないだろうから……。もう取り付く島もない感じなら、別の手も当てがないわけじゃない」
 別の手……と述べた辺りで、鷹尚は腰に付けたポシェットから真っ白な一通の封筒を取り出す。「倉森羽矢那さんへ」とだけ表紙に書いた手紙が「これこそ別の手!」と胸を張るには「パンチが弱い」と思われても仕方がないのだが、鷹尚的には割と有効手だと思っているようだ。それこそ、戸永古書店の魔女に、そして憑依先候補者「戸辺稔」に、実際に仕掛けられた身として如何に効力があるかを実感しているからだろう。
 加えて、仕掛けた側の「戸永古書店の魔女」も「別の手」に対して思いの外前向きな反応を返す。
「オーケー、バックアップもあるっていうならいいんじゃない? 中身を見せて……とは言わないけど、さぞかし引き籠りの病み乙女が「ああ、この人なら会ってみたいな」と思わず幻惑されちゃうようなロマンス詐欺顔負けの絶妙な殺し文句で溢れているんでしょ?」
 さらりと「いいんじゃない」なんて言っておきながら、倉森に会えなかった際の展開に置ける「別の手」のハードルをあっという間に超絶引き上げられたような気がしないでもないが、それでも鷹尚は内心ホッとした思いだった。
 倉森家に向かう電車の車中で手厳しく駄目出しされて、作戦を最初から練り直すなんて事態は避けられたのだ。
「倉森さんは彩座北浦穂にある再開発事業団の管理するアーバンハイツに家族と一緒に住んでいるらしい。部屋番号は20号棟の511号室」
 そこまで鷹尚が語ったところで、彩座四上方面へと向かう私鉄が北浦穂の駅に到着するまでもう間もなくであると示す軽快なメロディーが流れる。
「えー、次は北浦穂、北浦穂でございます。降り口は進行方向に向かって左手側となります。長渡浜(ながとはま)経由・初火浦行きの循環バスに乗換えの方はこちらで降車されますと便利です。えー、次は北浦穂。北浦穂でございます」
 そう車内アナウンスが流れると、私鉄はガコンと大きく一つ揺れて金属の摺動音を響かせブレーキが掛かり始める。


 彩座四上へと向かう私鉄は、彩座水科の駅を出発してから全く遅延することなく定刻通りに運行し約20分掛けて北浦穂へと停車した。
 二つのホームと小さな駅舎、そして改札だけが設置されたコンパクトな作りの北浦穂の駅に降り立つと、随分と田舎に来たような感じさえ受ける。もちろん、それは一条境や彩座水科のような立派な駅舎もなく、所謂「駅前通り」といったような商店街すら周囲に存在しないからだろう。強いて、北浦穂駅の特徴を挙げるなら立派な作りの駐輪場が隣接していることぐらいだろうか。
 位置的には彩座水科と四上のほぼ中間点ぐらいの場所なのだが、住宅街のど真ん中にポツンと立地するタイプの駅だということもあってこういうコンパクトで簡素な作りにしたのだろう。
 そんな北浦穂駅前の光景を右から左に眺め見て、トラキチが誰に向けるでもなくぼそりと呟く。
「ああ、ここかぁ、北浦穂」
「来たことあるのか?」
 鷹尚のその問いに、トラキチは思案顔に腕組みをして見せて脳の奥底から古い記憶を引っ張り出してこようと奮戦しているようだった。そうして、そこに若干の間をおくと、恐らく当時の北浦穂で強く印象に残ったのだろう事柄をつらつらと語り始める。
「凄い昔に継鷹の軽トラで何度か来たことがある、筈。北浦穂の駅前で小洒落た老紳士風の依頼主?と面会して、そのまま目的地まで軽トラで行って……ってな感じだったから土地勘は全くないけどな。ここからちょっと離れたところにバイパスみたいなのが通っててその通り沿いが繁華街みたいになってたような朧げな記憶があるな……。確か、打合せのために入った洋食・尾形屋のデミグラハンバーグ定食が格別な旨さだった!」
 どこか自身なさげに語っていたトラキチだったのだが、最後の最後になって食欲に関わる部分で声を張る様子に鷹尚は思わず苦笑いをせずにはいられなかった。尤も「洋食・尾形屋」「北浦穂」で検索を掛けると、地元で軽く20年以上営業している高評価の個人店だということも分かり、トラキチに取って食い意地と結び付けられた記憶がいかに強固なものかをまざまざと実感する形でもあったのだが……。
 ともあれ、トラキチが語ったように北浦穂の、所謂「繁華街」は駅前から離れた場所に位置しているらしかった。
 件の洋食・尾形屋付近がちょうど繁華街の外れに位置しているらしく、スマホの地図で周辺の立地を確認してみるとそこからバイパスに掛けて、病院だのスーパーマーケットだのチェーン展開するファーストフードだの飲み屋街だのが集中しているのが分かる。
 そして、鷹尚は改めてここ北浦穂というエリアに足を踏み入れたことがないことを再認識したようだった。
「ちなみに、それ、俺がアルバイトを始める前の話だよな? 俺が以室商会の業務に関わってからこっち、北浦穂の地名が出たことなんて一度もなかった筈だ」
「んー、凄い昔の話だな。余裕で鷹尚がアルバイトを始める前の話の筈だぜ」
「北浦穂なんて場所にも昔は以室商会の常連客が居たのか……」
 驚きとともにそう認識を改めようとする鷹尚に対して、トラキチが待ったを掛ける。
「いや、何度も足を運びはしたけど、どれも一見さんからの依頼だった筈だぜ。その後も関わり続けてる顧客なんていないんじゃないか? 居たら、もちろん案件にはよるけどそれこそ俺や鷹尚が出張らせられてるだろ?」
 その指摘はご尤もなものだった。
 確かに今も北浦穂界隈に以室商会の顧客がいれば、鷹尚・トラキチが出向かされるようなことがある筈なのだ。
 加えて、当時の北浦穂界隈で以室商会へと依頼が為された内容についても、トラキチは「そんなに厄介なものはなかった」と自身の体験をベースに話しもする。
「当時は北浦穂の界隈がガンガン再開発されてて、それこそ彩座水科とかにも呼ばれて行ったんだよな。ただ、依頼内容はといえば、大体どれも再開発を進めていたらヤバいものが出て来て「回収してくれ」みたいな感じだった筈だぜ。やれマンションを建てる為に敷地内の古い蔵の処分をしてたらやばそうなものが出てきたとか、やれ野原を切り開いて区画整備をしてたら厳重に封が為された壺とか木箱とかが出て来たとか、そんな感じのが立て続けに舞い込んで来てた筈だぜ」
 当然、以室商会への依頼の中には継鷹でなければ対応できないようなものもあったとトラキチが例を挙げるが、今もなお定期的に北浦穂を訪れ対処しなければならないような案件ではないことは確かだった。
「中でも、廃寺の敷地の隅にあった祠を移したいみたいな相談が来た時は大変だったぜ。荒廃した破れ寺の解体中に祠の確認に行って……、そしたら継鷹が「こいつはまずい! 今すぐ解体作業も中止しろ!」みたいなやり取りを始めてさ。結局、破れ寺はそのまま解体することになったけど祠自体は残す方針になった筈だぜ。確かあれが北浦穂の駅からそう遠くない場所で、貴忽寺古跡(きこつでらこせき)とか何とかいう名前だったような……」
 トラキチが小難しい顔をして引っ張り出してきた名称をスマホで検索掛けると一字一句相違のないものが引っ掛かる。些細な覚え間違いするないなんて……と、改めて「食い意地に結び付けられた記憶は~」というところを再認識した格好だった。
 そうして、スマホに表示された貴忽寺古跡周辺の地図の中にふと見覚えのある建造物の名前があることに気付き、鷹尚が思わず声を上げる。
「これだ。北浦穂のアーバンハイツ! え……と、北浦穂の駅から見てバイパス沿いのショッピングモールがある方向だから、……あの立派なマンション群がアーバンハイツか」
 もちろん、事前に住所やらは調べて来てあったので北浦穂の駅に到着してからはルート検索アプリを頼って道案内をして貰う心積もりだったのだが、それすらする必要はなさそうだった。北浦穂の駅前から遠目にアーバンハイツのマンション群を視認することができたからだ。
「あのマンション群? へぇ、割かしいいところに住んでるんだね、倉森ちゃん」
 莉央のその認識に、鷹尚は素直に感心した。
 何を以て、莉央が善し悪しを判断したかはともかく、戸部に提供して貰った情報でも、鷹尚が自身で拾い集めた情報に置いても「アーバンハイツ」とは、他所よりも家賃の低い傾向にある北浦穂という区画の中にあって比較的高所得者向けの物件として紹介されていたのだ。
 全部で32棟から成るというのもさることながら、一階層12室で10階建てという1棟1棟が巨大な造りというところがまず以て最大の特徴であり、目を引く所以だろう。再開発事業団が展開する賃貸物件としては計3840世帯を収容可能な同地区最大規模のもので、部屋は2LDKと3DKタイプ、そして4DKタイプの3タイプからなる。
 最寄り駅は北浦穂となり私鉄の利用という観点からは多少不便はあるのだが、市内循環バス・都市間高速バスともにバスストップが徒歩10分圏内。また、自家用車を所有していればバイパスへとすぐに合流可能で、北浦穂駅周辺の物件としては利便性の高さは折り紙付きだと言える。もちろん、その分家賃はかなり割高なのだが、保証人不要で礼金無し・仲介手数料無し・更新料無しと3拍子揃っており北浦穂にある物件の中では非常に人気が高い。
 尤も、最初に「家賃の低い」と述べた通り、北浦穂自体が全体的な傾向の観点からいうと人気がそう高い部類でないことは否めない。それは偏に彩座水科と四上のほぼ中間点ぐらいという立地が理由であり、隣接する櫨馬市から距離があるからだ。彩座市自体が隣接する櫨馬市のベットタウンという位置付けの強い街だからこその理由だが、細かく見ていくと彩座水科・一条境といった区画に対して距離だけでなく公共交通機関の利便性だったりとか細々とした点で住人の満足度が低いことも挙げられる。
 西宿里川なども住宅街の構造という観点では北浦穂と似たり寄ったりなのだが、あちらは町工場やオフィスビルなどといったものを内包しておりベットタウンとは違って町一つで産業構造が完結している強みがる。
 ともあれ、莉央のその認識を肯定するように、鷹尚はここにきて戸部から提供された「倉森家」の情報についても述べる。
「実際、倉森家自体、経済的にはかなり裕福な方みたいだよ。とある筋から提供して貰った情報によると、父親は通勤用に自家用車も所有しているし、倉森さんが引き籠る前は連休を利用して年に2回程度は家族旅行にも出かけていたらしい」
 もちろん、鷹尚もそれが倉森さんから憑鬼を剥がすに当たって直接的に何か有意義となる情報であるとは思っていない。それでも、これから「倉森羽矢那」という個人と向き合う以上、どこにどう繋がって来て役に立つかも分らない情報だと言える。
 そう切り出してしまえば、ここまで触れる機会のなかった倉森の家族構成についても触れない理由はなかった。
「父親は修士課程を出た理系端の人間で北櫨馬にある中堅どころの素材関係の研究開発企業に勤めているらしい。賢くて理知的だけど融通が利かず理詰めで来るから元々倉森さんとは反りが合わないところがあったみたいだ。で、引き籠るようになってからはそれが顕著になってほとんど会話もなくなってしまったらしい。一方で、母親の方はおっとり系の放任主義で倉森さんが引き籠っていることを余り問題視してる節がないというか……、時間が解決してくれると思ってる節があるというか……、まぁそんな感じらしい」
 半ば、よくもまぁここまでの情報を「引き出すことができたものだ」と思いながら、倉森から戸部へと語られたそれらの情報の内のいくつかは助けを求めるコーションとして発せられたものかも知れないとも思えた。
 ともあれ、そうやって倉森家の内情の共有を進めていると、余りにも踏み込んだ内容を知る様に莉央からは若干引き気味に訝られもする。
「何なの、その「とある筋」って? まさか、探偵でも雇って調べ上げた、とか……?」
「いやいやいや、都合よく「倉森さんの知人です。できれば助けてあげたい」って人から情報を提供して貰えたんだよ。実は2カ月くらい前に撮った倉森さんの写真なんてものも提供して貰ったりしててさ。これも一応共有して置くよ」
 戸部から提供して貰った倉森の写真をスマホに表示させると、鷹尚はそれを莉央へと差し出す。
 写真は全体的にどこかネガティブな雰囲気をまとった感じの、……既に引き籠るようになってからの倉森である。
「この娘が羽矢那ちゃん? 外国人然とした外見ではあるけど、櫨馬界隈だとどこにでも居るタイプの普通の娘だね」
 そこに映ったぎこちない笑みを返す倉森をマジマジと眺め見て、莉央の口からは「普通の娘」という感想が出た。
 その表現は何一つ異論を挟む余地のないもので、ふと気付けば鷹尚の口からは倉森を憐れむ言葉が漏れ出ていた。
「だよな。そう多くはないけど、初火浦でだってもう普通にハーフ・クオーターの娘を見掛けるよ。運悪く周囲に溶け込めなかったというだけで、結果イジメを受けて引き籠ることになるのはやるせないよな」
 倉森の暗い過去に引き摺られ目に見える形で鷹尚は気落ちする。
 それがこれから倉森家へと探りを入れるパフォーマンスに影響すると思ったからだろうか。トラキチは倉森の暗い過去を憐れんだところでどうにもならないものだと切って捨てる。
「ま、どう足掻いても起こっちまった過去は変えられねぇよ。それを踏まえてこれからどうしていくか、それしかねぇよ。もしそこに、憑鬼の対応を冥吏から依頼されたに過ぎない「以室商会」がしてやれることがあるんだとすれば、それは倉森羽矢那が「これからどうしていくか」をしっかり見据えられるように憑鬼絡みで道を踏み外さないようにしてやることぐらいだ。そうだろ?」
「ああ、そうだな」
 粛々と憑鬼の対応をするしかないと発破を掛けるトラキチの言葉に、鷹尚はしっかと頷いた。
 それから鷹尚達はルート検索アプリに頼ることなくアーバンハイツを目指したのだが、拍子抜けするほどあっさりとその区画までアクセスできた。それこそ、途中に小川が有って遠回りして橋を渡らなければならなかったりだとか、企業の敷地がドーンと横たわっていて迂回しないと通過できないだとかいうことはなかった形だ。
 もちろん、北浦穂の駅からアーバンハイツまでを直線で結ぶ道路があるわけでないので、ところどころ住宅地の入り組んだ路地に行く手を阻まれるようなこともあったはあった。それでも、アプリに道案内をして貰うまでもなく、路地をジグザグに進んで行くだけでアーバンハイツがある区画までアクセスできる町の作りだった。
 また、北浦穂のアーバンハイツは基本的に1号棟・2号棟……と隣り合わせになるように建築されており、目的となる20号棟へもすぐにアクセスすることができた。もちろん「14号棟と15号棟」「21号棟と22号棟」等、敷地内スペースの関係で例外的に隣り合わせになっていないものもあったが、アーバンハイツの全体像を図示した看板なんかも各所に設けられていて迷うような造りにはなっていないというところが大きい。
 尤も、敷地内には各世帯分の倉庫と自家用車1台分の駐車スペースも確保されていて、鷹尚が想像していたよりもアーバンハイツは広大な敷地面積を有しており、区画に足を踏み入れてからまたそれなりに時間を取られたのだがそれも些細なことだろう。
 そもそも「一階層12室、10階建て」からなる1棟が、もうなんていうか高層マンションの少ない土地から来た人間に取っては異質さを感じるぐらいにでかい。もちろん、全高だけで言うならもっと高い商業ビルやタワーマンションといったようなものも北浦穂には存在しているのだが、横幅も奥行きもある建造物が32棟隣接していることに伴う存在感は格別の感がある。
 それでもやはり、アーバンハイツにはあくまで「比較的」高所得者向けであることを随所に窺うことができる作りだった。各号棟中央部にあるエントランスは外部から内部の様子を窺うことができるガラス張りの作りなのだが、カード認証やパスコードの入力がなければ扉が開かないといったタイプのシステムまでは導入されていなかったり、ゲストルームやパーティルームといった高価格帯物件に付加価値として導入されているような設備は全くなかった。
 あくまで再開発事業団が管理の行き届いた比較的高所得者向け賃貸物件として割り切った設計で作られたものであることが分かる。
 それでも、エントランス一つ取ってみても年代を感じさせはするものの掃除や手入れが行き届いた建造物内を見る限り、やはり比較的高所得者向けだということが肌で実感できるのも紛れもない事実だった。
 言ってはあれだが、以室商会のアルバイトで鷹尚が何度か足を運ぶ機会のあった低所得者層の受け皿となっているようなアパート群ではこうはいかない。それこそエントランスの段階で落書き塗れであったり、共用スペースの掃除を誰も行わないからゴミが散乱していたり、そもそも設備の破損が修繕されまないまま目も当てられない惨状に陥っているような物件も無数にあるぐらいだ。所々汚れが目立つだとか、一目見て分かるレベルの修繕跡が随所に見受けられるだとかは可愛いものである。
 ともあれ、アーバンハイツ20号棟のエントランスに進入した後、そこで一旦立ち止まってぐるりと辺りを見渡し合って、まず莉央が口を切る。
「511号室ってことは、5階だよね?」
「多分ね」
 莉央の問いにそう答えながら、鷹尚は入り口付近にある掲示板回りに目を向ける。ずらっと並んだ郵便受けが101~112と始まり201~212と続くところを見れば、511号室はまず間違いなく5階だったろう。
「5階で問題なさそうだよ」
 鷹尚は郵便受けの並びを指して、それを根拠に莉央にそう伝える。
「オーケー。じゃ、さくっと行っちゃいましょうか」
 小奇麗に整頓されたアーバンハイツ20号棟のエントランスを抜けて奥まったところにあるエレベーターにアクセスる。すぐ隣には階段室もあってエレベーターに頼ることなく各階層にアクセスできる造りになっているのだが、迷うことなくホールボタンへと手を伸ばす莉央に「階段を利用する」つもりはさらさらなさそうだ。
 ホールボタンを押すと、エレベーターは既に1階にあって待機中だったらしい。すぐに扉が開いて乗り降りできるようになる。エレベーターは定員数12名・耐荷重800kgの記載がある標準サイズのもので、よくよく目を凝らして見るとあちこち汚れの目立っているもののこちらも汚損やゴミの散乱といったようなものはない。5階層のボタンを押すとややあって扉が閉まり、油圧式らしいするするとした滑らかさで動き出す。動作面での引っ掛かりや軋み音といった類の異音が鳴るようなこともない。定期メンテナンスが行われ、正しく運用されているのだろう。
 そうこうしている内に、やや耳につく作動音を響かせながら登り始めたエレベーターが一つガコンと音を立てて大きく揺れて制止する。扉が開いた瞬間のこと、莉央が顔を顰めて小さく声を上げる。
「おおっと、……これは結構まずい状態かも」
 そんな莉央の言葉を追認するように、鼻をひくひくさせて見せた後トラキチもこう続ける。
「確かにな。エントランスでは感じられなかったけど、5階は嫌な感じの匂いが充満してるぜ。……こいつは夜の獣の匂いだ」
 莉央が開ボタンを押し扉が閉まらないよう操作しながらアーバンハイツ20号棟5階層の様子を窺う。尤も、そこには周囲の様子を確認しつつ警戒する仕草こそあれど緊張感をまとった実際の行動なんかが伴わないことで、トラキチとの会話で名前の挙がった「夜の獣」の襲撃を心配する必要がないことも分かった。
 そうこうしている内に莉央はアーバンハイツ20号棟5階層の廊下の様子を確認すべくエレベーターから顔を覗かせるように体勢を取る。
「お、鋭いなー。匂いからだけでも種族とかまで区別できちゃったりする感じなの? 罠とかが仕掛けられていないかとかも分かる感じ?」
「いや、そこまでは判別できない。普段から関わり合いのある連中じゃないし、意識して嗅ぎ分けるなんてことも滅多にしないからな。けど、この調子なら罠なんてものはないだろ。そもそも、そんなことに気を回せるほど夜の獣の扱いに習熟してない感じだぜ」
「あぁ、そう言われると確かにそんな感じかも」
 その一方で鷹尚はといえば、その違和感めいたところを何ら察することができないこともあって、ただただ黙って2人のやりとりを聞いているしかなかった。パッと目では、アーバンハイツは共用スペースとなる廊下も掃除が行き届いて、小奇麗で圧迫感を感じるようなこともなく、それこそ「異質な雰囲気」なんてものとは無縁のように見えるのだ。
 尤も、莉央はすぐにそんな浮いた反応に気付いたらしい。完全に一人置いてけぼりとなってしまった鷹尚に向けて、アーバンハイツ20号棟5階に漂う空気から推察される状況というものを語ってくれる。
「倉森羽矢那ちゃん、憑鬼の力を借りて既に魔女っぽいことしてるかも。……というか「これはしてるな」っていうにが正直な感想。少なくとも、もう普通の人間の範疇を踏み越えたことは間違いなくやってるよ」
 正直なところ、それがどれだけ倉森に取って問題となる状況なのかについて、鷹尚は今一ピンと来ていなかった。莉央の語り口からそれが傾向として「かなりまずそう」だという認識はあるものの、その尺度を図る術を持っていないのだ。
 尤も、莉央もそんなことは重々承知の上だった様子で、それが如何にまずい状態かを語ってくれる。
「具体的にいうと、低級夢魔とかを使役してるくさい。トラキチクンのいうようにその手の特徴的なのの匂いが漂ってて、……しかもこれ、もう一度や二度じゃない感じ? 常習性が疑われるって奴? だから、少なくともその復讐っていうのは、……最初は憑鬼が背中を押したのかも知れないけれど、現在進行系の話として今は倉森さんの意志で行われている可能性が非常に高いよ」
「それってつまり、最初のきっかけはどうあれ、今現在の話として倉森さんには自分自身に憑依した憑鬼を追い出す意思がないってことだよな。いや、寧ろ憑鬼に力を借りることでそれを成就させようとしているのなら、復讐が完了するまでは「寧ろ離れられたら困ります」ぐらいの認識でいる可能性が高いってことか」
「それぐらいの認識で留まってくれているのなら、対処する側としてはまだ全然有難いんだけど……」
 恐らく、それは「鷹尚の認識を正す」だとか「こういう可能性もあると忠告する」だとかいうために莉央の口を突いて出た言葉ではなかった。恐らく、それは倉森が自ら招いた状況を、決して楽観視することがないよう自分自身に向けた戒めのものだった。
 ともあれ、莉央はそうぼそりと呟くと、エレベーターからアーバンハイツの共用スペースへと進み出る。その傍ら、鷹尚・トラキチに対して、客観的に倉森の置かれた状況を鑑みると具体的には2つの問題があると指摘する。
「問題は2つあって、1つは積極的に力を借りる状況にあるとすると、倉森羽矢那ちゃんと憑鬼との境界が凄い速度で曖昧になって行って簡単には引き剥がせなくなってしまうということ。……もうその状態になっちゃってる可能性だってある。もう1つは、憑鬼をまだ簡単に引き剥がすことができる段階だったとして、仮にことが穏便に進んで決別することになったとしても、恐らく倉森羽矢那ちゃんには既に不可逆の影響が及んでいる可能性が高いこと」
 莉央はあくまで「可能性」という言葉を使ったが、内心では高確率でその状態にあるという認識だったろう。既に及んでいるだろうと推察した「不可逆の影響」についても言及を続ける。
「例えそれが一方的に憑鬼の力を借りる形であっても、一度自身の身体で力の使い方を覚えてしまうとそれを忘れることは難しくて、……倉森羽矢那ちゃんは多分もうその影響から逃れることはできないよ。憑鬼の補助がなくなっても無意識的に力を使っちゃうようなことが起こるかもだし、制御の仕方が分からなくて自分自身に大きな被害を及ぼすかも知れない」
「大きな被害ってのはどの程度のものが想定されるんだ? 暴走する形で近しい人を巻き込み、身の破滅か?」
 トラキチから「最悪のケースがどんなものか?」を問われ、莉央は一瞬言葉に詰まったように見えた。それでも、くっと唇を噛んだ後、莉央はトラキチが挙げた具体例にまで及ぶこともあると答える。
「影響については個人差がある……としか。憑鬼が離れてもその娘に才能があって影響が最小限に留まる場合もあれば、……身の破滅まで行くパターンも当然あるよ。鬼郷の憑鬼絡みっていうのはさすがにあたしも初めての事態だけど、似たような事例は結構ある。きっと倉森さんにはそんな認識は全くないし、憑鬼の力を自在に扱えることに強い高揚感とか万能感みたいなものを感じていると思う。倉森さんに憑いてる憑鬼にどんな意図があってのことかは分からないけど、もし「倉森羽矢那ちゃん」本人の説得から始めなきゃならないのならそういうところも話していかないとならないよ」
 倉森と憑鬼が協力関係にある場合、そのどちらに対する説得から始めるにせよことが容易に片付きはしないことを莉央は忠告するのだった。少なくとも「高橋宗治」のように、憑鬼を剥がし焼いて終わりとならないだろう状況にあることを聞き、鷹尚の表情は大きく曇った。
 加えて、そんな会話をしながらエレベーターの真隣に位置する507号室から511号室へと歩みを進めるその途中で、莉央の表情といものもドンドンと険しさを増す。
「あぁ、これは駄目だな。……後処理の仕方ってところを何も知らないんだろうね。やるにしてもしっかり後処理をしないと。このままだとこの場所は良くないものを引き寄せることになっちゃう」
 どうやら憑鬼の力を積極的に借りた影響というものは倉森その人以外にも及んでいるようで、ケアしなければならないものも多岐に及ぶようだった。
 ともあれ、511号室の扉の前に立つと、鷹尚はトラキチ・莉央と目を見合わせる。そうすることで「準備はいいか?」を確認する格好だ。同時に、これから倉森家へ突撃するにあたって「倉森羽矢那」の友人を装うに足る表情だったり雰囲気だったりをしっかり整えるよう注意喚起する意味合いがあった。
 間を一つ取るという段階を踏んで、莉央は現状を憂いて眉間に皺を寄せた険しい表情を仮面のような作り笑顔に修正したし、トラキチにしても自然と強張ってしまうところを意図的に肩の力を抜くということをする。それによってどれだけ不自然さを拭い去れたものかを数値化することはできないが、それでも気休めレベルに過ぎなかったとしてもやらないよりかは良かったのだろう。
 すぅと一つ息を飲んで腹を括ると、鷹尚のその手が511号室の呼び鈴へと伸びる。
 訪問者があることを示す軽快なメロディーが鳴り響じゅと、511号室内の奥の方から玄関に向かってパタパタとゆったりとした足音が近付いてくるのが分かった。
「はーい、どちら様?」
 511号室の扉の前で反応を待っていると、すぐにやや間延びした柔らかい女性の声が返ってきた。
 当然、倉森本人の声を聞いたことがあるわけでもない鷹尚がその声の主を特定できる筈はない。それでも、鷹尚はその柔らな物腰や口調の感じから、その声の主が引き篭もり状態にある倉森本人ではないと判断する。
「え……と、初めまして。俺、佐治鷹尚と言います。以前、フリースクールで倉森さんと話す機会があって、……それで、たまたま近場まで来たので「最近どうしているんだろう?」と思って寄らせて頂きました」
 そう答え終わるか終わらないかのタイミングで511号室の玄関の扉が開き、中からはやや麻黒の肌が特徴的な東南アジア系の女性が姿を現した。背は女性にしては長身寄りで170cm前後の痩せ型で、上下ともにラフな室内着を身にまとう格好である。パッと見の年齢の感じから察するに倉森母だろう。
 鷹尚達が揃って会釈すると、倉森母はにこりと物腰柔らかく微笑む。尤も、その微笑みは長続きせず、すぐに申し訳なさそうな顔付へと変わる。
「あら、そうなのねぇ。でも、ごめんなさいね。せっかく寄って貰ったのに、羽矢那、ついちょっと前に出掛けちゃったの。ほんの15分ぐらい前かな。つい最近までは全く部屋から出てこなかったりもしたんだけど、ここのところ精神的にも体調的にも調子がいいみたいでふらっと外出するようになってね。多分、この近辺を散歩がてらぐるっと回ってコンビニとかに立寄って買い物してくるいつもの感じだと思うから、長くても1時間くらい待っててくれれば戻ってくると思うわ」
 倉森が不在であること。そして「1時間ぐらいは戻らないかも知らない」と聞き、鷹尚はそこにどう言葉を返すべきかの逡巡を混ぜる。尤も、ここで「では倉森羽矢那を待つ」という選択肢はあり得ない。特に、倉森家に上がらせて貰ってリビングで倉森を待つというのは高確率で地雷を踏むだろう。
 自分のテリトリー内に見知らぬ人間が母親を騙す形で侵入する場面に「何も知らない状態で鉢合わせる」なんて事態に際して、ほぼ間違いなく憑鬼をその身に憑依させ、何なら憑鬼に力を借りる状態にある倉森がどんな反応を返し、どんな手段に出るのか全く予想できなかったからだ。
「そうですか。では、俺達もちょっとコンビニに用事があるんで行ってみることにします。羽矢那さんがどこのコンビニに良く行くとかありますか?」
「んー、気にしたことがないから解らないわ、ごめんなさいねー。でも、特に拘りはないと思うわ」
「ありがとうございます。もし出会えなければ、また来ますので」
「そう? 上がって待ってて貰ってもいいわよー」
「いえ、大丈夫です。それでは、失礼します」
 そんなやり取りを倉森母と交わした後、再び会釈をして鷹尚達はそそくさとエレベーターのある507号室方面へと足を向ける。
 すると、エレベーターへと向かう途中、莉央が鷹尚の耳元に顔を寄せ小声で確認を向けて来る。
「倉森家の玄関周辺にも濃度の高い匂いが漂ってた。倉森羽矢那ちゃん、もう概念毒フレグランス溶液とかでは引き剥がせないレベルに達している可能性が高いよ。それでも、まずは接触を試みてみる……でいいんだよね?」
 莉央の口から語られた内容に、鷹尚は若干戸惑いつつも「概念毒フレグランス溶液では対処できない」事態というのも完全に想定外というわけではなかった。尤も、そこに対して何らかの対処法を用意できているわけではないのだが……。
 従って、その確認に対する回答は、基本方針こそ大枠から外れないものの必然的に会話が不調に終わるパターンに置いては大きな修正を余儀なくされる。
「ああ、うん。まずは接触して説得してみようという腹積もり。案外、話が通じるかも知れないし……さ。駄目だったら、概念毒フレグランス溶液を使って高橋宗治さんみたいに……って思ってたけど、それが無理なようなら仕切り直しをすることになると思う」
 けれど、鷹尚が発した「仕切り直し」という言葉に、莉央はこれでもかという程の拒否反応を示す。
「仕切り直し……」
 反芻するようにそう呟いて思案顔を覗かせて見せる莉央は、今にもそこに異議を唱えんばかりの雰囲気だった。しかしながら、莉央が実際の言葉を伴ってそこに何らかの主張を続けることはなかった。仕切り直しは「好ましくない」と思いながら、だからといって有効的な代替案を提示できるわけでもなかったからだろう。
 そのまま、アーバンハイツ20号棟5階のホールボタンを押し、やって来たエレベーターに乗り込んで1階へと下る。
 莉央はその僅かな移動時間の間に、思考を今やるべきことへと切り替えたらしい。1階到着後、エレベーターを出て人通りのないエントランスまで進み出るとそこで足を止める。すると、そのままエントランスに陣取り、徐にスマホを取り出すとアーバンハイツ周辺の地図を表示させる。
「それじゃあ、コンビニに向かったらしい倉森羽矢那ちゃんを総当たりで探していくよ。まず、鷹尚クンはアーバンハイツ1号棟から12号棟が並ぶ北から北東側を。北側にはコンビニがアーバンハイツの敷地に面したところにまず1軒と、北東寄りにちょっと路地を抜けた先のところにも1件あるからどっちも確認をよろしくね」
 スライドとピンチイン・ピンチアウトでスマホの表示画面を自由自在に操作して、莉央はアーバンハイツ近隣地図の中で1号棟から12号棟界隈にあるコンビニをさらりと提示して見せる。鷹尚が頷き情報を飲み込んだのを確認すると、次に莉央自身とトラキチが担当するエリアを次々と表示させていく。
「次に、一番機動力のあるトラキチクンは21号棟から32号棟が並ぶ西側をお願い。西側にコンビニはないけど、居住者向けの児童公園が2つあるから見落としがないように隈無く探して欲しい。これはただのあたしの勘だけど、多分倉森羽矢那ちゃんはコンビニなんかに長居してないんじゃないかなって思ってる。あたしはコンビニ1軒と児童公園が1つある13号棟から20号棟の並ぶ南側を回るよ。で、もし全員がそれっぽい娘を見付けられなかったら、ここ20号棟のエントランスに戻って来て集合することにしよう。オーケー?」
「オーケー」
 トラキチが探索エリアを了解すると、誰からともなくアーバンハイツ20号棟のエントランスを離れた。
 北浦穂の駅に到着した時点では薄らと暗くなり始めたぐらいの空の色には、完全に夜の帳が下りている。アーバンハイツの敷地内は下手な住宅街よりも街頭の明かりでしっかり照らし出される形ではあったが、それでも人を探すというには不適当な環境になりつつあると言える。それこそ「だれそかれそ」の時間帯すら過ぎた頃合いなのだ。
 鷹尚的にはアーバンハイツ20号棟のエントランスに陣取って待ち伏せするという案もありだったのだが、言い争いになったり問答無用で臨戦態勢に移行されたりする恐れを勘案するとどこかべつの場所で倉森を捕まえるのがベストだろうという判断だった。
 従って、莉央の仕切りに異を唱えるものもなく、それぞれ三手に分かれて倉森を探すこととなる。
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