第1話 見つけた。

文字数 1,851文字

信号待ちの車の最後尾に僕は車を停止して、ふと窓の外の空を見上げた。
青い空にいろんな形の雲が列をなして風に流れていく。
空なんて、いつ見上げただろう・・・
そんなことを思っていたら、後ろからクラクションをならされる。
前を見ると、前方の車は大分さきへ進んでいた。慌ててアクセルを踏み前へと進む。
ここ何年か落ち着いて空なんか見上げる時間はなかった。
朝も昼も夜も、自分の目の前のことばかりが気にかかって、上や下を意識して見ることはなかったように思う。
日が照っていれば晴れ。どんよりしていれば曇り、そんな感覚でしかなかった。
職場の駐車場に着くと、車から降りて思い切り背伸びをする。
ふと足下を見ると、コンクリートの隙間から雑草らしき物が生え、花を咲かせていた。
風も心なしか春の匂いがする。
もうすぐ桜が咲くかもな・・・
温かい陽気に鳥たちもいつも以上に鳴いている様な気がする。
車から鞄を取り出し、会社への道を歩き始めた。駐車場から職場までは少し距離がある。
毎日通るこの道には慣れたものだが、今日はなんだかいろんな物が目に付いた。
歩道に設置されたガードレールの落書きや、そばを流れるドブ川の流れる音、その脇に生える草が風でグラスハープを奏でている。
こんな物にも気が付かなかったなぁ。
いつも通る道なのになんだか新鮮な気がした。
すれ違う車は僕を追い抜き、悠々と前へ進んでゆく。
いいんだ、僕は今日、ゆっくりこの道を楽しむこととしよう。
少し進んだところで、小さな箱が目に入った。今にも崩れそうな段ボール箱。
いつもならそんな物、気にもしないし、気づきもしなかっただろうが、今日はやたらと気になった。
興味本位でのぞき込む。さすがに触る勇気はなかったが・・・
あっ猫だ・・・
全身が真っ黒でまだ手のひらにのるほどの小さな猫が段ボールの中で震えていた。
どうしよう・・・見つけちゃったし、このまま行くのは心苦しい・・・
猫は箱の中でミューミュー鳴きながら必死に何かを訴えているように見えて、放置出来なかった。
ええい、どうするかは後で決めよう!
段ボールは崩れていて、使い物にならない。仕方なく、鞄の空きスペースに仔猫を入れて、また歩き出す。
鞄の中が不安なのか、仔猫が鞄の中でごそごそしているのが分かる。
本当ならすぐにでも病院へ連れて行ってやりたいが、今日は大事な日だからとその仔猫に話しかけながら、
今度は少し早めのスピードで職場まで急いだ。
職場は2階建ての小さな建物で、僕はここで3年働いた。仕事は主にデーター入力や伝表整理といった雑用だったが、別に不満はなかった。でも人より少し仕事が遅く、ミスが多い。よく上司から叱られていた。
家に仕事を持ち帰って、その日の分を終わらせてやっと一日が終わる。
そんな日々を送っていたが、上司の心ない言葉以外、不満はなかった。
階段を上がりながら、仔猫の様子を気にしつつ、自分の部署の扉を開ける。
何かが変わった訳でもなく、いつもの日常だ。
朝だからか、部屋中にコーヒーのいい香りが漂っていた。
「あれ?お前今日、有給じゃなかったっけ?」
「ああ、ちょっと用事があって・・」
同僚に軽く返事を返すと、上司の机に一直線に向かう。僕は内ポケットから白い封筒を机の上に置いた。
辞表だ。
突然突き出された辞表と、僕が現れた事にびっくりしたのか上司はコーヒーカップを持ったまま、ポカンとしている。
僕は上司の机の前に立ったまま、笑顔で言葉を待った。
「急に・・・えっなんで?」
上司にとっては急でも、僕にとっては急じゃない。ずっと考えていたことだ。
「僕、ここにいりますか?僕、いつも怒られていますし、ミスも多いですし。きっとここにはいらないんじゃないかなと思いまして。それなら、やめようと。」
単純な理由だ。僕はここに必要ないから辞める。卑屈になっているわけではなくて、嫌みでもなくて、ただ漠然と必要な人が必要なところで働く方が効率もいいし、きっとこの仕事は僕に向いていない。
「そんなこと・・・いや、とりあえず、これは預かっておくが・・・」
「契約通り、受理されてから1ヶ月はここで引き継ぎなどはしますので。ただ、再来月にはもう他の仕事に就職が決まっているので、受理は早めにお願いします。」
上司に一礼すると、何が起きたのかと騒いでいる同僚達を横目に、そそくさと会社を後にした。
急いで車に戻ると、鞄の中から仔猫を出して、様子を確かめる。
別段、変わりはないように見えるが、とりあえず病院に連れて行こうと思い、スマホで近くの動物病院を検索し、車を発進させた。
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