帝大リローデッド

文字数 105,065文字


 胸ポケットのスマホが震えた。野木裕一の耳元で野球部長の添田隆の低音が響いた。
〈あ、野木君、添田だ。まずいことになった。ちょっと私の部屋まで来てくれないか。そう、いますぐ〉
 ――まずいこと?
 東京大学本郷キャンパス構内の野球部監督室を出て、理学部にある添田研究室に向かう。降り注ぐ柔らかな陽光が心地よい。まもなく春本番を実感する。
 東京都内の大学准教授から東大野球部の監督に転身して二カ月余り。自分も大学OBだが教育学部を出た。複数の理系研究室が入る理学系第Ⅰ研究棟になじみはない。昭和五十年代に竣工した研究棟は耐震工事や増改築のたびに枝分かれの通路ができ、いつ来てもわかりにくい。行き先表示板を確認しつつ、いくつもの曲がり角を折れ、年期の入った床タイルをきしませて野木は目的地にたどりついた。
「失礼します」
 ノックもそこそこにドアノブを回す。
 執務机の添田と目が合った。不機嫌さは眉間のしわでわかる。さっと出した右手で近くのソファを勧めたが、野木が腰を下ろし終わる前に話し始めた。
「まずいことが起きたよ、野木君」
 さきほどのせりふをまた口にした。
「いったい、また、どうしたんです?」
「きのうの午後、六大学連盟で定例の理事会があった。理事の副部長が行く予定だったが、都合がつかずに私が代理出席した」
「この封筒がそれですね」
 テーブルの上に開封済みの郵便物が置いてあった。
「そうだ。それで主なテーマは、このところ話に出ていた例のリーグ戦の日程変更だ」
 東京六大学野球連盟のリーグ戦は、東大―慶応、法政―早稲田のように開幕から二カードずつ消化しながら進む。その一方、戦いも大詰めとなる最終節は早慶戦だけが単独カードとして組まれる。つまり、目下の勝敗や順位争いがどうあろうと、最後は必ず早稲田と慶応の対戦でリーグ戦はフィナーレを迎えるわけだ。
 伝統を誇る六大学野球は、プロ野球誕生前には大衆の一大娯楽だったとされる。とりわけ早慶戦が人気で、大学と無関係な野球ファンも勝ち負けに一喜一憂したという。リーグ日程における早慶の大トリは、そんな歴史的系譜を預かる両校の自負もこもった不滅の慣習と言ってよかった。
 これに対し、明治や法政など早慶以外の加盟校が近年、異を唱えていた。
 ――早慶戦の日程固定をやめ、シーズンごとに全校抽選をしてはどうか。カードをアトランダムにした方が、現に優勝争いしているチーム同士がリーグ終盤にぶつかったりして盛り上がる。六大学ファン層の拡大にもつながるはずだ――
 というのが、変更派の主張である。むろん、こんな論が出るたび早慶両校が強硬に反対して提案はつぶされてきた。
 だが、どんな風の吹き回しか今回は理事会でその議案が通ったという。
「ただし、今年の連盟創設九〇年を記念するイベントの一環として、だ。それほど言うなら実験的に次のリーグ戦でやってみますか、ということで早慶が折れた」
 添田が解説した。
「それがまずいことの中身ですか?」
 ここ二シーズンは法政と立教が激しい優勝争いを演じ、そこに早稲田がからむ形になっている。こうした実力伯仲の構図からしても日程変更は理にかなう。東大としてもとくに反対するような話ではない。
 首をかしげた野木の顔を添田が目で追ってきた。
「いや、話はここからだ。よく聞いてくれ」
 ソファの背もたれに野球部長が体を預けた。
「あくまで試行とはいえ、スケジュール変更という長年の懸案で意見が一致した。早慶なんて、これまではとりあう姿勢すら見せてなかったわけだからずいぶんな進歩だ。そんなもんだから座も盛り上がり、この際、腹を割って話し合いましょう、とあいなったんだ」
 理事会は時間が大幅に延び、ケーキつきコーヒーブレークを経てフリートーキングに移ったという。連盟創設記念イベントのアイデアあれこれに始まって、大学野球の人気離れ対策やプロアマ交流促進、果ては大物OBの近況といった世間話まで話題は尽きなかったらしい。
「みんなで、ああだ、こうだと、やってるうちはよかった。おもしろい裏話も聞けたしな。私も楽しませてもらった。そこまでは、な」
 一呼吸あって添田の顔が曇った。
「ところがだ。そうこうしているうちに、ある大学の理事が突如言い始めたんだ。私もまったく予期してなかった。晴天のなんとか、としか言いようがない」
 ――まさか。
 胸騒ぎがした。
 添田と視線が交わった。
「そう、君もぴんときたかもしれないが、降格話だよ」
「…………」
〈きょうはいい機会なので厳しいことをちょっと言わせてもらいたい。このところの東大さんの負けっぷりについてですが、いささか度が過ぎてませんかねえ。何シーズンもまたいで九〇連敗だ。たいへん申し訳ない言い方になるが、リーグに高校生で編成したチームが混じっていると揶揄されても仕方がない状況だと思う。だいぶ前から『戦力レベルが違い過ぎるチームが同一リーグなのはおかしい。二部や三部をつくるべきだ』という六大学ファンの声があるのを、東大さんはどこまでご存じでしょうか〉
「ある理事がそう問題提起したんだ」
 全国の大学野球のリーグ戦はたいてい一部リーグを頂点とする多重構造だ。一部の下に二部リーグがあり、さらに三部、四部、五部……と下部組織ができることもある。
 したがって一部最下位チームに待ち受けているのは、二部首位との「入れ替え戦」という事態である。ふつうは三戦して勝ち越したチームが一部残留や二部からの昇格を果たす。東都大学野球や関西六大学など多くのリーグがこうした入れ替え戦を採用し、強い大学だけがトップリーグに君臨することによって組織の活性化を図っている。
 ひるがえって、東京六大学には二部も三部も四部も存在しないから、当たり前だが入れ替え戦などない。その恩恵を最大限に受けているのが東大だ。
 なにせ大昔に一度だけ二位になったことがあるだけで、最下位が指定席である。通算勝率はたった一割三分しかない。わが国の大学野球部として百年になんなんとする悠久の歴史を誇ってはいるが他校と力の差は否めない。スポーツに力を入れる首都圏の私立大学はおろか、野球で名を売り始めた地方の新興大学にも戦力的には劣るだろう。
 こんな厳然とした現実があるからというだけではないが、東大野球部関係者にとって、六大学リーグへの二部制導入や入れ替え戦などという話題は一種のタブーである。
 ――六大学とは、早慶と明治、法政、立教に東大のことを意味し、この構成員は未来永劫変わることはない――
 それが東大から見たリーグ観である。東京六大学に下部リーグ新設などという話は、生身の人間が空を飛ぶことと同じ非現実的なたわごとでなければならないのだ。野木も、この越えてはならない一線に関しては監督就任前に部の関係者からとくと説明を受けた。
 ――入れ替え戦……、二部落ち。
 冷え冷えとした想像とともに不快感が腹の下から突き上げてきた。添田とて同じと見え、本題を切り出したあとは真一文字に口を結んだまま身じろぎもしなかった。
 野木はひとつ唾を飲み下した。
 応接テーブルの向こうのぎょろりとした目が野木をひと睨みした。
「むろん、こんなことはあってはならない。私はすぐに反対の弁をぶった」
〈いまさら、なにをおっしゃる。六大学はそこらにある大学野球リーグとは歴史の重みがまったく違う。今日の大学野球の隆盛は、わが六大学の歴史がつくったものだ。六大学があったればこそのアマチュア野球の発展でしょう〉
「異論が出っこない認識をまず切り出したうえで、こう言ってやった」
〈リーグに最後に加わったのが東大であり、それで六大学となった。確かにしんがりメンバーではある。その意味では若輩かもしれない。しかしながら、わが校はその前身にあたるのが旧制一高であり、旧制一高はアメリカ生まれのベースボールというすばらしい球技を日本に紹介して広めたルーツ校だ。このことはつまり、東京帝国大学がいるからこその六大学野球である、と言わせてもらって差し支えないと考える。日本野球界の育成に果たした功績は小さくないと確信しているところです〉
 熱弁がさらに再現された。
〈ロクダイガクとは、ここにいるわれわれがすべてそろってこそ成り立つ存在と言うべきではないでしょうか。たんなる六つの大学の集合体などでは決してありません〉
 その言い分に齟齬はなかった。
 もとより、こんな「そもそも論」には理事連中とて異論などなかろう。問題は、いまのリーグ内でまともな戦いができているか否か。その実際的な立ち位置なのだ。
 野球部長の頰に朱がさしてきた。
「そうしたら誰かが『いやあ、この話はもうこのへんで、ということでどうでしょう。実際問題、そんな話は時期尚早と思いますよ。まもなくリーグも開幕なんだし』と言って、とりなしにかかってくれた」
「じゃあ、なんとかそこで収まったということですか」
 期待の混じった質問はすぐ打ち消された。
「そうじゃない。そこで終わっていたなら君を呼んだりはせん。どっこい問屋が下ろさなかったのだ」
 眼前の研究者の眉根が寄った。
「君もうちに来た以上、聞かされてるだろうが、恐ろしいほどの長い伝統がある東京六大学リーグの仲間に入りたい学校は日本中にごまんとある。希望や要望ならまだしも、画策や陰謀まがいのことまであったといううわささえある。同じバスに乗りたがる連中が後ろに列をなしていたのだ」
「ええ、私もいろんな人に『君、六大学は別格だからな』と何度言われたかわかりません。部長のおっしゃることは、わかっているつもりです」
 事実、そうだった。
 監督就任の記者会見には野木が想像もしなかった数の報道陣が押し寄せた。プロ野球じゃあるまいし、しょせんは学生野球だ。仰々しく記者会見などしなくても、スポーツ新聞あたりに通知しておけばいいではないかと内心思っていた。しかし、会見で新監督としての意気込みや戦略戦術などを矢継ぎ早に質問されてみると、このリーグの伝統の重みとそれに携わることへの責任を実感したものだ。
 一方で、新規参入をがんとして拒絶してきた東京六大学のかたくなな姿勢も、ある意味、異様である。その閉鎖性が首都圏に様々な新興野球リーグの誕生を促し、結果的に大学野球の隆盛につながったという皮肉っぽい説もよく語られる。
「そう、そうなんだ。よかったか、悪かったかはともかく、六大学は孤高の道を歩んできたからな。しかし、その反面、他校の理事連中も外部の野球関係者から六大学の将来的な部制導入の可能性についてはさまざま尋ねられていたようだ。私だって察しはついていた。つまり……」
 ふうーと息を継ぐ音が聞こえた。
「要するに、だ。野木君。このうっとおしい話は他校の理事連中にとってもまた、関心事であるからこそ消えてしまわないで残っていたんだろう」
 話の結末を知りたいが、先を促す言葉が出てこない。
 このリーグにはあり得ないはずの入れ替え戦の話が、六大学連盟を運営する理事会の議題に上ったというのか。それも、自分が初めて指揮をとる今季のリーグ戦開幕を目前にして。にわかには信じがたかった。
「ということは、部長。この話が、最後の最後までいってしまったというわけなんでしょうか。最後まで」
「厳密に言うと、結論はそうならなかった。しかし、だ。しかし、部制導入話のいやな流れの余韻が消えないまま、言い出しっぺの理事がこんなことを言ったのだ」
〈添田先生がおっしゃるように、東大さんの果たした歴史的な役割には大いに敬意を払っていますし、国立の限られた戦力で懸命に戦っていらっしゃる姿勢には同じ野球人として好感を持っていますよ。でも、はたして永久にこのままでいいかというと、そういうわけにはいかないとも思っているんです〉
 理事は続けた。
〈大正の時代からのいかに長い部の歴史を誇っていようが、いざ実戦となると七〇連敗や八〇連敗や九〇連敗を繰り返しているようでは、じゃあリーグ全体のバランスはどうなのか、という議論に行き着いてしまいます。大学野球リーグもいまや全国各地にあって、各リーグの優勝校が大学選手権や神宮大会で日本一を争っています。そのためにもリーグ全体を高いレベルで維持していくことは必須項目になります。このように、リーグを取り巻く環境を突き詰めて考えていくと、二部制移行への外部からの圧力に六大学自身がいつまで抗していられるか、そんな話になってしまうと思うんです〉
 理事はとうとうこんなことまで口にしたという。
〈次のリーグ戦の終了後には、部制の導入案と、それにともなう入れ替え戦のプランを正式に理事会の議題に提案させてもらおうかと考えています〉
「まったくもって冗談じゃない、という話だ」
 かぶりを振った添田がトーンを上げた。
「そこで私は、またこんな風に言い返してやった」
〈こちらも言わせてください、理事。本日はリーグ日程の審議が議題だった。その議題が結論をみた。ということは実質的にその時点で理事会は終了したはずです。こんな雑談の場で唐突に持ち出されるのはフェアじゃない。東大としても意見の言いようがありません。どうか、いまの発言は取り下げてもらいたい〉
「で、その理事はなんと?」
「『お気持ちは察しますが取り下げるには条件がありますねえ。まずは東大さんに一度くらい優勝してもらわないと。まあ、そこまでいかなくとも、せめて優勝争いぐらいはしていただきたいものですな』だとさ」
 野木は息をのんだ。
 スポーツ推薦入試がなく、高校野球が強い付属校も持たない東大の戦力にはおのずと限界がある。甲子園で活躍した球児をごっそり入学させる私立の他校とは寄って立つところが違うのだ。
 もし東京六大学野球リーグに新しく二部が誕生したら、大学の知名度アップを狙って私立大学がこぞって参入するだろう。現在の所属リーグを脱退して加わろうとする学校もあるかもしれない。いずれも野球強豪校から毎年有力選手を補強している大学ばかりのはずだ。そんな状況のもとで東大が二部首位校と入れ替え戦などやったら、ひとたまりもあるまい。
 野木は監督就任時の会合で連盟理事たちと同席している。自己紹介し、抱負を述べさせてもらったあと、近くにいた何人かとは言葉も交わした。あの時と同じ面々が理事会で冷笑している寒々しい光景がまぶたに浮かんだ。
「理事の表情は終始穏やかだったが目は笑っていなかった。あいつは次のリーグ戦後には間違いなく理事会の議題にのせてくる。それだけは確かだ」
 添田は先ほどから手にしていたマイルドセブンをポケットにしまった。
「それにだ、リーグ内の戦力バランスうんぬんはともかく、最強チームだけで一部リーグを構成するのはどんな理屈をこねようと合理性があるのは事実だ。本学には残念なことながら説得力も議論の余地もある。それが現実だ。東都なんかを見てみたまえ。まさに戦国リーグだ。前季に最下位だったチームが次のシーズンに優勝したりするが誰も驚かん。こういうシンプルで論理的な問題というのは、一度議題にのってしまうと反論しにくいもんなんだ。石井理事もこれが正式なお題目になれば、その後の議論はなんとでもリードできると考えているんだろうよ。くそっ、能天気なタヌキ野郎のくせに」
 最後に理事の実名をあげた野球部長は人柄に似合わぬ乱暴な言葉で悔しがってみせた。
「そこでだ、野木君。注文がある。それで君を呼んだ」
 沈黙のあと、ゆっくりと言葉が吐き出された。
「こんどのリーグ戦で東大を優勝させるんだ」
 添田の視線が野木の見開いた目にまっすぐ向けられた。
「前代未聞のリーグ降格を免れる手段はただ一つ。優勝だ。優勝して自らの力で阻止するしかない」
 ソファから立ち上がり窓際に歩み寄った添田が硬い背中を見せた。
 運動部連中がキャンパス内をランニングしているのだろう。男子選手の重なり合ったかけ声が半分開いた窓から入り込んできた。
 イチニー、サンシー、ニイニー、サンシー……。リズミカルな号令が遠ざかっていったころ、くるりと体が回った。
「考えてみてくれ。仮に六大学リーグに二部ができて、例によって例のごとく最下位になったわが校が入れ替え戦で負けて降格となる事態を。そんなことになったらたいへんなことになる。スポーツ界だけじゃない。社会的にも大問題だ。全国の卒業生たちも巻き込んで大騒ぎになる。そんな風に世の中の混乱を引き起こすようなことがあってはならん。そのためには、うちが勝つよりほかにない」
 細い体に不相応な太い地声のオクターブが上がった。
「なにがなんでも次は勝たねばならん。こんどのリーグ戦で早慶や明治、法政、立教をたたきつぶすんだ。勝って、勝って、勝ちまくれ」
 マイルドセブンをまた取り出した添田が手の中で箱を握りつぶした。
「野木君、見事に優勝して六大学に東大ありと世間に存在感を示してくれ。何度でも言う。わが校は東京帝国大学として日本の硬式野球の黎明期を早稲田や慶応と並んで支えてきた。帝国大学を経て今日まで綿々と続く、わが東大野球部の灯をここで消してはならん。その輝かしい伝統と名誉を守るんだ」
 東京大学の六大学野球リーグ優勝――。
 当事者の野木にとっても現実は夢物語でしかない。
 積極的な推薦入試で甲子園組がずらりといる早慶。もともと高校のスター選手が集まる明治と法政。新たなスポーツ推薦制度の導入で優勝争いの常連となった立教。
 他校の圧倒的な包囲網の中、わが東大の選手はどうか。
 勉学中心の高校生活。野球部には在籍したが甲子園など論外の部活環境。打てない、守れない、走れない、ついでに体力もない。出ると負けで毎年毎年ビリが定位置。こんな弱小チームをどうやって勝たせようというのか。
「……わかりました。六大学に二部ができて、入れ替え戦で負けて二部落ちなんて、そんなことになったら目もあてられません。この先、六大学で生き延びていくには部長がおっしゃるように目の前の試合に一つひとつ勝っていくしかないと私も思います」
 精一杯答えてみたが、むろん成算はない。
「そう、その通りだ。これは野球部の、というよりも、わが東京大学の運動部始まって以来の未曽有の危機だ。降ってわいて、いまそこに横たわっている」
 ソファに座り直した添田がぐいと体を寄せた。眉間のしわは消えているが、その代わりのように目の下のくま周辺にあぶら汗が浮いている。
「明治、大正、昭和の戦前から東京帝国大学には学業成績が優秀なだけでなく、心身ともに健全健康な多くの学生たちが全国から集まり、憧れだった帝大でそれぞれ勉学や体育に打ち込むことで皆々が日本の指導層に育っていった。この学校の学生たちは、まさに健全な精神は健全な体に宿ると信じ、学生生活に魂を吹き込んできた。ならば、大正末期の加盟以来、六大学野球で脈々と続くわが帝大の伝統をわれわれの世代で絶やすことなど絶対に許されない。これからも旧東京帝国大学の野球部として生きていけるかどうか、いま、われわれはその瀬戸際に立ったのだ」
 野木は目でうなずいた。
「戦力はいわずもがなだ。なにか策はあるか」
「私が考えます。あとは任せてください」
「こんども負けっ放しでは、うちに次のリーグ戦はない。頼む。頼れるのは現場の指揮官の君だけなんだ」
「わかっております。私にとっての初陣でありますし、大いに暴れてみせます。帝国大学から宿る野球部の魂は私が守ります」
 すがる目つきの添田を部屋に残し、その場を辞した。春とはいえ、窓の外はすっかり日が落ち、学舎にはあちこち明かりがともっていた。リーグ戦開幕まで三週間を切っていた。



 野木は頭をめぐらした。
 なにから手をつけるか――。
 添田野球部長が持ち帰った「降格話」は迫真性に満ちていた。臨場感たっぷりの理事会のやりとりを思えば、今季の成績しだいでくだんの理事が部制導入を言い出すのはほぼ確実だ。添田に言われるまでもない。黙らせるには、とにもかくにも他校と互角以上の勝負をする必要がある。
 他リーグ同様、東京六大学も一カードで二勝したチームが勝ち点1を獲得し、その数で優勝を争う。対戦校に二つ勝ち、勝ち点につなげることが優勝への必須条件となる。そのためにできることはなにか。それをこれから探らねばならない。
 六大学野球連盟に今季の選手登録をした東大の新人は十四人。今年度も甲子園経験者はいない。灘、開成、桐朋、筑波大付属駒場、公立の湘南、浦和、千葉……。超のつく進学校から来た選手ばかりだ。受験浪人を経た者や理系の部員もいる。大学の体育会で野球を続けようという彼らの意欲と情熱は高く買える。が、いかんせん、選手としての実績や技量は甲子園組がそろう他校の新人と比べるべくもない。現時点で新戦力に期待をかけるのは酷だ。
 机上のチームデータ資料をめくる。
 大越前監督が前季までの戦いぶりを分析し、評価をまとめていた。監督の引き継ぎ業務や就任に伴う雑事に追われ、まだじっくり読み込んでいなかった。そろそろ具体的な戦略を練る時期と考えていた矢先の今回の事態だ。こんどは刮目して読まねばならない。
 野手の平均打率は一割八分ちょうど。いかにも低い。前季リーグ戦は全試合で二桁安打がなかった。打線の非力さは数字からはっきり見てとれる。一番打者としてレギュラーに定着している田中大介の打率二割五分がチーム最高打率だった。250とは平凡な数字に見えるがそうは言い切れない。東大以外の各校にはプロで即戦力になるレベルの投手がいる。一つの大学から複数がドラフトにかかることだって珍しくない。そんな連中相手に四回に一回はヒットを打っている計算になる。好打者の部類だろう。
 田中以外に目につくのは身長が一八〇㌢と東大では体格に恵まれた捕手で主将の伊ケ崎豪。〈走者を刺せるだけの地肩の強さが魅力。打撃は粗いが当たればフェンスまで飛ばす打撃力あり〉。付帯メモにはそうあった。犠打の成功率が高い大津洸太という選手もいる。確実性を評価されてか安打数は少ないが毎試合先発起用されていた。他の野手は、全員可もなく不可もなくといったところか。
 それにしても野手陣の貧打ぶりが目に余る。堤光貴という内野手などは、五十㍍走が五秒九と陸上選手並みの俊足ながらリーグ戦安打数は計三本。打率は一割に満たない七分五厘だった。出塁できないのでは韋駄天も生かしようがなかったろう。
 投手陣に目を移す。
 目下のエースは右横手投げの上遠野賢司。一七二㌢と上背はなく最速120㌔程度。サイドからの変則投法で打者をかわす。控えのエースは同じ右投げの大嶋匠。こちらも球速は130㌔に満たない。制球で勝負するタイプのようだ。同じ控えに一七九㌢の最戸直希という右腕もいるが、身長のわりに体重が六〇㌔台と細身で力感に乏しい。
 高校球児や大学生の多くが経験しているリトルシニアやボーイズといった少年野球の世界では、少しでも打撃センスがあると見なされると指導者がすぐ左打ちにする。そういう子どもたちが成長して各チームで主軸を打つようになるから左投手が貴重になってくるわけだが、今季の東大投手陣に左腕はいなかった。
 見えてくるのは、このチームには球威で押す豪腕がいないということだ。こうした凡庸な投手スタッフでは先発投手が崩れると試合にならない。序盤に大量失点し、のっけから追う展開になり、終盤に1点か2点返すものの、余裕を持って投げる相手投手に逃げ切られるというのが東大の負けパターンのその一。負けパターンその二は、先発投手が六回くらいまで無失点か2失点程度に抑える粘りの投球を見せるものの、自軍が先制したり僅差を追いついたりできないまま終盤に得点を奪われ突き放される、という形だ。これまでの試合内容の九割はこの二つに分類できた。とりわけ、戦略で駆け引きをする以前に勝負に持ち込めていない大敗や完敗のケースが多すぎる。
〈なにか策はあるか――〉
 天井のしみを見つめながら添田の質問を反芻する。
 野球は点取りゲームだ。投手が点をやらないような仕事をすれば勝ちが見えてくる。自軍が点を取れなくても相手をゼロに抑えるイニングを増やすだけで勝機は探れる。
 ――やはり野球はピッチャーだ。
 このチームで勝つためには試合を壊さないことがまず前提になる。投手が踏ん張ってなんとしてもゲームをつくらねばならない。前監督の戦力分析によって導き出される勝利の方程式は単純だった。
 他校にひけをとらない本格派投手をいまから見つけ出す。安定感のある先発投手を擁して試合の主導権を奪う。それ以外に生き残る道はない。
 野木も方程式の解を確信した。

 翌日――。野木は野球部マネジャーの四年生、白井翔と監督室で膝を突き合わせた。
「ええー、二部制? それじゃ入れ替え戦じゃないですか。そりゃ、ないですよ」
 白井の大声が天井まで響き渡った。
「私も耳を疑ったが事実だ。ま、提案されても他校が賛同すると決まったわけじゃないからすぐにどうこうならないが、要はこの連盟には負けてばかりいる加盟校がいるのは六大学の名折れだと考える勢力がいるということだ」
 野木ほどは冷静になれないらしく白井が勢いづく。
「いや、これはどう考えても事件です。もしかしたら虎視眈々と提案時期を狙ってたのかもしれません。日程変更という重要案件が日の目を見たのに、とんでもないヤブ蛇がお出ましになった感じですね」
 野木とて文句の一つや二つ言いたい気分である。目の前の学生服をしばし見つめた。
 入部当初から主務志望だった白井は、一年生から筆頭マネジャーを務めている。この役割に必要なのは記憶力にすぐれた几帳面さだ。選手一人ひとりの活動状況や体調を的確に把握するための不可欠な要素となる。まだつき合いが浅く、人間性をよく知るわけではないが、選手にもチームにも目配りができる人物と野木は聞かされている。無駄口をたたかない隙のなさはアバウトな自分には少々肩が凝るところだが信頼感という点では申し分がない。
 白井は連盟の役員をはじめ、各種行事で相席する他校の野球部関係者やスポーツマスコミなどと交流があった。これから始めるスカウト活動の相棒には適任と思われた。野球部OBでない野木には顔の広い学生は頼もしい。
「白井、君の情報収集力はかなりのもんだと聞いた。頼みがある。野球経験のある本学学生で運動能力にたけたやつを見つけてくれないか」
「はあ? 見つける? これから? 選手を、ですか」
「そうだ。ポジションは投手。マックス145超。身長も高い方がいい。それが望みだ」
「そんなの無理です。そんなやつがいれば、とっくにうちに来てます」
 もっともなことを言う。
「わかってる。だが、君の言うとおりこれはまさに事件だ。このままでは東大野球部の歴史は事実上、終わる。日本にベースボールが伝わった時代からプレーしてきた帝大の大先輩たちが残してくれた部の栄えある遺産を守り、その灯を消さないためには勝つしかない。だから……」
「いや、まあ、それはよく理解できるんですけど」
 白井が話を遮った。
「まだ野球部に入ってないやつで、そんなスピードボールを投げるような人材がうちの学校に果たしているかどうかですし、これだけぼろぼろ負けてる中で、次のリーグ戦でばんばん勝てるほど一朝一夕に戦力アップさせるなんてことが現実に……」
 口をとがらせたマネジャーは途中で会話をやめてしまった。自分はあまりにも当たり前のことを当たり前に告げている、こんなことを最後まで言う必要があるのか。そんな顔になっていた。
「白井、できる、できないなんて、もはや関係ない。やるしかないという状況になってるということなんだ。今季も負けいくさ続きならうちの居場所はなくなる」
 自らを鼓舞する思いで続ける。
「活路はある。野球はなんと言ってもピッチャーだ。なにせ七割の確率で打者をアウトにできるんだからな。だからピッチャーに絞る。うちにゲームをつくれる先発投手がいないのは明らかだ。力でねじ伏せられる本格派をとりたいんだ。それにもう時間がない。選手登録締め切りまで二週間ちょっとだ。それまでに見つける必要がある」
「強打者はいらないということですか。ピッチャーだけという理由はなんでしょうか」
 背筋をぴんと伸ばし座っている学生服が首をひねった。法律を学ぶせいか、なかなか理屈っぽい。ペンを指先でもてあそび、どうにも腑に落ちないという表情が先ほどから消えない。
「もちろんイチローばりのバッターがいるなら別だが、どんな強打者も三割ちょっとしか打てない。三割は野球ではすごいが、確率的には十回のうち七回も失敗するということだよな。それに打撃は水ものと言われるとおり、好投手の前では強打のチームでもそうは打てないのが野球ってやつだろう。プロ野球だってそうじゃないか。それなら相手のアウトを増やすことに専念できる本格派を見つけた方が勝てる確率が高くなる。そう思わないか。白井、どうだ」
「ふうん、なるほどです。おっしゃってることの意味はだいたいわかりますが」
 じゃあ現実にどうやって探しますか、の顔で白井は相づちを返した。
「君の考えを聞きたいんだ。現実問題としてどんな手がある?」
 沈黙の後、思案顔がさらっと言った。
「ネットの掲示板あたりで、『求ム剛腕、先発保証』とでもぶちあげますか」
「いや、そんなことをしたら保守的でうるさい野球部OBたちが騒ぎ出すかもしれん。別の意味で面倒だ。自分たちが足で稼いでタマを見つけてスカウトするしかない」
 野木には一つ腹案があった。
 その昔、運動選手の推薦入学がなかった早稲田大学に伝わる話だ。正月の箱根駅伝出場校を決める秋の予選会すら突破できずに低迷期にあった体育会競争部が長距離を走れる一般学生を学内で公募するという思い切った手を打った。高校時代に実績は残せなかったが県大会の入賞歴など地力があり、入学後はなんとなく競技をやめてしまって毎日麻雀ばかりしているような隠れアスリート学生がこの大学にはいるに違いない、在校生が四万人を超すマンモス大学なんだから、なおさらその蓋然性は高い、そういう連中を集めて入部させ、もとの部員と競わせることで強い競争部を再生しよう、というのが狙いだったと聞く。
 その結果がどうだったのかまでは知らないが、東大の元陸上部顧問の教授からそんな昔話を聞かされ、野木は妙に感心した憶えがある。
「笑い話のようだが実話と私は思う。その時の早稲田みたいに懸命に探せば、うちの大学にも剛腕投手がいるかもしれん。可能性はゼロじゃないはずだ」
 野木は投球動作の真似をしながら「ダイヤの原石探しだ」と白井に話を振った。
「うーん、確かに早稲田らしい話ではありますね、まあ、あそこはぐちゃぐちゃ人ばっかりいる大学だからなあ。磨けば光る原石があったかもしんないですね。となると、結局はどうやって情報を迅速に集めるか、ということになります」
 白井が思案投げ首をつくった。
 保護すべき情報を考えると、『なんとか掲示板』みたいないいかげんなソーシャルネットを使うのは当然まずい。だが、二一世紀に生きるいま、情報収集にネットは有効に決まっている。効率がいいし時間も稼げる。ここは打つ手がほしかった。
「メールとかツイッターとかラインとかインスタグラムとか、使える方法はなんでも総動員しなけりゃならん。学内外に発信して根こそぎ人材情報をかっさらうんだ」
「なるほどです。そうか、ピッチャーですか。こうなりゃ、どうにかして大黒柱を見つけたいですね。救世主になってくれるようなダイヤのエースを」
「そうだな。高校時代にけっこう目立つ活躍して私大に誘われたが、蹴って二浪してうちに来たけどブランクがいやで野球を辞めた、なんてやつがいるかもしれんぞ。上背があって骨太のガタイのいいやつなら鍛え直せば大化けする。そんなやつを見つけて、遊んでるくらいなら体育会で野球やろうと引っ張り込もう。野球部にいると三菱商事やメガバンクの内定すぐとれるぞ、なんて方便を使ってもいい」
 目配りの男の琴線に触れたらしい。白井は手帳を取り出し、めくりながら目を走らせ始めた。
「頼んだぞ、白井。もちろん私も全力で探すが、野球関係の友人は少ないからやっぱりお前の出番だ」
 したり顔になった学生服が手帳をしまい、そそくさと部屋を出て行った。



 もどかしく時間が過ぎていった。特任を命じた白井の本来任務をはずし、副主務の女子学生二人に任せている。
〈まずは学内の団体競技の友人に連絡して、その部の新人に野球経験者がいないか聞くことから始めます。こっちの目的を話していいか迷うところではありますが、一時的にであっても野球部に籍を置いてもらうことは可能でしょう。高校野球じゃ他部からの選手補強なんて珍しくもなんともありませんから〉
 そんなことを彼は言い残していた。
 この敏腕マネジャーの持論は、運動神経に秀でている身体能力の高い者は基本的にどんな競技をやらせてもうまくやる、というものだ。だいぶ前に都立の進学校が初めて甲子園に出場して大きな話題になったことがあった。その時のエースは東大に受かったが、当初はゴルフ部に入ったことでも注目された。白井によれば、アメリカンフットボール部には野球経験者がけっこう多いという。「いかにも大学らしいスポーツということでアメフトに転向するケースが多いようです」。白井はそう解説していた。アメフトといえば、東大は年代によっては日大や法政、明治など私大の強豪と遜色ない強さを誇る。わが大学では数少ない強い運動部だ。しからば身体能力の高い元球児が紛れ込んでいる可能性はあるだろう。
 ――アメフトだろうがゴルフだろうがバスケだろうがなんだっていい。野球の実力が本物なら過去は問わず、だ。
 野木の本音だった。
 そうは言っても肝心の情報が舞い込んで来なかった。連日ぬかりなくスマホの着信をチェックするが進展がない。あと十日ちょっとで連盟への選手登録が締め切られる。それまでになんらかの収穫がほしい。
 目の前にけさのスポーツ新聞があった。六大学の他校に鳴り物入りで入学した有望新人たちの記事が載っていた。大きな見出しで『この春にも神宮デビューか、期待の一番星』などと持ち上げている。着々と戦力が整うライバル校。今季もまた「包囲網」ができあがったということだ。
 こうなってくると、具体的な人物の特定に至らなくとも風評や風聞に接するだけでもいいと思える。本学の学生でさえあれば仲間になる資格はあるのだ。
 昨日は白井からこんなメールが届いた。
〈ツイッター仲間の友人から連絡があって、青森と大分の東大に何人も入るトップ進学校出身で夏の大会で私立の優勝候補のエースに投げ勝って甲子園にあと一歩というところまでいった高校生2人のことを教えてもらいました。すぐ進路を調べたんですが、一橋大と東京工業大でした。その友人にはそれとは別の進学校で注目できる素材がいなかったか聞いてみましたが、同じように私立に勝った近畿地方の県立校のピッチャーを2人知ってるが、2人とも国立大学の受験に失敗して予備校に通ってる、と言ってました〉
 ため息とともにスマホをしまい込むしかなかった。
 ――だめか。
 敏腕マネジャーが最初に言ったとおり、入学が格段に難しいこの日本一の有名大学で、埋もれたスポーツマンの人材を探せと言う方がどだい無理な相談なのかもしれない。サッカーや柔道や剣道などあらゆる種目が対象ならまだしも、野球に特化すると一段とハードルが高くなる。このままでは現有戦力で開幕を迎えねばならない。そうなると……。側頭部にじわっと集まった血流で野木はかゆみを覚えた。
 監督室のテレビのニュースが、六大学より一足早く開幕するプロ野球の話題を報じている。球団別のトピックスが流れた後、キャスターの声があらたまった。
〈今年もまた、十二球団にたくさんの外国人選手がやって来ました。アメリカのメジャーから、中米のドミニカやプエルトリコから、あるいは台湾や韓国野球から、海を渡って日本に活躍の場を移しました。新戦力となった助っ人たちがどんな活躍を見せてくれるのか、それもいまから楽しみです〉
 ――助っ人?
 脳裏でなにかがチカチカ弾けた。
 すぐに卓上電話で白井に連絡する。呼び出し音二回で出た。
〈あ、監督、お疲れさまです。連絡しなくてすみません。残念ながら収穫がなくて……〉
 言いにくそうに切り出した話の腰を折った。
「ああ、ごくろうさん、いや、首尾を聞くためにかけたんじゃない。白井、外国人ってのはどうだ?」
 単刀直入に告げた用件をすぐ理解できなかったらしい。沈黙をはさみ、さっきよりは元気な声が返ってきた。
〈監督、外国からの留学生のことを言ってるんですか〉
「もちろんそうだ。学内を歩いてると、ガタイのでかいやつに時々会うじゃないか。パックンみたいな顔つきのいかにもアメリカ人というようなおっきいやつとか、ドイツ人のサッカー選手っぽい筋肉質のやつとか、デンゼル・ワシントンみたいなアフリカ系かなというようなやつもいるよな。ああいうやつらは、うちの運動部に入れないのか?」
〈語学研修なんかじゃだめでしょうが、学士取得をめざして正規入学した留学生は大丈夫と思いますよ。私立はけっこういますよね。ラグビーや駅伝みたいに留学生に引っ張られてる部活はいっぱいあります〉
「そうだ、そうだよな。なぜいままで気づかなかったんだろう。アメリカとかドミニカとかプエルトリコとか野球が強い国や地域から来てるやつで、ベースボール経験者がいるんじゃないか。探そう。さすがにキューバで野球やってたなんて都合のいいやつは、うちの学校にはいないだろうが、ハイスクール時代に豪速球投手だったアメリカ人がいるかもしれんぞ。そのあとハーバード入って東大に来てるとか。どうだ、こういうのは」
 勝手な想像あれこれを電話口にぶつけた。こんな時はすぐ現実になるような気がしてくるから不思議なものだ。
〈なるほどです。傾聴に値するアイデアですね。じゃあ、大学の学務部に行って留学生の担当者に自分が聞きに行ってきます。留学生と交流のあるサークルの知り合いにも問い合わせてみます〉
 白井の声が弾むのがわかった。
 どうして思いつかなかったのか。思わず膝をたたきたくなる。東大は世界に冠たる総合大学なので公費留学生が多く、優秀な学生が学んでいる。特に途上国出身の理工系学生たちは学んだ技術を持ち帰り、母国の発展に寄与したい気持ちが強く、勉強熱心らしい。早慶ほどでなくとも、まとまった人数がいる大規模校なのだ。素質ある野球選手だった人材が混じってないとは誰も断言できないだろう。
 テレビのニュースで流れたプロ野球の外国人選手たちの映像が野木の脳裏によみがえった。

 大学近くのファミリーレストランで野木は中藤郁夫と会った。中藤は教育学部の同級生で東大の事務職員をしている。入職以来、総務関係の畑を歩いていた。
「なんや、また、いきなり。お前が昼メシ食お、なんて言うんはごっつ珍しいやんか。いま時分は講義しとる最中とちゃうんかいな。まさかクビになってしもうた、ゼニないよって貸してくれいうんとちゃうんやろな」
 中藤はにやりとして一発かましてきた。関西出身者の多くがそうであるように、この友人も大阪弁をまったく隠さない。ぐにゃりとしたイントネーションに久々に接し、野木もちょっぴりおかしさがこみ上げた。
「ふふ、思った以上に元気そうだな。それより貴重な昼休みに呼び出してすまん」
「かまへんよ。どないや、そっちは?」
「俺の方はまあ、お前がよく使う言葉で言うと、ボチボチというところだ」
 中藤とは遊びも大学の定期試験の対策合宿も一緒という仲だった。卒業後は顔を見る機会が減ったが、こうして会えばくだけた話ができる。同期のよしみを関西弁風に返した野木を見て、ふふんっと中藤が鼻で笑った。
「お前なあ、ボチボチいうんは東京言葉の『相変わらずです』とちゃうで。うまくいってます、ちゅうグッドなニュアンスを含んどるんや。さよか、天下の公立大学の准教授ドノは順風満帆ちゅうわけや。しがない大学事務員の俺からしたら、ほんまうらやましい限りや」
 中藤も大学教員を目指した時期があった。大学院進学をめざす勉強会では野木と中藤はいつも机を並べた。しかし、東大が職員を募集すると中藤はさっさと応募、めでたく採用されて大学院には行かなかった。そんな経緯にいまもある種の後ろめたさでもあるのか、たまにこうしてとがった口の利き方をする。
「相変わらず口の減らん男だな。東京公立の方は監督になった時点で休職した。いまは監督オンリーだ。契約年俸は安いが母校に通勤する喜びを味わってる」
「なんやそうか、掛け持ちとちごうたんか。そらまあ、熱心なこっちゃ」
「中藤、うちの学生に関することで聞きたいことがあるんだ。可能なら教えてくれ」
「なんやそれ。おおぜい、ちゅう話か。それとも特定の子かいな。いまは個人情報、個人情報ゆうて、うるさいんや。昔とちごうてあかんことが多いで」
 野木は在学中の正規留学生のうち、野球などスポーツ経験のある者がどれだけいるか尋ねてみた。
「初めからいわくありげな顔つきやったけど、なんで、そんなもん知りたいんや」
「まあ、参考までに聞きたいだけだ」
 大学当局にへんな伝わり方をすると面倒になりかねない。核心部分は親友には申し訳ないが打ち明けるわけにいかなかった。
「留学生はざっと三千人はおるで。男子だけやと、そやなあ、半分以上は男ちゃうかな。運動経験も、記入する履歴欄があるよって、そら野球経験者もおるやろ」
「どんなやつがどんな運動経験があるか、学校に提出した履歴簿だか学生簿だかでわかるってことなのか」
「ま、ある程度そうやろ。いまゆうたとおり書く欄はあるよってな。中には詳しく書いとるやつもおるやろな」
 具体的な競技歴がわかればピンポイントでアクセスできる。ちょっと突っ込んでみた。
「たとえばハイスクールや向こうの大学で野球歴があるなんてこともわかるんだな」
 中藤の顔が曇った。
「おいおい、俺にそんなこと教え言うんか。物理的には簡単やけど、そらNGや。そんなことしたらパソコンの照会履歴のパスワードで誰がやったかすぐわかってまう。いまの世の中、情報流出には大学も極端に神経質になっとるよって、職務に関係ないそんなことやったらえらいこっちゃ」
 中藤の反応には一理も二理もあった。無理強いできないことは最初からわかっている。取っかかりになりそうな参考情報を得るだけでよしとしなければならないだろう。
「そうだろうな。じゃあ、お前の情報網の範囲で野球選手だったやつがいないか聞いてもらえないだろうか。ひょっとしてキューバ人の野球経験者なんていないかなあ」
 目的がわかってきたらしい。中藤は人を食ったような表情に戻った。
「ほっほう、外国のやつを選手にしたいちゅうことか、そりゃまた、ごっつい話やな。負けっ放しなんやから弱いのはようわかっとるけど、弱すぎてついにプロ野球の球団みたいなまねを始めおったか」
「中藤、これはまじめな話なんだ。他校では留学生が運動部の主力で活躍してるのはお前もよく知ってるだろう。うちの留学生は科学や芸術の連中が多いんだろうけど、高レベルなスポーツ経験者がいるかもしれん。そういうやつを発掘したいんだ」
 つい核心を語ってしまったが、この際、正直に伝えた方が手っ取り早い。
 中藤がへの字に口を結んだまま考え込んでいる。
「うーん、難儀な話、持ってきよったな。そやけどまあ、ほかならぬお前の頼みや。放ってもおけん。よっしゃ、無断検索は無理やけど、こっちは人事情報の宝庫や。口コミであちこち探ってみたるわ。総務部は学務課も統括しとる。事情通はそれなりにおるやろ。まあちょっとまかせとき」
「かたじけない。これはというような候補者がいたらすぐ連絡くれ。野球部の戦力アップのためになんとしても見つけたいんだ。ステーキの支払いは俺がしておく」
 コーヒーだけ頼んでいた野木は肉を待つ中藤を残し、チェックに向かった。

 二日後に中藤から電話があった。
「総務の生き字引と言われた大先輩が半年前に退職したんや。その人にあたってみたった。現役の留学生選手として活躍しとる学生は四人いてるわ。弓道部、ラクロス部、剣道部、フェンシング部やった。全員アメリカ人で、歳は一人が三十八で、あとは二十代やそうや。この四人は競技レベルで日本人部員をしのぐレギュラークラスらしい。日本語も堪能言うとったで。各部の連絡先は公開されとるから後でメールしとく」
 翌日、野木は白井を伴って二十代の当該部員たちを見に行った。
 弓道部員は身長が二㍍近くもあるアーチェリー経験者。野球の母国出身ながら幼少時から洋弓一筋で野球はルールも知らず関心はないと即答した。ラクロス部員はアフリカ系と思われる精悍な顔つきの若者だった。サッカーをしたことはあるが野球はボールを握ったこともなく興味もないと流暢な日本語で答えた。剣道部員も雲をつくような白人の大男だったが、ボールを使った団体競技の経験はないと申し訳なさそうな顔で答えた。三十八歳のフェンシング部員は最初から除外した。
 のっけからの玉砕だった。野球とは種目がまるで異なっていたがアスリートには違いない。少しでも野球経験や関心があれば、と期待していたが現実は厳しい。
 具体的進展につながるかに見えた突撃スカウトだっただけに、徒労感が募った。
「白井、これでまた何日かロスしてしまったな。サッカーみたいにメジャーではないにしろ、野球も世界大会やってるんだし、多少はグローバルになった気がしてたんだがな」
 野木の愚痴に白井もうなずく。それなりの期待感があっただけに失望感が大きい。
「自分も目のつけどころ最高と思ったんですけど。人材が存在しないんじゃ外国人だろうが留学生だろうがへったくれもないですね。甘すぎた」
 相棒の声も張りがない。中藤には引き続き情報提供の依頼をしておいたが、多くは期待できまい。一方で部員登録締め切りが刻一刻と迫っていた。
「えーと、各部マネジャーのつてを頼って他の運動部に入部予定の外国人学生のリストを調べました。野球経験者はいません。面会するのは時間の無駄と思います」
 メモ帳に目をやりつつ白井がため息を漏らした。
 こうしてみると、他校には大勢いるラグビーやサッカーや陸上競技など、その競技をするために来日したような一流の外国人選手はわが東大には見当たらないということのようだ。スポーツで名を売る大学ではない。当然と言えば当然だった。
「あ、そうだ、監督、報告があと一つ」
 仕方がないから言いますといった調子の沈んだ声が続く。
「うちの看板運動部のアメフトに身体能力がすごくてレギュラー張れるかも、というドイツ人留学生が入部予定と聞きました。でも欧州育ちで野球を全然知らないそうです。ついでに軟式の草野球サークルの何人かに会いましたが、これはという元高校球児には行き当たりませんでした」
 成果ゼロ。そろそろ潮時なのかもしれない。
「でもまあ、白井、ここまでさんざんごくろうだった。感謝してるよ」
「よしてください。結果が出ないんじゃ意味ないです」
 打つ手なしか。次の一手を懸命に考えてみる。だが、なにも浮かんでこなかった。
「結局はだめかもしらんが、まだわずかに日数がある。最後の最後まであきらめずに情報は集めよう。ここは腹のくくりどころだ」
 小さく白井がうなずいた。

 ここのところ寝つきも寝覚めも悪い。スカウト活動も大詰めに来た。少なくとも一両日中になんらかの手を打てなければ、残り日数からみてタイムアウトだ。その場合、現有戦力をいかに鍛え直すか。リーグ戦突入後にプロ野球キャンプのような特別メニューで連日集中的にやるしかないだろう。選手たちの体力水準では成果があるかはわからないが。
 スマホが震え出した。例の関西弁が耳に飛び込んできた。
〈おい、いまどこにおる? 学内やったら、ちょっと来られへんか。おもろいもん見せたる〉
 総務部の応接室で中藤がにやにやして新聞を目の前に放り出した。
 一面の派手なカラーの大見出しが特徴的なスポーツ新聞。監督に就任してからは一通りの社名は憶えた。これは関西系の「スポーツ日報」。東京でも阪神タイガースの記事中心に報じることで知られている。
「これがどうかしたのか」
「真ん中くらいにあるアマチュアスポーツのページ広げてみい」
 野木が新聞を繰り始めると中藤が前から手を伸ばし、ばしっとページを開いてから記事を指先でぱちんとはじいた。
《え!? 東大生が150㌔?》。社説を小さくしたような四角い形に文章が囲まれた記事が目に入った。小ぶりな見出しのあとに本文が続く。
《東京の下町のバッティングセンターに自称東大生の若い男が現れ、硬球の投球コーナーで150㌔を超す豪速球をばしばし投げてみせ、来場者の話題をさらっているという。素性は不明だが、ふらりとやって来ては小一時間ほどピッチングして帰っていくという。居合わせたギャラリーはみなびっくり仰天。「ありえねー」「元プロですか」「ほんとに東大?」などと質問攻めにするが、若者はすまし顔で「ええ、まあ」と控えめに答えるだけとか。痛快な話ではあるが、ちょっと待ってよ、と言いたくなる。東大の野球部の投手にそんな速球投手がいるなんて記者は聞いたことがないからだ。でも、こんな謎めいたタイガーマスクみたいな愉快なネタに出くわした時は取材をするのが記者の務め。そのうちこの男性をつかまえ、相手が承諾すれば素性を明らかにして読者にご報告したい。ところで、プロ野球がいよいよ開幕です。新監督となる阪神に注目ですね。今季も満載のタイガース情報にご期待ください(杉)》
「おいっ、なんだこれ! これは一体なんだ!」
「日報の名物記者コラムや。いろんな記者がいろんな話題を自由気ままに書いとる」
「そんなことじゃない。記事の中身だ。東大生が150㌔? おい、この話、事実なのか、それともフィクションか」
「さあ、そんなん知らん。記者に聞いてみたらどないや。朝方これ読んだよって、お前に教えたっただけのこっちゃ。俺は小学五年生からタイガースの理論的指導者やから日報は精読しとるけど、お前はこんな新聞、読んどらんやろ思うてな」
「中藤、この記者を知ってるのか」
「まさか。俺は一読者や。せやけど、『杉』言うたら杉浦なんとかいう記者やろ。巨人の試合の記事に署名見かけたわ。下の前はちょっとよう思いださん」
 中藤とコンタクトをつけておいてよかった。この時ほどそう思ったことはない。すぐスマホの通信履歴最上位にある白井の番号をタップする。
〈スポーツ日報? スギ? ああ、その人なら杉浦克彦という人だと思います。プロ野球担当だけどアマチュア野球も取材してますよ。個人的には面識ないですけど六大学創設九〇周年の記念イベントの時にも取材に来てくれたんじゃないかなあ〉
 白井はすらすら説明した。とくだんの反応はなく、記事は読んでいないようだ。東京育ちのGファンはトラ重視のスポーツ日報など買わないとみえる。
「いま学内の友人のところにいて、そいつにその新聞社の記事を見せられて、それで、そのスギウラとかいう記者が書いたと思われるすごい記事を読んだんだ。白井も読んだら私が電話した意味はわかる。すぐに真偽を知りたい。動こう」
 早口で記事の大まかな内容を知らせた。
〈…………〉
「もしもし、おいどうした」
 返答がない。法学部生らしく緻密で論理的な頭脳で記事の真偽を推察しているのか。それとも記事を真実と仮定し、もうなんらかの戦略を考え始めているのか。
〈監督、その記事、写真に撮ってメールで送ってくれませんか〉
 送信後しばらくして折り返しが来た。
〈たいへんな情報です。杉浦記者が書いているようにうちに豪腕投手なんていない。明らかに未知との遭遇ですよ。野球経験者なのは間違いないでしょうから東大生でビンゴなのか、それとも冗談ごめんなさいなのか、それがすべてです〉
 同感だ。すべてを言い表している。
「それでどうする」
 相手はまた沈黙した。各駅停車のような間がもどかしい。せっつきたくなる気持ちを抑えて待った。
〈杉浦記者に会いましょう。それを手がかりにしてアタックです〉
 白井は会議の結論を告げるように高らかに宣言した。だが、すぐに声音が変わった。
〈うーん、でも、ちょっと難しいかな、いや、ここは当たって砕けろかな。うーん、どうかな〉
「どうした? 記者に会うのってそんなに難しいのか」
 たったいままでの意気込みと違う様子が解せない。
〈いや、会うことよりも記事について背景などを聞きだすことが難しいんです。新聞やテレビの記者には取材源の秘匿という重要な職業倫理がありまして〉
 記事に載っていること以外の情報を他者に漏らすことは報道倫理に反している、というようなことを白井は説明した。
「じゃ、この話はこの記事以外に知るすべがないということになるぞ」
 記事には下町のバッティングセンターとしか書いていない。たぶん江東区とか江戸川区あたりだろう。その種の施設は昔ほど多くないので突き止めることは至難ではないだろうが、なにしろ時間がない。これでは宝のありかを前にして白旗ではないか。
 反問に返事があった。
〈突撃しましょう。記者倫理に反しない範囲で教えてほしいと頼みこむんです。それしかないと思います〉
 いつになく強い口調だった。今回のスカウトにあたり、白井は顔見知りの記者にはSNSで情報提供を呼びかけていたと話していた。もしかしたら杉浦記者も小耳にはさんでいるかもしれない。だからといって協力してくれるとは限らないが事情は説明しやすい。
 野木の目には謎の剛球投手の面影がちらつきだしている。
 スマホ片手にもう一度記事に目を通す。頭を冷やして考えれば巷のうわさ話にすぎない。東京には将来はプロ入りするような大学生や社会人の野球選手も住んでいる。そういう人間なら、シーズン前のこの時期でも、その気になれば150㌔くらい出せるだろう。その点、記事には信憑性を感じる。ただ一点、「自称東大生」というくだりを除いて。
 ただし、無駄骨に終わった留学生スカウト作戦と違い、こんどは野球というやつが最初から前面に出てきた。それだけは確かだった。
 ――うわさだってなんだっていい。
 確かめてがっかりするならその時はその時。また覚悟を決めるだけのことだ。
「わかった。こうなりゃ早速あしただ。段取りはあとでメールしてくれ」
〈了解しました〉
「よろしく頼む。あ、白井、新聞社の人って、ふつうのジャケット姿で会いに行っても失礼にならないよな」
〈あははー、当たり前ですよ。卒業式や教授会の行事じゃないんですから。スポーツ新聞の記者さんたちだってほとんどネクタイしてません〉
 久しぶりに白井の笑い声を聞いた気がした。



 スポーツ日報社の東京支社は都心の日比谷にあった。新橋駅前の繁華街をすり抜けるように歩く。近くの日比谷公園や野外音楽堂でイベントをやっているのか音楽とともに司会のような声が聞こえた。雑居ビルが連なっていた商業街を抜けると、やがてビジネス街の一角に白い五階建ての建物が現れた。外壁に漢字とアルファベットで社名が出ている。
 受付で名乗って氏名を記帳し、面会を申し込む。面談内容欄はこんな風に記載した。
〈日ごろから杉浦記者の多彩でおもしろい記事に読者として興味深く拝読しております。一方で自分たち学生スポーツの現場も、記者の人たちが関心を持つと思われるいろんな情報を持っています。つきましては、杉浦記者にこうした情報の一端を直接お伝えすることで今後の記者活動に役立ててもらえればと考えております〉
 白井が昨夜ひねり出した理由だ。むろん東大野球部の監督と主務という身元は明らかにしている。
「お約束ではないんでしょうか」
 受付の髪の長い女性は困惑したような目を向けた。当該部署につないでいいものか迷っている顔だ。
「ええ、事前に約束はしておりません。東大野球部の現役の監督とマネジャーということをお伝えいただいて、十分でも十五分でも、お話させていただければありがたいのですが。どうかよろしくお取り次ぎください」
 野木の顔に「わけあり」と書いてあったかもしれない。ひょっとしたら白井だってそうだ。
「お座りになってお待ちください」。受付嬢は野木と白井の顔を交互に見たあと、手元の電話をとった。
 ほどなく受付嬢に呼ばれた。
「杉浦が会うそうです。ただ、いま取材の電話をしている最中だそうで、三十分くらいはかかるかも、とのことでした。お待ちいただけるなら応接室をご案内します」
 広々とした応接ルームはじゅうたんの床の清掃が行き届き、整然として気持ちがいい。大理石風の重厚なテーブルと品のよいソファが配置されていた。窓のレースカーテンを通して春の穏やかな日差しが注ぎ込んでいる。
 たっぷり一時間は待たされただろうか。ガチャッとドアを開ける音がして、ついたての向こうからベージュ色のジャケットをはおった男性が顔を出した。
「お待たせしてすみません。杉浦ですが」
 四十代くらいだろうか。日焼けした顔に口ひげ。背は高くないが肩幅が広く、記者というより刑事のような存在感がある。
「ご多忙なところすみません。東京大学の野球部の監督をしております野木と申します。こちらは四年マネジャーの白井翔と言います」
 野木は丁重に腰を折った。両手で名刺を差し出し、杉浦の名刺を受け取る。
「あ、ども、こんにちは。監督さんのことは知ってますよ。この前の就任会見に行きましたから」
 名刺に目を落としながら杉浦は少し表情をなごませた。
「それはおそれいります。私にとってなにぶん初めてのことで、つたない会見になってしまって恐縮しております。改めてよろしくお願いしたいと存じます」
 野木は再び頭を下げた。白井に憶えはなかったらしい。杉浦はそばでかしこまったマネジャーには軽く会釈しただけだった。まったくの初対面でなかったことが吉と出るかどうかはわからないが、訪問前よりは気分がほぐれた。
「で、ご用件は? 受付から訪問理由を聞きましたが、よくわからないんですが」
 杉浦が戸惑った表情を見せた。
「実はお願いがあってまいりました」
「お願いですか……。まあ、どうぞ」
 不思議そうな顔をした杉浦に促され、白井と再びソファに座った野木は記者の目を意識しながら説明を始めた。
「ご承知の通り、うちの野球部はもう何季も前からリーグ戦で負け続けておりまして、現在九〇連敗中です。今季からチームを預かる新任監督としても、この状況には強い危機感を抱いております」
 杉浦が軽くうなずく。
「大敗するゲームが多い現状を見ますと、投手力の抜本的整備と補強こそが最重要と私は考えております。そういう観点から学内のありとあらゆる運動選手を、ま、野球経験者でないと話になりませんが、現時点で運動部に入っていなくても野球をやらせたら特筆して秀でているというような投手の人材を探しております」
「ふーん、なるほど、そうなんですか」
 杉浦は二度三度、首肯すると足を組んだ。
「人脈やソーシャルネットワークなんかも使いまして情報を集める一方で、まず目をつけたのが外国人留学生でした。本国では野球選手で活躍した者がいないか綿密に調べました。なにせ留学生数は本学も全国有数なわけですからひょっとするぞと考えまして」
 先日までのスカウト活動のあらましと、空振りに終わった首尾を手短かに告げた。
「そういうわけで、残念ながらこれはという人材にはまだ巡り合ってません。連盟への選手登録も迫ってきますし、今年度の戦力を確定しなければいけない時期になってしまいました」
 この記者がどれだけ時間をとってくれるかわからない。取材中とかでけっこうな時間待たされたあとだ。すぐにも面談を打ち切られそうな雰囲気があるだけに、つい早口になってしまった。
 一拍おいて反応をうかがう。杉浦の表情に目立った変化はない。興味ありげな顔ではないが退屈そうでもない。よくわからなかった。
 野木は話を継いだ。
「そんな時に、この記事を見つけました」。例の記事を貼り付けたノートをカバンから出す。
「この記事の(杉)という文字は杉浦さんのことだとお聞きしました。それで、その中身にたいそうびっくりした次第です。スピードガンなので150㌔というのはその通りという気がします。問題は、あの……、問題は東大生と名乗ったということの方です。記事にお書きになってるように、こんなに速い球を投げる野球部員はうちにはいません。この人物が本物の東大生なのかどうか、それを知りたいんです。もし本学の学生ならなんとしてでも入部させたい。そう考えております。そのための手がかりと言うか、もっと詳しくこの男性のことや状況をお聞きできないかと思いまして、おじゃました次第です。ぜひぜひ、ご支援ご指導をたまわりたいのですが」
 最後は選挙の候補者のような口調になってしまった。
「なるほどねえ、なるほど……。連敗ストッパーを新たに発掘しようというわけですか。現役の監督さんがそんな動きをするなんて聞いたことがないなあ。びっくりしました」
 皮肉ではなさそうだった。心底驚いたという表情が顔に広がっている。
「近年はまた一段と東大さんと他校との差が開いた感じはありますね。試合を見ててもちょっと勝てる雰囲気がないですもんね、失礼ながら」           
「ええ、おっしゃる通りです。野球部関係者に言わせれば、ふた昔くらい前までは立教や慶応とはいい勝負ができたそうなんですが、近ごろはその二校にもこてんぱんでして」
 杉浦が話題にのってきた。スポーツ新聞の記者なんだから状況はお見通しとはいえ、こうずばり言われると相づち代わりの渋面でいなすしかない。
「なんといっても私立は推薦があるからな」
 同情を含んだ声で杉浦が言った。
「東大さんと、いわゆる野球校から高校球児をほぼフリーで獲れる他大学とを比べるのは気の毒過ぎますよね。甲子園に出た選手が勉強でもがんばって、どんどん東大に受かってくれりゃ戦力も均衡するんだろうけど現実はそうはならんからなあ」
「ええ、そればっかりは……。うちの部も、進学校が甲子園に出た時とか、目についた選手には部員がボランティアで受験指導を買って出たりして東大受験を促しているんですが、力のある選手ほど学力試験の比重の少ない推薦で私学へ、となってしまいます」
「でしょうね。そのあたりの事情は飲み込めていますよ。それにしたって九〇連敗はちょっとびっくりの数字になってしまいましたね。これだけ勝てないとやっぱりニュースになってしまいますわな。うちみたいなスポーツマスコミがなんだかんだ書くし、テレビなんかも東大の連敗街道のことをたまにニュースでやってますね」
「いいニュースならともかく、こんな話題で世間に取りあげられるんじゃ、反発心より先にがっかりしてしまいます。特に今年は連盟創立九〇年の記念の年になりますし」
「そうだ、今年でしたね。それじゃなおさら監督さんの心中は穏やかじゃいられないですねえ」
 記者は徐々に興味を持ったようだ。連敗街道の話題が潤滑油になったかのように口元が緩んできた。で、聞きたいのはこのコラムのことだ。
 野木は再び水を向けた。
「いま申しました通り、そんな切羽詰まった事情があるもんですから、あの記事にはまさにびっくり仰天でした。こんな学生がいるんなら、なんとしても仲間になってほしいということなんです」
 情報をくれるなら土下座したっていい。そんな思いで記者を見つめる。
「外国人留学生に目をつけたのはユニークでウルトラC級のプランだったと思いますよ。アマ野球大国のキューバの留学生を入れるなんてことはできなかったんですか。一人か二人、キューバのパワフルな野球選手が入っただけでチームはずいぶん変わるでしょう」
 こちらの頼みには直接答えず、杉浦が話を蒸し返した。
「ええ、私どももかなり期待を持ちまして、公式非公式の情報も動員して探したんですが、こと野球に関しては優れた能力を持った外国人学生には行き当たりませんでした。野球以外では活躍中の選手がいたんですが」
 杉浦は教える気がないのだろうか。野木は記者の沙汰を待つ顔をつくった。
「読んでいただいた記事ですけど、書いてあるとおり中身は風評というか風聞というやつで、真偽のほどはわかんないんです。ま、記事にあることがすべてですよ」
「自称東大生のことは、杉浦さんもまだご存じない?」
「そう。現時点ではね。でもまあ、へーという話ではありますし、これからその自称東大生のことを探ろうかなとは思ってます。なんか興味深い新事実がわかれば、コラムなんかじゃなく一般のニュースになる可能性もありますしね」
 よどみなく話していた杉浦がここで渋面をつくった。
「でも、記事以外のことで俺が知ってることを教えてほしいというのなら、申し訳ないけどお断りするしかないんですよ。この仕事って、取材で知ったことを報道目的以外に他人にぺらぺらしゃべるわけにはいかないんです。外部の方にはわかりにくい理屈かもしれませんが」
 記者は頭をかく仕草をして困り顔になった。まさしく白井が説明してくれた事情と同じだ。ただ、自称東大生が出没する具体的な場所がわかれば、新聞記者と同時進行でこちらも調査ができる。その点だけでも情報がほしい。
「事情をくんでいただき、そのルールの中の差し支えない範囲でサジェスチョンお願いできませんでしょうか」
 場所だけでも、と野木は食い下がった。
「うーん、読んだ読者が押しかけると困るから、そこんところは名前出さなかったんだけどな、困ったな……」
 その時、脇から白井が初めて口を出した。
「杉浦さん、あの糸川選手のトレードのスクープはすごかったですね」
 不意をつかれた顔で杉浦が白井を見た。
 糸川盛夫は日本のプロ野球のスター選手だ。北海道日本ハムに入団した後、投手から野手に転向して素質が開花。一九〇㌢近い堂々たる体軀とずば抜けた身体能力が持ち味で、走攻守三拍子が高いレベルでそろったプレーから「超人」と呼ばれる。そんな大活躍のさなかにオリックスに複数トレードで出された。ファンに絶大な人気を誇り、ゆくゆくは監督になろうかという大物を放出した球団の決断と思惑が野球ファンを驚かせた。
 そのトレード話をスクープしたのが杉浦なのか。
「自分は高校野球をやっていたころから糸川選手のファンでした。あのフィジカルの強さは野球をかじった人間にはあこがれです。地下鉄の駅でトレード記事の大見出しを見てびっくりしてすぐにスポーツ日報を買いました。えー、なんで糸川がトレードなんだと、むさぼり読みましたよ。世紀のトレードの特ダネなんてすごいです」
「いやまあ、あんなのはたんに偶然の産物なんで。そんなたいしたことじゃないよ。特ダネなんてたいがいは偶然と幸運が重なって生まれるもんだから。それに、うちはタイガースでネタとってなんぼなんでね」
 新聞記者は照れたが、まんざらでもない顔をしている。誰しもほめられて怒るやつはいない。 白井が追い打ちをかけた。
「杉浦さん、うちの連敗はもはやデッドラインを越えてます。このままでは入部希望者がいなくなってしまうかもしれません。アマ球界のためにもご協力願えないでしょうか。ご存じの通り球威のある本格派投手はそうそう打てません。強力打線のソフトバンクやヤクルトでもエース級が相手だと1点取るにも苦労しますよね。杉浦さんの記事に出てくる謎の東大生がもし本学学生だったらガチで入部勧誘したいんです。どうかヒントの一端だけでもいただけないでしょうか」
 ほんとうに土下座でもしそうなほどの勢いだった。
 杉浦が頭の後ろに手を回し、また足を組み替えた。
「いやあ、まいったな。うーん、ま、それほどまでにおっしゃるなら、差し障りない範囲でご説明しましょう。読者サービスということで。お役に立てるかどうかは別ですよ」
 手が動き、ジャケットのポケットから小ぶりなメモ帳が出てきた。
「えーと、もう二か月以上前になるかな。取材相手から聞いたんですよ。そいつだってまた聞きだったようですが。最初はすぐ取材しようと思ったんだけどプロ野球の自主トレとか二月のキャンプ取材に行くことになったもんで、そのままになってしまいました。それなら自分の順番が回って来たコラムに先に書いておこうと思ったわけです」
 ぱさっという音がしてメモがめくられた。
 ――都内のバッティングセンターの硬式球コーナーで、球速150㌔以上をぽんぽん投げる若い男がいた。おお、これはすごいや、もしかしてプロ? それともどっかの大学の野球部? と周囲が聞くと、いやいやプロなんて、ただの野球好きですよ、と若者が答えた。サラリーマンなんですか、と聞くと、いや、自分は学生で、こう見えても東大なんですと答えた。それで、ひえーっとまた一同びっくり顔――。
「と、まあ、最初に聞いたのはざっとこんな具合です。そちらの野球部にそんな球、投げるやつがいたら、とっくに連敗なんて止まってるでしょうから明らかに体育会の部員じゃない。ということは同好会みたいなサークル所属かもしれません。そうなると、一般学生がプロもびっくりの豪速球を投げるって話になって、これはこれでまたおもしろい。それをコラムにしてみたんです。まあ書きっ放しは無責任なんで、その東大生とやらが出没するセンターに通ってみて、確かめるつもりではいますけど。ざっとこんな顛末ですよ」
 メモ帳から視線をはずした杉浦は一息ついた。
 ――東大生が150㌔以上!? 
「あの、どんな感じの若者なんでしょうか」。胸の高まりを抑えつつ野木は聞いてみた。
「えーと、身長は雲をつく大男。茶髪のロン毛。一見、ロックシンガー風。ロックバンドのギタリストの超大型バージョン」
 メモをたどりながら短歌を口ずさむような調子の返事が返ってきた。
「あくまで目撃者の言うことが正しければ、ですけどね。こりゃまるでアニメの進撃の巨人だな。ふふ」。記者は小さく笑った。
 身長が「雲をつく」ほど高いとなると、豪速球を投げる下地も可能性も当然にあろう。野木は大リーガーの大谷翔平投手や藤浪晋太郎投手らプロの長身投手を思い浮かべた。
「でも、東大なんてのは、さすがにジョークの類という気がするんだけどね。簡単に入れる学校じゃないからな。ほんとはどうなんだろうなあ」
 そこだけ合点がいかぬ、といった表情で杉浦がメモ帳をひらひらさせた。
「でもなあ、もしニセ東大生だったら学生証を見せてくれとせがまれたら困るだろうし、剛腕を他人に見せびらかしたくて来てるんなら、もう十分アピールしているわけだし、そのうえに必要性のないうそを言う理由はない気もするなあ。ということはやっぱ、東大か。マネジャー君、どう思う?」
 杉浦から突然コメントをふられた白井が身を固くしてちょこんとうなずいた。
 肝心な部分があやふやでじれったい。期待していいのか、ぬか喜びなのか。知りたいのは杉浦記者の見解ではない。事実そのものだ。
 ――150、155,157。
 心地のよい球速数字がカメラのフラッシュのように野木の脳裏で明滅する。かなうことなら学歴がほんとうであってほしい。
「杉浦さん、これは最初からはたして信用して差し支えないような話なんでしょうか」
「さあて、本人に確かめないとなんとも言えませんよ。そんな男が実在するのなら、ですが。あくまで聞きかじった情報ですから。こういう荒唐無稽な感じのするエピソードというのは、確認してみたら、なーんだ、という失笑で終わることもよくあります」
「なるほど、そうなんですね」
 まっとうな解説にうなずくしかない。データが不足しているのは明らかだった。
 エピソードに尾ひれがついている可能性はある、と記者は補足した。
 元高校球児あたりがバッティングセンターで138㌔くらい出したのを見た人がいて、素人ではないスピードに驚いたという程度の話が口コミを経て増幅され、いつの間にか150㌔になっていた、といった伝言ゲームのような結末である。
「結局はなーんだという話かもしれない。当初の見立てと事実がまるきり違う情報のことを俺たちはガセネタと呼んでますが、そうかもしれません」
「ガセネタですか……。なんとなく私にもわかる気がします」
「ただし、硬式球で150以上出すというのはそうあることじゃないですよ。誰でもできることではないとは断言はできます」
 野木の顔に落胆の色が浮かんでいたのを同情したのか、突き放すような言い方をしたことを申し訳なく思ったのか、杉浦が野球解説者のような口ぶりで話を少し引き戻した。
「事実なら、そいつはただの素人じゃないということは容易に想像がつきます」
 野木もうなずく。
「だとしたら、高校野球経験者で、いまはサークルとかの草野球をやっている学生ということでしょう。ほんとに東大かどうかはまったくわかりませんけど。解せないのはそれだけの実力というか力量があるのに、なんでちゃんと野球をやらないのか、大学生ならなんで大学の正規の野球部に入らないのか、という別の疑問が浮かんでくるわけです。そう考えるのが当然ですよね。まあ、体育会の体質がいやで同好会みたいなとこで野球やってるのかもしれんけど」
 なぜきちんと野球をやらないのか――。
 共鳴できる疑問である。豪速球を投げられる人間は、ふつうみんな体育会の野球選手だ。
「杉浦さんは男の正体を実のところどう思ってらっしゃるのでしょうか?」 
「そうですねえ、聞いた瞬間は、東大なんてのは冗談というかウソだろうと聞き流しましたが、本人は元プロだと思いましたね。プロ野球にいる連中って、ほんとにすごい身体能力のやつばっかりです。あの世界はフィジカルワールドと言っていいでしょう。投手じゃない野手でも単純な球速なら145㌔とか投げるやつがふつうにいます。イチローとか巨人の中田とかがそうですね。だから、昨オフに戦力外になった若い元プロがひまつぶしにやったのかな、と最初は思ったんです。じゃなければ、四国や北陸とかのプロ予備軍の独立リーグの現役選手のお遊び、とかね。ただ、この話の終わりに出てきた東大生というのが、ねえ。150以上の豪速球と東大のイメージは全然つながらんからねえ。ジョークか、ほんとなのか、さっぱりわからんなあ」
 元プロ野球選手で公認会計士になる人もいるから人間の努力は果てがない。野球の素質に恵まれた元高校球児が猛勉強して東大に入ったのか。それならうってつけだ。しかし、年齢がすでに三十や四十というならともかく、若者だったら素直に野球部の門をたたいておかしくない。腑に落ちなかった。
「うーん、やっぱ豪速球と自称東大生との整合性がなあ……。東大出のプロ野球選手は元ヤクルトの宮台がいるけど彼は左だしな。だいぶ前には横浜DeNAを引退したやつもいたけど、おっさんになった彼が再入学したわけじゃないだろうし。じゃあ、やっぱ、ただの草野球サークルの学生なのかねえ、無名の」
 杉浦もそれ以上は想像がつかないらしい。お手上げのポーズをした。
 ちまたの草野球の愛好会や学内外の野球サークルにいる本学学生ということはありうる。ただ、かなり丹念に白井がその方面の団体を調べていたはずだ。調査漏れだったということなのか。
「まあ、俺が言えるのはこれくらいのもんかな」。敏腕記者が話を締めくくった。
「結局、杉浦さんにも現在のところ素性というか正体はわからないというわけですね」
「現状そういうことです。でも、そんなに残念そうな顔をする必要はないと思いますよ。きっとまたセンターに現れますよ、そういう酔狂なやつは」
 くすりと笑った杉浦が野木に持ちかけた。
「監督さん、じゃ、こうしませんか。謎の東大生とやらはいつ現れるかわからない。俺もバッティングセンターに毎日通えない。ですから共闘しませんか。一緒に正体を突き止めるんです。それなら監督さんたちは取材協力者だ。俺の情報をある程度教えても問題になりません」
 むろん異論などなかった。
「えーと、じゃあ、とりあえずセンターのありかをお教えします。先に会えたら連絡ください。俺の方でキャッチした時はすぐお知らせしますよ」
 記者は手慣れた様子でメモ帳にペンを走らせると、その部分だけをちぎって野木の手に握らせた。



 白井と並んで地下鉄のつり革につかまる。学生相手と違い、マスコミの人間に会うというのは思いのほかエネルギーを使うものと知った。話をしていても、相手が自分を値踏みするような目で見ている感じがしてどうにも落ち着かない。
「なんか緊張してしまったなあ。もっといろいろ質問したかったけど、記者さんの機嫌を損ねないようにと気を使って聞けなかった。しみじみ疲れたよ」
「へえー、そうなんですか。でも、150㌔の話が出たとたん、監督の目が光りましたよ。自分もキターってなりましたけど、ふふ」
 白井が珍しく陽気に反応した。
「そうか。それで、どう思う? あの記者が言ってたそんなことって実際にあるかな。ほんとに、現実に、そんなことって。いくら人が多い東京だからって、街中のバッティングセンターに突如、剛球投手現る、だからなあ。怪獣映画のシン・ゴジラじゃないんだから」
「わかります。なるほどです。自分もあの記事の見出しを見た瞬間は、正直これはないだろう、でした」
「だろうな」
「プロアマの現役の選手がおもしろ半分で、というのは想像できました。でも東大生、というのは……。やっぱり、そりゃないだろうと思いますよ。正直、いまも」
 野木よりもずっと研究者然としたマネジャーの顔にへんな期待感は浮かんでいなかった。
「お、そうか。さすが沈着冷静男だな。まあ、バッティングセンターでめっぽう速い球を投げるやつがいてもかまわんが、本学学生というたいそうなおまけがついてる。ただ一点、そこだけが問題だ」
 白井が神妙な顔でうなずく。
「仮にだな、東大が本物だとすると、やっぱり学内で草野球やってるやつという可能性はないだろうか。蓋然性という点ではそれがやはり一番高いような気がする。そっち方面はずいぶん調べてもらったようだけど」
「自分の調査漏れはありえますが、いまの時代、サークルなんかにそんなやつがいたら、こっちが調べ始める前に有名になってんじゃないですかね」
「有名?」
 白井がスマホを取り出した。
「友人や仲間とか彼女とか知人とかたまたま見た人とか、周りの人間がすかさずスマホで動画撮影してすぐさまネットに投稿して、たちまち話題になってると思いますよ。野球に限らないですけど、たとえば、ほらこんな具合に」
 スポーツに関する様々な投稿映像を白井は見せた。野球では高校生が100マイルを超す速球を投げているという信憑性を疑うようなアメリカ人少年の投球動画もあり、野木はどう反応していいかわからず、すぐに返事ができなかった。
「なるほどなあ。まさしくそういう時代なんだな。じゃあ、ますますもってよくわからない話になってくるなあ。でも、バッティングセンター野郎が、もしほんとうにうちの大学だったら、なんとしてでも欲しい。縄で縛ってでも、だましてでも入部させたいところだ」
「同感です。ふつう、うちのイチョウ並木を見た瞬間から入部一直線の人材のはずです」
「だろ? 記者さんが言ってたように、野球部に入らない方がむしろおかしい。事情はわからんが、本人が放っておかれているんだとしたら、周りの人間だってどうかしてる。こんなのおかしいぞ」
 前のめりになった野木の背中を白井がひと押しした。
「監督、こうやって一応の手がかりをつかんだんですから、こうなったらなんとしても本人にアクセスしましょう。実在してるやつかどうかさえわかりませんが、この難しい方程式の答えというか、解答を導き出すにはもはや突進するしかありません。どんなに難問であっても解を見つけ出すしかないです。実在の人間であることを祈りながら進みましょう」
 眉唾と思えなくもないが、人材探しで初の具体的な進展であるのも事実だった。
 東京下町のありふれた遊技場にふらりと現れ、プロ顔負けの速球を投げてはどこかへ消えていく自称東大生の大巨人――。スティーヴン・キングのホラー小説に出てきそうなまさに謎の男である。
〈二部降格を阻止する手段はただ一つ、優勝だ〉
 添田野球部長から唐突に突きつけられた前代未聞のミッション。崖っぷちの東大野球部を救う史上最大の作戦である。その任務遂行を義務づけられた野木がかろうじてたぐり寄せた一本の命綱に思えた。
 ――本人にあたってみるしかない。
「そうだな、突進だな。突進だ。ようし、こうなれば行動あるのみだ」
 地下鉄が東大前駅に着いた。
「お、もう昼か。腹が減ったな。白井、この前、ラーメンと半チャーハンのセットがうまい中華の店を見つけたぞ。いまは都内も家系とか言うとんこつ系スープの店が多いけど、ここは正統派の鳥がらスープの東京味だ。具もネギに焼き豚、シナチクとナルト、ノリのみ。やっぱ、ラーメンはそうでなくちゃな。チャーハンもだしの利いた塩味でうまい。駅からちょっと歩くけど行ってみないか。もちろん、私のおごりだ」
 ぽんと肩をたたかれたマネジャーは白い歯を見せた。



 次の日、野木は白井を連れて江東区内にあるバッティングセンターに向かった。ナビで調べると、地下鉄の最寄り駅からかなり遠い。タクシーを使えば楽だが、歩いた方がなんらかの手がかりを見つけられるような気がして徒歩で目的地をめざすことにした。このあたりは近隣商業地域や準工業地域と呼ばれる用途地域であり、住宅と商店や小規模な事務所が入った雑居ビルと町工場が混在している。そこかしこで機械の動く音も耳に入り、陽光にほこりまで映り込むようなざわつき感があった。朝からの春の陽気で歩き始めてすぐにシャツがじっとり汗ばんだ。
 三十分近く歩いてようやく、お目当ての建物に着いた。入口の看板には色あせた文字で「アジアの野球の殿堂 東陽BC」とある。
 入場料を払い、ゲートをくぐる。内部は硬式と軟式のコーナーに二分されていた。硬式コーナーに入るにはヘルメット着用が義務づけられ、周囲が金網に囲まれている。平日ににもかかわらず、けっこう混んでいた。投球時の球速が選べる五つの打撃コーナーでは順番待ちの列ができている。部活仕様なのか、デザインが同じトレーニングウエアを着込んだ若者の一団もいた。硬式目当てに自主トレで来ているのかもしれない。
 暴投防止ネットが設置された硬式投球コーナーの一角に陣取った。白井と長いすに並んで座り、コンビニで仕入れたサンドイッチとチーズバーガーをぱくつきながら、客の様子に目をこらす。目は自然と背が高い人物を追いかける。長身の来場者もそこそこいたが、群を抜くというほどの人間は見かけなかった。投球を終えた何人かに声をかけてみた。
「えっ、剛球ピッチャー? そんな感じの人なんて見たことないです」「150㌔ですか? そんなの聞いたことないですけど」「いや、知らないなあ、お前見た?」
 たむろしていた若者たちは互いに顔を見合わせ、一様にかぶりを振った。日がな一日、粘ってみたが、それらしい者が現れることはなく、結局この日は空振りだった。
 選手登録まで残された日数は九日。センターの常連客にうわさ話まで否定されたのは少々ショックだが、彼らがたんに見たことがなかったり聞いたりしたことがなかっただけかもしれないと思うことにした。杉浦記者の話から推察すると、その男は何度もここに現れ、剛腕ぶりを発揮したと野木はにらんでいる。だからこそ目撃者の数が加速度的に増えていき、うわさがうわさを呼ぶ形で記者の情報源の耳に届いたと考えていい。経験則に照らせば、突然来なくなる確率は低い。
「必ずやつはやって来る。あす、あさっても張り込もう。粘るぞ」
 白井も合点承知の顔になった。

 記者から電話があったのは深夜だった。張り込みは三日連続で肩すかし。四日目は白井ともどもはずせない所用で断念していた。
〈ども、スポーツ日報の杉浦です。夜分すみません。先日は弊社までご足労でした。いい話を先にしますね。きょう、例の男に会えましたよ、例のバッティングセンターで〉
「えっ、ほ、ほんとですか、で、ほんとに東大生だったんでしょうか」
 一番肝心な情報がまずほしい。スマホに強く耳を押し当てた。
〈ああ、それは間違いないようですよ。本人が言ってました〉
 杉浦はあっさり答えた。
「じゃ、信じていいんですね、東大で。東京大学なんですね。あの、どんな風なやりとりをされたんでしょうか」
〈『あのう、すみません。失礼ですが東大の学生さん?』と声をかけたんですよ。そいつはびっくりしたような顔で俺の方を見ました。そのあと、『そうですが、どちらさまですか?』とかなんとか言ってた気がするなあ〉
 こともなげに電話口の相手は語った。
 杉浦はセンターに着いたあと、すぐにエントランス近くの喫煙スペースに行き、まずは一服を楽しんでいたという。煙を吐き出した拍子にふと人影が目の前を通り過ぎた気配があった。トレーニングウエアと長い髪が揺れたような残像が目に届き、あっと思って後ろ姿を追ったらしい。
「で、その人が、その150㌔男だったということでしょうか」
〈いや、すでに帰るところだったらしくて、俺はピッチングは見てないんですよ〉
 杉浦は少し口ごもった。
〈声をかけたあと、新聞記者と名乗って、センターで剛球を投げる背の高い若者がいるといううわさを聞いた、それはあなたか、と尋ねたんです。少し笑みを浮かべて戸惑ったような表情をしてましたけど否定しませんでしたから本人に間違いないでしょう。背格好も風貌もぴったしなんで〉
 確信した口ぶりだった。
〈帰宅を急いでる感じだったけど、ちょっと話が聞きたいとか言って名刺を出して粘ったら、名前や連絡先を教えてもらえました。あとで正式に取材を申し込むことにしますわ。それにしても、でかいやつだったな〉
 一七三㌢の自分が背のびしても頭一つ届かないほど長身だった、と杉浦はこぼした。
 記者は投球を見ていなかったが、うわさを裏付ける具体的な目撃談である。楽観は禁物だが、うれしさが先に来た。
「あのそれで、私どものことは」
〈ああ、忘れかけた。監督さんの件は伝えましたよ〉
「ありがとうございます。杉浦さん、なんとお礼を申し上げていいか……」
 期待で詰まった謝辞を言い始めた野木の機先を制するような声が耳に刺さった。
〈それで悪い話を一つ。野球部に入るつもりはないようですよ。野球はもういい、燃焼しました、とかなんとか言ってましたから〉
 野球部に入らない? それではまったくこの話の意味がない。
「えっ、それは大学でやる気がないということですか」
〈さあー、真意はわかんないですけどね。素直に推し図ると、高校で目いっぱいやったので大学ではもういいや、ということなんですかね。俺が大学の体育会野球部の話題を出してもとくに目を輝かせるという感じではなかったなあ。言うとおりの完全燃焼ってやつなのかなあ〉
 気の毒さをにじませた口調で杉浦は言った。
 ここまで聞いて、ああそうですかと返事をするわけにはいかない。電話の向こうの相手のそのまた先には、のどから手が出るほどほしい本格派がいるのだ。
 野木は会うことさえできれば口説き落とす自信があった。
 完全燃焼――。中身があるようで、実はない日本的表現と思う。誰が言い出したのか知らないが、スポーツ選手が引退する際にはこのフレーズが多用される。完全燃焼どころか、むしろ完全に燃焼していないことの証しであり、裏返しではないのか。もっと現役を続けたいが衰えを隠せず、ライバルに遅れをとるなどして一線での活躍が厳しくなった。それを素直に認めたくないがための美辞。野木はそう考えている。まだ見たわけではないが、150㌔を超す速球を現に投げている男が高校野球だけでハイ卒業、でもあるまい。
 こうなったらなんとしても本人に接触し、説得あるまで。
「あの、絶対に入部拒否という言い方というか、そぶりだったでしょうか」
〈うーん……、それはどうかなあ、なんとも……。監督さんの説明通りに、東大の野球部関係者が部員のスカウト作戦の真っ最中だよ、留学生やサークルの学生にまで手を伸ばしてるみたいだぜと言ったら、えっという顔つきになって、俺の顔をまじまじと見てはいましたけどね。驚いたという顔ではあったな。胸の内というか本音はわかりませんが〉
 生々しい話にテンションがまた上がる。
 ――少なくとも興味を持ってくれた。
 現時点で「蜘蛛の糸」に思える。
「では、杉浦さんから連絡先をまた聞きしてアクセスすることはいいんでしょうか」
 蜘蛛の糸にすがった。
〈ああ、東大関係者になら連絡先を伝えてもらってもかまわないそうですよ。まあ、部外者の俺に教えてくれたわけだから、身内みたいな監督さんたちにノーはないでしょうよ〉
 せいぜい健闘を祈りますよ、と軽やかに言って杉浦は話を切り上げた。



「東大生」は当たりだった。この状況を聞かされれば、下町の進撃の巨人は本学学生でまず間違いない。150㌔もまさか100㌔というようなことはないだろう。杉浦言うところのガセネタの尾ひれがつき、実際は135から140㌔程度の投手ということはあるかもしれない。それでも東大では十分速い。長身という素材を考えると鍛え方しだいで球速はもっと上がる。野木が好きな「伸びしろ」というやつだ。なんにせよ計算の立つピッチングスタッフは多ければ多いほどいいに決まってる。
 ジグソーの初期のピースは埋まった、の思いがした。ほしくてたまらなかったおもちゃをプレゼントされた子どものような気分になる。冷蔵庫にあったブラックの缶コーヒーを一口すすり、少し気を静めた後、白井にメールした。真夜中だがすぐ返信が来た。「わ! 速攻です、速攻! あすアサイチで!」の文字が踊っている。面識のない相手に早朝の連絡は失礼だが、外出してしまったり、予定を組んでしまわれたりしたら時間を浪費してしまう。取り逃がす前にアタックした方が賢明だ。
 翌日の午前七時。野木はスマホをつかみ、震えそうになる手で番号をタップした。呼び出し音が一回、二回、三回、四回、五回、六回、七回、八回。つながらない。寝ているのか。080で始まる番号は明らかに携帯電話だ。そばに置いていないのか。
 ――出てくれ。
 正確に数えていなかったが感覚的にもう二十回は鳴っただろう。着信画面に表示された知らない電話番号を警戒して出ないのか。住所はわからないので、このまま連絡がとれないと縁がなくなるおそれもある。緊張で手のひらがじっとりしてきた。
 もう迷惑過ぎる回数の呼び出し音を鳴らしてしまった。いま相手が出たらどう謝るか。そう思った瞬間、ピポッというような音がしてつながった。
〈はい……〉
「あ、あの、棚橋さんの携帯電話でよろしいでしょうか、わたし、東京大学の野球部の監督をしています野木と申します」
 杉浦から聞いた名字を口に出す。年下の相手には「くん」付けで呼び慣れているが、男はまだ野球部員でもなんでもない。ここは「さん」付けだろう。
〈……そうです〉
「朝早くからの突然のお電話、まことに申し訳ありません。あの、先日バッティングセンターで記者の人に会ってお聞きになったかと思いますが、私ども東大野球部はいま選手を強力に募集しておりまして、あなたが、その、たいそう速い球を投げると人づてに聞いたものですから、ぜひとも私どもの仲間に入ってもらえないかと考えまして、こんな早朝にたいへんぶしつけな電話をさせてもらいましたしだいです」
 しつこい呼び出し音をわびるのを忘れていることに途中で気づいたがもう遅い。
 電話の相手は黙り込んだ。
 なにを考えているのか想像もつかない。ただ、連絡は予感していたのかもしれない。見知らぬ相手からの朝っぱらの電話を怒り出すようなことはなかった。
〈……ああ、スカウトという話は記者の方からうかがいました。でも、野球部に入るのはちょっと……〉
 男はつれなかった。声に抑揚が感じられない。ほんとうに燃焼し尽くして野球への情熱を失っているのだろうか。顔が見えないだけに、なんとも判断できなかった。
「棚橋さん、どうだろう、会うだけでも一度会ってもらえないだろうか。遊技場が現場とはいえ、そんな速い球を投げられる学生が本学にいたことに私は心底驚いてるんだ。いや、驚いたというより、どきどき興奮してしまったよ」
 いつもの監督口調に戻ってしまったが、もうかまってられない。
「探し続けていた宝物をついに見つけた気分なんだよ。こうしてあなたと話していること自体、夢ならさめないでくれって思うくらいだ」
 野木はすぐたたみかけた。
「あなたが野球部に力を貸してくれたら東大の優勝も夢じゃない」
「優勝」はとっさに出た。
 歯が浮くような場当たり的発言とは思わない。野球部長のせりふじゃないが、置かれている状況は帝国大学からの伝統が消滅しかねない「いまそこにある危機」なのだ。崖っぷちのチームを頂点に立たせるために自分はここにいる。
「私は東大を優勝させたいんだ。そのつもりでいまあちこち動き回っている。どうか私の話を聞いてもらいたい。一時間なんて言わない。五分、十分、十五分とかでもいい。会ってもらえないだろうか」
 相手はまた沈黙した。電話で話す内容と思えない強引な口説き文句に気を悪くしたか。
 ここは追いぜりふがいる。
「教えてほしい。記者さんから、高校で完全燃焼したみたいなことを話してた、と言われたんだ。ということは達成感があって、もはややり残したこともない、そういうことなんだろうか」
 それだったら、いまの150㌔は素晴らしすぎる、その素質は燃焼され尽くしていない、ガソリンはタンクにまだたっぷり残っている、だから、もっと上をめざしてやってみないか、と続ける算段だった。
 だが、返ってきた言葉は想像とは違った。
「それは、ちょこっと口にしてみただけの言葉のあやみたいなものです。適当な文句が浮かばなかったので……」
「えっ、だったら」
 言いかけて口をつぐむ。野球を断念しているのが、ごくごくプライベートな理由だとしたら、それ以上問いただすのはさすがに気がひける。会ったこともなく、いま初めて、しかも電話で話しているだけの関係の相手だ。聞かれる当人にとっても迷惑千万なことだろう。
 ――しかし。
 電話に出た時の無気力さを感じさせた口調と、言葉のあやだと説明した先ほどの言い回しとでは声のトーンが違った気がした。あやの方がしっかりとした発言に聞こえた。誰かに後ろ髪を引っ張ってもらいたがっているような、そんな気さえする。
「棚橋さん、とにかく私と面会してもらえないだろうか。なぜ私がこのようなプロ野球のスカウトみたいな真似をしているか、具体的にご説明したい」
 まさにそうなのだ。チームを優勝させるため戦力になる選手を探す。いま自分がやっていることはプロの球団スカウトの仕事のそれにほかならない。
 野木には誠意を伝えるための適当な言葉がもう思いつかなかった。
 またまた黙ってしまった相手の返事を待つ。沈黙にまとわりつく時間という間がとてつもなく長い。ふと受験生時代に大学の合格発表を見る心境を思い出した。東大合格か、だめで他大学か。人生の岐路になる時だ。遠い、遠い、はるか昔の記憶なのにこの瞬間だけ鮮やかによみがえった。
 ――いい返事をくれ。
 男の声が受話口から聞こえてきた。
〈少し考えます。その気持ちになったら僕の方から電話します〉
「そうか、わかった。よし、私は両手を広げて待つ。私の携帯番号は記者さんからお聞きになっていましたよね。それと、こちらからお願いしておいてこんなこと言うのは申し訳ないけど、選手登録締め切りまでもう1週間もない。早く連絡をもらえればたいへんうれしい」
〈……登録のことはわかりました〉
 その男、棚橋諒介は抑揚のない声に戻り、電話が切れた。

 翌朝午前7時。野木は早々と合宿所の監督室に入り、連絡を待った。あの電話が切れる直前にメールアドレスを伝えようかとも考えたが、〈電話します〉の一言であきらめた。したがって、やれることは待つことだけだ。「なるほどです、それが礼儀でしょうね」。白井も同意見だった。
 電話はなかった。雑音で聞き逃すまいとマナーモードにしてあるが、この日も翌日も振動しなかった。選手登録締め切り日まではもういくらもない。
 ――やはり脈なしか。
 しびれを切らしてこちらから再度電話するのは逆効果だろう。経験上、わかる。白井が言うように待つしかない。それだけは確かだ。
 東大生が150㌔超――。軟投型の投手しか間近で見ていない野木には、どこをどう考えてもとてつもない宝物の発見に思える。このまま連絡がこなかった場合のことも頭に浮かぶが、約束をすっぽかされたわけではない。運命と得心するしかなかろう。
 期待といらいらが入り混じった複雑な感情が体の中を這い回る。この日も朝から合宿所に入った野木は昼食をとる気も起きず、いつものようにブラックコーヒーをおかわりし続けた。カフェインが体中に染み渡ることでなんとか平常心は保っている。その代わり、胃と喉のざらざら感が消えない。この数日で何㌔も体重が減った気がした。

 ノックの音がした。ドアを開けた先に女子サブマネジャーの繭村恭佳が神妙な顔をして立っていた。
「三年サブマネの繭村です。きのう、監督が外出されてた時に深草先生がいらして、きょうの午後、もう一度来られるそうです。とくに時間と用件はおっしゃいませんでした」
 サブマネは教養学部社会学科教授の深草道夫の来訪を伝えた。野木の反応をなんとなく気遣う表情を浮かべている。
「深草先生が? ありがとう、ごくろうさま」
「失礼します」
 繭村は心配そうな顔で野木を見つめたあと、お辞儀をして引き下がった。
 野球部OBの深草は広報担当を兼ねる副部長を務めている。教養学部を卒業して大学院を修了。若くして教授に昇進し、母校で講座を持っている。選手時代の実績はなかったが、大学に残ったことで部の利益代表のような形となり、相応の発言力がある。著作の「バカに徹してこそ人生はおもしろい」というよくわからないタイトルの本が売れたせいで、最近は民放テレビのコメンテーターにレギュラーで登場するなど、タレント教授の仲間入りをしている。
 ――深草がなんの用だ?
 スカウト活動が耳に入ったか。いやな予感はするが来るなとは言えない。いまさらあれこれ難癖をつけられると困るが、ものは考えようだ。この際、深草の政治力を利用する形で助力を頼んでしまうのも手ではあろう。野木は楽観することにした。

「なんだかおかしなことをおやりになっているようですね」
 入室してきた深草は開口一番、切り出した。言葉にとげがある。
「は? なんのことでしょうか」
 深草の銀縁眼鏡の奥にある目が光った。
「ウェブを使って選手を募集していることですよ。白井マネジャーに事実を確認したら認めました」
「ええ、いまわが部はたいへんな危機にありますから、勝つチームをつくるためにはいい選手を見つけることが最重要です。今シーズンはなにをおいても勝たねばなりません」
「こんなやり方、どなたの許可をもらったんです?」
「添田部長からは強化方針を一任されています」
「ネット上で噂になったらどうするんです。あの東大がなりふりかまわず選手を集め始めた、ついにネット掲示板に募集広告、なんて週刊誌なんかに面白半分に書かれたりしたら目も当てられない。広報の私の仕事も負の意味で忙しくなる。部長だって、まさかこんなみっともない方法を監督がとるとは、お考えになってなかったんじゃないですか」
「いえ、掲示板みたいな無責任なツールは使っていません。あくまで私とマネジャーの人脈に基づいて足で稼ぐスカウト活動です。ネットというかSNSはその情報収集手段の一つに過ぎません。情報を得たうえで、これはという人間に迫るというか、人材を捜し当てるという地道な方策をとっています」
 なりふりかまわず対策を立てることが、いま最優先でやるべきことではないのか。言い返したい気持ちをこらえ、野木は少し話をそらせることにした。
 深草のようなうるさ型の人物は、とかく自分がないがしろにされたと考え、ひがみ半分に立腹していることが多い。最初から頼る姿勢を見せるというか、それなりの役割を与えてやれば、態度というか風向きがころっと変わることがあるものだ。
「実を言いますと、今回のケースでは広報を担う深草先生に真っ先にご相談しようと思ったのですが、なにしろテレビ出演でお忙しいうえに、人気教授ということで授業のコマ数も多くお持ちなので、ご負担をかけるのもなんだかな、と考えたものですから。ですからスカウトの道筋が見えた後でご報告すればそれでいいかなと判断しておりました。それゆえに事後報告的になってしまい、その点申し訳ございません。マネジャーの白井も深草先生にテレビで訴えてもらったらどうですかね、深夜放送だけど視聴率が高い番組だから効果抜群ですよ、と当初から言っていたんですが」
 歯の浮くようなうそ八百の世辞だが、うそも方便というやつだろう。
 テレビ出演、人気教授――。深草の神経質な顔が一瞬緩んだ。
「ま、最初から相談していただければ私も少しはアドバイスできたかもしれませんが」
 流行の黒い細身のスーツに身を包んだ銀髪のヤサ男がふと目をそらせた。
「申し訳ございませんでした。すこしばかり余計な気を使いすぎました」
 細く差し込んだ一筋の光明が輝きを増した。野木はすかさず切り込んだ。
「深草先生、一人、気になる学生の存在をつかみまして」
「気になる? ほう、どんな?」
「とてつもない速い球を投げる男です。本人は本学学生とはっきり言っています。野球経験者であることは間違いないと思います」
 男が身体能力に優れていそうなプロ並みの身長の持ち主であり、150㌔を超す速球を投げるという評判を聞かされたことなどを手短かに伝えた。荒唐無稽感のあるバッティングセンターうんぬんの話は伏せておいた。
「その人物は本学野球部に入ることを希望したり入部に同意したりしてるんですか」
「いや、まだ、本人に直に接触できていない段階でして、そこらへんはなんとも。しかし、説得する自信はあります」
 言葉に力を込めた。深草が入部に向けてOB会にも働きかけてくれるなら、こんな心強いことはない。
「まだ会ってもいない? ということは、なんのたれ兵衛かもわからない、ということなんですか」
「現段階ではそういうことになります」
 銀縁眼鏡の奥の眼光が野木を射すくめた。
「説得の必要はないでしょう」
「は?」
「説得などする必要性はないということです。野木監督、もう間もなくリーグ戦開幕です。そんな悠長なことをやっている時間はないでしょう。スカウト活動は即刻切り上げて開幕試合の準備に専念なさい。猛練習こそがうちに必要なことじゃないんですか。初戦は慶応だ。前季に対戦した時は、二年生の、えーと、名前は忘れましたが、あの背の高い左ピッチャーにあわやノーヒットノーランを食らうところだった。あの投手に対する攻略法を考える方がこんなことやってるよりよほど建設的だとは思いませんか。違いますか」
「しかし……、勝つためのワンピースをいま見つけた気がします。今季はどうあっても勝たねばなりません。この学生の身元を調査したうえで、選手として使えるとなれば獲得したく考えております」
 深草は眼鏡をはずし、ハンカチでレンズを拭き始めた。
「野木監督、監督の使命はなんだと思います?」
「はい?」
「与えられた戦力で戦うことですよ」
「それは……、自分もしっかり承知しております」
「今季は十四人の新人が入ってきます。県大会で私学相手に大健闘した県立高校の選手も含まれています。彼らでは不満だと言うんですか」
 輝いたと思った光明は見間違いだった。
 与えられた戦力で戦う。正論である。プロアマを問わず、監督の仕事の中身を見事なまでに言い表している。ここで正論を持ち出されれば黙るしかない。
「どうしました? わかりましたか。現有戦力で試合をするんです。指揮官として精いっぱいやってください。期待はしてますから。いいですね」
 深草は眼鏡をかけ直すと椅子から立ち上がった。

 午前八時。野木は監督室の自席に座るとマグカップを手に取った。コーヒー豆の減るのが早い。この一週間で何度買い足したろうか。机上には白井の伝言メモがあった
〈連日お疲れさまです。いま現在、自分もかんばしい新情報はとれていません。学内の高校時代の野球経験者はあらかた総ざらえできましたが戦力になれそうなやつには行き当たっていません。こうなってしまうと、あの下町の剛球野郎ががぜん気になります。でも、最後の最後までがんばりましょう〉
 最後までがんばりましょう――。選挙運動の終盤で候補者の陣営が振り絞るような決まり文句にふっと気持ちがなごむ。メモ書きをしまうと、野木は温まった息をふうと吐きだした。カップはもうほとんど空っぽになっている。
 深草から駄目出しはくらったが、棚橋に会ってみたいという気持ちは変わらなかった。あの電話でのやりとり。最後の声音の変化がなんとも頭にひっかかる。ほんとうは野球がしたいのではないか。手前勝手な想像だがそう考えてしまう。
 いや、最終的に入部を断られたっていい。ちまたの遊技場で150㌔の速球を投げる東大生とはいったい何者なのか。その正体を知りたい。そんな思いが強くなっていた。
 ――最後の最後までやってみるさ。そう最後まで。
 壁のカレンダーに目をやる。登録リミットまでの日数が目前に迫っていた。



 卓上の電話がぷるるんと音をたてた。番号表示は白井を示している。彼は午前中から合宿所近くの東大球場に出向いている。
〈あっ、監督ですか。すぐこっちに来られますか〉
 張り詰めた声だ。
「ん? どうした、なんかあったか。それより例の150㌔男からさっぱり連絡がない。やっぱ、だめかもな」
〈監督、すみません。いますぐ球場に来てください〉
 野木のぼやきに反応することなく電話は切れた。
 東大構内の小道を球場に向かって急ぐ。合宿所と球場は徒歩で十分ちょっと。絶妙の持ち時間である。練習前と練習後。戦略を考えるに長すぎず短すぎず。思索のためのほどよいインターバルとなっている。その思考を楽しむ余裕を与えない白井の電話が気になった。よもやなにか別件で、やっかいごとでも発生したわけではあるまいな。自然と足は速まった。
 カッツーン、カッツーン。球場をぐるりと囲むフェンス近くまで来たとたん、小気味よい打球音が耳に入った。小走りに通用口を抜けグラウンドに出る。三塁側ダグアウト前にたたずんだ白井が野木にさっと会釈した。
「呼び出してすみません。あの、あいつを見てください」
「えっ」
 ホームベースの方角を指さした白井の視線の先に男がいた。
 ジーンズらしい青いズボンに赤のチェック柄のシャツ。いかにも学生といったいでたちの男がマウンド付近に置いた打撃マシン相手にバットを振っていた。長い髪がスイングのたびに大きく揺れる。
「あの長い髪、おい、もしかして例の男か?」
「フーエルス?(他に誰がいるって言うんですか)」。白井が英語で返した。
「しかし、ここは野球部のグラウンドだぞ。勝手に入ったってのか? 誰だバットを置き忘れたやつは!」
 野木は周囲を見回したあと、改めて男に視線を投げた。マシンからは間断なく球が放たれる。直球は135㌔に設定してある。それほどの球速ではないがバットが回るたびにヒット性の打球が飛ぶ。百十㍍先の外野フェンスに直接当たる大飛球や両翼のライン際へのライナーもあった。部内にはフェンス際まで飛ばせる選手は伊ケ崎や田中らほんの数えるほどしかいない。男は三塁側ベンチに背を向けた右打席に入っていた。ために野木たちにまだ気づいていないようだ。
「プロ並みの飛距離ですね。バットコントロールもいい。さっき、ちょっと数えてみたら十スイングで二本が柵越え、三本が長打級、空振りなし、でした」
 白井が感心したように言う。
「おう、そんな、か……」
 硬式野球では、バットの太い部分にある「スイートスポット」と呼ばれるごく狭いポイントで球をとらえないときちんと前に飛ばない。芯をはずせば凡打やファウルになったり、バットを折ってしまったりする。それでもって、たった一八・四四㍍隔てたマウンドから小さなボールが球速145㌔やらのスピードで飛んでくるわけだから、正確に芯を食って安打にするのはたやすくはない。打球に推進力を与えるパワーも必要になる長打はなおさらそうだ。プロ野球の開幕直後には各球団の強打者たちは軒並み五割や六割とかの高打率をマークするが、打数が一定以上に達したシーズン終盤にはみんな三割二分程度に収まり、その水準で首位打者争いとなる。野球とは一種まか不思議な競技である。
 こと打撃に関するそんな奥深さは野木にもわかるだけに、素人と思えない打棒を目の当たりにしていささか気押された。
 それにしても、大学野球部の球場に無断で入り込み、備品の打撃マシンまで扱うとは。いくら学内の人間であってもいささか乱暴にすぎる。教育上も見過ごせない。
 おーい、と声をかけようとした時だった。ピーッというホイッスルの鋭い音が聞こえ、ブルーの制服を着た大学の警備員三人がグラウンドになだれ込んで来た。
「白井、行こう」。野木と白井も駆け出した。
「もし、もーし、あなた、ここは大学の敷地内ですよ。野球部専用の施設なんですよ。関係者以外は立ち入り禁止なのわかるでしょ。勝手に入られては困ります。あなた、身分証とかあれば見せてくれますか」
 相撲部出身かと思うほど横幅のある若い警備員が男に走り寄って声をかけた。息も少し上がっている。初老の警備員たちも追いつき、脇を固めた。囲まれた形の男は驚いた様子もなく黙ってポケットをもぞもぞまさぐり始めた。
 野木が「野球部の監督です」と小声でそばの警備員に伝えると小さく敬礼が返ってきた。白井がマシンのスイッチを切って戻った。
「ああ、どうも無断で入ってすみません。球場を見たくて来たら鍵がかかってなくてマシンの電源も入ってたので、つい打ちたくなってしまって。ベンチにバットも置いてあったので」
 男はクレジットカードのようなものを渡しながら頭を下げた。いまどきの学生証は野木の時代と違いプラスチック製らしい。初老の警備員がカードに見入っている。
「なあんだ、うちの学生さんだったか。やれやれ。最初は不審者かと思って緊張しましたよ。あんまり脅かさないでくださいよ」
 白髪が目立つ警備員はほっとした表情を浮かべた。
「ほんとうは警備室に来てもらってお灸を据えるところですが、ここに野球部の方もいるみたいだし、うちの学生さんで間違いないようなのでまあよしとしましょう。近ごろは不審者に対する目を厳しくしなくちゃいけないご時世ですからね。なので、あんまりむちゃな行動はしないようよろしくお願いしますよ」
 警備員たちは一礼して苦笑いのまま立ち去った。
 男と野木と白井がダグアウト前に残された。野木が一歩進み出る。
「もしかしてタナハシさん?」 
 若い男はこくんと頭を垂れた。
「電話を待っていた監督の野木です。ともかく会えてよかった。ま、こんな場所でこんな風に会うとは思いもしなかったが」
 ふっとため息を吐き出し、野球帽をとって頭を下げる。白井を紹介すると若者は控えめな笑みを浮かべ、野木が差し出した右手を黙って握り返してきた。
 想像していた暗い人物像とは違った。
 専用グラウンド侵入という無体な振る舞いをしたわりには泰然としている。なにごともなかったかのように穏やかな表情をこしらえ、むしろ屈託がない。
 杉浦記者が言った通り背が高い。一七八㌢の野木でもかなり目線を上げなければならなかった。一九〇㌢を超えているかもしれない。見た目も筋肉質で、いかにも高校を卒業したばかりの運動部選手という風体だった。ただ、威圧感のある体つきに比べて顔立ちは女性的である。肩付近まで伸びた茶髪の長い髪とあいまって、ぱっと見は芸能人のようだ。「進撃の巨人」「ロックシンガー」。杉浦記者のジョークを思い出した。
「すぐに電話しなくて申し訳ないです。棚橋諒介です。野球部のグラウンドを見てからお会いするかどうか決めようと思って先にここに来てしまいました。勝手に入ってすみませんでした」
 棚橋は恐縮した顔をつくった。
 無断侵入などそんなことはどうでもよかった。すぐ本題に入る。
「いやいや、会えてうれしいよ。うちの学生で間違いないんだね。いやあ、よかった。電話でちょっと話をさせてもらったように、いま、うちは投手を懸命になって探している。それも並みの投手じゃない。ばったばったと相手打線をねじ伏せられるパワーピッチャーをだ。そんなところに新聞記事で150㌔うんぬんかんぬんを知ったというしだいでね。だからどうしても会ってみたかったんだ。150も出るということは野球経験者なんだろ。そういうことならぜひ野球部に入ってほしい。いまなら入部手続きが間に合う。いっしょに早稲田や慶応をやっつけようじゃないか」
「そのことなんですが、ここに来る途中でやっぱり無理だろうと考えていました。現役の東大監督から自分のことを気にかけていただいたことはうれしいんですが」
「無理? おいおい、なに言ってるんだ。いま現に150投げるやつが無理もへったくれもないだろ。それほどの潜在能力なら実力を発揮するのはこれからだ。練習で球速はもっと伸びる。センターの目撃者によると157㌔も投げたそうじゃないか。それなら160の可能性だってゼロじゃない。大げさじゃなくて。この際、私に身柄を預けてくれないか。それとも、なにか困ったことでも抱えてるのかい。それなら解決できるよう力になる」
「いや、だめなんです。できないと思います」
「ばかな。さっきからなに言ってるんだ。早く走るのと速い球を投げられるのは持って生まれた才能であり、素質なんだよ。実は監督になる前に私は他の大学で運動生理学の准教授をしていたんだ。その私が言うんだから信じてもらっていい」
 野木は名刺入れに残っていた前職の名刺を取り出して見せた。
「いいかい、選手というかアスリートはあとあとのトレーニングの積み重ねで俊足になったり球速をアップしたりすることは、まあ可能だ。野球に限らずね。高校時代に百㍍十一秒ちょぼちょぼの陸上選手が大学で十秒八とか九に成長するとかだな。でも九秒台とか劇的な進化はふつう無理だ。野球のピッチャーだって、マックス125㌔のやつが猛練習で135くらいまではいくのは可能だろう。でもそんなピッチャーが練習して150とか155まで投げられるようになるかというとそりゃやっぱり無理だろう。つまり、最初から飛び抜けて速い球を投げるというのは素質を持ってる証拠なんだよ。それとも肩とかに故障歴でもあるのかい? さっきのバッティングの感じじゃそんな風に見えなかったけど」
 説得力のある解説のはずだ。
 実際に、プロ野球のスカウト連中は、将来性を見込んで獲得する高校生選手の場合、まず上背が一八〇㌢以上あって、そのうえで野手は足が速いかどうか、投手は球が速いかどうかを真っ先に調査する。この三つの要素はプロの合理的な鍛錬を経ても「後付け」が難しい。だからこそ、生まれながらの「素質」にこだわるのだ。
 ここで逃がすわけにはいかない。野木は相手が承諾さえすれば、いまこの場で実技テストに持ち込む腹を決めた。合宿所に戻れば練習用ユニホームがある。目の前で投げてもらえば否も応もなく実力を体感できる。棚橋が本物でありさえすれば、うるさ型の深草や、もっと口の辛いOB会幹部たちに追加入部を認めさせられるというものだ。
 ここは正念場という気がしてきた。このまますんなり棚橋を帰す手はない。
「どうだろう、棚橋さん。棚橋君と呼びたいところだけど、まだ部外者だから、さん付けにするよ。ユニホームとスパイクを貸すからピッチングを見せてもらえないだろうか。どうかな」
 野木は再度帽子をとった。白井が固唾をのんでいるのがわかる。
「いや、入らないのにそれはちょっと……」
「まさかおじけづいたわけじゃないんだろ。バッティングはさっき、見させてもらった。打力はそれなりにわかったよ。打撃センスもなかなかとみた。バッティングを見せておいて投げる方を隠す必要なんてないだろ」
 棚橋が尻込みする理由がわからない。
「電話をくれる前に、私に会う前に、グラウンドに来たということは野球がしたい気持ちになったからじゃないのか」
「…………」
「それこそ十球とか、いや五球だけでもいい。真っすぐを見せてくれないか。下町のセンターでの投球がまがいもんでないことを私は自分の目で確かめたいんだ」
「意味のないことをしても、ご迷惑をかけるだけなので……」
 野木のアドレナリンが沸騰を始めた。言い分が理解できない。
「意味ない? なんでそうなる? 150超す速球はそうそう打てん。戦力に乏しい東大にいたって神宮で二けた勝利は間違いないぞ。通算は二〇いくんじゃないか。ドラフト候補になるかもしれん。いや、きっとなる。それともなにか、150は周りの見間違いか機械の故障で、実際は120がせいぜいってやつなのか」
「いえ、真っすぐはいつでも150以上出ます」
「だったら、なんで『意味ない』なんだ! おかしいだろ、言ってることが」
「僕は四年なんです!」
 声が出なかった。
 ――四年生だと?
 新聞記者氏から情報がもたらされた時、年齢や学年のことなど、まったく考えもしなかった。当然に一年生だと思い込んでいたからだ。よくよく考えてみれば、そんな保証などどこにもないことはすぐわかる。
 ――まずいことになったぞ。
 心の中で舌打ちした。学生野球の細かい規則に通じているわけではない。最上級生での入部は規定上、許されるのか。まったくわからなかった。いや、四年生で体育会運動部に参加することなど、新設の大学で部員不足といった特殊な事情を除けば運動部の常識に照らしてまず例がないだろう。
 隣の学生服に目をやる。
「白井、そんな例を知ってるか?」
「自分は聞いたことがありません」
 固まったままのマネジャーが即答した。
 ここは落ち着かなければならない。一度、頭を冷やす必要がある。
「そうか……、まさか四年だとは思わなかった」
 野木は話の矛先を変えた。
「うーん、新入生にしては、ずいぶんと落ち着きがあるなとは思ったけど。じゃ、棚橋君、あ、もう、さん付けはやめるぞ。棚橋君、いままでなにしてたんだ?」
「クラブ活動はせず、アメリカでしばらく生活したり、日本ではトレーニングジムに通ったりして体を鍛えてました」
 改めてその体を眺める。胸板が厚い。両肩はボクサーのように盛り上がっていた。よく見ると野球というよりはラグビーかアメリカンフットボールの選手を思わせる逆三角形の体形をしている。
 ――相当なレベルで筋力トレーニングをしている。
  大学院でフィジカルフィットネスを研究した野木の理解は早かった。
「となると、だな。四年生だからもう遠慮したいということなのかな」
「ええ、仮に入部を許可されたとしても残された時間は少なすぎます。それに最上級生で新人ではなんとなく格好悪いし……」
 大男が照れた。本音ではあろう。最上級生なら既存の部員とのつきあいも浅いまま、あっという間に卒業ということにはなる。
「ということは、だ。規則上、入部に問題がなくて、そして、その、なんというか、格好が悪いというようなメンタルな部分はこちらがフォローするようにすれば、仲間になってくれると考えていいか」
「たぶん規則で入部できないと思いますが、そこまでおっしゃってくれるんなら考えます。四年でもいいんですか」
「規則上問題がなければだけど、こちらは大歓迎だ。考えてみろよ、それでもあと二シーズンやれるじゃないか。ただし、何度も言うようにピッチングを見せてほしい。そのあとで、部のお偉方に私が君を推薦する方法をとりたい。バッティングセンターのうわさ話だけでことを進めるわけにはいかないんだ。それじゃ笑われて終わりかもしれん」
 率直な思いをぶつけた。たったいま入部への言質はとれた感じはするが、なにも見ていない中で安請け合いするわけにもいかない。棚橋にも失礼だろう。
 棚橋は口を結んでいる。上から角度のある目線を浴びて気づいたが、伝わってくる目力があった。
 ややあって棚橋の口がゆっくり動いた。
「いまの六大学で僕の真っすぐをまともにバットに当てられるやつは、一人か二人くらいだと思います」
 しびれるフレーズだった。白井が目をぱちくりしている。
「よし、わかった。決まりだ。いっしょにハードルを跳び越えよう」
 考えろ。脳内で目まぐるしく動く血流が次にやるべきことを野木に指示していた。
 規則上、入部は可能だと仮定しよう。棚橋は新四年生だ。あと二シーズン残されている。進撃の巨人の実力が本物なら、二度も優勝機会があるととらえるべきだ。なにせ本人がプロでも多くはない「150㌔超のストレート」を公言しているのだ。目の前でやってみろと言われている手前、自信がなければ大風呂敷は広げられまい。
「ようし、私が連盟に問い合わせてこの問題をクリアする。ちょっと待った、タイムだ」
 スマホを取り出し、六大学連盟事務局にかける。
 電話一本で要件は済む。気やすい期待はすぐ打ち砕かれた。あろうことか、つながった声は留守電だった。すでに午後四時を過ぎ、事務員が引きあげてしまったらしい。そうだった、事務局は一般企業のような九時五時の勤務シフトではなかった。失念していた。
「棚橋君、悪いけどうちの合宿所に寄って、そこで待っててくれないか。君と会っているこの時間帯になんとか最初のハードルをクリアしたいんだ」
 夕方遅く、文京区内で家庭教師のアルバイトがあると棚橋が言った。腕時計を見る。あとちょうど二時間半後だ。野木はこのままなにも決められずに棚橋を帰せば、もう会えなくなるようないやな予感がした。
「白井、彼をお連れして、うまいコーヒーをいれてやってくれ。冷蔵庫に文明堂のカステラがあったはずだ。私はこれから連盟の職員の携帯に片っ端から電話する。なあに十五分で片づくさ」

 仲のいい順番に住所録からタップする。
〈ただいま留守にしております――〉〈ツーツーツー――〉
事務局職員は二人が留守電、一人は話し中だった。週末の夕刻だ。家族と出かけていても不思議はない。留守電に用件を吹き込んだ後、話し中の番号に三回かけたが無機質な話中音が響くだけだった。
 ――早く電話を切ってくれ。
 腕時計を見ながら舌打ちを繰り返す。あっという間に十五分が過ぎた。ころ合いをみて話中電話にかけ直すと、なんとすでに留守電に切り替わってしまっていた。棚橋青年は待ってくれてはいるだろうが、「じゃ、これで」と腰を上げられればそれまでだ。留め置く権限はない。
 ――コーヒーはここにはないしな。いらいらのあまり、ダグアウト内を見回すがそれがあるはずもなかった。当初の約束の時間を四十分も過ぎたころ、ベンチに置いたスマホが振動で踊り出した。ひっつかんで耳に押しつける。
〈岡元です。監督の野木さん? ども、ごぶさたです。ごめんなさい、ちょっと出かけてまして〉
 地獄でさまよっていたところに出会った仏様を思わせる穏やかな声音だった。
 岡元は事務局で最も若い。監督就任直前に知人の紹介で一緒に飲みに行った。連盟の事務職員としては珍しく大学運動部経験者ではなく、学生時代は簿記会計学研究会とかいう堅いサークルにいた。経理などの実務要員で採用されたのだろう。運動部出身者にありがちな、あくの強さなどみじんもなく、人のよさが際立つ好青年である。
「オカちゃん、よかったー。勤務時間外にすまん。ちょっと教えてくれないか。六大学の野球部員って、四年生でも選手登録できるんだろうか」
〈はあ? そりゃまた、どういうことです、出し抜けに〉
 息せき切ったこちらの気配を感じたのか、けげんそうな声を出したあと、一拍おいてはっきり言った。
〈もちろん、できますよ〉
「えっ、それ、ほんと? ほんとに大丈夫なんだね」
〈そう、だから当然にできますよ。学生という身分があれば。べつに何年生であろうと登録は可能です〉
 岡元の説明によれば、登録後四年間は選手の身分を維持することができるという。四年生になった時の入部なら残り一年間が有効期間というわけらしい。
〈うちの東六や首都圏のリーグなんかじゃ、まずそんな例ないけど、地方のリーグなんかじゃ、地元の国立大の学生が三年や四年で選手登録することがあるって聞きますよ。選手層が薄いと、それでも歓迎されるんでしょう。サークルのようなノリかもしれないですね〉
 岡元はけらけら笑った。質問の意図を詮索する感じはなく、聞かれたから答えるというスタンスに人柄が伝わってくる。
〈いよいよ野木さんの監督初陣ですよね。まずはとにかく一つ勝ってくださいよ。一つ勝てば絶対次につながります。二勝三勝、勝ち点ということだってあります。東大ががんばるとリーグ戦は一挙に盛り上がりますからね。東大が強いシーズンはとにかくおもしろいですから。健闘祈ってます。また飲みに行きましょう〉
 地方リーグならいざ知らず、わが六大学では前例がないとされる四年生での登録というウルトラC。岡元の誠意に満ちた応答に、なんとなくばつの悪さも覚えながら野木はいんぎんに礼を言った。
 待ちくたびれたろうが、この時間ならバイトに間に合う。なんなら自分のポケットマネーでタクシーに乗せたっていい。野木は右手で軽くガッツポーズをつくった。



 野木は監督室で棚橋と向かい合った。これから入部用の身上書をつくる。現役監督とて一存で入部させる権限はない。OB会を含む部役員出席の部総会での承認が必要だ。身上書をもとに入部資格などが総会の場で詰められ、全会一致で了承されて入部許可が下りる。そうやって晴れて運動会(東大では体育会組織は運動会と言う)野球部の一員となるのだ。大学の体育会とはそういうものだ。そこらの学生サークルとは違う。
 本人いわく、一浪後に文科三類に合格。文学部インド哲学科在籍中。野球歴は少年野球からで都立白鷺台高校三年の西東京大会ベスト十六が最高という。球歴に見るべきものはなかったが、続けていたという筋力トレーニングの内容に野木は目をむいた。横たわってバーベルを胸の上に持ち上げるベンチプレスは最高で百十五㌔。バーベルをかつぐスクワットは百㌔。ラグビーやアメフットのような激しいコンタクトプレーを伴う競技の選手ならともかく、野球選手でこの数値はまずない。
「ほう、そりゃあまたすごい。ロニー・コールマンかナッサー・エル・ソンバティみたいだな」
 話につりこまれ、野木はプロボディビルダーの名前を口にした。
「アメリカでは大学レベルの野球選手も熱心に筋トレします。体を動かすエンジン部分が筋肉なので容量が大きいほどパワフルに長い時間動けます。計画的な体づくりこそが野球がうまくなるための前提条件であって、野球選手になるんだと決めたアメリカ人の若者の常識みたいなものでした」
「うん、それはよくわかる」
 専門家ゆえにすんなり頭に入った。身上書にも一本筋の通った履歴エピソードとして書き込めそうだ。書類審査の段階は超えられた気がする。
 とはいえ、難題があった。
 三年間、部活動をしていないという点だ。別の競技をしていたというなら説明もつくが、いわゆる「帰宅部」である。単純なフィジカルに問題はなくとも、部活の空白は部総会ではたしてどう受け止められるだろう。役員連中を納得させられるだろうか。
「筋トレ以外の日は、硬式コーナーがあるバッティングセンターのいくつかに順番に通ってました。横浜や埼玉県のセンターに行ったりもしました」「そこではだいたい一時間から長い時は三時間くらい、ピッチングとバッティングの練習に費やしてました」「ランニングは毎朝、江戸川沿いを走ってます」。棚橋は日常の自主トレーニング風景を淡々と説明した。
 話を聞く限り、入学以来、規則性を持って自分の体をいじめていたことはうかがえる。説明に不合理な点や無理はない。ただし、それでは打球の方向を確認しながらダイヤモンドを駆け回ったり、場面ごとに想定した守備体系で球を追ったり、サインも駆使した投内連携プレー等々、実戦に近いアグレッシブな練習はまったくやってこなかったということだ。投げて打つといった単純なスキルだけでなく、競技力というか、いわゆる野球センスは維持できているのか?
 ――なんで部に入らなかった? なぜまともな野球をしない?
 喉まで出かかった疑問を野木はあわてて封印した。知ってはいけない事実が見え隠れしたようなひんやりした感覚を覚えたからだ。それを聞いたが最後、面前の巨人がきびすを返して自分のもとから離れていくような気がした。
 壁の時計を見る。いつの間にかもう午後一時を回っていた。
「白井、イカが来るのは何時だったっけ?」
 後ろに控えたマネジャーが椅子をはじく勢いで立ち上がった。
「もう間もなくグラウンドに来るはずです。自分のミットを持参するよう言うと、いったいなんの用事なんだ、と盛んに首をかしげてましたけど」 
 うなずいて棚橋に向き直る。
「これからいよいよ投球を見せてもらうけど用意はいいね」
「準備できてます」
 返事のあと、棚橋がふっと表情をなごませた。
「監督、お願いがあるんですが」
「うん? なんだ」
「もし入部が許可されたらの話なんですが」
「うん、それで?」
「僕のことをゼットンと呼んでくれませんか」
「ゼットン? なんだ、そりゃ」
「ほら、ウルトラマンと闘った怪獣たちがいたじゃないですか。バルタン星人とかレッドキングとかジャミラとか。中でもゼットンが最強なんですよ。なぜだかわかります? そいつがウルトラマンに勝った唯一の怪獣だからです。高校時代、最強のエースという意味でゼットンがニックネームでした。入部できたらやはり絶対エースでいたい。ですからゼットンということで」
 ゼットン――。
 ニックネーム――。
 野木は返答に窮した。
 入部が認められれば、東京帝国大学からの悠久の歴史に彩られた東京大学運動会野球部員だ。もう気ままな一学生ではない。正装は詰め襟の学生服である。組織の一員としての責任が生じ、規律ある生活をしなければならない。いったい、この男には前途への不安というようなものはないのだろうか。先ほどから野木の頭には、棚橋に対する守備や走塁の懸念が生じている。努めてそういう感情を顔に出さないようにしたつもりだが、敏感な人間なら自分に対するある種の冷めた視線として感じ取ることはできたはずである。それなのに、真っ先に愛称を気にするとは。
「まあそれは、べつに、かまわないが……」
「あの、監督」の声に振りかえると、白井が笑いをかみ殺しながら「そろそろです」と告げた。

 日差しがまぶしい。東大球場の人工芝グラウンドに照り返す陽光がぐんと力を帯びてきた。春のリーグ戦開幕近しをいやでも実感させられる。ブルペンで伊ケ崎豪を待つ。この目で棚橋の実力を確認する瞬間が近づいている。野球部総会の前にぜひとも確認しておかなければならないことだった。
「うすっ」
 ドスの利いた低い声とともに理学部応用物理学科四年の主将が姿を見せた。刈り込んだ坊主頭に薄い眉、細い目、ほおまで覆う無精ひげは、これでなかなかの迫力である。
「なんすか、監督、朝練終わったってのに、こんな真っ昼間。俺、このあとすぐ授業っすよ」
「すまんな、キャプテン。ちょっと球を受けてもらいたい新人候補がいるんだ。それで来てもらった」
 レガースを手渡しながら野木は理由を告げた。
「わお、四年の入部希望者すか。そりゃまた奇特な方ですな。本気なんすか。で、ここの方は確か、なんでしょうな」
 伊ケ崎はマウンドにたたずむ棚橋をちら見したあと、人さし指で自分の側頭部をちょこんと突いた。
「おいおい、イカ。人聞きの悪いことを言うもんじゃない。いっしょにスキルを見ようじゃないか。お前がいつもやってる実験みたいなもんだろ」
 伊ケ崎はにやりと相好を崩し、スタジャンを脱いでTシャツ姿になった。
 棚橋のスパイクには苦労した。いま手元にないということだったので、一番でかい伊ケ崎のものを本人に無断で貸したが二十八・五㌢でもきついようだ。それならスニーカーで、とはいかない。ブルペンのマウンドの土にスパイクの爪がしっかりかからないと下半身が有効に使えず球威が出ない。へたすると滑って転倒の危険もある。靴下を脱がせて大足をなんとか収めてもらった。
「うすっ、本年度主将やっとります伊ケ崎です。よろしく」
「棚橋諒介と言います。よろしくです」
 離れた場所から二人は大声で言葉を交わすとブルペンの所定の位置についた。ふつうの投球練習であっても、投げる球の種類を知らないと捕手が危険だ。部内きっての大型捕手に負傷で公式戦欠場など許されるチーム事情ではない。キャッチャーマスクを着けて伊ケ崎の背後に立った野木は、球種を教えてから投げるよう指示した。
〈五球続けて真っすぐ〉
 あらかじめ決めたジェスチャーで棚橋が伝えてきた。グローブをゆっくりと頭の上にもっていき大きく振りかぶる。制球重視のためか近ごろはノーワインドアップの投手ばかりが目立つが、彼はあの松坂大輔投手ばりのダイナミックなワインドアップ投法だった。
 長い左足がすっと上がり、これまた長い右腕がしなって白球が放たれた――と思う間もなくパッシーンという衝撃音がすぐさま追いついてきた。直球が伊ケ崎のミットに景気のよい音を残して収まる。野木の目にまっすぐな球筋の残像が残った。
 速い。野木には初めて目にする球の速さだった。
 ――150はゆうに超えてる。
 スピードガンは野球部の備品にない。その必要がないからだ。野木は秋葉原あたりで安い外国製品を買ってこなかったことを後悔した。まがりなりにも硬球が飛び交う空間で毎日過ごしている。野球経験のない自分にも、球速くらい、見ればいかほどかはわかるという自負もあった。だが、これは……。
 二球目、三球目。四球目、五球目。糸を引くような直球が捕手と自分に向かって飛んできた。マスクをしているが、猛々しい球威に思わず腰が引けた。球がベース付近でホップするようにも見える。
 投手の投げる球を科学的に精密に検証すると、ボールが捕手に届く直前にごくわずかに軌道が下がっている。地球の引力で地表方向に引っ張られるからだ。しかし、球速と球威のある球であればあるほど引力に抵抗しておじぎ幅が小さくなる。しかるに、おじぎしてしまう平凡な直球を見慣れた目には浮き上がってホップしたかのように見えるわけだ。
 ものが違う……。眼下の伊ケ崎はぐっと腰を落とす基本姿勢を堅持している。
〈次はスライダー〉〈チェンジアップいきます〉。立て続けにジェスチャーが来た。
 三〇球も投げたろうか。
「よおし、いいんじゃないか。お疲れさん」
 野木が手を上げた。伊ケ崎が座ったまま振り向き、乱暴にマスクをとった。息が荒い。どう見ました? 黙ったままの日焼け顔が野木にそう聞いている。
「速かったな……」
「冗談じゃないっすよ」
 あやうくけがさせられるところだった。主将の反応にはそんなニュアンスがこもっていた。
「あんな重くて速い真っすぐ、人生で初めて受けました。しびれて手の感覚がない。くっそ、手袋すんだった、まだびりびりしてやがる」
 伊ケ崎は右手の指で盛んに左の手のひらを揉みしだいた。
「高校に入ったころ、東京ドームで見たダルビッシュのような球のキレっすよ。なんでうちの学校にこんなのいるんすか。化け物だ。あ、そういう言い方は人聞きが悪いっすね。だったら怪物か怪獣だ」
 マウンドで背伸びしている棚橋に目をやったあと、野木も応じた。
「そうらしいな。本人も自分でそう言ってる」

10
 
 野球部合宿所敷地内のヤマブキの淡い色が目にも鮮やかだった。季節はすっかり春の装いとなっている。監督室で野木は椅子の背もたれに身体を預けた。
 昨秋のリーグ戦。十戦全敗。引き分けもない。いわゆる「逆パーフェクトV」というやつだ。スクラップしたスポーツ新聞の記事の順位表には、たどんのような十個の丸い黒い星が並んでいる。ため息しか出ないこんな負けっぷりからすれば、入れ替え戦の話題がくすぶり続けるのも無理からぬところではある。
 野木に硬式野球の経験はない。少年時代に軟式の草野球をやった程度だ。教育学部で人間生理科学を学び、大学院で運動生理学を専攻した。東京郊外の公立大学の准教授をしていた時、選手のトレーニング方法で助言したことをきっかけに、東大野球部関係者から母校の野球部監督に招請された。三十代前半という年齢は部史上二番目に若い。
〈他校の選手と技術力で決定的な差があるとは思わない。だが、うちの選手は九イニングもたない。みんな試合途中でばててしまい、満足なパフォーマンスを発揮できていないんだ。専門家のあなたにお願いしたいことは一つ。最終回も全力で野球をやれる選手をつくってほしい〉
 添田野球部長はチームづくりの狙いを野木に告げた。理系人間らしく生真面目な表情をこしらえているが目には切迫感があった。部のOBから抜擢せず、野球には素人同然の学者風情を指揮官に起用する――。背景にはスキルうんぬんよりも、選手個々の絶対的な身体能力底上げこそが野球部強化の近道という認識があったことは間違いない。
 確かに東大の選手たちはみんな力感に乏しい。高校から全国レベルで活躍し、入学時にはおおむね体もできている他校の正選手たちと比べると明らかに見劣りする。では、ものごころついたころから野球一筋、ベースボール一直線の連中に対抗するにはどうすればいいか。
 徹底したウェイトトレーニングで屈強な身体をつくりあげる――。
 そんな確信がフィジカルの専門家としての野木にはある。白球の扱いは人並みでも、パワーも持久力も備えるアスリートがそろえば得点力も守備力も上がり、勝機も見えてこよう。
 監督就任前から野木はフィジカル特別コーチを拝命され、体幹から鍛える独自の筋力トレを選手に課した。当初にくらべ、ほぼ全員が数値目標をクリアするまでになってきていた。管理栄養士に頼み、筋肉をつくるたんぱく質中心のメニューを大幅に増やす食トレも取り入れた。トレーニング後の筋組織の回復時間を確保するため睡眠時間をきっちりと守らせた。そのかいあってか、伊ケ崎ら中心選手はベンチプレスで八十㌔程度は楽に挙げられるようになった。スクワット運動によって、太もも周りに筋肉がつき、ユニホームのサイズを変えた選手もいる。来たる春シーズンでは要所で他校としのぎを削るだけの戦いができる。そんな期待を持ち始めていた。
 それなのに――。
 想定外だった。一つや二つは勝てる、連敗街道は止められる、他校にひと泡吹かせ、今季はひと味違うぞというところを見せられる。そんな目算を抱いていたところに下された至上命令。
 母校の誰も見たことがない、はるかなる山の頂。そこに立つためには、どんなとてつもないエネルギーがいるのだろうか。想像もつかない。
 しかし――。勝てなければ行き着く先には絶望的な入れ替え戦が待っている。六大学野球史上初のリーグ二部落ち。早慶や明治法政がいない六大学の二部や三部など、名前こそ「東京六大学」であってもそれは東京六大学ではない。旧制一高をルーツに日本の野球の礎をつくった旧東京帝国大学野球部にとっては、草創期から脈々と続くメンバー構成でなければリーグに加盟している意味などないのだ。野球部生え抜きでなく、いわば外様に過ぎない野木にもそれだけはよくわかった。
 そんな悪夢はごめんだ。だから大胆な手を打った。一般学生をスカウトするという異例の、と言うより、禁じ手に近い手段で。まあ、現実には、あの大きな男を入部させても脆弱なチームがたちどころに強くなるわけではない。野球は一定数の選手が力を結集して総合力で争う団体競技である。柔道やレスリングなどの個人戦ではない。そんな競技特質に加えて同じ相手とゲームが続くリーグ戦ともなると、全試合を進撃の巨人一人で投げ抜くことなどできないからだ。
 ただ、棚橋の並外れた体格は奇妙な説得力があった。一つ覚えのように「走れ、走れ」とうるさい走り込みや、やれ千回だ、やれ万回だと、手のひらの血豆もお構いなく回数にばかりこだわるバットの素振り。倒れても水をかけられ延々と続く内野ノック。旧来の伝統的練習法を好み、むしろ美徳とする学生野球界にあって、大リーガーのようにまずは自らの肉体をつくりあげることから始めるという、あの若者の流儀には共感を覚えた。
 ――棚橋に賭ける。
 翌日の部総会を思い浮かべ、野木は大きく息を吐いた。

11
 
 本郷キャンパス――。野木の要請で緊急の野球部幹部総会が開かれた。添田部長以下、副部長で総務・渉外広報担当の深草道夫、同じく副部長で設備・ロジ担当の樫村耕三、OB会長の柿澤基一郎、副会長の緑山誠也ら役員連中がそろった。今回は白井も同席させた。
 議題はあらかじめ伝えてある。開幕直前になっての追加入部。それも四年生。居並ぶ幹部たちの誰もが野木に懐疑的な目を向けていた。
「急なお呼び出しをしましてまことに恐縮です。本日は新人選手の入部についてご審議いただきたくお集まりいただきました。よろしくお願いいたします」
 野木が説明に入った。部員登録締め切りはあすだ。幹部連中も柿澤を除き、全員が有職者である。あすの午後までに再度集まって意見集約などできないだろう。あのちょっと風変わりな若者を仲間に迎え入れる機会はたぶんこの場しかない。紛糾して結論が出なかったら一巻の終わりだ。野木は一度深呼吸した。
「添田野球部長からのご報告で、最近のリーグ内に看過できない動きがあることはすでにご存じかと思います。わが部はいま、創部以来の深刻な危機に直面しています。その一方、わが旧東京帝国大学すなわち東京大学は今日のリーグ興隆に大きな功績があることもまた当然に自負しているわけであります」
 出席者を一度見回し、間をおく。
「しかし、リーグ戦でいくら負けてもメンバーであることは保証される。これに異論を述べる声があること、またその声が大きくなってきていることも事実であります。そしてそれに対して伝統の重みだけを叫んでみても説得力は乏しいというのもこれまた事実です」
 これまで誰も口にしていない、いや、口になどできない真実だった。出席者のほとんどが苦虫をかみつぶし、下を向いたり目をつむったりしている。無関心を装うように窓外を見る者もいた。
「では、どうするか? この前代未聞の緊急事態の打開のためになにをすべきか」
 一息に言った。
「わが東大が優勝することです」
 ざわめきが起きかけたその場を制するように声の調子を強める。
「残念ながら、わが部の選手層は薄いと言わざるを得ません。一人でも多くの部員を獲得し、戦力底上げを図ることが喫緊の課題です」
 一般論を強調し、こう締めくくった。
「この当該学生ですが、身体的な特質から言って運動能力は相当程度に高いとみました。悲願の初優勝をなしとげるための戦力になってくれると判断しました。入部をご了承いただきたく存じます」
 総会の議長は添田が務める。「それでは、みなさん、ご意見どうぞ」。生真面目な顔が発言を促した。
「これはいったい、どういうことです?」
 口火を切ったのは深草だった。銀縁の眼鏡ごしにのぞく目の端がつり上がっている。
「野木さん、いや失礼、野木監督。私は先日、スカウト活動などおやめなさいと申し上げたはずですが」
「ええ、副部長の指示を受けた後は中止しました」
「というと?」
「この学生をリストアップしたのは副部長のご指示を受ける前の段階です。時系列で言いますと、情報をつかんだ時はまだ中止指示はいただいておりません」
「詭弁を弄さないでください! そんなことをお聞きしてるんじゃない!」
 深草が点火した。
「私は対外的に責任を持つ副部長という立場で、なりふりかまわない真似はしないでくれ、いまの戦力で立派に戦ってくれと申し上げたんですよ。これじゃ私の指示を無視したことになるじゃないですか。規律を重んじる運動会にあってとても容認できません!」
 レベル五のヒステリーというやつだろう。反論したところでさしたる意味はない。ほかのみなさんも、ご意見聞かせてくださいの顔を見せておいて野木は口をつぐんだ。
「まあまあ、深草先生。ここは、みんなの話を聞いてみようじゃありませんか。でないと議論も進みません。ほかにご意見はどうでしょうか」
 添田が穏やかな口調でなだめ、目が合ったらしい緑山を指名した。
「監督、もっと詳しく教えてくれませんか。僕、かなり気になってます」
 頰のこけた精悍な顔つきにいまだ青年の面影を残すこのOB会副会長は、小柄ながら俊足巧打の内野手として活躍。四年の春には東大では当時十年ぶりとなる打撃ベストテンに入った。経済学部を卒業後は家業の大手薬チェーン会社を継ぎ、取締役副社長の要職にある。練習の手伝いや合宿時の手厚い差し入れなど面倒見がよく、温厚な人柄で人望があった。
 緑山は棚橋に関する野木の改めての説明をうんうんという調子でメモを取った。
「私が目の当たりにした直球は異次元のスピードでした。ガンがなくて数字は出ませんが150は楽に超えていたと思われます。球を受けた主将の伊ケ崎は恐るべき球威だ、としみじみこぼしてました。わが部には前例のない力で押すタイプと思います」
「150」の言葉に、ちょっとしたどよめきが起きた。
「へえー、キャプテンが受けたんだ。彼がそう言ってるなら、それはやはりなかなかなんでしょうね。そんなことだったら僕はガン持ってるんで貸したのに。せっかくテストやるんだったらやっぱり、そこんところは数字がほしかったですねえ」
 緑山は野木たちの詰めの甘さを指摘したが目尻は下がっている。
「あ、それと、ちょっと気になるんだけど、部活してない期間がもう三年くらいあるわけだ。ということはですよ、ちゃんと走ったり守ったりできるんですかねえ。身体そのものができているのはいいとしても、野球はプロレスじゃないからなあ。走攻守のいずれもが大事なんだし、ほかにも試合カンというやつも重要と思いますよ」
 さすが目のつけどころがいい。ご指摘ごもっとも、と心中で返すしかない。自分も危惧してきたことだ。
「もっともな、ご質問と思います。当然、私も『走塁や守備はどうなんだ、五十㍍走は?』とか、さんざん聞きました。『ランニングは毎日』『六秒ちょっと』とか返事が返ってきましたが、あくまで自己申告です。私も空白の三年間は全力疾走の機会はほぼなかったと思っています」
 視界の端に入った深草がふっと鼻で嗤った気がした。
「なるほど。まあそうなんでしょうね。でも、まあ、試合カンなんて、やってるうちに戻ってくるもんだけどね。それを言い出せば、スタメンでない選手はみんな試合カンがないことになっちゃう。ましてや身体能力が高ければ高いほど順応力があるだろうから、それほど深刻な話というわけじゃないとは思いますよ」
 鋭い問題提起の一方で、緑山はぬかりなく野木をフォローしてくれた。つくづくこの万年青年は好人物と知る。
 樫村副部長が手を挙げた。
「聞いてるとさあ、なんか、よくわからないんだけど、ほんとに150も155も出るピッチャーなんだったら、なんだって一年生からうちの門をたたかなかったの? ふつうに考えたら大活躍だったんじゃないの。いまごろはすでにドラフト候補になって世間の話題になってたかもしれないのに。これって、なんだかミステリードラマみたいに不思議な話だね。どんなオチがあるんだろうと思っちゃうけど」
 文学部で英文学の教授をしている痩身の樫村は細い両腕を組み、文系人間らしい感想を漏らした。同感とばかり何人かが小難しい顔をつくった。ただ、その樫村にしても前がかりな姿勢は緑山に通ずるところがあった。
「要はさあ、ほんとうにうちの力になってくれるかどうかだよね、この話の要点って。その文脈からするとさあ、監督とキャプテンが間近でプレー見て大いに驚いたというんだから、入れてはみたけどまったくだめだったとか、入れるのはいいけど実際のところはまったくだめかも、なんていう次元ではなさそうじゃん。だったらさあ、力があるのが間違いないというんだったらさ、全然いまからでも遅くないんじゃないの。戦力ってやつは潤沢にこしたことはないじゃん。四年オーケイ、ノープロブレム、ウエルカムという気持ちはあるよ、オレはね」
 樫村のノリのいい発言に緑山が深くうなずいた。
「いや、まあ、現場で指揮を執る野木監督から直に持ち込まれた話ではあるし、入部にあたっては多様な推薦理由があるというのは私も認めたいと思いますが」
 ここで深草がまた一席ぶち始めた。
「そういう建前的なこととは別に、わが部をしょって立つ学生を入れるのに、身体能力が優れていそうだと監督が思ったというだけではねえ」
 眼鏡をはずし、レンズの汚れを確かめるしぐさをしたあとでまた口をとがらせた。
「私が言いたいのはこういうことです。たとえば灘高きっての強肩捕手、開成で俊足の一番バッター、神奈川大会四回戦で横浜打線を七回までゼロに抑えたピッチャー、こんな具合に新人たちには程度の差はあれ明確な身上書がついている。身上書を読んだだけでなるほどそうかという風にうなずけるわけです。でも、この子については、読ませてもらってもなんか得体が知れない、正体不明感というか、ふんわかしているというか、具体的なイメージが浮かんでこないんですよ、イメージが」
 場の空気を読んだのか、言葉から怒の字が消えかかっているのは救いだが、痛い指摘だった。深草の言う通りなのだ。野木自身も根掘り葉掘り聞かれれば、たちどころに返答に窮する。白状すればそんな程度の棚橋の身上だった。
「それじゃあ、いまから部員をかき集めてシートバッティングとか試合形式に近い実技テストをしたらどうでしょう。いまごろは日も長いんだし」。さっと挙手した緑山が建設的なアイデアを出した。
「あいにくだが、あす午前には新人名簿をプレスに流すんだ。入部テストやって、その結果をまた討議なんて悠長なことをやってる時間はないね」
 眼鏡のレンズをハンカチで拭きながら深草がそっけなく言った。首をすくめた緑山を無視するように続ける。
「それに、野木監督、四年生というのもかなりきつい問題ですよ。ふつうはそんな新入部員なんているわけがない。マスコミがすぐ問い合わせてきますよ。対応できる材料をお持ちなんでしょうね。うちは国立だ。公費で運営される部活という事業に冷やかし学生を入れたなんてことになったら問題になりかねませんよ」
「問い合わせには監督として私が直接答えてかまいません。深草教授にはご迷惑をかけないようにしたいと思います」
 深草は面倒な火の粉が自分に降りかかってくるのを嫌がっている。それにもまして部員たちの青春の舞台を「事業」などと表現する神経も気にくわない。野木は顔をそむけた。
「……野木君、つまりだな、こういうことか。君の言うところの異次元とやらのブルペンの速球にもってきて、目を見張る体格がある。それにかんがみれば活躍は約束されたも同然だ、そういうことかね」
 目をつむって腕を組み、さきほどからじっと議論を聞いていたOB会長の柿澤がここで初めて言葉を発した。九十歳を超す年齢だが、がっしりとした体躯はかくしゃくとしたものだ。旧制高校時代は柔道の猛者で鳴らしたが、人を投げ飛ばすのがつらくなり野球に転向した、というまことしやかなエピソードが学内に残る。薄い頭に太い首の豪気な外見とは裏腹にもの言いは論理的である。
「ええ、ボディビルダーのような筋肉質の体つきは、かなり負荷のきついトレーニングをしてきている証拠と思われます」。運動生理学の専門用語も交えて野木は身体の特徴や出会った時の印象を柿澤の前で強調した。
「そうか。のっぽの野木君より頭一つ以上大きいとなると、ずいぶんとタッパはあるな。事情は飲み込めたが、あとはやはり実戦でどの程度か、だな。なにせ四年じゃ、もうあとがない」
 柿澤の言わんとすることはわかる。最上級生で入部させて活躍してくれれば問題はない。だが、だめだったら運動会全体の信用を失いかねない。登録後は四年間活動できるといっても四年で卒業するなら話は別だ。パフォーマンス発揮の時間的猶予はあまりに少ない。東大野球部にとって有益か否か。すべてはゼットンと自称する若者の実力次第だ。
「あの、すみません、よろしいでしょうか。マネジャーをしています四年の白井と申します。本日は特別に出席させていただきました。自分が彼の球歴をわかる限り調べてみました」
 会議がしばし沈黙した後、白井が野木に一瞥をくれてから発言を求めた。野木は棚橋の経歴を可能な範囲で裏付け調査するよう白井に指示していた。
 調査によると、棚橋は都立白鷺台高校三年で夏の全国高校野球選手権西東京大会のベンチ入りメンバーとなっていた。その前の二年間は記録上、名前がWEB検索に引っかからず三年になって正選手となったことがわかる。その夏、白鷺台はシード校を破って勝ち上がり、ベスト十六まで進出していた。当時の新聞記事にも「投―棚橋(白)」との記述があったという。
「ふふ、白鷺台じゃあねえ。白鷺台でエースと言ったって目立った球歴とは言えんだろう。それより十六に入ったことの方が驚きだな。あそこ硬式野球部あったんだね。白井君さあ、まさかそれ、軟式の話じゃないだろうね」。嫌味たっぷりに深草がまぜっ返した。
 白井がまた腰を上げた。
「高校に行って棚橋を知る関係者からも聞き取ってきました。棚橋が下級生の時は部員不足で公式戦不出場です。つまり、大会に参加した三年ですぐ背番号1をもらったというわけです。当時の顧問教諭を訪ねてみましたらこう話しておられました。『一年生の時は線が細かったけど、とにかく背が高くて他の部員より段違いに素質があったなあ。だから上級生になれば当然エースだよ。ああ、成績も非常によかったよ。数学なんか理系の連中よりもよくできたんじゃないかな。私はすぐ転勤してしまったのであとのことは知らなかったけど、東大なんてすごいな』と喜んでおられました」
 深草は眼鏡をはずすとそっぽを向いた。
「私はおもしろいと思うんだがね。一野球ファンとしてそのプロレスラーみたいなガタイを見てみたいもんだ。どうだろう、今回の情報を総合すると、仲間になってもらうのがいわゆる一つの合理的な選択であり、一つの判断であるという気がするんだけど、どうだろう」
 議長役の添田が少しぎくしゃくした場のムードを和ませるように口を出した。
 部長が乗り気なのはありがたいが、議論の行く末はまだ読めない。野木は硬い表情を崩せなかった。
「要するにだ、野木君。フィジカルの専門家の君は、彼の並外れた体躯と速球に思わずビビッときた、肉体的要素から卓越した技量を感じた。不明な部分もあるが監督としてぜひ使ってみたい。つまりそういうことだな」
 煮詰まりそうにならない会議の進行を促すかのように柿澤が念押しした。
「いえ、ちょっと違います」
「違う? どういうことだ」
 柿澤のいぶかしげな顔が野木に向いた。
「彼の目です。少年そのものの涼しい目もとでしたが強固な意志を感じました。あの目に接しているうちに、この男になら頼れるかもしれない。この男にならチームを託せるかもしれない。そう思えてきたんです」
 本心だった。そう言いながら自分で少し恐ろしくなった。ただの一般学生を過大評価してしまった可能性がないと言い切れるのか。勝ちにこだわるあまり、大局を見誤って野木自身が都合のよいストーリーをこしらえてしまったような部分はないのか。
 柿澤は黙っていたが、やがてぼそりと言った。
「OBを代表する者として反対する理由は思い浮かばん」
 深草は不機嫌な顔のままだったが異論は述べなかった。
 誰もが裁定を待っていた。一同に異議がないことを確認して野球部長が決を下した。
「白井君、すぐに新人名簿を書き直してくれ。この棚橋諒介君の名前を加えた新しいやつを印刷して副部長に渡してくれるかな。あすが選手登録締め切りだ。滑り込みセーフというやつだ。今年は十五人のルーキーか。十五の数字に届くのは何年ぶりになるのかなあ」
「かしこまりました。あしたアサイチで届けます」
 ぺこりと頭を下げた白井は野木に視線を送ってから勢いよく立ち上がった。

12

 ベンチ前に練習ユニホーム姿の新人たちが整列した。一人ずつ挨拶する。「東京の私立開星出身、長峰駿太です。先輩方、よろしくお願いいたしまーす」「筑波大駒場から来ました今野拓真です」「愛知の旭丘の……」。棚橋を除くルーキーたちは勢いよく自己紹介をすませた。
 上級生たちの目が一斉に一人の大男に向く。
「あらかじめ、みんなに説明しておく」。野木が話し始めた。
「いまから紹介する棚橋は四年生だ。入部は総会の全員一致で決まった。だが、実質的に私が入れたようなものだ。だから使い物にならないなら私も彼も部を去ることになる。棚橋諒介君だ。都立白鷺台。甲子園なし。ピッチャーをやってもらう」
「文学部四年棚橋です。よろしくお願いします」
 帽子をとり、棚橋が神妙な面持ちでお辞儀をした。長い足が新調の白いユニホームに映える。選手たちは無言だった。みんなエイリアンに出くわしたような困惑を隠せない顔で新参者を見つめている。  
 微妙な空気が漂いかけた時、言い忘れていたことをひょこっと思い出した気分で野木が言い添えた。
「そうそう、彼は『ゼットン』と呼んでもらいたいそうだ。よくわからんが怪獣の名前らしい」
 ダグアウト前に初めて笑いが起き、収まるのを待って伊ケ崎主将が訓示する。
「今年は十五人の新人が門をたたいてくれた。四年生のルーキーまでいる。わが部はもう何シーズンも勝ち星がないが、今季の主将として思うに他校ととてつもない実力の差があるなんてことはない。自分は入学した時からそう感じてやってきている。それなのに勝てないでいるのは、なにか見えない壁を越えられないでいるだけだ。しかし、今季は違う。今季は勝つ。そのために自分が先頭に立つ。今季こそ全部員でその見えない壁を越え、勝ちにいき、勝ち点をとろう! よーし、練習開始!」
「ウィーッス」
 全部員の気合がその場で重なった。初戦の慶応義塾大学戦はもう目の前だった。

「エースをさしおき、初戦を新人すか?」。
 開幕戦前夜――。先発投手の名前を聞いて伊ケ崎はしきりに首をひねった。戦略を伝えるため監督室に呼び出していた。
 一回戦に棚橋を投げさせて勝ちを取り、二戦目は上遠野。勝てば勝ち点で目標達成。負けても三戦目に棚橋を投入して勝ち点を奪う。シンプルだが、怪獣ゼットンという新戦力を最大限に活用したプランだった。
「そうだ。私は勝ちたいんだ」
「しかし、上遠野も勝ち星に飢えてます」
 連敗して同一カードが二試合で終わることが多い東大では、投手の勝ち星と初戦に登板することとは関連性がある。初戦に勝てば連勝してけりをつけることがない限り、一勝一敗となって三回戦に突入したり、引き分けをはさみ四回戦にもつれ込むなどして試合数は増えていく。つまりその後の展開次第で同じカードで再び勝ち投手になる可能性が広がるのだ。上遠野はエースの評価を得ているが、公式戦の勝ち星はなかった。大手商社に就職が内定し、他の多くのナインと同じように野球は大学で打ち止めの選手だ。一勝に賭ける気持ちは人一倍だろう。伊ケ崎もそれをよく知っている。
「初戦で上遠野はありえませんか。いま調子もいいし、負けてもゼットンがいます」
「イカ、うちが一カードで二つ勝つには最初からゼットンという強力なカードを切るしかない。駅伝ではチーム一、二の走力を持つやつが最初の一区を走り、好位置をキープしてたすきをつなぐ。だから力がある選手の順に走らせる競技とも言われている。それと同じことだ。あいつが東大史上最強のジョーカーなのは、お前自身がよくわかってるはずだ。イカが監督でも同じことをするさ」
 伊ケ崎はそれ以上なにも言わなかった。
 練習に合流した棚橋は連日ブルペンで投げ込みを続けている。運動選手としてはとんでもない長いブランクをはさんだ入部である。スタミナ面を考慮して球数はとくに決めず、棚橋自身の判断に調整を任せた。そうは言っても、軽く投げているようでも仲間の投手とは球のキレが違い過ぎた。控え捕手あたりでは剛球を受け損なってけがの恐れがあり、ブルペン投球でも常に正捕手の伊ケ崎が座った。
 まだ実戦の経験こそないが、棚橋が他校のエース級にひけをとらない本格派であることは一目瞭然だった。旧帝大からのはるかなる歴史を刻むこの大学に、初めて勝ちを計算できる投手が現れたと言っていい。であるならば、この超大型新人を前面に押し立てて突き進むしか道はない。
 ――勝ちが欲しい、なんとしても。
 野木の身体からほとばしる飢餓感にも似た感情に新エースが十分応えてくれるように思われた。

13

 神宮球場――。棚橋が慶応大のグレーのユニホームの一番打者に初球を投げ込んだ。球場が小さくどよめいた。スコアボードの球速表示は154㌔。見逃しのあとの二球目。156㌔。こんどはちょっとしたどよめきとなった。打者は振り遅れてファウル、たちまち追い込まれた。三球目、これも真っすぐ。外角低めに156㌔が決まった。見逃し三振。棚橋はすべて直球だけで初回を三者三振で片づけてみせた。東大は六回、田中の二塁打を足がかりに2点を先取。棚橋の球威は回を重ねてもまったく衰えを見せず終盤にも150㌔以上を連発。力のある速球で相手をねじ伏せる力投で十四個の三振を奪い、被安打三の完封勝ち。東大が久しく忘れていたリーグ戦の一勝。それも胸のすく快勝にベンチも応援スタンドも沸きにわいた。

 試合後の夕刻。記念すべき監督初采配初白星だったが、余韻に浸っているわけにはいかない。二回戦が極めて大事になる。対戦相手も、突如現れたゼットン投手という怪獣に驚き、急きょ分析を始めているはずだ。二回戦はローテ通りに上遠野を先発させる。神宮初勝利を狙う二番手エースは試合をつくってくれるだろうか。右横手からの変則投法は、右打者には十分通じることは過去の対戦記録からはっきりしている。左がそろう慶応の中軸打線をいかに抑えるかが鍵になりそうだ。野木は序盤でリードする展開になれば、途中からちゅうちょせず棚橋につないで逃げ切る算段だった。初戦に勝ってチームは意気が上がっている。あすは悲願の一勝に燃える上遠野の踏ん張りに期待したいところだ。
 そんな青写真を考えていた時、ノックがした。
 棚橋がひょっこり監督室に顔を出した。彼は合宿所に空き部屋がなく、都内の自宅から通っている。きょうの勝利の立役者が戻ってきた。
 ――まさか、けがの申告ではあるまいな。
 ゼットン投手をみこしにかつぎ、今季の東大は戦陣を開いた。その大将に肩や肘が痛いなどと言い出されたら根本的な戦略変更を余儀なくされてしまう。野木は真意を探る目で招き入れた。
「お、ゼットン、きょうは私にとって忘れられない歴史的勝利になった。改めて礼を言うぞ」
「まあ、よかったです。このまま監督通算一勝にはさせませんから、ご安心を」
 ジョークとも本音ともつかぬせりふをさらりと言う。
「で、どうした。まさか肩とかどっか痛い、なんて言いに来たんじゃないだろうな」
「監督、あしたも試合に出してください」
 ――そういうことか。故障申告でなかったことで緊張がほどけた。こうなると血気にはやる若者をとりなすだけで済む。
「気持ちはうれしいが、あすは上遠野でいく。リーグ戦は始まったばかりだ。次に備えて肩を休ませろ」
「投手じゃありません。打たせてください」
「えっ、なんだって? なに言ってる」
「僕を外野にして四番に入れてください」
「四番? じゃスタメンということか」
「そうです。うちは一、二番の出塁率がいいし、四番の伊ケ崎も、一発はないけどバッティングはしぶといし右方向にも打てる。彼が三番を打ってつないで、ランナーがたまったところで僕が長打を打って得点を稼ぎます」
 先発投手というのは、登板しない日には外野ポール間ランニングやストレッチなど軽めの練習で済ませることがほとんどだ。投球練習をしないこともまれではない。その大事な調整日というか休養日に野手で先発出場とは……。負けたら終わりの高校野球ならともかく、大学や社会人、プロ野球ではふつう聞いたことがない。そんな芸当ができるのは、いま大リーグにいる大谷翔平投手くらいではなかろうか。最強怪獣を気どり、ボディビルダー並みの体格を誇るといっても、守備についたうえでの野手出場はたやすい話ではない。二刀流の大谷投手も野手の際は守備負担がない指名打者が多い。体格と体力と技量に優れるプロでも至難なことなのだ。
 またまたこの男に難題を突きつけられた思いがする。
「投げなくても外野のスタメンは消耗が激しいぞ。フライのたびに走り回るわけだし返球だってある。タイムリー阻止とかタッチアップとか捕殺を狙う場面だと全力でバックホームしなけりゃならん。そんなことして次また投げられるのか」
「連投の方が肩には過酷です。打つために出るんなら、たいして影響しません」
 表情に変化はなかった。
「そもそも今季は勝つしかないとおっしゃったのは監督ご自身です。僕を寝かせておく手はありません」
 目の前の大男の顔を見る。てらいも気負いも感じられない。本気だ。
 開幕前、棚橋には打撃練習をさせていない。投手だからベストピッチをしてくれればそれでいいからだ。それに昨日の慶応戦で彼は四打数無安打だった。あの無断侵入打撃マシン劇の時はすごい当たりをしていたが、実戦ではこんなもんか。ベンチから見ていてそう思ったものだ。四番とはちと大風呂敷が過ぎないか。
「きょう? ああ、走者なしで回ってきましたから体力温存でバット振らなかったんです。点を取られないことが重要な試合展開だったですから」
 さも当然、といった顔でしれっと言った。
 懸命に考えを巡らす。この偉丈夫な若者にはつくづく驚かされることが多い。ただ、この男は言ったとおりの結果は出している。
「よし、わかった。でも恥をかかすなよ。一人スタメンはずれるんだからな」

「四番、ライト、棚橋君。白鷺台高校」
 二回戦。場内アナウンスが流れると球場にざわめきが起きた。昨日の完封勝利投手のよもやの先発再登場。右翼の守備についた棚橋に東大応援席から大歓声がわいた。この試合は棚橋の二打席連続本塁打などの活躍で東大が連勝。上遠野は頭脳派らしく打たれながらもコーナーを丹念に突いて凡打の山を築く一方、打者の打ち気をあざ笑うような得意のシンカーが効果的に決まり、なんと完投勝ち。待望の初勝利をあげた。

 続く法政大戦。打者の胸元を大胆に突く棚橋の速球がうなりをあげた。ときおり投げるチェンジアップとスライダーの緩急を織り交ぜた伊ヶ崎の配球もさえ、六回に相手エラーであげた虎の子の1点を棚橋が守りきった。二試合連続の完封勝ち。この試合、棚橋は最速158㌔を記録した。棚橋は二回戦で四番を務め、二長短打と気を吐いたが上遠野が序盤に打ち込まれ7対1で敗れた。三回戦は棚橋が先発。相手失策がらみで序盤に2点を先制し、棚橋が1失点に抑える好投で完投勝ち。二カード続けて勝ち点を挙げた。

 三カード目の対明治大。先発の棚橋は被安打七ながら要所を抑え、1失点でしのぎ切り完投勝ちした。援護は伊ケ崎の大学通算三本目となる2点本塁打。接戦をものにした勢いで東大は二回戦も制する。ゼットンこと棚橋が四番でにらみを効かせ、一番田中の適時打などで終盤に一挙4点。上遠野、大嶋や新人の今野ら四投手をつぎ込む総力戦で逃げ切った。

 圧巻は立教大一回戦だった。棚橋のキレキレの速球がまたもうなりをあげ、慶応戦と同じく被安打三の2対0で完封勝ち。打たれた安打は内野を抜けるゴロ単打のみで打球が上がらなかった。打席での棚橋は例によって二死無走者の場面では平然と見逃し三振。二回戦は上遠野が再三走者を背負いながら終盤まで粘投を見せたが、同点で救援した大嶋が崩れて負けた。しかし、三回戦では棚橋が序盤に3点を失いながらも自らの適時打もあって4対3で逆転勝ちした。

 春のリーグ戦は東大が八勝二敗の勝ち点四でなんと首位に立った。勝ち点三で二位の早稲田大が追い上げている。今季は連盟理事会の決定によりリーグ創設九十年記念行事の一環として早慶戦がいつもの最終節ではなく全体日程に組み込まれている。早稲田は慶応から勝ち点を奪えず、東大戦に逆転優勝をかける。ただし、これまでの勝敗と引き分け数の関係で、東大に一敗すると三連戦で勝ち越して勝ち点で並んでも勝率で及ばない。早稲田の優勝は二戦連勝が条件となる。つまり、東大のいわゆる「マジック1」ということだ。

「春の椿事中の椿事か、東大首位 東京六大学野球」「投げて打つ怪獣くん、仁王立ち」「東大に突如ターミネーター! まさかのV目前」
 スポーツ新聞の仰々しい見出しが東大をとりあげることが多くなった。棚橋にスポットを当てた記事がやはり目立つ。プロも社会人も大学も分業制が確立されたいま、高校野球さながらの「エース兼四番」というわかりやすい配役と結果がスポーツマスコミの琴線に触れているのだろう。マスコミも現金なものだ。大型連敗中の容赦ない記事とは一転、持ち上げてくれる。
 二つ目の勝ち点を得たあたりから、かなりの数の報道陣が東大球場に姿を見せている。最弱チームの意外過ぎる躍進とあっては、ニュース価値も上がるということなのだろう。混乱を避ける意味で、まずテレビインタビューに監督と主将が応じ、そのあとで新聞記者による個々の選手への質問に答えるというこの大学では慣れない報道規制を敷かざるを得なくなってしまった。中でも大はしゃぎなのが、民放テレビのワイドショーである。
〈さて、きょうの最初の特集は大学野球の東大快進撃の話題です、みなさん、いま驚かれているかもしれませんね〉
 お昼時、女性アナウンサーが笑顔で思わせぶりに前振りした。
〈番組のコメンテーターで東大教授の深草さんに、うってつけの特集になりました。深草教授は知る人ぞ知る東大野球部OBです。私の横で早くしゃべりたそうにしていますので早速ご本人から解説していただきます〉
 深草も負けていない。
〈どうもどうも。いやあ、東大と言うよりも東京六大学野球にこれだけの関心が集まるのは久しぶりじゃないですかね。甲子園の高校野球の人気にくらべると、大学野球は近年存在感がもう一つという感じでしたからね。関係者としては、まことに喜ばしい限りです。それでいま話題の棚橋投手ですけれど、なにせ四年生の新人だったですからねえー。部としては大きな決断というか入部させていいものかどうか侃々諤々、部内でも議論百出になりましてね。最後はもうギャンブルに近い判断だったと申し上げるしかないんですよ。いや、ほんとうの話です。言葉は悪いけど、ばくちに近いみたいにね。えーい、丁だ半だ、というわけですよ。でもここまでやってくれるとは想像できなかったですねえ。見た通り彼の上背はプロ野球選手みたいに相当なもんですが、私ら学者って、すねた考えをするもんでしてね。背が高いのはいいけど、バスケじゃあるまいし、それがすぐに勝ちにつながるの? てな具合に思っておったんですよ。それが、こうやってあの強い明治や法政なんかをばったばったと倒してくれて、うれしいというしかありません。いま、横のゲストの方、みな笑ってますけど、こんなうれしいことってそうそうあるもんじゃありませんからねえ。とうとう史上初のリーグ優勝が狙える段階まで来て、この番組のディレクターから毎日追い回されてこちらももうたいへんなんですが、まあよしとしておきましょう。あ、そう言えば、彼の入部前に野球部内でこんなことがあったんですよ……〉
 深草の雄弁はとどまるところを知らなかった。まるで自分が入部させたようなコメントをしている。棚橋の快投で広報担当副部長としての深草の仕事は他のテレビ局への露出も含めぐんと増えた。もとより自分が目立つことには異存はない男である。
「深草先生、なんだか生き生きとしてますね」。テレビ脇に立っていた白井が小首をかしげて笑いを誘い、野木も失笑をもらすしかなかった。

14
 
 最終決戦が近い。野木は監督室にこもった。あと一勝で夢の中ででもかなわなかった優勝が現実となる。腹は決まっている。ゼットン中心の戦略を押し通すしかない。ここは、勢いや流れに身を任せるのが常道というものだ。
 卓上電話がぽろぽろ鳴りだした。
〈野木監督はいらっしゃいますでしょうか。東日新聞のアキノと申します〉
 女性の声だった。若い感じがする。電話の相手は東日新聞社の社会部記者で秋野彩と名乗った。棚橋について話を聞きたいという。東大の快進撃が始まってからというもの、報道関係者のほとんどが直接グラウンドにやって来る。アポを求めてきた記者は初めてだった。
 翌日の練習前。秋野と向き合った野木は、渡された名刺と相手の顔を交互に眺めつつ質問を待った。細身で小顔の黒いショートヘア。切れ長の目にオレンジ色のしゃれた眼鏡をしている。聡明そうな顔立ちだ。
「ちょっと気になることがありまして」
「気になる? どんなことでしょう」
 質問の意味を図りかね、顔色をうかがう。
「『ゼットン』。彼はそう呼ばれているんですよね。そのこと自体が、すっごくおもしろいなって、私、思ったんです。ゼットンって、あのテレビ番組の『ウルトラマン』に出てくる怪獣のことですよね。だったら、早稲田でウルトラマンになれる、大暴れしている東大のゼットンの勢いを止められるヒーローは誰かなって考えたんです。甲子園組が多い早稲田なら大勢いるだろうって思いました」
 それで? という顔で先を促す。早稲田のことなら早稲田に行って聞けばいい。
「ヒーロー候補は、いま首位打者の堀川選手あたりが筆頭かな。三番の島津、もちろん四番の高山選手にも期待できそう。そんなことを考えながら、大学が報道機関に提供しているここ数年の選手名簿の資料をひっくり返していたんです」
 メモ帳を目で追いながら秋野は続けた。
「そうしたら、名簿の隅に記載されていた最近十年以内の中途退部者氏名一覧に棚橋良太という名前を見つけたんです。ふりがなでは、タナハシリョウタです。下の名前はゼットン君とはちょっと違いますけど、身長が一九三㌢になっていて六大学連盟が公表しているゼットン君とまったく同じなんです。この人、入部してすぐ部をやめているようなんですけど、まさかゼットン君のことじゃないですよね。棚橋という名字はべらぼうに多くはない気がするし、名前もリョウタとリョウスケだし。退部者名には高校名や入部年度が書かれてなくて」
 秋野が野木に真っすぐ顔を向けた。オレンジの眼鏡の奥でつぶらな瞳が光った。
「六大学の野球部員だった人は、六大学内の別の野球部に入り直しても、選手として試合に出られないそうですね。だからちょっと気になって。そこらへんのことを大学に聞いたんですが、個人情報だから一切お教えできないと言われちゃいまして」
 虚を突かれ、息が詰まった。
 全身を這う野木の血管がとたん、どくんどくんと拍動を始めた。顔色が変わったことを気取られないよう頭に手をやって質問を吟味するふりをする。
 早大野球部の元選手と同一人物? そんなばかなことがあるはずがない。いや、あってはならないのだ。
 秋野記者が言うように、一度でも東京六大学で野球部に在籍した過去を持つ者は、リーグ内の他校の野球部選手として再び試合に出ることはできない。わかりやすく言うと、法政の一年生エースが翌年に慶応に入学し直して野球部に入っても、神宮のマウンドには立てないということだ。一見不合理な規定に見えるが、有望選手をめぐってリーグ内の大学同士で引き抜き合戦をしないようにするための取り決めである。
 運動推薦入学制度がなく、少なくとも引き抜く側にはなれない東大にはこの規定はほぼ無意味だが、取り決め自体は東大にも原則適用される。
 野木は出会った時の記憶をさっとたどった。
〈いままでなにしてた?〉
 問いかけに「アメリカに行ったり、筋トレとか……」などと答えていたはずだが、それ以上は具体的に説明しなかった。野木自身、目の前の体格に見とれてしまったところもあり、突っ込んでは聞かなかった。ただ、他校にいたならそう言うはずだ。規定だってきっと知っている。試合に出られないのがわかっていて、「六大学で僕の球に当てることができるのは一人か二人」などと見得を切って入部を承諾するはずはなかろう。それに、すぐ退部したといっても、ちょっとでもいたのなら試合を見た早稲田の選手が気づくはずだ。下の名の発音は三文字まで同じと言ってもそもそも名前が違う。
 だが、もし、棚橋がなんらかの事実関係を偽っていたら……。
 東大合格は間違いないとすると、一浪という本人の説明が実は他校への入学歴だったというのはべつに矛盾するわけではない。仮面浪人の例もある。本格的に筋力トレーニングに打ち込めば体脂肪の関係で顔立ちも変わるし、ボディビルダーを見ればわかるように体型は一変する。大柄な選手がそろう時代ではあっても、身長一九三㌢はプロ野球でも少ない。そんな長身ぶりまでぴたり一致しているのをどう考えればいいのか。秋野の指摘には一定の合理性があった。
 秋野がすぐに首を縦に振ってくれそうな返答が浮かんでこない。
 万が一にも同じ人物なら困ったことではすまない。もうすでに試合に出ているのだ。連盟規定をないがしろにしたとなれば野球部どころか大学も責任を問われる。彼は練習でも試合でも黙々と仕事を果たし、自宅に戻っていく。言ってみれば必要な時にスマホの画面に呼び出せるアプリのような存在と言うと言い過ぎだが、実態はそれに近い。合宿所暮らしでなく、他の部員や監督との接触が少ない点で人物像はミステリアスと言える。よくよく考えると、野木も棚橋の私的な部分に関してはほとんど知らないのが実情だった。
 喉にへばりついていた唾液を力を入れて飲み込む。
「うーん、あのう、その名簿を見たわけじゃないので、どう言っていいかわからないけど、うちに来るまでのことは私もよくは知らないんですよ。でも下の名前が違うわけでしょ。それなら同一人物じゃないでしょう。上の名前と身長は、まあ、あの、その、偶然だと思いますよ」
 冷静に答えたつもりが声はうわずった。秋野は硬い表情を変えなかった。
「ただ、あの、なにかわかったら、あとでお教えしてもいいですよ。東日さんなんていう大新聞の記者さんが私のような実績のない監督のところに来てくれるのもゼットンのおかげですから。わかったことがあれば、電話かメールしましょう」
「そうですか……。それなら私、もう少し別の角度から取材してみますね。こんなこと申し上げて私のよけいな思い過ごしだったとしたらごめんなさい。あ、それから、『東大ゼットンvs早稲田のウルトラマン』という話題ものの記事は書きたいなと思ってます」
 メモ帳をバッグをしまうと、秋野は取材の礼を言って立ち上がった。

 大学本部の学務部――。男性職員の話に野木は耳を傾けた。棚橋の経歴を確認できるかもしれないと思って足を運んでみたのだ。中藤という手も頭に浮かんだがやめた。結局はルール違反を犯させることになってしまうからだ。学務部側の方で野球部監督という立場をおもんぱかってくれて融通をきかせてくれるかもと都合良く考えたこともある。
「監督さん、わざわざお越しいただいてごくろうさまですが、いくら本学野球部監督の要請でも、一学生の個人情報を本人や保護者、保証人や身元引受人以外の第三者の方にお教えすることは一切できません。委任状がある場合でも確認のために時間をかけて審査します。そういう決まりです。ご理解ください」
 地味なネクタイを白いワイシャツの首元できちっと結んだ三十歳前後の職員はとりつく島もなかった。丁重な言葉遣いながら有無を言わせぬ響きがある。
「野球部だけでなく大学全体にもかかわる重要なことなんですが、便宜を図っていただくわけにはいきませんか。書類を直接見せていただかなくとも口頭でそれとなく中身を伝えてもらうだけでもかまわないんですが」。切実な事情があることをにおわせ、粘ってみたが、職員は黙って首を振った。野木は手間をわびて引き下がるしかなかった。

 早稲田と雌雄を決するのは明後日だ。数々の名勝負を生んできた伝統の東京六大学野球リーグ戦での優勝争い。野木にとって、これまでの人生で想像だにしていなかった舞台回しではある。ただ、現実にこんな高みのステージに立ってしまえば、当初の入れ替え戦や二部落ちの恐怖からの脱出、などといった浮世の心持ちは少しずつだが薄れてきていた。
 誰もなし得なかった東大野球部のリーグ優勝。夢想さえ許されなかった無上の宝物が眼前にある。この手に収めることができるか、取り逃がすか。0か100かしかないコイントス勝負のような好奇に満ちた興奮が刻々と募る。野木は深く息を吸うと、カレンダーの試合日を赤い丸で囲った。
 選手とて内心は同じと見えた。
 いかつい風貌から心臓に毛がはえていると思われている伊ケ崎もとんと口数が少ない。攻略法を分析しているのか練習と食事以外は自室から出ようともしない。
 悲願の初勝利で一皮むけたはずの上遠野だってそうだ。
「なあ、優勝ってさあ、いったいどんな感じなのかなあ」。ぽつりと独り言を言っては遠い空を見るような表情を浮かべていた。
 東大から久々に打撃ベストテンに入りそうな田中にいたっては、好調の打棒とは裏腹にメンタルが落ち着きに欠けた。練習用バットをグラウンドに置き忘れたあげく、「おーい、俺のバット、誰か持ってったか? 借りるんなら一言ことわってからにしろよな」などとチームメートに八つ当たりする始末だった。
 こんな有り様だから、チームで監督に次ぐ序列のマネジャーの出番が増える。
「まあまあ、みなさん、泣いても笑っても結果はなるようにしかなりません。ま、みなさんのせいで今シーズンはやたら長い。でも楽しいことは長すぎるくらいがちょうどいいじゃないですか。ながーいシーズンってやつを楽しみましょ」
 白井は誰も笑わない軽口をことあるごとに吐き出し、失われそうになる一体感を懸命に維持しなければならなかった。

 野木は監督室に引きこもった。
 試合まで一日余裕がある。あす棚橋を呼び出し、過去を詳しく聞くべきか。
 問い詰めて取り越し苦労だったなら笑い話で済む。だが、経歴が虚偽だったりして秋野記者の懸念が当たっていた場合は大ごとだ。本人の試合出場停止は当然だが、試合そのものも不戦敗になるかもしれない。百年に一度、と言うと大げさになるが六大学野球で東大優勝のチャンスはこの先も多くはないだろう。なにせ最下位でなかったらニュースになるのが、このとてつもなく長い部史を誇る旧東京帝国大学野球部の来し方だったのだ。
 それがいまや見果てぬ夢の優勝が手の届く位置にある。世間の関心の高まりに応える形で早慶戦以外は本来放映予定がなかった公共放送が急きょ実況中継することになった。けさほどには「祈優勝 突き抜けてみせよ 五月の空のごとく」としたためられた激励文も舞い込んだ。差出人は現内閣の東大卒の閣僚有志だ。病気療養のために一年生で退部を余儀なくされたものの、名誉OBとなっている経済産業大臣は通常国会休会中の日程を利用して球場に足を運ぶ意向を伝えてきた。
 腕組みのまま力なくふっと息を吐く。ここでこんな息をつくのは開幕前の戦力分析の時以来という気がする。ところが、いざ開幕してみると、突如参戦した怪獣投手がゴジラ以上に大暴れ。チームは勝ち続け、そんなため息とはすっかりご無沙汰だったのだが……。
 最悪の事態を想像してみる。棚橋の虚偽申告で元早稲田の選手と同一人物という事実が判明したなら、ただちに大学と連盟に報告すべきとは思う。
 しかし――。一般の野球ファンは例の連盟規定など知っているだろうか。スポーツ推薦がない東大が有力選手を引き抜けるわけがないから、なぜ問題なのかぴんとこないだろう。早大を中退して東大に入り直して部活にいそしむのがなぜ悪い、と考えるのがふつうだ。
 そうは言っても、現実に処分が下されたとしたらどうか。早稲田戦が不戦敗となり、優勝が文字通りの夢に終わってしまったとしたら……。期待が高ければ高いほど失望も大きい。快進撃に快哉を送っていた世間も手のひらを返すようにバッシングに出るかもしれない。
 一方でこうも思う。自分は教育者であることには間違いがないが、契約によっていまの立場にいる職業監督でもある。いくら学生野球が教育の一環と言ったって、契約上の監督に過ぎない者がそこまで気を遣う必要があるのか。聞き流してしまっていい話ではないのか。いやいや、監督という現場の責任者は、そういう無責任な姿勢ではいけないのか。
 ――わからない。
 棚橋の顔を思い浮かべる。仮に早大中退選手と同一人物とするなら、最上級生になって入部を決断する動機はなんなのか。
 東大のレベルなら自分が野球をしたくなった時に、いつチームに加わってもレギュラーやエースになれる、だから大学生活をゆったり満喫していたが、四年になってちょうど誘いが来たので、のった。
 理屈は通る。しかし、あの球威十分の快速球ならどこの大学でも通用する。東大だからうんぬんという話とは思えなかった。理由としては弱い。
 では、他校野球部在籍歴のほとぼりがさめるのを狙って四年まで待ったか。可能性としてはこちらの方がより大きく思える。ちゃんと体を鍛えていれば時間以外に失うものはあまりないだろう。いやな想像ではあるが、現実はその通りに進んでいるようにも映る。
 それとも、なにかもっと卑近で、げびた話なのか。当初は部活への気持ちは薄かったが、誘われたことを渡りに舟と入部し、目前の就職活動に備えて体育会出身の箔付けを施したかったか。一般に就職活動では不利と言われる文学部在籍でもある。
 いや、待て。出会ったころのやりとりを思い出す。
〈僕は東大史上、最強のエースになりたい〉〈だから呼び方はゼットンで〉
 あらゆることが、さも約束された出来事であるかのように告げる冷静な語り口。負の要素とはおよそ縁遠いような涼しい目もと。その瞳にけれん味は感じられなかった。
 ――よし。
 早稲田戦はこのまま出場させる。そのうえで、もしなにか問題が発覚したならば自分が全責任を負う。野木は表示していたスマホ画面の棚橋の電話番号を消した。

15

 早稲田大学対東京大学戦――。神宮球場に初夏のさわさわとした涼風が吹いていた。観客数三万一千人。アマチュア野球のカードとしては異例の大入りとなった。「VにM1」と大書された横断幕とチームカラーのライトブルーの小旗が東大応援席にはためく。ネット裏にはOB連中を引き連れた柿澤や緑山らが東大の野球帽をかぶり陣取った。テレビ関係者らしき人物と並んだ深草の姿もあった。特設放送席では冷静さが売りのはずの公共放送の男性アナウンサーが興奮を含んだ口調で実況を始めた。
〈プロ野球が職業野球として国民的な人気に育つまで、東京六大学野球リーグは大衆の娯楽の中心であったと言われています。なかでも早慶戦は勝ち負けが子どもたちの話題になるほど関心を集めたとされています。そんな、わが国のスポーツ界を引っ張ってきた六大学の悠久の歴史の中でこれまで唯一、優勝経験のない東大がきょう歴史に名を刻むかもしれません。この早稲田大学対東京大学戦で東大が一つ勝てば悲願の初優勝。東大野球部も六大学リーグも未来に向けた新たな一歩を踏み出すことになります。球場全体が、これから起こるかもしれない歴史的な一瞬を見届けようという緊張感と期待感に包まれている気がします。きょうは内外野ともほぼぎっしりと埋まり、大相撲で言えば満員御礼のような状態です。私ごとでたいへん恐縮ですが、高校で野球部でありました私もなんとも言えずわくわくしてきました。本日のゲスト解説は元学生日本代表監督で社会人の山門石油監督の伊東和俊さんにお願いしました。実況はわたくし、松林でおおくりします。伊東さん、きょうはよろしくお願いします〉
 アナウンサーは解説者と軽く会釈を交わすと試合開始まであと二十分と告げた。テレビ画面は早稲田と東大のこれまでの試合映像に切り替わった。

 ダグアウトのベンチで野木は東日新聞を広げた。社会面に大きな見出しが踊っている。
『怪獣退治か歴史的快挙か 神宮のウルトラ劇場 優勝かけ早東きょう初戦』
〈東京六大学野球に突如出現した怪獣投手を擁して創部初の優勝に一丸の東大に対し、早稲田のウルトラマンたちが怪獣退治に手ぐすねひいている〉
 そんな書き出しで、この日の大一番を分析するユニークな記事が載っていた。記事末尾の(秋野彩)の署名が目に入った。こぼれた笑みとともに新聞を脇に置き、対戦相手の先発メンバー表に目を通す。
 資料をもとに出身校をみてみる。桐蔭学園、帝京、天理、報徳学園、日大三、智弁和歌山、それに早稲田実業……。きら星のごとく甲子園常連校が並ぶ。
 早稲田にスポーツ推薦入試がない時代、教育学部に体育学専修という事実上の体育学部があった。学科試験のほかに体育実技も課すことによって、野球やサッカー、ラグビーなどの強豪校の運動選手だった受験生が合格しやすい環境づくりはしていたが試験は試験である。総合的に得点を稼がなければ合格などおぼつかない。ちょっと昔のプロ野球の早稲田OBたちは高校野球引退後にはバットやグローブを参考書に持ち替え懸命に勉強したと聞く。しかるに現在はどうだ。有力な高校の選手たちをごっそり推薦で入学させている印象がある。
 野木は、甲子園組の球児と高校では無名でも一般入学後にレギュラーをつかんだ部員が入り交じるかつての早大野球部が好きだった。エリート組と雑草組が競い合うところなど、まさに進取の精神を気どるこの大学らしい自由闊達さがあるように感じたからだ。推薦制度の結果とはいえ、プロ予備軍のようないまの早稲田に共感はわかない。
 交換メンバー表をダグアウトの壁にピンで留め、バッテリーを呼ぶ。対戦相手全員が危険な存在ということは確認するまでもなかった。打線に切れ目がなく、投手目線で気を抜けるような打者は一人もいない。相手先発の石岡は棚橋や伊ケ崎も打ちあぐむであろうプロ注目の速球派である。今季の三勝はすべて七回以上を投げており、安定感に加えスタミナも十分。打ち崩すのは容易ではない。
 秋野記者の言葉が脳裏によみがえる。
〈誰がウルトラマンになれるかなあって思って……〉
「おいおい、こりゃみんなウルトラマンじゃないか。ウルトラ九兄弟かあ? カラータイマーが点滅するどころか、あっという間にこっちがやられて、はい、きょうの番組はおしまい、かもな」
 野木のジョークに伊ケ崎は咳き込みながら大笑いし、棚橋もつられて笑みを浮かべた。
 そうは言っても、こちらはゼットン投手の力投がすべてだ。相手打線の丹念な分析は欠かせない。
 選手名を一つひとつ示し、細かく指示を出す。
「まず、一番の足の速い倉吉はランナーに出したくないな。盗塁警戒ということもあるが二番の堀川が当たってるからな。あの選手は小技もうまい。セーフティーバントや流し打ちでうまくつながれるとクリーンアップですぐ大ピンチだ。三番の島津は振り回すだけの粗いバッターだったのに今季はこつこつ当てて率を稼ぐいやらしいバッティングをしている。追い込まれても進塁打にしたりして粘っこい。投手には嫌なバッターになった」
 伊ケ崎と棚橋が同時にうなずく。早稲田の好打者・二番堀川は今季、リーグ記録を更新する勢いで安打を放っている。好調さを考えると一塁に走者がいても定石通りに送りバントはしてこない可能性が高く、この堀川を自由にさせてしまうと1アウトすら計算できず、やっかいきわまる。
「いいか、うちが勝つには先行逃げ切りしかない」
 戦略を具体的に伝える。
「先取点を取られないようピッチャーが粘り、一人ひとりのアウトを積み重ねる。その間に先取点を狙う。前季のうちの早稲田戦は、二試合とも過去のうちの戦い方と同じように序盤で4失点を二回連続とか一挙7失点とか早々にビッグイニングをつくられて簡単に勝たせている。今シーズン、うちは生まれ変わったんだ。もうかつての東大じゃない。大量失点を回避しながら中盤以降、互角の戦いに持ち込めば勝負になる」
 描いた試合の流れを俯瞰し、自身のシナリオを説明していく。
「うちが今シーズン勝ち進んでいるからといって、相手は東大には一定のイメージを持っているだろう。珍しく本格派投手が出てきたけど、決して打てないピッチャーじゃない、東大以外にはふつうにいるピッチャーであって、そういうピッチャーをわが早稲田は打ち崩してきてる。まあ世間がなんと言おうと、しょせん東大だ、最後は力のある自分たちが打ち勝つ、とかな。そんなやつらに、こんなはずじゃない、なんか変だ、なんかいつもと違ってる、という気持ちにさせるんだ。点をやらない回を重ねるように持っていこう。リードされて終盤にもつれこめば、いかな強力打線でも打者は焦り始める。バッティングに微妙な狂いが生じてくる。それが野球だ。先取点を奪えれば理想的だがゼロゼロでもかまわない。フィットネスをかじる私が言うのもなんだが、野球ってのは究極のメンタルスポーツと思う。相手に勝機を与えないで勝機を探るんだ。とにかく粘ろう、粘って粘ってまた粘って、だ。けさ食った納豆みたいに」
 伊ケ崎の喉がこくんと動き、唾を飲み込むのがわかった。ここまで話してから、最も重要な試合のポイントをあげる。
「それでだな、やっぱりこいつだな。こいつをどうするかだ」
 人差し指をメンバー表の四番打者に押し当てる。
 高山良太――。
 秋のプロ野球ドラフト会議の目玉とされる右投げ左打ちの大型内野手。高校時代は無名だったが早稲田に進んで徐々に素質が開花した。三年春のベンチ入りと遅咲きデビューだったにもかかわらず、いきなりの二打席連続弾を含むこれまで六本塁打を放ち、にわかに注目株となった。安打を量産した昨秋は首位打者にも輝いている。野球センスと身体能力の高さから、早大OBの元阪神タイガースの鳥谷敬選手の再来と言われ始めており、前節の慶応戦でも本塁打を放つなど好調をキープしていた。
「高山に対しては、そうだなあ……」
 まともに勝負を挑める相手ではなかった。通算アベレージの四割三分もすごいが、こういう短期決戦では絶好調のピークとも重なってさらに打ちまくる可能性がある。早い話が、すべての打席でタイムリーを打たれる危険性だってあるのだ。
「とにかく、こういうバッターには、投手は力任せにぽんぽん投げ込まないことだ。ピッチングが単調になるのが一番いけない。逆に言うと捕手は慎重すぎるほどの細心のリードが必要ということでもある。試合の流れをよく見ながら対処したい。勝負を急ぐことだけは避けよう。ゼットンの持ち球は全部使ってでもじっくりと攻めるんだ。どうせ相手はゼットンの真っすぐ一本に絞って待っている。勝負どころで、これまで投げていないカットボールやツーシーム、カーブを使ってみるのもありかと思う」
 すでにリーグも最終盤。多くの試合が消化され、見えている要素が多い。言わずもがなの感はしたが念のため口にした。
「それにだ。開幕当初に対戦した慶応や明治の打者たちはゼットンの東大投手と思えない快速球に面食らったろうが、早稲田はじっくり対応する時間があったはずだ。おそらくDVDに映しこまれて丸裸にされてる。ストレートで一本調子に押すだけじゃ、かなり危険だ。さっきも言ったが、変化球や遅い球をいつも以上に有効に使ったほうがいい。なんせいまどきの投球マシンときたら、160㌔に設定できるやつだってある。ゼットンの真っすぐも、イチ、ニの、サンで振ってこられるとカツンと当てられるかもしれん」
「うっす」。坊主頭が威勢よく答え、棚橋も口元を引き締めた。
 ――ん?
 浮かんだものがあった。棚橋の顔にほんの一瞬。クールがトレードマークの男だ。試合前に、いや試合でなくとも、これまでそんな感情のほとばしりのようなものをのぞかせたことはなかった。これから戦う緊張感か、それとも強敵へのおそれか、はたまた彼なりのファイティングスピリットの発露か。どれも違う。監督室で味わったいやな感覚がまた、ずんと胸に覆いかぶさってきた。良心の呵責? 出場資格がないことを隠し続けていることに対する……。
 それだけはあってはならない。野木は懸命に考えを打ち消した。

「ガンバレ、ガンバレ、トー、オー、ダ、イイー」
 応援スタンドのエール交換の歓声でわれに返った。反対側のベンチに目をやると早稲田のベテラン監督が報道陣に囲まれていた。その人は九年間にわたって母校早大の監督を務めたあと、社会人チームの総監督として手腕をふるい、昨年また大学野球に復帰した。うんうん、とうなずきながら質問をさばく様は遠目にも堂に入ったものだ。威風堂々としたその態度物腰は、同じ指揮官でも実績のまるでない野木を威圧しているようにさえ見える。その名将はしかし、けさのスポーツ新聞にこうコメントしていた。
〈よもやの東大との優勝争い? いやいや、うちはうちの野球をやるだけですよ。べつに相手が東大さんだからといって意識はしていません。うちが優勝するためなら相手が慶応だろうが明治だろうが法政であろうが、目の前にいる相手を倒す。ただそれだけのことです。世間のみなさん、東大、東大と盛んにおっしゃいますが、みなさんが思ってるほど、とりたてて意識するようなことじゃありません〉
 その行間には、優勝を左右する試合を、こともあろうに東大としなければならないという、いかにも不本意な心情がにじみ出ていた。
 ――勝ちたい。
 開幕前に抱いた痛烈な思いが野木の胸によみがえった。

 一回。先攻の東大の攻撃は三者凡退。その裏の早大の攻撃。マウンドに棚橋が小走りで向かう。肩まで伸びる茶髪が初夏の風にそよいだ。「頼むぞー、ゼットーン」「菊川怜も来てるぞー」。東大応援席の声援が大きくなった。『ゼットン』をデザイン文字にしたボードを手にした観客も目立った。棚橋がふりかぶり、長い左足をあげて第一球を投げ込んだ。内角高めのストレート。ストライク。球速表示は157㌔。空気との摩擦で火花が出るような速球に「ウオー」という歓声が東大側からわき、早大スタンドからはどよめきが起きた。
 棚橋も先頭の倉吉を三振、堀川と島津を凡打にうち取った。二回、東大は石岡の力のある直球に翻弄され三者三振。その裏、早大は高山が中前打したが後が続かない。三回。東大は七番の井上が四球を選ぶが、送りバント失敗。下位にすわる棚橋も凡フライに終わり、得点できず。この回の裏、棚橋は早大に連打を浴びたが後続を絶った。四回、五回も動きはなかった。
 五回を終了して両校ともゼロ行進のままだった。ヒットは東大が田中の内野安打一本のみ。早大は棚橋から五安打した。
 グラウンド整備の間、アナウンサーが解説者に問いかけた。
〈両チームとも予想通りというか、ピッチャーのできがよく、互いに譲りません。伊東さん、これは投手戦といってよろしいんでしょうね〉
〈まあ、そうでしょうね。ただ、見た感じでは、球が走っている早稲田の石岡君に比べ、きょうの東大の棚橋君の球は全体的に高い感じがします。いい時の彼の真っすぐはもっと低めにびしっと決まっていた気がするんですが、きょうはそれがあまり見られませんね。変化球が多いのも相手をかわす緩急というより、真っすぐの球威がもう一つということがわかっているので変化球に頼らざるを得ないというところかもしれません。いずれにせよ本来の調子ではない感じがしますね〉

 野木は伊ケ崎を呼び寄せた。
「イカ、ゼットンの調子はどうだ」
「うす、真っすぐがちょっと……」
 伊ケ崎が汗まみれの顔を拭きながら言いよどんだ。
「直球がきれていないということか」
「そんな感じっす。球速はそんな変わんないと思うんすけど、球威というかいつもの重い球質がちょっと軽い感じっす」
「これまで先発兼四番打者でフル出場だからな。いかにあいつでも疲れはピークのはずだ。スライダー、チェンジアップにカーブも持ち球なんだからさらにもっと緩急を使おう。ツーシームも投げられると本人が言ってるし、ここからは力で押すというより、あいつのスタミナを温存させる投球術でいこう。ここまではこちらの狙い通りの展開なんだから、ゼットンになんとか持ちこたえてもらうしかない。それと、ここまできたらどうにかして援護もほしいな。先制したら、あいつもぐっと気合が入るだろう」
 伊ケ崎は二度三度うなずき、タオルでごしごしと黒い顔をこすった。

 両校スコアレスのまま進んだ八回表、東大に大きなチャンスが訪れた。一死後、大津が放った平凡なはずのセンターフライを中堅手がグラブに当てながら後ろにそらし、打球がフェンス近くまで転がる間に大津は俊足を飛ばして三塁に滑り込んだ。どうやら太陽光が目に入ったらしい。中堅手はいったんベンチに下がり、サングラスをかけて戻った。早大には不運だったが打てない東大にはビッグな贈り物になった。試合終盤なので早大からすれば1点も与えられない。内外野とも定位置より前で守る前進シフトをしいた。

 相手のバントと内野ゴロ警戒は明らかだった。しかし、野木はあえて初球バントとゴロゴーのサインを出した。「ゴロゴー」とは、打球が転がる、もしくは転がると確信したと同時に三塁走者が本塁に突っ込む一種のギャンブルスタートである。バットに球が当たった瞬間に走者が走る「当たりゴー」よりは成功確率が高いとされる。成功すれば1点を争う緊迫した試合ほど効果的な得点になるうえに相手にも心理的ダメージを与えられるので、いまの野球では盛んに使われる。それにこういう場面では、えてして内野手はバントの構えから投球と同時にヒッティングに切り替えるバスターを警戒する。それもあると考えていた場合、打球へのチャージがワンテンポ遅れて打球処理にもたつくことがある。それも狙いだった。初球に大きく外にはずされてしまったらジ・エンドだが、そうなったらそうなったまで。腹をくくった。

 代打の上遠野が内角胸元への厳しい直球をのけぞりながらうまくバットに当てた。勢いのない打球が三塁線に転がる。瞬時にゴロと判断した大津がホームに突入した。返球を受けた捕手のタッチをかいくぐるように本塁ベースを左手でこする。砂ぼこりの中で球審の手が横に広がった。間一髪セーフ。大津は小躍りしてベンチに戻った。東大応援席に大歓声が渦巻き、小旗が打ち振られた。
 1対0。棚橋は八回裏の早大の反撃をこの回二安打されながらもなんとか踏ん張り、リードを守った。九回の東大の攻撃は棚橋からだったが打つ気配は見せず三振。後続も倒れた。

〈さあ、いよいよ九回裏。早稲田の最後の攻撃です。大変なことになってきました。東大はたった一安打しかしていませんが相手守備の乱れにつけこむ形で1点をリードしています。早稲田は好投手の棚橋から九安打。しかし、もうこの回しかありません。伊東さん、早稲田としてはどうすればいいんですか〉
 アナウンサーが解説者にコメントを振った。
〈とにかくランナーを出して得点圏に進めることですね。どんな形でもいい。二塁まで走者を送って、棚橋君にプレッシャーをかけることです。東大の選手たちはこんなしびれる試合を経験してないですからね。1点とったことで、守っててかなりの重圧がかかってると思いますよ。この1点を守りたい、守り切りたいという心理がどうしても働きますしね。硬くなると守備にミスが出たりすることもありますから、四球でも敵失でもなんでもいい。まず塁に……〉
 解説者のコメントが終わらないうちに早大スタンドがわいた。棚橋が先頭打者に四球を与えた。投げ終わった後、幅広の肩が上下に大きく揺れていた。

 ――ひとつ間をとれ。野木は伊ケ崎にサインを送った。
 いやな展開だった。プロ野球でも「先頭打者へのフォアボール」は投手のエラーとよく言われる。統計的にどうなのか知らないが、得点が入る印象は確かにある。サッカーなどと違い、試合を中断できるのが野球の利点だ。使わない手はない。

 ベンチの指示を察し、タイムをとった伊ケ崎がマウンドに行きかけたが、棚橋が手で制した。すぐに試合再開となる。次打者は巧打で鳴らす倉吉。盛んに送りバントのポーズを見せているが信用はできない。案の定、初球の145㌔を強振しファウルになった。解説者がきちんとバントで送るべきだと苦言を呈した。しかし、倉吉は二球目の変化球をきれいに流し打ち。打球は一塁と二塁の間を抜け、右翼手が打球を一瞬ファンブルするのを見て倉吉は判断よく二塁を陥れた。この間に一塁走者は三塁まで到達した。
 無死二塁三塁。打者走者に二塁まで行かれたのは東大には痛かった。併殺網が崩れて上位打線を迎えねばならない。解説者の言う守備の不安が露呈した形となった。東大にとって、あっという間にサヨナラ負けの状況ができあがった。ライトブルー一色に染まる応援席が静まりかえった。

 流れは向こうに行きかけている。なんとか引き戻さなければならない。
〈もう一呼吸おけ〉。野木は伊ケ崎にまたサインを出した。
 サインに気づいたらしい主将が、再びタイムをとってマウンドまで駆け寄った。キャッチャーミットと右手でメガホンをつくって棚橋となにか話している。棚橋は右腕をぐるぐる回し、「だい・じょう・ぶ」の仕草を繰り返した。伊ケ崎はミットでぽんと棚橋の腰付近をさわり、守備位置に戻った。

 セットポジションの棚橋が二番堀川と対峙する。直球で初球142㌔。二球目140㌔。続けて手を出した堀川のファウルですぐに追い込んだが、序盤で連発した150㌔が出ない。握力も低下してきたのか球が高めに抜け出していた。伊ケ崎がミットを下に向け、「低めに、低めに」のジェスチャーを連発する。スライダーがはずれて二球ボールのあと、ウイニングショットに選ばれたのはチェンジアップだった。直球と同じ腕の振りで球速を抑えたふわりとした球がミットにすとんと収まり見逃し三振。伊ケ崎のサイン通りだろう。速球にヤマを張っていたらしい堀川は投手に一瞥をくれてからベンチに下がった。
 続く三番の島津は初球の内角に甘く入ったように見えたスライダーを打ち損じ、平凡な内野フライ。すぐさま審判からインフィールドフライが宣告された。二人の走者は動けない。二死までこぎつけた。東大スタンドが息を吹き返した。「あと一人! あと一人! あと一人!」。地鳴りのようなコールが球場を揺らした。
〈ここまで早稲田は小細工をせず正攻法で攻めています。打線に自信があったのでしょうか。それとも伝統の力がそうさせるのか。ただし、もうツーアウト。東大はあと一死をとれば歴史に新たなページをつけ加えることができます。早稲田はあとがありません。しかし、続くバッターは……〉
 アナウンサーの言葉に覆い被さるように場内アナウンスが流れた。
〈四番、ファースト高山君、祥陽高校〉

 こんな場面で一番対戦したくない相手だった。六大学、いや大学球界一のスラッガー。この試合こそ安打は単打の一本だけだが、二塁と三塁に走者がいるので、その単打が出ただけで試合は逆転サヨナラで片がつく。広角に打てる打撃術とスタンドまで運ぶパワーを備えた典型的な中長距離打者だが、この局面では確実に単打狙いでくるだろう。ただし、一塁は空いている。五番打者も怖いバッターだが高山とはステージが違う。
 ベンチの最前列で前の回から立ちっぱなしだった野木はサインを送った。
〈敬遠〉
 ベンチをちら見した主将がキャッチャーマスクをかぶり直した。

 一球目、外角に大きくはずれたボール。二球目も直球がほぼ同じコースに収まった。早大スタンドから猛烈なヤジが飛び始めた。「よーわむし、よーわむし」。敬遠を揶揄する痛烈な弱虫コールの中、三球目は捕手が立ち上がるような姿勢で球を受けた。早大側のヤジに怒号も交じった。
 四球目。球場がどよめいた。パッシーン。伊ケ崎があわててストライクゾーンに構え直したミットに軽快な音とともに直球が吸い込まれた。ストライク。球審の右手がさっと上がった。149㌔と球速表示が出た。

 球を見送った左打席の高山がバットを構えたポーズのまま捕手に顔を向けた。棚橋同様、鉄仮面が看板の男の視線が伊ケ崎の顔をさっとなめたように見えた。
 あいつ……。野木は舌打ちした。敬遠と伝えたはずだ。もう一度サインを徹底させに伊ケ崎をマウンドに行かせるか。

 五球目。バッスーン。ミットに派手な乾いた音を残し、高山の膝元あたりの厳しいコースにストレートが決まった。148㌔。野木が指示するより前に伊ケ崎がマウンドに駆けだした。

「バカヤロー、なに考えてる!」
 スキンヘッドが吠えた。
「監督から敬遠のサインあったろう。おい、いまの二球はなんだ」
「…………」
「なに考えてんだと言ってんだ。ベンチの指示は敬遠だ。おいっ、ゼットン、答えろ!」
「勝負する。必ず俺が抑える」
「な、なんだとう、サインを無視しようってのか、ふざけるな!」
「必ず俺が抑える。心配するな、お前は次の球を受けるだけでいい」
 拒絶反応のように伊ケ崎の太い両腕が左右に広がった。
「ここは敬遠だ。いいか、よく聞け! 俺はベンチのサインにうなずいた。なぜだかわかるか。お前の球威が落ちてるからだ。俺はお前の球を開幕からずっと受けてる。だからよくわかる。開幕のころより明らかにスピードもキレもない。無理もない。お前は慶応の牧野や法政の加藤、明治の大森といった四番打者たちと力勝負をしてきた。あいつらウルトラマンとの戦いで、わが東大の怪獣ゼットンはスペシウム光線を浴びすぎてんだよ!」
 内野スタンドに伊ケ崎が顔を向けた。
「おい、あの大応援団を見てみろ。スタンドがブルー一色だ。早稲田の方にさえブルーの旗がある。外野だって半分以上そうだ。いままで想像もできなかったすごい光景だと思わんか。永遠に夢としか思えなかった俺たち東大野球部の優勝を見届けようと来てくれてんだ。全国のOBやOGもいまテレビを見てるはずだ。あとワンナウトでかなうんだ。ワンナウトだぞ。高山がすごいバッターなのは言うまでもないが左打ちだ。お前の球はただでさえ見極めやすい。一塁があいてんのは神様がきっと俺たちを勝たせようとしてくれてるんだ。次の右の五番でうち取ろう」
「勝負する」
「バッカヤロー、なぜそこまでこだわる!」
 血相を変えてにじり寄った伊ケ崎の耳元で棚橋の口元が動いた。とたん、伊ケ崎が二、三歩よろよろと後ずさりした。
 球審が駆け足で近寄り、身ぶりで伊ケ崎に早く守備位置に戻るよう促した。

 ――くそっ。
 バッテリーを凝視していた野木はスパイクでベンチの床を蹴った。いまこの局面で投手と捕手がじっくり話し合うことなどなにもない。敬遠。そう指示した。それなのに、なにをぺちゃくちゃ、やってやがる。

〈さあ試合再開です。1点を追う早稲田はツーアウトながら二塁三塁に走者がいます。一本出れば逆転サヨナラ勝ちの大チャンス。一方の東大は抑えれば悲願の初優勝。バッターは四番高山。カウントはスリーボール・ツーストライクのフルカウント。これ以上の場面はありません。六大学の新しい歴史がかかった、まさに大一番にふさわしい最高の場面となりました〉
 興奮を隠せない実況アナウンサーに呼応するように解説者が合いの手を入れた。
〈もしかしたら、今シーズンのすべてを象徴する場面かもしれませんね。地力からみて東大はもう、いっぱい、いっぱいでしょう。ここで勝てないと、あす以降の勝利も苦しいですね。東大にとっては、ここで守り切って優勝か、打たれて負けて優勝に逆王手をかけられてしまうか。私も長いこと大学野球を見てきましたが、これほどまでに極端な場面はちょっと記憶にありません〉

 ドン、ドン。野木はたまらず右拳の底で自分の右胸を二度たたく仕草をした。〈サインは了解したか?〉。ピンチの時に監督が全選手に伝達する東大独自の守備体系確認の合図だ。
 ベンチに目を向けた伊ケ崎が同じようにこぶしで右胸を突いた。
〈敬遠で次打者勝負を了解〉。よおし、それでいい。腕組みをやめて腰に手を回し気持ちを落ち着かせる。
 棚橋が背後を一度振り返ったあと、捕手に向き直った。内野手たちも腰を落とす準備に入った。
 ――頼む。不満だろうがなんだろうがここは敬遠しかない。相手はセンス抜群のスラッガーだ。中途半端にはずしては危ない。バットの届かない遠いコースにボール球を投げろ。噛みしめた歯で下唇が切れ、ぬめっとした血液の感触が野木の口中に広がった。

 棚橋が投球動作に入ろうとする前の一瞬の間だった。
 するりと左手のグラブをはずし右にはめた。投球姿勢がそれまでと逆になった。セットポジションで静止するやいなや、間髪おかず投げ込んだ。
 アナウンサーの絶叫が放送席に響き渡った。
〈あっ、あー! 左で投げたあ!〉
 左腕から繰り出された直球が左打者の外角ストライクゾーンをかすめるようにホームベースを通り過ぎていった。バットを出しかけた高山はスイングの軌道を途中で止めたまま見送った。
「ストラック、アウト!」
 球審が大声でコール、右手が高々と挙がった。
 伊ケ崎がバンザイのポーズをしたままマウンドに向かって突進し、棚橋にお尻から体当たりした。上遠野や田中や大津や今野が続いた。野木も控え選手も記録員もベンチ全員が飛び出した。くしゃくしゃにゆがんだ顔だらけの中で棚橋だけが控えめな微笑を浮かべて両手を突き上げた。
 アナウンサーの声は枯れてしまいそうだった。
〈東大勝ちました! 東大勝った! 東大、悲願の初優勝。初優勝です! 史上初めて六大学野球を東大が制しました。なんということでしょう、ほんとうになんということでしょう。東大のピッチャーのウイニングショットはそれまでの右腕ではなく、なんと左腕から投じられました。おそらくは誰も予想していなかった東京六大学野球春のシーズンの東大優勝。その瞬間は、これもまた誰も予想しなかったであろう劇的なシーンから生み出されました!〉

 無数の紙吹雪が舞うネット裏で、目をつぶり腕組みをした柿澤の肩を緑山が右手で抱きかかえ、添田といっしょにむせび泣いていた。他のOB連中も人目もはばからず涙を流している。テレビ局関係者風の人物に抱きつかれて上半身を揺らす深草は眼鏡をはずし、目もとをぬぐっていた。
 歓喜の胴上げが始まる。生まれて初めて野木は仰向けの姿勢から青みの残る神宮外苑の空を見た。こんなにも東京の夕刻の空は美しいのか……。選手に空中に放り出されている間も優勝の実感はわいてこなかった。七〇㌔の自分の体はさぞや軽いだろうなと場違いなことが頭に浮かんだ。

 早大ベンチ前では、こわばった顔で引きあげる主力選手たちを報道陣が取り囲んでいた。記者の一人が高山に尋ねた。
「まさか左で投げてくるとは、さすがの高山君も想像できなかった?」
「そうですね……。いや、あいつなら」
「えっ、と言うと?」
 言葉尻に疑問を持った記者の再質問には答えず、高山はベンチ奥に消えた。

16

 優勝祝賀会は午後六時半からだった。大学近くのシティーホテルが会場となっている。
 野木はホテルの別室で添田と向かい合った。二時間ほど前。野木とともに優勝の記者会見に臨んでいた添田の目はまだ赤く充血し、はれぼったくなっている。会見中、野木の横でずっとハンカチを目に押しあてていたのだから致し方ない。全身これ理論のはずの物理学者がこんなに感情を表に出すものなのかと野木が驚くうれし泣きぶりだった。
「なあ野木君、優勝って、ここまで感激するものなのかと、当たり前だけど初めて知ったよ。もらったことないけど、ノーベル賞受賞に匹敵するレベルと言っていいんだろな、こりゃ」。生真面目な顔が自分のジョークに自分で反応してふっと笑った。
「よかったじゃないですか。優勝して泣くなんて、うちにはありえなかったわけですから、心の底から感動したり感激するのは無理もないですよ。記者会見も無事に終わったことですし、好きなだけ泣いてください。野球部長なんですから、優勝して泣きすぎるくらいうれし泣きしていたって誰も文句は言いませんよ」
「いやあ、もう、球場の出口で柿澤会長のお顔を見た時は感極まってしまってねえ。会長の目も潤んでおられたな。鬼の目にもなんとかというやつだ。私もスタンドで泣いたのに会長にお目にかかってまた涙腺が緩んでしまってね。涙、涙というやつだったよ。そういや、君の方は涙なんか少しも見せなかったな」
「私は自分でも不思議なんですが、そこまでの感動はなかったですね。胴上げされてる時は、ああ試合が終わったなあという気持ちと、それにしても神宮の空はなんて美しいんだろう、宇宙飛行士はいつもこんな青い地球を見てるんだろうかと思いました」
「おや、そうなのか。そりゃまたずいぶんクールだな。なんだかゼットン投手みたくなってきたじゃないか。いっしょにやってるうちに似てきたな」
 白い歯をのぞかせておどける野球部長にあいまいな笑みを返しながら、野木の脳内は別の動き方をしていた。
 棚橋の素性がどうしても気にかかる。いつ本人を詰問するか。祝賀パーティーのあとか、最中か、それともその前か。どう切り出すか。そのあとは……。
「あ、そうだ、野木君。さっき、ホテルのロビーで早稲田の石井理事と会ったよ」
 添田が話題を変えた。
「差し入れを持ってきてくれた。あの男、あれで案外いいところがある」
「それだけですか、用向きは」
「もちろん違う。例の連盟提案は取り下げます、だとさ。タヌキだと思っておったが、その時ばかりはコアラのように愛嬌があったな」
 添田は愉快そうに笑った。
 一件落着――。この瞬間、本来ならなにもかもがそのはずだったのだ。なのに、このもやもや感をどうとらえたらいいのか。息苦しさを覚え、野木はごほっと空咳をした。
「さ、行こうか。そろそろだぞ。こんな時は時間がたつのが早い」
 腕時計に目をやった添田が快活に言った。野木は達成感が減殺された気分のまま、軽い足取りで大ホールに向かう添田の背中を追った。

 祝賀会場は華やかさで包まれていた。なんと言っても泣く子も黙る東大である。政界や官界、経済界などに確固たる地歩を築き、各方面のリーダーとなっている卒業生は数限りない。ホール入り口にはずらりとお祝いの花が並んだ。宴会場のテーブルには企業経営者や国会議員、中央省庁幹部らから差し入れられた山海のごちそうが山のように盛られ、ホテル側が用意した心づくしのオードブルがかすんでしまうほどだった。
 大学当局と野球部関係者のあいさつや選手紹介。東大出身の著名人や東大となんらかのゆかりがあるらしい来賓のメッセージとその代読披露。全開の祝賀ムードが延々と続く。男女の陽気な笑い声が織りなすさんざめきが大ホールに渦巻いた。白井は、といえばムービーカメラマン役をおおせつかり、あちらこちらせわしなく動き回っている。なんともはや器用な男と言うしかない。
「監督、やりましたね、ついに。おめでとうございました」
 背後で聞き覚えのある声がした。スポーツ日報の腕利き記者、杉浦が笑みをたたえていた。
「いやあ、ほんとうにお世話になりました。杉浦さんがあの時、私たちに話してくれなかったら、この結果はありません。東大野球部にとって、杉浦さんはまさに命の恩人のようなものです」
 差し出された右手を握り返し、野木は本心から礼を言った。怪獣投手ゼットンと野球部を橋渡ししてくれた因縁の男。すべてはここから始まったと言える。「恩人」は決してオーバーな表現ではない。
「いやあ、これはまさに東大ナインが棚橋君を中心に全力を結集した結果ですよ。こんな仕事をしてても、歴史的な優勝に立ち会えるなんてことはめったにないですからね。記者冥利につきますわ。俺は早稲田なんだけど、あの試合は本気で東大を応援しましたよ。俺も縁があっての今回のできごとなんで、情も移りますしね。最後のシーンなんか、はらはらどきどきと言うか、見てられないくらいだったな。中高年の心臓にこたえましたわ。いやあ、ほんとめでたい」
 選手がたむろするひのき舞台に顔を向け、杉浦は目を細めた。
「それにしても監督、あんなすごいのが一般学生の中に実際にいたとはねえ。事実は小説より奇なりを地でいく話ですねえ。俺も長いことプロやアマの野球選手を取材してるけど、あんな素材にお目にかかったことはなかったなあ。二刀流の大谷も真っ青、というやつだ。よくぞ監督が部に引き込んで育てたもんです。ま、おかげで俺らスポーツマスコミはとたんに忙しくなりましたけどね」
「いや、やはり杉浦さんがきっかけです。杉浦さんがゼットンという新エースを掘り当てたのと同じですよ」。重ねて野木は謝意を伝えた。
 俺らマスコミも忙しくなった――。そうこぼした杉浦は棚橋の身辺について、あれからどこまで取材しているのだろうか。そんな気持ちがわいた。あとからなにかつかんだ情報はないのか。聞いてみる手はある。
 初優勝に至った歴史的なリーグ戦を二人でしばし振り返りながら、野木はしばらく談笑につき合った。話の流れをみて棚橋に話題を戻し、さりげなく杉浦記者による棚橋の前歴のつかみ具合に探りを入れるつもりだった。
「そうそう、野木監督、連盟が棚橋君に関心を示しているようですよ」
 どきりとした。
 ――関心? 一般的に警察や検察庁などが主語にならない限り悪い意味にはとれない表現だが、いまの野木には素直に受け取れない。
 関心とはどういうことか。
 ただ、相手の方から話を振ってくれた。ここは突っ込みどころだ。
「杉浦さん、それ……」。問いただそうとした時、杉浦の携帯電話が音を立てた。
「ちょっと失礼。はい、杉浦です。ああ、いま戻ります。大丈夫ですよ、わかってますって。原稿三本で全部で二百行くらいあればいいんでしょ。社に上がったらすぐやっつけますから。だいたいの原稿はもうつくってますんで。いや、ここから地下鉄で四駅なんですぐです。だから大丈夫、ご心配なく」
 あきれたように杉浦は首を振ると、右手の空のビールグラスをたんっと音を立ててテーブルに置いた。
「まったく、小心者のデスクには困ったもんだ。春の行楽の交通渋滞を見越して新聞輸送トラックが早めに出るから締め切り時間も早いとか、原稿の分量はどうすんだとか、なんだかんだ細かいんでやりにくいったらありゃしない。監督、またお会いしましょう」
 質問するいとまも与えず杉浦はきびすを返した。

「あのう、深草先生がさっきから監督を探してました。『繭村君、監督見なかった? どのあたりにいるのかな』なんて言って」
 サブマネの繭村が近寄って来て、野木に小さい声で告げた。下の名前が恭佳という男性っぽい字を書くが、いつも控えめで奥ゆかしさを感じさせる女子学生だ。深草の性格を知っているだけに早くも野木を気遣うような表情になっている。
「あ、そう。わかった。じゃあ、私も探してみるよ」
 野木は場所を移動した。
 深草はホールのひな壇近くで来賓らしき人物と歓談していた。いつものように眼鏡をつけたりはずしたりしている。野木の姿が目に入ったらしく、来賓に断りを入れて中座するそぶりをしたあとで近づいてきた。
「野木監督、このたびはすばらしい結果を出していただき、野球部副部長として改めて感謝申し上げます。えもいわれぬ初優勝でした。私なんか感激のあまり、ところどころ試合の記憶が飛んじゃっててまして。あとでうちはほんとうに優勝したんだよなと周りに確かめたくらいなんです」
 ふだんの皮肉っぽい口調が影をひそめている。
「人生でこんなに感動したのは女房と結婚した時以来だったですよ。あの最終回ですけど、正直見てられなかった。ヒットを打たれたら、優勝どころかサヨナラ負けですからね。もう怖くって目をつぶってしまい、優勝のその瞬間は、大歓声でこんな風に恐る恐る目を開けたんです」
 アルコールでほんのり朱に染まった頰の筋肉をゆるめ、深草は眼鏡をとって目をしばたたかせるまねをした。
「いやいや、深草先生たちに部総会で入部をお認めいただいたからこそ、ですよ。白状しますと、深草先生のおっしゃることに私は理論的にはなんら反論材料を持っていなかったんです。あの時、遅れて来た新人について、入部させたい根拠をもっと具体的に示せ、と先生に突っ込まれていたならギブアップでした。私の方こそ感謝しているしだいです」
 お愛想ではなく本音を返した。
「そう言ってもらえるのはありがたいんですが、私自身は、ちょっぴり反省しているところがございましてね」
 一瞬視線をはずした深草が意外なことを口にした。
「反省? といいますと」
「ま、私の持論と言いますかね、かねてより野球部監督はOBじゃないとだめだ、と強く思っていたところがありましてね。だから野木監督が誕生した時なんかは、夏合宿の猛練習で血反吐の一つも吐いてないやつどころか、そもそも野球をやったこともないやつが監督もくそもあるか、という気持ちがわいてきまして……。それで、野木監督に対して複雑な感情というか、ある種の嫉妬と言ったらいいんですかね、監督の候補にもならなかったわが身と比べて、こんちくしょうという部分があったんだろなと自己分析してるところなんですよ。いやまあ、赤面の至りですがね、いくつも年下の野木監督に対して、実にみっともない話です」
 深草が照れ笑いを浮かべた。通りかかったウェイターに野木のためにグラスワインを注文し、「私にはウイスキーの水割りを」と言った。
「野木監督、監督という仕事はやっぱり野球をやった人間の一つの夢ですから。一つの高みだと思うんですよ。だから、なんだオレだっているのに、なんで外部から雇う必要あるんだよ、という思いが自分の中に強くあって、それが外部に向いた形になって、野木監督に少々つらくあたってしまった感なきにしもです。お恥ずかしい限りというしかありません」
 皮肉屋のコメンテーターが殊勝に頭をたれている。
 深草が監督に少なからぬ野心を持っていたなんて考えたこともなかった。
「深草先生、それを言うなら私の方こそ、先生が何度もテレビで『うちの野球部』と連呼されて、唾を飛ばす勢いであれこれ話されているのを拝見して、いいなあOBは、と思ったことは一度や二度じゃありません。本来、部のことを語る資格があるのは現役と元部員だけです。深草先生もおっしゃった通り、なにせ私は競技経験がありませんからなにも言えません」
 野木にとって真っ正直な部分だった。大学時代の野木は運動系のサークルにいた。とはいえ厳しい練習も勝利至上主義も上下関係もない。心地よい汗だけをかき、プレーのあとにはこれまた愉快な飲み会が待っている。飲み会後のラーメンまでが楽しい思い出だった。そんな青春を謳歌した一般学生の自分には、体育会運動部など近寄りがたいまさに別世界である。テレビ番組に出て少年のように喜々として出身運動部のよもやま話を語る深草の姿がどこかうらやましく、敬意の念も抱いていたのは事実だった。
「深草先生はご自身が青春を注ぎ込んだ部のことをお話しする資格がおありです。私にはその資格はありませんので先生にメディア対応をしていただき、それこそ私もお礼を言わなければいけません」
 驚きのこもった表情で野木に顔を向けていた深草はグラスを口に運びかけてやめた。
「……まあでも、やはり野木さんに監督として来ていただいてよかった。こうなりゃ来たるシーズンも連覇といきたいですねえ。あの怪獣投手に十分に肩を休めてもらって次もロケットスタートだ。秋の活躍しだいでドラフトって話題になるんだろうなあ。東大の指名は久しぶりになるんじゃないですかね。私の仕事は増えるが、そういう忙しさなら大歓迎だ。ようし一丁、指名しそうな球団を番組の中で予想してやるとしましょうかね」
 水割りの量が減ったグラスを目の高さにひょいと持ち上げ、野木に返礼した深草は人の輪に戻っていった。

 ふいに後ろから両肩をつかまれた。
「いよう、果報もん! ようやったやないか」 
 中藤が酒臭い息を吹きかけてきた。
「おお、来てくれたな。ありがとう。さっき、杉浦記者に会ったよ。いろいろ礼を言っておいた。でも、お前があの記事に気づいてくれなかったら、なにも生まれなかった。つくづく思うけど、お前とコンタクトとっといたのは、まさに神のご加護だ。ゴッドブレスユーというやつだな」
「なに言うとる、いつからキリスト教徒になったんや。野球したんはお前や。お前ら野球部の力やで。そら間違いないわ」
 野球部からの招待者という形で中藤をパーティーに呼んでいる。グルメで酒好きのかつての学友は水割りをすでに相当やっつけているらしく、すこぶる上機嫌だった。
「のぎぃ~、このたびの功績で、お前を教授に昇進させるよう東京公立に言ってくれと学務部長に頼んでみたんや。そしたらな、『いや、よその大学のことはちょっと……』と言いおった。あそこはうちの子会社みたいな学校やで。教授と准教授の人事だけやない、助教連中から事務屋までなにからなにまで実質的な人事権は全部こっちや。うちが差配しとるちゅうのに、そんなこともよう言わんようや。まあほんま、ケツの穴のちっこいおっさんやで。毎日ソーメンみたいなうんこしとるんやろな。ケツといやあ、野球じゃビリケツだらけの東大が優勝したんやで。ほんま、こんなめでたいことあるかいな。そやのに、あのおっさんときたらなんや、ねぶたいこと言いくさって、アホらしゅうて屁もこけん、ちゅうのはこういうことやで、ちゃうか、なあ、のぎぃ~」
 赤ら顔の饒舌は止まりそうになかった。
「そうか、ありがとう中藤。まあ、お前の気遣いだけで十分だよ。ほんとに世話になった。せっかく来てもらったんだ。ここは存分に飲んでいってくれ。さっき司会の人が話に出してたドンペリとかいうバブル時代にもてはやされた高いシャンパンは飲んだのか。お前が俺を誘う時にいつも言う、なんぞうまいもん、というやつがたっぷりあるぞ。OB連中からの差し入れがとにかくすごい。キャビアまであった。もう残ってないかもしれんが。お前の好きなタラバガニもあったぞ。あんなでかいの見たのは、お前におごってもらった大阪のかに道楽で目にして以来だ」
 笑いながらまだ話し足りなそうな中藤を振り切る。周辺に目をこらし棚橋を探した。

 旧帝大に有史以来の初優勝をもたらしたエースはいまやちょっとした有名人だった。モデルばりのずば抜けた長身に野球人らしからぬ端正な顔立ち。髪形は選手まかせにしている東大でも目をひく茶髪のロン毛。いつの時代でもヒーローの誕生を求めたがるスポーツマスコミには格好の素材とあって、タレントのような扱われ方をされている。この会場でも乾杯の音頭の直後からツーショット写真をせがむ来賓の女性やチアリーディング部の女子学生たちが群がり、本人の照れ笑いが途切れる暇もない。
 ころ合いをみて隅のテーブルに呼び出した。
 聞いておかねばならないことがある。
 まずはあのサイン無視の場面からだ。ベンチからの観察では、サインを徹底しにマウンドに行ったはずの伊ケ崎が棚橋になにかを告げられたとたん、引き下がったように見えた。
「おい、ゼットン、なぜ敬遠しなかった。監督の指示は絶対、というのがプロも含めた野球界の 常識中の常識だぞ。あれは確信犯だな」
「ああ、あれですか。いやあ、サイン無視になってしまってすみません。僕の判断で無視したことは間違いないです。謝ります。処分するというなら甘んじて受けます」
「ふん、殊勝だな。まあどっちみち、あすの二回戦からは、お前とニセのサイン了解の合図を私によこしたイカは事実上の登録抹消だ。二人で塩飴でもなめて、せいぜいベンチを温めてろ」
 長髪に手ぐしを入れて頭をかく若者に笑って告げたあと、訊ねた。
「そんなことより、私が知りたいのはあの場面、マウンドでイカになんと言ったのかということだ」
 笑みを引っ込め、棚橋が真顔をつくった。
「どうしてそんなことを?」
「ベンチから見てて、あいつはお前に対して怒ってるのがよくわかった。実は私も相当かっかしていた。一塁が空いているにもかかわらず、監督の敬遠指示に従わないばかりか大学屈指の強打者と勝負しようとするんだから当然だ。怒るに決まってる」
 棚橋から目をそらさず続ける。
「それなのに、イカはお前からなにかを聞いたあと、あっさり引いた。あんなに激高して殴りかからんばかりの様子だったのに、だ。私はてっきりお前がサインを最終的に了解したんだと思った。だけど、そうじゃなかった。イカのサイン了解のポーズも、うそぱっちだった。じゃあ、いったいなにがあったというんだ。さっき、イカに聞いてみたら、ゼットンに直接聞いてくださいと言うばかりで黙ってしまった」
 沈黙があった。大男が息をのむ気配が伝わってきた。
 一分ほども間があったろうか。
 唇がゆっくりと動いた。
「早稲田の高山は俺の弟だと、やつに言ったんですよ」
「えっ、なんだって?」
「高山は、あいつは僕の双子の弟なんです」
「…………」
 ゆっくりと棚橋は語り出した。
「あいつは地元のボーイズの頃から注目された野球少年でした。中学校を卒業する前には地元の東京だけでなく関西の野球校とか、あちこちの高校から誘われたけど私立の進学校の祥陽に合格して入学した。進学実績なら祥陽はすごいけど野球は都立並みに弱い。あいつは投手をしていましたが、都大会でノーヒットノーランを一回やったくらいで高校時代は正直、実績はつくれなかった。足は速いし、体力的には僕より上のところがあって、素質からすると野球校に行ってたら高校時代からスターになってた可能性があったと思うんですが。あ、でも実績と言えば僕も人のことは言えませんがね」
 手にしていた空のグラスを棚橋が通りかかったホテルマンに渡した。
「僕も野球の技量そのものは負けてなかったので私立に誘われました。でも性格があまのじゃくなんです。ふつうの公立校に入って野球部を強くしたかった。できれば甲子園、と本気で思ってました。だから白鷺台でけっこうがんばったんです。三年夏のベスト一六なんてたいしたことないかもしれませんが、東京ですからね。あのメンバーであそこまでやれたのはいま振り返ると自分でもすごいです。で、おかげさまで勉強もそこそこだったので東大に来ることができました」
「……じゃあ、あの場面は、あそこは、兄弟対決、だったっていうのか」
「そうです。巡り巡って神宮球場で、東大の歴史がかかったあんな大きな場面で、生まれながらの好敵手に再び遭遇した。弟に背中を見せるようなまねはできない。だからあそこは勝負です」
 ――そうだったか。
 六大学一の強打者と実の兄弟だったとは。想像もしなかった返答に、次の質問がなかなか出てこなかった。
 ただ……、向こうは高山姓だ。いったいどういうことなのか。
 だが、ここまで聞いたならもう遠慮はいらない。最も気がかりだったことを問いただすことにした。
「ゼットン、もう一つ、いいか。お前にどうしても確認したいことがある。お前の返事しだいでは、やっかいなことになるかもしれん。しかし、どうなっても責任は私にあると思っている。だから正直に答えてくれ」
 けげんそうな表情を浮かべ、棚橋は押し黙った。
「新聞記者の人から気になることを聞いたんだ。その記者は取材の一環で過去の早稲田の部員名簿を調べたらしい。そこで、ここ十年間ほどの退部者名簿の中に『棚橋良太』という名前を見つけたそうだ。一年生で入部し、すぐに退部したと記者は言っていた。高校名はない。ここ十年の、というだけで入学年度もはっきりしないんだが、まさにお前たちみたいな四、五年前かもしれん。なにより身長が一九三㌢で、お前とどんぴしゃだ。おい、ゼットン、その名簿にある棚橋という部員はお前のことじゃないだろうな。下の名前こそ違っているが、リョウまで一緒だ。いまのお前と名簿の名前と、どっちかが偽名で、実は同一人物だったりしたら、ただじゃすまんぞ!」
 棚橋は口をつぐんだままだった。
 表情は読めない。
「ゼットン、高校卒業後は自宅で勉強したり予備校の講習に通ったりしてたと、前に言ってたよな。つまり浪人生活を経て東大に受かったというわけだ」
 ここで息を吸い込む。
「お前が申告したその浪人というのは、もしやいったん早稲田に入り、その後中退した事実を含めてのことじゃないだろうな。知っての通り、リーグの他校の野球部経験者は公式戦には出られん!」
 一息に疑念をぶつけた。
 慶賀の場にそぐわない剣幕に気づいたのか、そばにいた何人かの来賓がちらちらとこちらに目をやっている。いつの間にか白井と繭村がそばにやって来て、不安そうな顔で見つめていた。
「あっはっはー」
 棚橋が突然、大笑いを始めた。ふさっとした長い茶髪を両手でかき上げては気持ちよさそうに顔をくしゃくしゃにしている。白い歯を見せた豪快な笑いが止まらない。
 野木はあっけにとられ、しばらくその顔を眺めているしかなかった。
「もしかして、監督、そんなことでずっと悩んでいたというわけですか? こりゃあ、おかしい、はははー」
「おい、なにがおかしい、ふざけるな!」
 破顔をにらみつけた。
「いや、そりゃ笑っちゃいますよ」
 笑顔を消さないまま棚橋がよどみなく言った。
「棚橋良太ってのは、高山のことですよ」
「え?」
「プライベートなことに説明責任はないと思いますが、悩んでおられたのだとしたらお気の毒だから言いましょう」
 涼しげな目に戻った棚橋は、ひと呼吸入れるようにテーブルの生ハムを左手で持ったフォークで器用にさらって口に放り込んだ。
「えーと、時間をさかのぼって最初から言いますと、僕の両親は僕たち兄弟が大学に入るころに離婚したんです。父親と母親が話し合った結果、二人は社会人になるまで別々に面倒をみてもらうことになり、僕はこれまで通り父親の姓を名乗り、父親が借りた家で生活しています。母と暮らすことになった良太は母の旧姓の高山姓を名乗ることになりました。あいつから聞いたところでは、一年生の途中で姓が変わることになり、『母親のためにも心機一転がんばりたい』と野球部に申し出て、いったん野球部名簿から『棚橋良太』を退部扱いで削除してもらい、すぐに『高山良太』を部員登録してもらったそうです。まあ、まさに形式的な話に過ぎませんが、早大野球部もあいつの気持ちをくんで特別に認めてくれたようですね。人情味のあるいい大学です」
 棚橋は得意のすまし顔になると注釈をふるようにつけ加えた。
「顔は双子なのにまったく似てません。二卵性だからでしょうね。その代わりと言ったらなんですけど、一九〇を超す身長は等しく授かりました。神様も僕を女性的なあっさり顔にして、あいつを男性的な濃い顔にしてしまったので上背でバランスをとったんでしょうね、きっと」
「しかし、しかしゼットン、お前は一浪でも、早稲田の有力選手なんて、だいたい推薦で現役入学じゃないのか。すると彼と年次が合わないぞ」
 こんどは棚橋が意外そうな顔を浮かべた。
「監督はご存じなかったんですね」
「なにをだ?」
「良太は祥陽を卒業した後、米国でマイナーリーグと契約してメジャー挑戦してるんですよ。早稲田で活躍し出したころからは、この経歴は野球関係者にはよく知られることになってたんですけど」
「マイナーだって? メジャーにも挑戦? そりゃ、ほんとうか」
「契約時にスポーツ新聞で小さな記事になりました。あの全国的な進学校から野球で本場のプロをめざすのは珍しいからだと思います。とはいえ、メジャーじゃなくマイナー契約なんてのは全国でいくらも例があります。ドラフトに引っかからないレベルの選手が、けっこう海を渡ってますから。ま、世間の注目を浴びるほどのことではなかったということですね」
 棚橋はふっと小さく息を吐いた。
 そんな話題など知らなかった。四、五年前だと野木自身、野球にかかわっていない。フィジカルの研究に没頭していた。新聞などの野球記事をつぶさに読んでいた訳でもない。棚橋が言うとおりメジャー契約なら話題性は抜群だが、マイナー契約で米国に行く高卒選手は当時から複数いたと記憶する。棚橋姓の高山の記事に接した憶えはなくとも、マイナーリーグと契約した若者たちの記事は読んだ気がした。
「それで、彼はアメリカでどうだったんだ?」
 筋書きはほぼ読めた思いがした。そしてその回答もやはり想定内のものだった。
「1Aからスタート。3A途中までいきましたが、最終的に大リーガーは断念しました」
「そうなのか。壁は高く厚かったということか。いまの彼だったら最初からメジャー契約だろうにな。当時もいまくらいでかかったのか? アメリカ人並みの身長で素質があっても、高卒で入ってすぐにメジャーに上がれるほどアメリカのプロ野球はやはり甘くないんだな。で、一年遅れて早稲田か。なるほどな、私はそこまでの経歴は知らなかったよ」
「おわかりいただけてよかった。良太も大学で花開いたわけだから、結果これでよかったと思います」
「そうだったか、ようやく理解できた。さっきはいやな言い方をして悪かった」
「やっぱ、理系の人たちって根がまじめなんですかね。そんなことを監督が長患いしていたなんてびっくりです。イカもそうだな。あの時、マウンドで『いまバッターボックスにいるのは俺の弟だ』って言ったら、あいつの赤黒い顔が真っ青になりやがった。あはは」
 長く胸につかえていたものが、すとんと胃の中に収まり、胃液と混じってすーっと溶け込んでいった。これでもう処分うんぬんで気をもむ必要はさっぱりとなくなった。優勝の余韻に浸っていられる。
 しかし――。
 こんどは別の疑問が頭をもたげてきた。それも先ほどよりもむしろ勢いよく。
 野木は瓶ビールを手に取り、棚橋にグラスを渡して注ぎ入れた。自分のグラスにもつぎ、カチッと合わせてから飲み干す。舌にまとわりつくホップの苦みがなんとも言えない。
「ゼットン、もっと聞いていいか?」
 グラスを口につけていた棚橋が目でOKを返した。
「どうして東大入学直後に野球部に入らなかったんだ?」
「……………」
 予想外の長い沈黙だった。
 なにか機微に触れてしまったか。言うか言うまいか迷っている表情に見えた。だが、目の前のこの進撃の巨人にやましい点などなにもないはず。とすれば、他人が詮索すべき類いの話ではないということなのかもしれない。英語に堪能な白井なら、〈ツーパーソナル(あんたにゃ関係ねえ)〉とでも応じるのだろう。
「答えたくないなら、ま、べつにいいが……」。言いかけた時、棚橋の口が動いた。
「……デッドボールです」
「デッドボール? 死球?」
 訳がわからない。
「……僕が食らった、というわけじゃありません。与えたんです……」
 たったいままで滑らかだった口調がぎこちない。
「僕は浪人中にアメリカにひんぱんに行っては、メジャー挑戦している良太の自主練習の相手をしていました。会社を経営している父親が旅費を出してくれたからです。母との同居を選んだとはいえ、国内で時差があるような途方もなくでかい国で一人暮らししている実の息子がやはりかわいいというか心配でもあったんでしょう。それになんと言ってもマイナー選手の場合、練習また練習によって実力でメジャーに這い上がるしか将来への道はありません。チーム練習以外の個人トレーニングもその質と量は半端じゃないです。だから父親なりに応援したかったんだと思います」
 声が沈んだ。
「当てたんです……。トレーニング中に。打席の良太に。利き腕の右肘に僕がストレートを……。あいつは左打席に立つので当然右肘が前にくる。いつもどおりの練習だったし、肘当てもたまたま着けていませんでした。すぐに病院に行きましたが骨の一部が複雑骨折し、骨の周囲に付随する筋も一部裂傷していました。良太は、もともとは投手です。打てるピッチャーに、というのがあいつの夢だった」
 口はまだ動いた。
「内角の胸元すれすれにスピードボールを投げる、というのがあいつの強い要望でした。つまり僕たちは、実戦を想定して練習していたんです」
 メジャー選手の最低年俸は日本円で約六千百万円。これに対しマイナーはせいぜい三百万~五百万円ほどだ。一度でもメジャーに上がれば、その後マイナー落ちしても年俸はある程度保証されるが、それでもせいぜい千五百万円程度だ。かの野球王国では大リーガーでなければプロとは言えない。
 プロとして生き残るためには実力でメジャーに上がるしかない。その目的のためにマイナーリーグの投手は打者に対して内角の厳しいコースをどんどん突いてくる。体に近い球でのけぞらせ、打撃フォームを崩したうえでストライクゾーンを少しはずした外角の直球や変化球で凡打させたり三振にうち取ったりする投球術だ。マイナーの打者にしても、そんな手を出してもヒットにならないきわどいボールは恐怖心を克服して見逃したりファウルで逃げたりしてしのぐ。そうやって粘ったあと、がまんし切れずにストライクをほしがって投げてきた甘い球を確実にしとめるのだ。そうでなくては明日などない。
「見逃せばストライクにとられかねない厳しい球で内角を突いてほしい、それがその時のあいつの注文でした。僕は予告なしに変化球を交えながら内角いっぱいのストライクを投げ続けました。良太も、くさい球はうまくカットしたり、ボール球は自信を持って見逃したりしていた。打てる球の何球かはヒット性の当たりで打ち返していたんですが、二十球以上投げたあとでストレートがまともに肘に飛んでいった……」
 沈んだ目で棚橋は振り返った。
「ぺきっと音がしました。僕はすぐになにが起きたかわかった」。球団専属医師の診断は、〈今後、投手は難しい、遠投が必要な外野手も厳しい〉というものだったという。
「日本に戻ってセカンドオピニオンも受診しましたが同じでした。所属のマイナー球団は、良太は体があるのでもう少し球速が伸びれば投手で、打撃がよくなれば強肩の外野手で、というのが育成プランのようでしたが、どちらも断念せざるを得なかった。投手をあきらめたうえで、これからも野球選手としてやっていけるとしたら一度も経験したことのない内野手しかない」
 棚橋の視線が野木をとらえた。
「早稲田も推薦ではなく一般入学です。あいつは進学校にいて学力的には早稲田に難なく入れたけど、野球部入りは手探りの賭けのようなものでした。伝統校の体育会で果たして通用するのか。打者として成功するにも、左打者の場合、右肘はスイングをリードする役割があるから非常に重要です。肘や関節、靱帯、肩なんていう部分は野球選手にはまさにアキレス腱で、一度痛めると完全には直らない。良太は骨がある程度くっついたあと、肘周りの筋肉を鍛える懸命なリハビリをして、野手として、強打の内野手として、生き延びる道を選びました。僕はその時、誓ったんです。小さい時からプロ志望だったあいつが早稲田で打者として認められ、将来の展望が開けるまでは自分は野球部に入らない。それまでは兄として、一般学生として、あいつの練習を支えると」
 すべてが一つの線でつながった気がした。
 野球部に入らなかったのではない。入れなかったのだ。
 ウルトラマンに勝った怪獣ゼットンを気どるほどの投手の球威だ。大げさではなく死球によってあやうく肉親の選手生命を奪うところだった。
「ゼットン弟」は、ぎりぎりの一線でどうにか選手として踏みとどまった。そのあとは猛練習とリハビリを重ね、いまプロに注目されるスター選手に成長を遂げた。たぶん、この棚橋という男は早大野球部の公式練習以外は、ことごとく弟の練習につき合ってきている。
 そうしてまた時は流れた。舞台は巡り、六大学リーグの優勝を争う大一番。最終回の高山の打席。複雑な内面を抱えた新エースは名字が変わった頼もしい弟と、試合を左右する最も重要な局面で対峙することになった。
 その場面と、あのデッドボールのシーンは重なり合った違いない。
 メジャーめざし生き残るための真剣勝負に近い練習――。
 そのステージが、日本の大学野球の優勝決定戦に形を変えてやって来たのだ。棚橋にとっても自分自身に区切りをつける瞬間だったはずだ。
 ――この男に敬遠の選択肢はなかった。
 野木は深い息を吐いた。
 鼻をすする音が聞こえた。白井だ。隣に立っている繭村以上に顔をぐちゃぐちゃにして大泣きしている。黒縁眼鏡をはずし、ポケットティッシュを繭村にもらってはだらしなく頰を伝う大粒の涙を鼻水とともにぬぐっていた。野木にしても、こみ上げるものがあった。
「そういう事情だったのか……。高山選手は三年の春から彗星のように現れ、がぜん注目株になったんだったな。そのちょっぴり唐突で、なおかつ颯爽としたデビューぶりを、あのオリックス時代のイチローになぞらえるスポーツ新聞もあったからな。そうか、それを見届けたあとのゼットン登場というわけだったんだな」
「結果的にはそうなりますが、誘っていただけたということがやっぱり大きいです。もう自分なりの謹慎期間は解けたかなとは思っていても、うちの運動会というか体育会の門というのは一般学生の身には敷居が高くてなかなか簡単にはたたけません。ぶらぶらしていた自分の背中を押していただいたことに感謝してます」
 どこかしんみりした棚橋の物言いにうなずいた時、胸ポケットのスマホが震えだした。
 登録しておいた東日新聞記者の秋野の名前が表示されている。
「野木です。あ、どうも。はい、どうもありがとうございます。夢のまた夢の、さらにもう一つ先の夢がかなってうれしい限りです。夢心地とはまさにこのことです。もしかしてこの電話、聞こえにくくないですか。いまホテルの祝勝会場におりまして。騒がしくて恐縮です。あ、それからこの前はおもしろい記事をありがとうございました」
 東日新聞の名物インタビューコラムで棚橋をとりあげたいと秋野は用件を言った。
 快諾した後でつけ加える。
「あとそれから、あの時に気がかりだとおっしゃっていたことで、お伝えしたいことがあるんですよ。詳しくはここでは省きますけど結論から言うと、なにも問題はありません。ご心配するようなことではなかったということです」
〈そうですか、それはよかったー。じゃあ余計な心配だったわけですね、お騒がせしました。すみません〉
「いやいや、あなたが丹念な取材で見つけ出したそのことで、続きの話があるんですよ。記者さんだったら、たぶん興味をお持ちになると思います。ええ、もちろんゼットンに関係することでもあります。取材の際には私も同席させてもらいますので、とっておきのエピソードというやつをその時にお教えしますよ。新聞社でいうスクープというやつになるかも、です」
〈えっ、ほんとですか。それはすっごくうれしいです。私の方はいつでもお伺いできます。あしたでも大丈夫ですよ〉。秋野の声が弾んだのがわかった。
 取材の日取りをすりあわせ、野木はスマホをしまった。
 とたんにまたスマホが振動した。こんどは杉浦だ。
〈あ、どーも。カントクー、さっきは失礼しました」
 ご機嫌な声だった。さては社に戻ってからさっさと記事を片づけ、さらに一杯ひっかけていたか。ろれつが怪しかった。
〈カントク、さっきですけど、俺になんか聞いてませんでした?〉
「さっき? ああ、棚橋のことで連盟が関心とかなんとか、杉浦さんが言いかけていらっしゃったので、なんだろなと」
 懸念材料が消えているので野木の言質も軽い。
〈あー、なんでも東大の初優勝に多大な貢献をした、しかも六大学に大いに世間の目を向けさせ、リーグを大いに盛り上げた、ちゅうことで特別に表彰してはどうかという話が出てるそうですよー。そのうち通知とかあるんじゃないすか。本決まりになったら取材におじゃましますわー〉
 思わず頰が緩む。連盟も粋なことをする。開幕前とはだいぶ違っているであろう理事の面々の神妙な顔が脳裏に浮かんだ。
〈カントク、そんじゃ、またー〉
 わざわざ連絡ありがとうございます、と伝えている途中で電話は切れた。

 祝賀パーティーはいよいよ佳境だ。東大の卒業生には芸能界で活躍する人もけっこういるようだ。テレビのドラマやCMで見かけたことのある妙齢の女性が司会者と一緒に笑みを振りまいていた。
〈僕は昭和最後の入学でした。弱くても勝つという試合をしてくれましたね〉
〈きょうは興奮して眠れそうにないですなあ〉
〈こんな日が現実に来るとは。いやあ長生きはするもんだね〉
 野木の顔や胸のネームプレートに気づいて、赤ら顔の何人もの来賓が握手を求めて寄ってくる。順番にビールをつがれては飲み干すものだから野木もしだいに酔いが回った。
 成功体験は媚薬だ。こうして優勝監督の役得に甘んじていると、どうあってもあの優勝シーンが頭に浮かんでくる。胴上げの最中はぼーっとした頭の中だったが、その前の場面は不思議なくらいによく覚えている。
 棚橋が高山を三振に切ってとった圧巻のクライマックス。スリークオーター気味に左腕から投じられた外角直球は左打者にはボールの出どころがさぞ見えにくかったろう。俗に言う背中から球が飛んでくる感覚だ。さしものイチローばりの強打者も反応できず、スイングが途中で止まっていた。鮮やか過ぎるウイニングショットは六大学の球史に残り、長く語り続けられるだろう。
 イチローばりの左打者を相手に左腕からの速球――。 
 ――おい、ちょっと待てよ。
 なにかが野木の内耳にまたささやきかけた。端数が出て、すぱっと答えが割り切れない消化不良のような解答。こめかみをじりじりとさせるなにかが頭をもたげてきた。棚橋の言う通り、理系人間は目の前の問題はすぐ解決しないと落ち着かない。
 来賓に飲み物をつがれないうちに野木はグラスを手放し、選手たちの輪に戻っていた棚橋のもとに向かった。彼は日焼けしたブルドッグのような顔の伊ケ崎となにやら笑い合っている。近くまで来たところで来賓の人波に阻まれ、それ以上は近寄りにくくなった。仕方がないのでそこから声をかける。
「おーい、ゼットン、最後にもう一つだけ聞かせてもらっていいか」
 長髪がこっちを振り向いた。
「ずいぶん、僕にご執心ですね。男にあんまり関心持たれるとなんだか気持ち悪いなあ。なんですか?」
 人の波をかき分けながら近づいてきた大男にまた質問を投げた。
「いつ、左投げの練習してたんだ」
「ああ、そんなことですか。練習なんかしてませんよ」
「うそをつくな! 私が運動生理学の専門家だということを忘れたのか。あれは、ちょっと左で投げてみました、というようなレベルの球じゃなかったぞ。だから高山も手が出なかったんだろうが」
 こんな時は、すまし顔のエースを見るとついむきになる。あの決め球は球速表示で139㌔だったと、あとで誰かから聞いた。いいコースに決まれば空振りをとれる球だ。ふだんから投げ込んでいないと、とてもこうはいくまい。
「いいか、人間の体ってのはなあ、繰り返し練習して脳や体に覚え込まさないと、利き腕以外では機動的に投げられない筋肉機能や神経組織になってんだよ。おい、いつの間に、どこで、どうやって、左投げの練習してたんだ」
 突き詰めて解を求めなければならない話でないことはわかっている。
 ただ、野木の内耳をひりひりさせているものがなにか知りたかった。これくらいのわがままは、選手を預かる監督のそれこそ役得であろう。
「はっははー」。棚橋が吹き出した。
「簡単なことです。僕はキョウセイウワンなんです」
「キョウセイウワン?」
「そう、矯正右腕。つまり僕はもともと左利きなんです」
「ということは、最初はサウスポー投手だったということなのか」
「そのままだとそういうことになったと思います。でも、親が左利きは生活に不便だからと小学校に入るころに右手を使うようしつけたんです。そうは言ってもリトルリーグで野球を始めたころは、やっぱり投げやすいので左で投げたりしていました。直球だけならいまも並みの投手くらいの球速で投げられるんですよ」
「対早稲田の作戦として狙っていたと?」
「いや、最初はそんな考えは全然なかったんです。でも、あの試合、中盤から僕はもうアップアップでした。五回以降は握力もなくなってきてて指先に力が入らない。真っすぐは走らないし、変化球でかわそうとしても思うように曲がってくれなかった。最終回のあそこは、たとえ敬遠しても五番に打たれる気がしたんです」
 棚橋が遠くを見る目になった。
「でも、良太からツーストライクをとれれば、ピッチャー優位の『左対左』のこの手があると思ってました。だから右で余力のすべてを使い切って追い込んだ。そして最後に左投げに賭けたんです。ただ、ファウルされればもうこの手は使えなかった。もう一度、左で投げても良太なら打つ。見逃し三振で決まってくれてよかった」
 大柄な若者がもっと大きく見えた。野木は歩み寄り、黙って両手で抱き寄せた。
「ひゃー、監督、気持ち悪いからやめてください。おーい、イカ、このお兄さん、なんとかしろー」
 偉丈夫な男の悲鳴に気づいたパーティー会場が爆笑に包まれた。
(了)
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