第1話
文字数 11,911文字
「むうう、こりゃたまらんぞ」
昼下がりのコインパーキング。
コの字型に仕切られた駐車スペースにはたった一台、白いライトバンが置き捨てられてある。ひしめく雑居ビルの密林にポッカリと開いたこの四角い穴に、いま
が、
容赦のない陽差しをさけて潜り込んだ
黒猫の万太郎は、そのぼってりと肥満した腹をふるわせて、まどろみのなかで首を掻いている。
「たまらん、たまらん」と。
しかし、はたとその後ろ脚を止めると「はて、なにがたまらんのだ?」と我に返り、自らに問うた。
―この
うん、確かにこいつはたまらん。
が、その額に十六の根性焼きの痕を持つ万太郎にすれば、夏のアツさなどは屁でもないはずで。
やったのは酔っ払い。
二丁目児童公園の植え込みの中だった。
ブリーフケースの下に万太郎を仰向けにおさえつけ、右の耳の付け根から焼き
それでやっと開放された。
以来、万太郎は左目が見えず、世界から奥行きを奪われている。
それでも泣き言ひとつ漏らさずに、ちゃんと猫をやっている。
だから、たかがアツさ寒さなどで
―では、なんでまたオレはたまらんを連発しているのだ?
気がつけば、何かにつけてそうぼやいている。
首を
万太郎は寝返りをうってぺたりと伏せた。
ガランとしたパーキングがゆがんで見える。
―もう、お昼だろうか?
風は、―無い。
遠くで低くヘリコプターの
―それにしても、なぜに今日は車が少ないのだ?
彼はその、ひしゃげた
いつもならもうとっくに満車となっているはず。
そして、昼ともなればコンビニ帰りのOLたちが喫煙のために立ち寄って、入れかわり立ちかわりに
―そうだ。オレは腹が減っていたのだ。
あの
よって万太郎は丸一日と半、食いっぱぐれていた。
―だからオレはたまらんのか。なるほど。やなこと思い出しちゃったな。
人間たちに何が起こったのか猫には知る
仲間たちは「あてにしてると馬鹿をみるぞ」と、朝のうちにあきらめて
が、万太郎だけはここを動かないでいる。
―ゴミを
といって、万太郎はいまだかつて飼い猫になった覚えも無く。常に人間さまの心ある
記憶にあるうちで一番古い食料提供者は、第四児童公園のホームレスくまちゃんだろう。
―あそびに行くと、よくあたりめをくれた。それとお握りを半分こ。鮭弁の鮭も、わざわざ骨をとってからくれたっけ。
このクマちゃんが脳梗塞で
そのあとが、ラーメン屋の二階で独り暮らししているチャンチャンコのオババ。アパートには入れられないからと、食事はいつもドアの外だ。万太郎にキャットフードの味を教えたのはこのオババである。しかし、ある日を境にそのドアが開かなくなり。前日のキャットフードの空き缶はそのままになっているし、部屋の中からはテレビの音もするのだが、三日ほど通って、三日とも同じだったので万太郎はついにあきらめ、このパーキングに流れ着いたというわけ。
よって、オレは飼われたことが無いのだ、と。
けっしてそれを誇りとしているわけではない。
むしろ、伝え聞く『家猫』の待遇に
ということは、そう、万太郎の言う飼い猫とは、メス目当てのケンカもせず、部屋のなかでぬくぬくと人間さまに
が、いまやこのぶざまな見てくれとなっては、その夢も叶わないだろうことも万太郎は自覚している。額の焼け痕と潰れた左目にOLたちは同情こそしてくれるが、けっして万太郎を抱こうとはしない。撫でようともしない。
それでいいと万太郎は思う。
彼女たちが投げかける、
「ぶさいくぅ」
「ふてぶてしいやっちゃなあ、おまえ」
「おい、でぶちん。こっちゃおいで」
という声からはそれなりの親しみが感じられたからだ。
ならばそれで充分。身の程をわきまえることにした。
それに『万太郎』というこの名前。万太郎にとっては生まれて初めての名であるのだが、名付け親は、何を隠そう彼女たちなのである。
由来もへったくれも無い。
「なんか、万太郎って感じぃ」で、万太郎。
けれど、これがあるのと無いのでは大違いで。
あまり知られていないことだが、実は彼ら猫はたがいに名をつけることができない。
よって、その場に居ない誰かを話題にするときが、まず無い。
「あいつ」などと言ってみてもどのあいつだかさっぱりわからないから、名前の無い奴の話題など、まず出ない。
目の前に居るときか、匂いがするとき以外は忘れ去られている。
いやいや、そもそもそんな奴を覚えようとも思わないのが、野良猫なのだ。
ところが名づけられると、その瞬間から自分というものを獲得する。あいつらはオレじゃなくて、オレはオレだ、と。
名前。それは、
皮膜が内外を
これ、野良にとっては一大事件なのである。
口をあけてガムを噛むその若いOLが、サンダルのつま先で彼の
「なんか、万太郎って感じぃ」
の、この非常にやる気の無いひと言が、街に棲みつく
万太郎はこの瞬間から、ひとりとなった。
この世の住人が自分
これがどれくらい有り難く重要なことなのか、名の無い奴には分からない。
ましてや、はじめから名のある奴にはなおのこと分からない。
あるとき名が付いてはじめて分かるのだ。自分の名前の有り難さを。
とはいえ、飼い猫にでもならないかぎり、そうめったやたらに授かれるものでもないのが野良猫にとっての名前というやつであり。
万太郎のようにヒト付き合いの長い猫でも、せいぜいが、
「おい」
とか、
「おまえ」
あるいは「ネコ」、「にゃんこ」程度であろう。
身体のガラを指して「ミケ」、「トラ」、「クロ」なんて呼ばれる連中もまれにはあるが、はたしてそれをして名と呼べるかどうか。
それに食糧提供者というものはたいがいが一人ぼっちだ。
いやひょっとすると一人ぼっちの時に限って、猫たちへの食糧提供を思い立つのかもしれないが。それゆえに彼らは寡黙であり、胸中はどうであれ、ミケ、トラ程度の呼びかけすらも滅多なことでは口にしない。笑みこそすれ、声にしない。実際、万太郎の知るどの食料提供者も、みな黙々として餌をくれた。
そんな訳で万太郎は、名付け親であるOLたちに感謝していたし、野良の身分にありながら餌までもらえるという、身の程をこえた現在の待遇に満足もしていた。
そんな、日々の平安が崩れ去りつつある。
昨日に引き続き、OLたちが姿を現さないのである。
もう来ないのではなかろうか。
そうなると万太郎は振り出しにもどり、また新たな提供者を求めてさすらう羽目となるだろう。
―背に腹はかえられん。名のある生活ともお別れだ。……などと悲嘆にくれればまた腹が鳴る。嗚呼、
「たまらん、たまらん……」
「何ぶつぶつ言ってんの、万太郎」
見ると、前脚をお行儀よくそろえて白猫が伸びをしている。
「やあ、ゴル」
けれどゴルはそっぽを向いたまま、返事の代わりにあくびをひとつすると、
「みんな
「え?」
「君に」
「オレに?」
「お高くとまってら、って」
「……ああ」
―ゴミ漁りの一件ね。
ゴルは尚も入念に伸びをやってから、万太郎のいる車体の下を覗き込んだ。
その
ゴルはこの一点さえのぞけば完全なる白無垢であるから、かえって額の斑がことさらに際立ってしまい、それを見た年配のOLが、
「ゴルバチョフみたい」と。
それでゴルと決まった。
念のために記すが、ゴルは
OLたちにとっては猫の性別などどうでもよかった、……というわけではなく、単にゴルバチョフを、
「ゴルバ? ああ、チョコレートの」
知らなかったのだ。
「それはゴディヴァ。ゴルバチョフはむかしの政治家です。―アメリカの」
誰一人として。
ゴルは万太郎の横に肩をならべて伏せる。
「こんなとこから何見てたの?」
さり気なく伏せたようでいて、いつだってゴルは姿勢がいい。前脚をそろえて首を立て、まるでスフィンクスのように気高く、
万太郎はそんなゴルが大好きだ。
だから精一杯気取って「
「別に。何も。ただ、昨日から姿が見えないんだ、例のOLたち」
「あら、万太郎も知らなかったの?」
「何を?」
「昨日から人間たちはオボンヤスミよ」
お盆休み。
そんな言葉、どこでおぼえたのか。
「それって昼休みたいなもん?」
「ちがうちがう。オ、ボ、ン」
万太郎にとってはそれがオボンだろうがオヒルだろうがどっちでもいい。重要なのはOLたちが戻ってきてくれるのか、くれないのか、である。
「じゃあ、もう戻ってこない?」
「知らない。オボンだもの」
「……ふうん」
まことにもって人間というやつは理解しがたい。けれども、それに慣れないことには路地裏で猫などやっていけるものではないのだ。
万太郎はさっきからゴルが漂わせている匂いに気をひかれている。
―この匂い……。
と、思わずゴルの口元を舐めた。
「あっ、青缶っ」
最もスタンダードな半生タイプのキャットフードである。青い缶に入っているために人はそれをそう呼び、ひいては猫たちもそう呼ぶようになった。
ゴルはこのコインパーキングのほかにもニ三のお得意さんをもっている。きっとそのうちの誰かがゴルへと献上したのに相違ない。
常日頃からゴルは言う、「備えあれば
万太郎だってそれくらいはわかっている。けれども、満腹のときに食いっぱぐれたときのことを考えるだなんてそんな器用なこと、できっこない。
思えばこの二匹、チャンチャンコのオババからの仲であった。
ゴルもあのしみったれたアパートの前に群がっていたうちの一匹だったのだ。そして、先の事情で食いっぱぐれ、途方に暮れていた万太郎にこのコインパーキングを紹介したのも、実はこのゴルなのである。
ゴルは好きに舐めさせながら「じゃあ昨日からなんにも食べてないの?」
万太郎は目を閉じて青缶の匂いに
備えあれば。
今ほどこの言葉が身にしみたことはない。
ほどなく万太郎はゴルの顔を舐めるのをやめた。
うつむく万太郎の口元にゴルが鼻を寄せてひくひくやる。そのヒゲがくすぐったい。
「おなか減ってるでしょ」とゴル。
減ってるどころか。
けれど万太郎もいっぱしのオスである。ゴルの同情をかってしまっては、
これがゴルには
万太郎はごく自然に振舞おうと努めただけである。けれども空腹を覚られまいとするあまりに、強調したさり気なさがかえって裏目に出てしまった。
頬にゴルの視線を感じて、万太郎はうしろめたい。
―。
ゴルの視線に耐え切れなくなって、目を閉じる。
パチンコ屋の店内アナウンスが、今日はここまで届いていた。
《よんじゅうはちばん、きゅうじゅうななばん、ふぃーばーおめでとうございまぁぁぁす!》
「あのね万太郎、よかったら今夜一緒に行かない? 南口のキオスク」
―あちゃー、それを言わせちゃ、おしめえよぉ。
「そこのおねーさんがね、おつまみの笹かまを分けてくれるんだ」
「オレはいいって」
「青缶じゃないけどさ、けっこういけるんだな、これが」
「だからいらないって」
「運がよければお弁当もくれるかも」
「だってゴルのお得意さんなんだろ?」
「ええ」
「ゴルだけのお得意さんなんだろ?」
「まあ」
「なら、オレが行ったらぶち壊しにしちゃうよ」
「あら、どうして?」
「どうして、って」
―。
「どうしてよ」
―ゴルと違ってオレは、
「ブサイクだから」
それが理由でノケモノにされた経験が、万太郎にはあった。
ゴルは言いかけた二の句をのんだ。
《はい、ひゃくにばん、ひゃくさんじゅうろくばん、れぇんぞくふぃーばー、ぉぉおめでとうございまぁぁすっ!》
万太郎は言いながら後悔していた。
―なんちゅうしみったれたことを、オレは。
話題をかえようと声を
「あのさっ」と、そう発してしまってから、その先を考えた。「あのぉ」
ゴルがじいっと見ている。
「い、いつか……、か、飼い猫になれるといいね」
かねてから何かと話題にのぼる案件であった。
ゴルは、なんだまたその話か、とばかりに「そうね」。吐き捨てて毛づくろいを始める。
万太郎の子供じみた、いや子猫じみた態度に
ゴルはいつの日か人間に飼われることを夢見ている。
あどけない子猫の時分ならそれもたやすいだろうが、成人ならぬ成猫した今となっては、餌づけ待遇が関の山。よっぽどの幸運にでも恵まれないかぎり、座敷飼いは難しい。
ゴルが日頃から身だしなみや立ち居振舞いの洗練をおこたらないのは、ひとつには、そのよっぽどの幸運を一歩でもたぐり寄せようという欲、もしくは下心が。もうひとつは元飼猫としてのプライドに起因していた。
ゴルは捨て猫なのである。
座敷飼いの腹から生まれ、物心ついた時分には兄妹ひとまとめに捨てられた。
ワンルームマンションに猫六匹ではさすがに隠しようもなく。管理人にバレて持てあましたのだろう。深夜のバス停のベンチ。兄妹すし詰めにされた段ボール箱の闇の底で、飼い主がすする
しかし、ゴルはその経歴を少しもハナにかけたことがない。
だから仲間たちもゴルのプライドに毛ほどの嫌味も感じてはいない。
彼らの目には、極めて自然で好ましいたしなみと映っている。
一方、生まれつきの野良猫である万太郎もまた、座敷飼いに憧れていた。
が、彼の場合のそれは人間の住居という、飢えの無い未知の世界への漠然とした期待だ。それにくらべてゴルのは本来そこに居て
自然、経験者ゴルは、万太郎にとっての先輩ということになり。よって万太郎は行く先々で、家猫を目にするたびにゴルを質問責めにするのであった。
「なんだいアイツ。あんなに
ベンチに座る若い女の膝の上。手提げのゲージの奥にふたつ、青く光る眼玉が見えた。
「よその猫にケンカを吹っ掛けたか、飼い主を引っ掻いたかしたんでしょ。ああしてお仕置きを受けてるのよ」
ゴルもつい知ったかぶりをする。なんせ家猫だったのは物心つくまえのことである。
「毛むくじゃらだね」
「そりゃ栄養が行き届いているもの。毛だってのびるわ」
「じいっとして動かないぞ。生きてんのかな」
「めったやたらには動じない。鳴かない。ゆったりと静かにがマナー。そっけなくもなく、かといって犬のようにベタベタ媚びず、気ままに、仲良く」
「あっ、こっち見た。……ちぇっ、無視してら」
「そりゃそうよ。家猫はね、私たちみたいな野良は相手にしないの。長いこと飼われてるうちに、ああしていろいろ
「
「猫が?」
「変わるのよ」
「どんな風に?」
「どんな風にって、つまりそのぉ、『野良』が『家』によ。何から何まで変わっちゃうってこと」
「なんだか怖いな」
「そりゃあ、はじめのうちはお仕置きとか痛い目にもあうわ。でもね、いい思いがしたければそれぐらいの試練には耐えなきゃ」
「……」
「だって、家猫になった野良はみんなそうだもん」
「みんな?」
「そうよ」
「ああなるの?」
「そうだってば」
「じゃあゴルも家猫にもどったら、どこかですれちがっても」
「あったりまえじゃない。私が家猫にもどったら、もう万太郎なんかにはさせてあげないんだから」
腹がまた鳴った。
万太郎はそれをごまかすようにゴルにならって
横目でゴルのやり方を盗み、見よう見まねで自分の腕を舐めていく。優雅に、やさしく、丹念に。それに没頭することで空腹がまぎれるのならば、何時間だって舐め続ける所存である。
が、哀しいかな、またも腹が鳴るのだ。―とそれを、
「ダメよっ」
すかさずゴルが聞きとがめた。
―へ?
何も言ってやしないのに。
「ダメって?」
「ニャーゴのこと考えてたでしょ」
「ま、まさか」
「それだけは、ダメ」
「オレはべつに」
「だって今、お腹が鳴った」
「だからって……」
ニャーゴという寝たきりの猫が居る。
もとは万太郎たちと同じようにこのパーキングに集う野良の一匹だった。
が、ひと月ほど前に宅配ピザ屋のスクーターにはねられて、以来もの言わぬ廃人、もとい廃
かつてはゴルにも
事故現場の
が、そのおこぼれと
ゴルにとってニャーゴは師匠にあたるのだ。
右も左もわからない子猫をいわば路地裏デビューさせ、世知辛い野良猫稼業のいろはを教えたのが、ほかでもないニャーゴその猫だったのである。
ゴルばかりではない。このあたり一帯の猫たちはみな何かしらの形でニャーゴの世話になっている。食料調達問題にしろ、ケンカや縄張り争いにしろ、何かにつけてニャーゴを頼った。ご意見番というか、兄貴分というか、それでいて決して
それだけ信頼された猫ではあったが、事故のあとはただくたびれているだけとなり、途端に周囲の態度は激変した。
ありゃもはやニャーゴじゃねえな、と。
いやいや、猫でもねえぞ、と。
死んでるのと変わらないよ、と。
そうなると、ニャーゴのために与えられ、手つかずのまま捨てられる餌などは、その他大勢にとっては横取りしても「べつにいいじゃん」と。何の罪悪感も抱かずにありつけるたなぼた物となってしまうのだ。
もはやそこに寝そべるボロ布は、彼らにとって本当のボロ布に過ぎないのだから。
たしかにニャーゴはただ息をしているだけの、白毛の肉にすぎなくなってしまった。
米屋の女房が呼ぼうが仲間が立ち寄ろうが、せいぜいが大儀そうに
実は万太郎もご多分に漏れずニャーゴの世話になった一匹である。
世界から奥行きを奪われた夜、ゴルに連れられて引き合わされた。その時のことは今も野良の間では語り草になっていて。ニャーゴは万太郎の傷をひとめ見るなり、
「日
……といった言い回しではなかったはずだが、まあそのような意味のことをニャーゴがのたまった、と伝えられている。
して、万太郎がニャーゴの言いつけどおり、東口の台湾エステ店の裏口近くをたむろしていると、一服休憩に出てきた女店長が、万太郎を見るやいなやに動物病院へと連れていってくれた。万太郎はそこで無事処置を受け、回復したのち、また路地裏に放たれたている。
ニャーゴはいざというときのために、傷ついた野良猫を放ってはおけない
まあ、そんなわけで万太郎にとってもニャーゴは恩人、いや恩猫であり師匠なのである。
その師匠の餌を万太郎がネコババだなんて、そんな
と信じたい。
しかし、である。心憎いのは米屋の女房。わざわざ手作りで餌を与えるのだから野良たちにはたまらないわけで。いつだったかは、
―たっぷりと鰹節を盛った木綿豆腐。
またあるときは、
―焼き鮭をほぐし込んだ猫まんま。
これらはわざわざニャーゴのためだけに作られた。
辺りにはぷぅんと
―いかんっ。また、腹が。
「しぃっ!」
案の定ゴルがまたそれを制した。
そんなこと言われたって、腹は勝手に鳴るのだ。
そう思って万太郎がゴルを
「ちがうの」とゴルは鼻でコインパーキングの入口をさす。
見れば、洗いざらしのジーパンがサンダルを突っかけて入ってくる。
ライトバンの下に伏せている二匹には、この
脚は、敷地に入ったところで一旦立ち止まり、辺りをうかがうようにおずおずと
何かを
脚は、更に奥へと進んだ。
サンダルの
二匹は
脚は再度、そこで周囲を見渡すように旋回する。
万太郎が
「何しに来たんだろ」
ゴルは答えない。
脚の主は、雑草が縁取るコンクリートの車止めに腰をおろした。
男。
まだ若い。
ユタ・ジャズのTシャツ。
黒のデイパック。
前髪がのびて
青年はデイパックからコンビニのレジ袋を取り出した。
「なぁんだ。ごはんが食べられる場所を探していたんだよ」と万太郎。
―となれば、おすそ分けにあずかれる可能性も無くはなく。
腹が、鳴る。
鳴る。
青年がレジ袋から取り出したのは、なんと青缶だ。
二匹の目が三つ、そろって点になった。
万太郎などは思わず身を乗り出してしまったくらい。おそらくはゴルが制していなければ駆け出していたことだろう。
「ダメよ。がっついたりしたら付け上がるわ」
「オレはべつに……」
「初対面から自分を安売りしちゃダメなのっ」
「ゴルは今食べてきたばかりだから、そんなことが言えるんだ」
「ダメッたらダメッ。あとあときっと後悔するって」
腹が鳴る。鳴る。
「ダメッてば」
青年はまだ二匹に気づいていない。
それでも缶を開け、アスファルトの上に置いた。
「ほら見て、まるでなっちゃいない。別の容器にあけないところが、猫を扱いなれていない証拠。一度は飼ってみたいんだけど大家が許さないってやつね。図に乗るのよ、ああいうタイプ。たとえ常連になっても、ゆくゆくは餌代をケチりはじめるわ」
青年は短く二回、口笛を吹いた。
「ほらね。犬かなんかと同じに考えている」
「そんなこと言ったってさ」こうも匂いを嗅がされちゃ、万太郎「たまらん」のだ。
ゴルは万太郎をおさえつけて、その耳に言って聞かせる。
「いいこと?」
万太郎は耳をそばだてた。額の焼けあとがむずりと動く。
「あつかい方を教えるつもりで接すること。それと、恵んでやってると思われたら負けね。まずは最初の餌をどう食べるかが鍵よ。今後、それを目安にするはずだから、がっつくなんてのはもってのほか。どんなにお腹が減ってても、品良く、ゆったりと。そして涙を呑んで半分は残す。そうすればあっちは、口に合わないのかな、と考える。ならばどのブランドの餌なら残さず食べるのか、と疑問を抱く。むしろ抱かせる。するとまた別の餌を携えてここへ現われる。こっちは餌のランクが下がればそっぽを向いて鼻も付けない。なんなら素通りしてみせたり。野良猫ふぜいにそんなあしらいをされて、あっちは悔しくって仕方がなくなる。そして今度こそは、と意地になってまた通う。これを繰り返すうちに、少しずつ餌のクオリティが上がりはじめて……」
「そんなにたくさん
ゴルは呆れて叱りかけたが、ぐっと呑み込んで「わかったわ。私がお手本を見せてあげる。ここから見てらっしゃい」と万太郎の背中からおりた。
「全部食べちゃうの?」
「ばか」と振り返って「
すん、とひとつ鼻を鳴らしてゴルはライトバンの下から出ていった。
陽差しが重い。
ゴルはまず、偶然通りかかった
万太郎はタイヤの影と一体化する。
お座りして首を掻くゴル。
青年がゴルに気付く。
青缶を手にとり、その底でアスファルトをノックしつつ「ネコ、おい、ネコネコ、ネコ」
ゴルは素知らぬ顔で横っ腹を舐めてみせる。
「ネーコ、ネコネコ」
あら何かしら、といった態で青年に気付いてみせるゴル。
しかし腰を上げ、行き過ぎようとする。
「ネーコ、ネコネコネコネコネコ。ネーコ! おいっ! ほらっ! にゃんこ!」
ゴル、立ち止まって蚊の鳴くようなひと声「にぃあ」
「ほれ、餌っ」
「にいいあ」
「餌っ、餌っ」
ゴル、ゆっくりと近づいてゆく。
青年の手前一メートルで再度お座り。さくさくっとおざなりに首を掻いた。
青年は青缶を置く。
それを覗き込むゴル。缶と青年の顔を見比べつつ歩み寄る。
ゴルのあごの下。青缶はもうそこだ。
「食え」
匂いを嗅ぐ。
食べるか、と見せかけて立ち去りかけ、
「おいおい」
またお座り。そっぽを向く。
万太郎は焦れて思わず身を乗り出した。
「食えって」
―食べちゃえ。ゴル。
ゴル、まずはひとくちお呼ばれにあずかることにする。
青年は手をのばし、ゴルの額に触れる。
「にゃ」
―ホントだ。ゴルの言うとおり、あいつまるで猫の扱い方を知らない。
ゴシゴシと額のアフリカ大陸がこすられる。
「にゃ」
とそのとき、青年はおもむろにゴルの左手をひょいっ、と引っ掴んで立ち上がった。
左手一本で吊りあげられるゴル。
―あいつめ、抱き方も知らない。
さすがにゴルは面食らって、残った右手で青年の顎先を引っ掻いた。
「いてっ」
が、青年はそれにはかまわず、ゴルをデイパックに押し込もうとする。
パンチパンチ、パンチ。
万太郎が聞いたことの無いような唸り声をゴルがあげている。
たまらず万太郎が飛び出しかけたそのとき、
「よーしよし。いい子だ」
このひと言に、ゴルが戸惑った。
本気で
しかし、ゴルの胸に生まれたほのかな期待がそれを
扱い方は手荒いが、それはただ慣れていないだけのこと。この青年ひょっとして……。
ファスナーを少し開けてあるのは、ゴルの呼吸を思いやってのことだろうか。だからその気になれば難なく逃げることはできるだろう。ゴルはそこから首を出すと万太郎を見た。
「にゃああ」
万太郎には見守るしか
―これが、飼われるってこと?
青年はデイパックを肩にかけ、出口へと向かう。
おもわず飛び出す万太郎。ためらいつつも、あとを追う。
ゴルは言葉もなく、そんな万太郎を見ている。
別れは突然やってきた。
いつかはこういう時がくる。いや、こうなるべきだとずっと思っていたはずなのに、いざ現実に別れが訪れてみると、何もできない。何も言えない。
野良猫なんてそんなものだ。
―これでいいんだよね。夢が叶ったんだもんね。おめでとう、だよね。
ゴルは何も言わない。
―ね、ゴル。
万太郎は、パーキングの出口で追うのをやめた。
―ね。
青年に背負われた黒のデイパックに、ゴルの白い頭がちょこんとのぞいている。
そのゴルの頭が遠退くにつれて点になり、やがて視界から消えた。
残された青缶を万太郎は独りで食べた。
つづく。