第2話 走馬灯と地獄への入り口

文字数 5,244文字

目を開けると、真っ白な空間の中に1人立っていた。
壁のようなものはなく、足元は床に立っている感覚はあるが、壁のような物体はなく、部屋というよりは白いトンネルのようだった。光源はあるのか、正太郎の影は見えている。
あたりを見回しても、風景もモノすらなく、ただただ白く空っぽな空間が続いている。
(これは…夢?)
正太郎は片手で頭を掻きながら、この空間に来るまでのことを思い出そうとするが、何も思い出せない。「はあ…」とため息をつき、また頭をボリボリ掻きながら、仕方なしに歩きはじめる。
「うわっ」
一瞬だけ、背後から突風が吹き、正太郎の周辺を駆け巡った。駅のホームで電車を待っているときに感じる突風に似ている。
「うおっとっと…!」特段強い風ではなかったが、気が抜けていたのかよろめく。何とか体勢を立て直そうとするも、かえって派手に尻もちをついた。誰も見ていないはずだが、耳の先が少し熱い。最近の運動不足を心から呪った。
「さっきの、何?…風…?」後ろを振り返る。
すると、突風に引き連られるように、白い空間にいくつもの映像が連なって奔ってくる。空間が大きなスクリーンのようになっていて、映像フィルムのようにいくつもの写真が映し出されている。
白い空間のずうっと向こう側まで伸びると、ぴたり、と映像の列車が止まる。正太郎は立ち上がり、ようやく目を凝らしてそれらを観察する。
バナナを持ちながら手押し車を満面の笑みで押している小さな男の子がいた。ぷっくりとした頬が愛くるしい。年齢は1歳位だろうか。
次に見た写真は、病室でおくるみに包まれている赤ん坊と、赤ん坊を抱く母親。少し成長した男の子は父親に抱かれながら、人差し指を加えてじっと赤ん坊と母親を見ている。——次は、小学校入学式と書かれた看板の前で撮られた写真だ。口元をきゅうっと絞り、緊張気味にランドセルを背負う少年の姿。
正太郎は、その写真全てに見覚えがあった。
———それは、彼の人生の1ページだ。

佐藤正太郎は、至って普通の人生を送っていた。身長も、頭のデキも平凡。特に突出した才能はない。顔も特別整っている訳ではない。あえて言うなら、文字を書くのが好きなことくらいである。将来の夢は小説家だったが、コンテストに向けた作品が一行も書けずに辞めた。高校の頃は腰が痛くなるまで机に向かって書いていたが、ある日ぽっきり何かが折れた。それからはそれなりの努力量で生きていた。単位をとるために勉強したり、同級生と協力して過去問をかき集めたり。恋人はできなかったが、仲の良い友達は何人かいた。
大学4年間を緩く楽しく過ごして、サラリーマンになった。入社当初の正太郎は、それなりに仕事して、いつか結婚して家庭を持つんだろうな、と思っていた。

正太郎が入社した会社はいわゆるブラック企業だった。始業30分前に出社するのは当たり前だった。些細なミスで上司は怒鳴り散らすし、残業代も出ないのにオフィスの時計が退勤時間を過ぎても、誰一人として帰宅する気配がなかった。
「はあ、今日は久しぶりに終電直前かぁ…」コンビ二に寄って帰宅すると日付が変わる直前だった。
ビニール袋から、購入したのり弁当と飲み物を取り出す。大きめのフォントに『内臓脂肪にアプローチ!』と書かれたウーロン茶をチョイスした。なけなしの健康志向である。

遅めの夕食を終え、明日も仕事である無気力感を忘れるためにネットサーフィンに流れていると、友人の東貴之からメッセージが送られてきた。
『来週の金曜日、高校の同窓会するらしいんだけど、お前来る?』
メッセージの下には、会場らしき場所のURLリンクが貼られている。変わらない唐突な連絡に苦笑する。残業せずに退勤しても、翌日は休みだから気まずい思いはしなくても済むか、と自分に言い聞かせてメッセージを打ち込む。
(…木戸さんは、同窓会にくるかな)
正太郎の脳裏に浮かぶのは、自分の文章を褒めてくれた憧れの人だった。
(佐藤くんの文章、私好きだな)
木戸なるみは学校のアイドル的存在で、太陽のように笑う彼女の周りには常に人がいた。正太郎はずっと遠くから見ているだけだったが、たった一度だけ、2人きりになったときにそう言って笑ってくれた事があるのだ。恐らく彼女はもう覚えていないだろうが。
その言葉があるから、小説が書けなくて心が折れても、『小説を書いたのは良い経験だった』と悪い印象を抱かずに27年間を生きてこれたのだ。
(できることならお礼が言いたいけど)
淡い期待を胸に、送信ボタンを押した。

貴之とは、同窓会会場のホテルの前で待ち合わせていた。
「おーい、正太郎!久しぶり」正太郎は会社から直接会場に向かったのでスーツのままだが、自由人な彼はTシャツに短パンというラフな格好だ。
「久しぶり。元気してたか?」彼は小学校から高校まで一緒の、いわゆる幼馴染だ。彼は世界中を旅しながらブログを書いて生計を立てていた。性格は正反対だったが、なぜか気が合い、よく2人でつるんでいた。放課後に近場のゲームセンターに行ったり、買い食いしたり。一度だけ殴り合いの大喧嘩をしたことがある。
「まーね、そっちはどうよ?」
「んー、相変わらず真っ黒よ、ウチは」
「ホントにご愁傷様。早く転職した方が良いんじゃね?」
「だよねー、俺もそう思う」
ホテルに入り、ロビーを通って同窓会会場に向かう。
「お、木戸さんだ」
「木戸さん!?」
貴之の声に思わず声を張る。「ほら、あそこ」と指さした先、少し派手な集団の中に、艶やかなロングヘアの女性がいる。あどけない顔立ちから、そのまま綺麗な女性に成長した木戸なるみがいた。
こちらの視線に気づいたのか、正太郎たちと目が合うと、パァっと顔が明るくなる。
「もしかして佐藤君!?」
「え!?」
「おっ」貴之はニヤニヤしながら、正太郎を肘で小突く。嬉しさよりも照れが勝ち、貴之に「なんだよ」と小声で返し、なるみに手を振り返した。わざわざグループの輪を抜け、こちらに向かってくる。
「な、何話せばいい?」
「知らねーって。でも良かったじゃん。憧れの木戸さんに覚えてもらえて」
「いやいやいや、なんで覚えられてんの!?」
「あれじゃね?図書だよりに載せてた小説。木戸さんに話しかけられて、舞い上がってたじゃん、お前」
「さすがに覚えてないでしょ…あ」Aラインの白いフレアスカートに、淡い桃色のカーディガンが良く似合っていた。
「あー、やっぱり佐藤くんだ。久しぶり」
「久しぶり。木戸さんも同窓会きてたんだね」
「うん、久しぶりに皆に会いたくなっちゃって。東くんも久しぶり」
「おう、木戸さんも元気そうじゃん」
「まあ、それが取り柄なところはあるから。……2人はいま何してるの?」
「俺は旅人」
「旅人?」
「あー、旅行ライター。動画投稿とかもやってんだよ、こいつ」正太郎は、スマートフォンをタップして配信プラットフォームのホーム画面を表示する。
「登録者15万人!?すごいじゃん、東くん」
「チャンネル登録、高評価よろしく」
「あははっ、なんか、変わってないね」
「俺はフツーの営業だよ」
「営業!?」とホールいっぱいに大声が響く。一瞬周囲の注目を浴び、ハッとした表情を浮かべる。
「そ、そんなに驚く?」
「ご、ごめんごめん。なんかイメージなくて」
「確かに、正太郎が営業って感じじゃねえかもな。そういう木戸さんは?何してんの?」
「私は看護師だよ。すぐそこに病院あるでしょ?アレ、職場」とホテルのガラス扉から見える大きな病院を指さした。
「いいじゃん!白衣の天使」
「…貴之、なんかおやじくさいぞ」そう言いながら、真っ白な看護服に身を包んだなるみを想像する。テキパキと働く彼女の姿が簡単に思い浮かんだ。
「そういえば、小説、まだ書いてるの?」
「え?」なるみの急な問いに、心臓の音が一瞬止まるような感覚。貴之が正太郎にしか聞こえないくらいの小声で「ほらな」と囁いた。高校生の頃図書委員だった正太郎は、司書が書く『図書だより』に無理やり頼んで自分の小説を掲載してもらっていた。
「いや、もう書いてないかな」バツが悪そうに目を逸らす。その言葉になるみは寂しそうに眉尻を下げた。
「そっか、残念。私、佐藤くんの小説好きだったのに」
正太郎は言葉に詰まる。
「あ…」
「アレ、木戸さんじゃん!」
「久しぶりー!元気してた!?」
「あ、うん、久しぶり」あっという間に、なるみはまた別のグループに囲まれてしまった。名残惜しそうにこちらを見ているが、人に押され、会場内へ入っていく。
「行っちまったな」
「あはは…相変わらず人気者だなー、木戸さん」
「…木戸さんもああ言ってたけど、もう書かねえの?」
「……うん、書かない、かな」
書く時間もないし。と呟いた正太郎に、貴之はあっそう、と素っ気なく返す。そんな彼を正太郎は冷たいとは思わない。

ブッフェ形式の同窓会は、街でも評判の高いホテルで行われた。正太郎はあまり強いほうではないが、いつも飲む発泡酒とは違い、高価なワインや日本酒に目がくらんだ。
「あー、今日は久しぶりに飲んだぁ」
正太郎は少し赤くなった顔で伸びをしながら、ホテルの出入り口に立っていた。
「正太郎、まだ飲めるか?俺明後日からアラスカだからさ、もう一軒行こうかなっておもってんだけど」
「忙しいねぇ、お前も」どうやら同窓会に合わせて帰国しただけの貴之のせわしなさに苦笑しつつ、「じゃあ、あっちの方に店がいくつか…」と二次会の店を選ぼうとスマートフォンを取り出す。
「佐藤くん!」不意に、背後から声がかかる。
振り返ると、そこにはなるみがいた。少し息を切らしている彼女に、正太郎は驚きつつも微笑んだ。貴之はそんな2人の様子を見て、にやりと笑いながら「おっと、俺はここで失礼するよ」と言い残し、そそくさとその場を離れていく。
「あ、おい、貴之!……あー」
「…行っちゃったね」
「はあ…」
「追いかけなくて大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。アイツとはたまに会ってるから」
「ふふ、2人、高校時代から仲イイよね。正反対な感じするのに」
「あはは、正反対だよ」
二人きりになると、なるみは少し照れたように口を開いた。
「佐藤くん、あの…小説、もう書かないの?」正太郎は少し驚きながらも、軽く頷く。
「…うん、書く暇ないしね」
「じゃあ、もしまた書いたら……」なるみは続きを言いかけて口をつぐみ、「いや、強制になっちゃうよね。ゴメン」と寂しそうな顔で俯いた。
それほどまでに自分の書いたモノを望まれていることがくすぐったくも、胸につっかかる。思わず正太郎は「も、もし…」と呟く。
「え?」
「もし書けたら、また読んでよ」
その瞬間、なるみの表情が一層明るくなり、「うん!」と子どものようにあどけなく笑う。
「そうだ、連絡先交換しようよ」彼女は勢いのまま、ショルダーバッグからスマートフォンを取り出した。
「え。う、うん…」正太郎は予想外の提案に慌てて、スーツの上着やスラックスのポケットを探し、ようやくスマートフォンを取り出して彼女と連絡先を交換する。

その時、なるみが「今、何か聞こえた?」ときょろきょろと見回す。
「え?何も聞こえなかったけど」
「お、大きな音聞こえなかった?地面が割れるみたいな…」耳を澄ますが、正太郎には全く聞こえない。なるみは少し怯えたような表情だ。正太郎はなるみの傍に少しだけ近寄って、あたりを警戒した。
ガタン!と2人の傍に何かが落ちる。
それは、マンホールだ。コンクリート製のそれが空から降ってきたのだ。
「マ、マンホール!?どこから…!?」
「…アレ何!?」
「な、何どうしたの!?」
「黒い煙がマンホールの中から飛び出して、こっちに来る!」
「……えーっ!?」
突然、遠くから大きなクラクションの音が鳴り響いた。瞬時に背筋が凍りつき、2人の視線の先には猛スピードで迫ってくるトラックが見えた。
「危ない!」
「佐藤くん!?」
反射的に叫び、正太郎はなるみを突き飛ばした。次の瞬間、巨大な衝撃音とともに、横転した貨物トラックが2人の間を裂くように突っ込んできた。
なるみの叫び声が聞こえる中、正太郎は激しい痛みに襲われ、体が動かなくなっていく。何とか目を開けると、視界の端に血まみれで倒れているなるみの姿が見えた。彼女を守るために突き飛ばしたはずが、どうやらトラックの後ろにいた別の車も横転し、彼女を巻き込んでしまったようだった。
「き、木戸さん…」
正太郎は自分の無力さに苛まれながらも、必死に意識を保とうとした。(早く、救急車をよばなきゃ!)と心の中で叫ぶが、体は全く動かない。痛みと絶望の中で、徐々に意識が遠のいていく。

(…木戸さんの言っていることが分かった)
今の正太郎には、はっきりと見えた。2つの黒い煙がマンホールの中からトラックに巻き付いていた。コントロールを失ったトラックは車道を外れて———
———自分たちに衝突したのだ。

(…そうか、これは)
(これは、走馬灯だ)

黒い煙が何かは分からない。
しかし、自分は死んだのだと、正太郎は初めて自覚した。
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