人さらい列車 下
文字数 3,662文字
「帰りたい?」
「はい」
「その歳 で……」
川辺 みそぎが立ち上がる。彼の前まで近寄って、その顔をまっすぐに見つめた。ほまれくんは僕の手を離し、肌に突き刺さるような視線を受け止める。
「毎日、一時過ぎまで寝かせてもらえない生活に?」
「はい」
「吐いた牛乳、暗いクローゼットの天井、撫 でる手に叩 く手。友達 と遊ぶ時間も持てず、その小柄さと偏頭痛で体育でもお荷物、相談すれば妬まれて、周りの顔色を窺 って……死にたい気分、だったのに?」
ぐ、と彼は言葉に詰まった。今更ながら、自分の無責任さにどくりと心臓が跳ねる。僕は、彼の状況を詳しく聞き出そうとはしなかった。それが彼にとって負担になると思ったから、だけではない。
自信がなかった。
彼の境遇を詳 らかに知ってなお、生きろと言える自信がなかった。持ってきた彼のバインダーが、手汗で滑りそうになる。想像できていたはずなのに。僕の四年とこの子の四年が、違う絵の具で塗りつぶされていること。
「ごめん、ほまれくん……」
いつの間にかここにいて。
帰らなきゃいけなくて。
「何がですか」
少し怒ったような、彼の硬い声音にたじろぐ。僕を振り返ったその瞳には、確かな「生」のうねりが。いつか濁流さえも、包んで溶かしてしまいそうな。
「今までで一番たくさん、自分で決められたんですよ」
ふ、とほまれくんは笑った。柔らかくほがらかな微笑が胸の隙間を通り抜ける。この子 の年相応な表情を、初めて見られた気がした。
「柳田さん。切符持ってますか」
「はい。……悠人 さん、渡してもらってもいいですか」
「もちろん」
バインダーを渡す。淡い緑色をした、一枚の紙片。安らぎの色。例えば、もう立っていられなくなった山小屋をゆっくりと飲み込む蔦 の葉。その切符を手に取って、彼は川辺みそぎと向かい合う。
「どれだけ願っても、発行されるのは一人 につき一度きりです。それでもあなたは、戻りますか」
こんな終わり方が許されたのだと知って。そして、その終わり方はもう許されないのだと理解して、それでも。
「はい」
「……そう」
川辺みそぎは目を閉じて、幸せな人ね、と呟 いた。ほまれくんから切符を受け取り、小さく息をついて顔を上げる。再び彼をまっすぐに見つめて、何かをこらえるような声で告げた。
「さよなら」
一瞬のことだった。弔いの色が裂ける。彼女の手には、ただ破られた切符だけがあった。ほまれくんの姿はなかった。
「な……」
「これを私 がちぎると、帰ることができるの。もし、客が錯乱でもして自分でちぎったりなんかしたら、そこの本になるわ。だからあなたの」
彼女はハッとしたように口をつぐんだ。ゴミ箱の前へ移動し、ちぎれた切符をさらにビリビリに破く。捨てられた残骸にしばし視線を落とし、それからぐーっと伸びをした。
「さてと。仕事は終わり。ここからは私情。あとは、職権濫用かしら」
川辺みそぎはちらと僕を見遣 って、前方車両の方へと向かった。閉まるドアを呆然 と眺めながら、絡まった思考のまま彼女の姿を見送る。
思えば、僕の切符はなかった。そもそも……どうして目が覚めたとき、彼女は僕の部屋 にいたのだろう。
一番奥のテーブルに駆け寄った。そこに置かれていた薄緑色の紙切れは、やはり切符だった。日時は明後日 の十時から十二時。記されている名前はどれも知らないものだ。書類には、彼らの名前と基本情報、それから、焦げついたような文字で各々の胸の内が綴 られていた。
その書類の横に、書きかけの手紙が数枚。
あなたはとても頑張ったと思います。苦しかったですよね。もう終わります。安心して眠ってしまってしまっていいですよ。他 の誰が認めなかったとしても、私は、あなたの思いに寄り添います。
あなたが何もしなければ、私が皆を許すの。
だとしたらなおさら……なぜ、あの子への手紙には。
「悪趣味」
「わっ……!」
振り返ると、いた。手に一枚の切符を持って、いつになく好戦的なまなざしで。
「人の手紙を勝手に盗み見るなんて、悪趣味だと思わない? 寺坂くん」
「川辺、さん……」
じり、と一歩後ずさりする。テーブルの縁が腰に当たった。それを迂回 するも、背後には一人掛けのソファが置かれているだけだ。履いていた靴が、キュ、と床に擦れて鳴いて。
「違うよ。寺坂くん」
折り目のついた濃紺のスカート、黒地に白のラインが入っているカーディガン。戻ってきた彼女が着ていた服は、僕が通っていた小学校の制服だった。
腹の底がざわざわする。さらに一歩後ずさりをすれば、膝裏にソファが当たってバランスを崩した。
「ぐっ……!」
床に背を打ち、一瞬、肺の中の空気を全 て失う。痛みもあるが、列車が揺れて上手 く立ち上がれない。
「私は、小学校の中庭に飛び降りて死んだわ。五階から」
グシャリ、と真横で切符が潰れた。床に手をつき、覆 い被 さるようにして僕の顔を覗 き込 む。彼女の手の中でひしゃげた切符には、確かに僕の名前が記されていた。艶 やかな銀髪に周囲と己とが切り離され、彼女の密室に閉じ込められる。
寺坂くん。
と、彼女が僕を呼んだのは今が初めてではない。一番最初、僕を起こそうと話しかけてきたときから、彼女は僕をそう呼んだ。そして、あの男の子のことは「柳田さん」と。書類でしか知らない、面識の薄い相手なら本来はそのはずだ。
「私はぐちゃぐちゃになった。ただでさえ醜かった私は、さらに目も当てられないほど悲惨な姿を晒 した。悔しかったわ。惨めだった。憎かった。たくさんの手が、確かに私の背を押したはずなのに……誰も、そんな手は見ていないって言うの」
歯が上手く噛 み合 わない。じっとりした寒気が全身を包み、首筋の毛が痛いほどに逆立つ。目の前にいる少女は、美しい顔を、美しい髪を、美しい肌を持っていて。そして、あの日血まみれになった制服を。
「すみうち……み、のり」
あまりにかけ離れた外見だ、とか。もう六年前のことだから、とか。そんな理由は、僕の身勝手な事実の前に霞 む。
見ていなかった。僕は、隅内|美範を見ないようにしていた。できるだけ、〈隅内美範が虐げられている光景〉を、視界に入れないようにしていた。
僕が虐 めたわけじゃない。
僕は、何も、していない。
「誰かが私に憐 れみをかけた。三つ、欲しいものをくれてやるって。だから、皆から畏れられる、美しい姿を。それから、高校生までの教科書と、仕事が欲しいって……言った」
「……僕が」
言葉が喉に絡む。もっと時間が欲しい。知りたいことがあった。どうしても確かめたかった。
「何もしなかったせいで、あの子は死んだんだって。後でそれを教えようと思っていたから、あんな手紙を書いたのか」
隅内美範は、少し迷ってから僕の手を取った。肌が触れ合う。体温のない、作り物のようになめらかな手。もう一度僕の目をじっと見て、そして自らの胸に押し当てた。
僕らを押し流そうとする濁流の音。それに負けないくらい、大きく脈打つ僕の心臓。
薄く静かな、彼女の胸。
「た」
これは、隅内美範の本来の声なのだろうか。ろくに聞きもしていなかったから、思い出すことができなかった。その声が滲 む。上擦って、嗚咽 に呑 まれて言葉にならない。長くきらきらとした睫毛 。落ちる影になおさら際立つ、透明感のある白い肌。ぐ、と眉根を寄せ、閉じた目のまなじりに浮かぶ小さな水の玉だけは。
「助けてほしかった」
心臓を鷲掴 みにして。ギリギリと爪を立てるような、濡 れた瞳を見つめ返す。
六年前、悪いことをした数人と、何もしなかった数十人に隅内美範は殺された。謝ればいいというものではない。それで自分だけ救われようなんて、虫がいいにも程がある。
けれど、僕には伝えるべき言葉があった。
「ごめん、隅内さん。あのとき、助けられなくて、ごめんなさい」
列車が減速していく。彼女は唇を噛み締 めて、僕の胸の辺りをドン、と一度拳 で叩いた。きっと全力だっただろう。全然痛くなかった。だから、どうしようもなく痛かった。
ふっと視界が開ける。シワになった切符を丁寧に伸ばして、隅内美範は言った。言葉とは裏腹に、優しく凪 いだ声だった。
「私はあなたを許さない」
切符が引き裂かれる。重なる、列車のブレーキ音。
がくん、と体がつんのめってカバンが足の上に落ちた。
「え、あれ……隅内さん……?」
ホームに列車が入ってきて、むっとした生温かい風を顔面に浴びる。あの場所に行く前と同じ、一人掛けのベンチに座っていた。覚えている。僕の手を引く、ほまれくんの力強さと……手のひらに感じた、消えようもない罪。夢なんかじゃない。
携帯を見ると、ちょうど時刻は十二時だった。着いた頃には、もう皆お弁当やら購買のパンやらを食べていることだろう。連絡もせずに遅れてしまった。
何十件もの不在着信と、メッセージアプリに届いている山のような未読通知。視界がぼやけて、画面の文字が水滴で滲む。目元を強く拭い、ベンチから立ち上がって列車に乗り込んだ。
列車の扉、ガラス窓の向こう側。ホームドアが閉じていく。
「はい」
「その
「毎日、一時過ぎまで寝かせてもらえない生活に?」
「はい」
「吐いた牛乳、暗いクローゼットの天井、
ぐ、と彼は言葉に詰まった。今更ながら、自分の無責任さにどくりと心臓が跳ねる。僕は、彼の状況を詳しく聞き出そうとはしなかった。それが彼にとって負担になると思ったから、だけではない。
自信がなかった。
彼の境遇を
「ごめん、ほまれくん……」
いつの間にかここにいて。
帰らなきゃいけなくて。
「何がですか」
少し怒ったような、彼の硬い声音にたじろぐ。僕を振り返ったその瞳には、確かな「生」のうねりが。いつか濁流さえも、包んで溶かしてしまいそうな。
「今までで一番たくさん、自分で決められたんですよ」
ふ、とほまれくんは笑った。柔らかくほがらかな微笑が胸の隙間を通り抜ける。この
「柳田さん。切符持ってますか」
「はい。……
「もちろん」
バインダーを渡す。淡い緑色をした、一枚の紙片。安らぎの色。例えば、もう立っていられなくなった山小屋をゆっくりと飲み込む
「どれだけ願っても、発行されるのは
こんな終わり方が許されたのだと知って。そして、その終わり方はもう許されないのだと理解して、それでも。
「はい」
「……そう」
川辺みそぎは目を閉じて、幸せな人ね、と
「さよなら」
一瞬のことだった。弔いの色が裂ける。彼女の手には、ただ破られた切符だけがあった。ほまれくんの姿はなかった。
「な……」
「これを
彼女はハッとしたように口をつぐんだ。ゴミ箱の前へ移動し、ちぎれた切符をさらにビリビリに破く。捨てられた残骸にしばし視線を落とし、それからぐーっと伸びをした。
「さてと。仕事は終わり。ここからは私情。あとは、職権濫用かしら」
川辺みそぎはちらと僕を
思えば、僕の切符はなかった。そもそも……どうして目が覚めたとき、彼女は僕の
一番奥のテーブルに駆け寄った。そこに置かれていた薄緑色の紙切れは、やはり切符だった。日時は
その書類の横に、書きかけの手紙が数枚。
あなたはとても頑張ったと思います。苦しかったですよね。もう終わります。安心して眠ってしまってしまっていいですよ。
あなたが何もしなければ、私が皆を許すの。
だとしたらなおさら……なぜ、あの子への手紙には。
「悪趣味」
「わっ……!」
振り返ると、いた。手に一枚の切符を持って、いつになく好戦的なまなざしで。
「人の手紙を勝手に盗み見るなんて、悪趣味だと思わない? 寺坂くん」
「川辺、さん……」
じり、と一歩後ずさりする。テーブルの縁が腰に当たった。それを
「違うよ。寺坂くん」
折り目のついた濃紺のスカート、黒地に白のラインが入っているカーディガン。戻ってきた彼女が着ていた服は、僕が通っていた小学校の制服だった。
腹の底がざわざわする。さらに一歩後ずさりをすれば、膝裏にソファが当たってバランスを崩した。
「ぐっ……!」
床に背を打ち、一瞬、肺の中の空気を
「私は、小学校の中庭に飛び降りて死んだわ。五階から」
グシャリ、と真横で切符が潰れた。床に手をつき、
寺坂くん。
と、彼女が僕を呼んだのは今が初めてではない。一番最初、僕を起こそうと話しかけてきたときから、彼女は僕をそう呼んだ。そして、あの男の子のことは「柳田さん」と。書類でしか知らない、面識の薄い相手なら本来はそのはずだ。
「私はぐちゃぐちゃになった。ただでさえ醜かった私は、さらに目も当てられないほど悲惨な姿を
歯が上手く
「すみうち……み、のり」
あまりにかけ離れた外見だ、とか。もう六年前のことだから、とか。そんな理由は、僕の身勝手な事実の前に
見ていなかった。僕は、隅内|美範を見ないようにしていた。できるだけ、〈隅内美範が虐げられている光景〉を、視界に入れないようにしていた。
僕が
僕は、何も、していない。
「誰かが私に
「……僕が」
言葉が喉に絡む。もっと時間が欲しい。知りたいことがあった。どうしても確かめたかった。
「何もしなかったせいで、あの子は死んだんだって。後でそれを教えようと思っていたから、あんな手紙を書いたのか」
隅内美範は、少し迷ってから僕の手を取った。肌が触れ合う。体温のない、作り物のようになめらかな手。もう一度僕の目をじっと見て、そして自らの胸に押し当てた。
僕らを押し流そうとする濁流の音。それに負けないくらい、大きく脈打つ僕の心臓。
薄く静かな、彼女の胸。
「た」
これは、隅内美範の本来の声なのだろうか。ろくに聞きもしていなかったから、思い出すことができなかった。その声が
「助けてほしかった」
心臓を
六年前、悪いことをした数人と、何もしなかった数十人に隅内美範は殺された。謝ればいいというものではない。それで自分だけ救われようなんて、虫がいいにも程がある。
けれど、僕には伝えるべき言葉があった。
「ごめん、隅内さん。あのとき、助けられなくて、ごめんなさい」
列車が減速していく。彼女は唇を噛み
ふっと視界が開ける。シワになった切符を丁寧に伸ばして、隅内美範は言った。言葉とは裏腹に、優しく
「私はあなたを許さない」
切符が引き裂かれる。重なる、列車のブレーキ音。
がくん、と体がつんのめってカバンが足の上に落ちた。
「え、あれ……隅内さん……?」
ホームに列車が入ってきて、むっとした生温かい風を顔面に浴びる。あの場所に行く前と同じ、一人掛けのベンチに座っていた。覚えている。僕の手を引く、ほまれくんの力強さと……手のひらに感じた、消えようもない罪。夢なんかじゃない。
携帯を見ると、ちょうど時刻は十二時だった。着いた頃には、もう皆お弁当やら購買のパンやらを食べていることだろう。連絡もせずに遅れてしまった。
何十件もの不在着信と、メッセージアプリに届いている山のような未読通知。視界がぼやけて、画面の文字が水滴で滲む。目元を強く拭い、ベンチから立ち上がって列車に乗り込んだ。
列車の扉、ガラス窓の向こう側。ホームドアが閉じていく。