人さらい列車 上

文字数 6,299文字

 何もかもを連れ去ってしまう濁流のような音が、ごうごうと(うな)りを上げていた。
「……くん、寺坂くん」
 墨を含ませた筆で、()れた紙にそっと触れるような声。誰かが僕の体を揺さぶっている。硬い床の感触と、背や尻から伝わってくる振動があった。腕に触れている誰かの手は、先生や同級生にしては小さくて頼りない。
「あなた、死ぬわよ。そのまま寝てたら」
 じわりと縁のぼやけていた声が、今度ははっきりと輪郭を持つ。膝を抱え、枕にしていた腕の(しび)れが、時の経過を知らせている。眠気の残る目をゆるゆると開けば、そこにいたのは足のない少女だった。
「ひ……っ」
 喉が()()れて声にならない。さらさらと肩に流れるロングヘア、長い睫毛(まつげ)、その(すべ)てが新雪の色をしていて。すっと通った鼻筋、荒れ一つ無い肌、ぱっちりとした二重瞼(ふたえまぶた)に甘やかな印象の目元は、きっと同級生の女子たちがこぞって手に入れたがる代物だった。神か、またはそれに近しい何かが、利き手で丹念に描き出したような隙も人間味もない造形。仮に指先が(かす)りでもしたら、さっくり切れて血が滴るだろう。そう思わせるような鋭さがあった。
 そして、ふくらはぎから下スカートから(のぞ)く両膝の先が、すぅっと透けていて視認できない。
「あ……あ」
 腰が抜けて足にも力が入らない。逃げることはおろか立つことすらかなわず、後ずさりしようにも後ろは壁だった。そんな僕の様子を見下ろして、ふ、と。
「やっぱり、起こさなきゃよかったかも。けど、あなたと同じになるのは、御免だと思ったから」
 その少女は、ゆらりと()(あが)る煙のように(つか)みどころのない笑みを浮かべた。
 ここは……寝台列車の一室、だろうか。ベッドが一台、机と椅子が一脚ずつの個室だった。僕は床に座っていて、走行音や振動が厚い壁越しに伝わってくる。けれど、こんな寝台列車に乗った覚えはついぞなかったし、切符だって買っていない。確かに僕は、ついさっきまでいつもの駅にいたはずなのだ。
 人を見送っていた。地下鉄のホームで。通学(かばん)を抱えながら、硬く冷たいベンチに座って。
「どうしてここに来たか知りたい?」
「え……」
「知りたいなら、シェードを上げて窓の外を見てみればいいわ」
「は、はぁ」
 座り込んだまま、改めてその少女を見上げた。その銀髪や肌の色とは対照的に、彼女の瞳は黒々としていて底知れない。白いブラウスの胸元にはリボンも何もなく、膝上のスカートもただ無地の黒だ。大人(おとな)びた雰囲気はあるが、それでも中学生というには小柄な体躯(たいく)である。髪やら睫毛やらは染めているにしても、この透けた両足はいったいどういうことだろう。
(わたし)川辺(かわべ)みそぎ。一番後ろ、四号車の共有スペースにいますから、御用の際はなんなりと」
 現実離れした容姿の少女——川辺みそぎは、その美しい銀髪を揺らして一礼した。彼女は僕に背を向けて、部屋(へや)のドアを開ける。
「あなたが……」
 ぐ、と取っ手を強く握り込む。僅かに上擦った、震えの()む声だった。
「あなたが何もしなければ、私が皆を許すの」
 ドアが閉まり、続いて錠が落ちる音。後に残された僕は、ぐったりと壁にもたれて胸に詰まった息を吐いた。とりあえず携帯でも出そうと思ったが、あいにくそれも鞄の中だ。そして鞄はここには無い。
 床に吸われそうになる体をずるずると引き起こし、ベッドの側にある窓へと向かう。どの辺りを走っているのか、運が良ければ駅名の一つでも見られるんじゃないかと思った。ベッドに膝をつき、シェードの(くぼ)みに指を引っ掛けて押し上げる。
「あ……」
 見たくなかったもの。
 ずっと見ていたもの。
 はみ出した目玉、陥没した頬、ありえない方向に曲がった首、裂けた頭皮、自身の骨に貫かれた肌、(はじ)けた内臓、折れて飛んだ歯。
 (ひど)く損傷した身体が、大きな窓いっぱいに映っている。それを見下ろす子ども、内線を掛けようとして受話器を取り落とす大人。携帯のレンズを向ける、クラスメイトの誰か。震えながらメッセージを送信する、味方になりきれなかったその子の幼馴染(おさななじみ)。壊れたようにはしゃぐ人でなし、ひそひそと保身に走る(うわさ)好きの怪物。我関せずで単語帳の暗記を続ける優等生。駆け寄る人は、まだ来ていない。
 僕は知っていた。その人たちが、ぐちゃぐちゃになった身体を抱き寄せて、目玉を必死に押し戻して、ネクタイで止血しようとし、赤子に対してそうするように首を支えてそれで、警察や消防の人が来て。
 動けなくなった。鳩尾(みぞおち)のあたりに冷えた刃を差し込まれたような感覚。嫌な汗が吹き出して胸の間や背を伝う。手を当てずとも、自分の心臓がどくどくと脈打つのが分かる。汗にじっとり湿る手のひら、荒れた鼓動を感じる指先。
 勢いよく下ろしたシェードが窓枠にぶつかって、カンッ、と硬く無機質な音が部屋の中に響いた。ベッドのシーツを握りしめ、ゆっくりと息をして呼吸を整える。五秒使って吸い、五秒使って吐く。嘔気(おうき)が込み上げるが、この部屋には洗面台もトイレもない。ゆっくりと大きな呼吸を繰り返すうちに、少しずつ頭の鈍痛が遠のいていった。
 忘れられない。忘れてはいけない。それでも、こうして思考の外へと追いやって、一晩たてば忘れられたつもりになる。もう六年も前の話だ。
「ふーっ……」
 ベッドの上に寝っ転がって、もう一度深く息をついた。壁にはプラスチック製の白い時計(とけい)が掛かっていて、十一時二十分頃を指している。
 いっそ眠ってしまおうかと目を閉じたとき、誰かがドアをノックした。
「すみません、あの」
 男の子の声だ。緊張しているのか、声が小さくて少し聞き取りにくい。ドアはオートロックだったようで、あの少女が出ていったきり施錠されたままだった。
「自分、いつの間にかここにいて。帰らなきゃいけなくて、でもどうすればいいか分からなくて。藤堂学園一年の、柳田ほまれっていいます。助けてくれませんか」
「……」
 開けてしまってもいいものだろうか。どこを走っているかも分かりやしない、奇妙な少女や窓を携えたこの列車で、さらに助けを求める来訪者。仮にそこを開けたとして、襲われでもしたら。
「ごめんなさい」
 ドアの向こうの気配が遠のく。()えようもない傷にものさしを突き立てられ、無理やり押し込まれるような苦痛だった。僕は、また、同じことを。
 死んでしまえ。
「待って!」
 ドアを開けた先にいたのは、目を丸くして僕を見上げる中学生だった。中高一貫の名門校、藤堂学園中等部の制服だ。やはり諦めて立ち去ろうとしていたらしく、半分こちらに背を向けていた。
「あ、あ、えっと、藤堂学園一年の柳田ほまれと申します」
 その子はバインダーを胸の前に抱えて、僕に向き直った。澄んだ瞳、甘く垂れた目尻、形のいい唇。まだ幼さの残る柔らかな輪郭が、少し癖のある髪で囲われている。ただ、そうしてこちらを向いた拍子に一瞬眉根を寄せ、「う」と(うめ)いたのが気になった。
「乗り物酔いなら、休んでた方が」
「……いえ、ちょっと寝不足で。あの、寺坂悠人(ゆうと)さんですか」
「え、うん。あっ、敬語とかそんな気にしなくていいよ。僕、高校生だし」
 今は六月。ということは、彼はつい三ヶ月前まで小学生だったわけだ。その割にはしっかりした子だなと違和感を持ちつつも、身をかがめて目線を合わせる。この頃の自分にとって、高校二年の男子なんてのは、うんと大人に見えていたと思う。
「これ、見てください」
 彼はおずおずとバインダーを差し出した。(すすき)緑色の切符が挟まれていて、「6月21日 10:00発—12:00着」という表示のほかに、「柳田(ほまれ)さま」と記されている。駅名もなければ磁気加工もされていない。それをバインダーから外し、今度はもう一枚の紙に目を走らせる。そこには、手書きの文字が続いていた。
〈私はこの列車の管理人です。四号車にいますから、何かあればこちらまで。もし、(ほか)の誰かに助けを求めようというのなら、一号車D室の寺坂悠人を頼ってみなさい〉
 その手紙は、川辺みそぎという名前で締められていた。
 あの少女の微笑が。美しい銀髪が、目の前に浮かんで。喉がひりついた。思い当たった可能性をおそるおそる手繰り寄せる。片道だけの切符、彼に()てられた手紙の内容。それから、彼女が話した言葉の意味を、糸で(くく)って(つな)()わせて。
 ハッとして壁の()け時計を振り返る。十一時二十八分だった。
「何か分かりましたか」
「……柳田さん」
 この仮説が正しいとすれば。
 バインダーを返し、改めて彼の表情を見た。ぎゅっと引き結ばれた口元は不安げだ。僕を見上げるその視線は、彼より僕が五つ(どし)上であるという事実を否応(いやおう)なしに突きつけていた。(すが)るような目に胸を掴まれ、心のうちの深いところ、しまい込んだ喪失を揺り起こされる。
「ごめん。立ち入ったことを聞くよ」
 彼の両肩にそっと手を置き、少し膝を折って()()ぐに彼を捉えた。助けなければならない。今度こそ、みすみす死なせたりなんてしない。
「痛みもなく恐怖もなく、失敗して一生引きずることもないとしたら」
 それはきっと、何枚も重ねた遮光カーテンの向こう側。
「考えたこと、あったんじゃない?」
 他者への優しさと不信がないまぜになって、見えないように、悟らせないように、腹の底に押し込んだ隠し事。
「なんで分かっ……」
 彼の色白な顔から、さらに血の気が引いてバインダーを取り落とした。一歩、二歩、後ずさりして、震える唇で「ごめんなさい」と何度も(つぶや)く。
「お(かあ)さんには言わないで!」
 脱兎(だっと)のごとく駆け出した。バインダーを拾い上げ、彼を追って僕も走る。通路は人が二人(ふたり)すれ違える程度の狭さで、黄みがかった明かりに点々と照らされていた。客室を三つ通り過ぎ、スライドドアを抜けて一号車から二号車へ。ごうんごうんと揺れる床を踏みしめて、転びそうになるたび壁に手をついて。二号車と三号車をつなぐ車両に入ったところで、あることに思い至って来た道を振り返った。
 ここまで、さっき出た客室を除いて空室が二つ。固く閉ざされたドアが五つ。
 これが、彼女の言っていた〈皆〉か。
 腹に手を突っ込まれ、胃の中を()(まわ)されるような心地(ここち)がする。重くなった鼓動が内から肌をどくどくと打った。残り時間は三十分ほどだろう。
 全員は無理だ。
「はーっ……」
 深く息を吐き、そうすることで新しい酸素を吸った。手をかざせば、目の前のドアが静かに開く。列車の外は、相変わらず濁流のような轟音(ごうおん)で塗りつぶされている。
 三号車に足を踏み入れた。


 右側に四つ並ぶ部屋の、そのうち三つまでは空っぽだった。そこに乗客がいない、その事実だけでも少し息が楽になる。
「ほまれくん……」
 一つだけ、半開きになっているドアがあった。部屋の明かりはついておらず、返事も聞こえない。
「明かり、つけるよ」
 室内がパッと光で満たされる。彼はベッドに腰掛けて、シーツを強く握りしめていた。視線を床に落としたまま、唇を()()めている。
 助けようとしているのは、彼のことだけではなかった。けれど、目の前にいる子どもを死なせたくないと思う気持ちも、本当。
 ついてきてもらうには、さらけ出すしかない。
「さっき聞いたことだけど」
 通路と客室とを区切る境界線。それを踏み越えて、彼の客室に土足で入る。彼は(うつむ)いたまま、シーツを掴む手に力を込めた。僕だって僕だって、こんなこと、誰に言ったこともない。教えるつもりだってなかった。そもそも、無いことにしてしまいたい気持ちなのだ。夜に泣いて、朝には忘れたことにする。そうやって、ずっと許さずに生きてきた。
「僕もそうなんだ」
 彼の肩がビクリと動く。顔は上げないが、聞いてくれていることくらい分かる。
 迷惑をかけたくない。面倒なやつだと思われたくない。嫌われたくない。繕った自分を引きずり回して、それでもいいから愛されていたい、と。
 そうやって、僕らに限界が来た。
「このままこれに乗っていたら、行き着くのは死者の国か、天国か地獄か、何もないところか、どれとは分からないけどそういう場所だと思う。僕らがここにいるのは、それを望んでいたからじゃないかって」
「……ぼくは」
 さっきまで学校の二階の窓際にいました、と彼は呟いた。ベッドから立ち上がり、僕の目の前に立つ。口を開こうとしては嗚咽(おえつ)を飲み込み、(ゆが)む顔を隠すように両の手のひらで覆った。弱みを見せられない。気を遣わせたくない。受け入れてもらえると、信じることができない。この子どもは、きっと人前で泣けない子だった。僕と同じように。
 呼吸を整えると、彼はつとめて冷静に打ち明けた。
「そのとき、頭の中の半分は、次の時間の確認テストに出る英単語のことを。もう半分で、ここじゃ高さが足りないかも、と」
「……ほまれくん」
 彼を見ていて気づかされた。例えば四年後の僕からすれば、今の僕から見る柳田ほまれと同じように、僕もまた子どもなのだ。そして僕は、ここにいる事情が何であれ、目の前の子どもを生かすべきだと考えている。手に持っていた彼のバインダーを、強く持ち直した。
「頼むから、僕にきみを助けさせて。そうしたら、僕も救われる」
 優しさにつけ込んだ、逃げ道を塞ぐような物言いになってしまっているだろうか。それでもいいと思った。せめて僕らは、頑として否定しなければならないのだ。
「一緒に戻ろう。四年生きたら、きみは目の前にいる僕と同じ体だ。それからまた、今の僕みたいにあれやこれや考えたらいい。僕もそうすることにした」
 きみのおかげだ、と続ければ、彼は僕の手を取って走り出した。客室のドアを勢いよく開け放ち、四号車の方へと急ぐ。
「なに、え、どうし……っ」
「どうしたもこうしたも、寺坂さんが、悠人さんが言ったんでしょ!」
 自動ドアが開くまでの、(つか)()の沈黙。急に動いたせいで頭が痛むのか、はぁ、とかうぅ、だとか(うめ)(ごえ)をこぼしながら、僕の手を引いて先へと進む。接続車両の中には、〈川辺〉のネームプレートが取り付けられた管理人室もあった。廊下は薄暗く、頼りない明かりがぼんやりと僕らの足元を照らしている。
「迷ってるうちに、取られちゃうんです」
「取られる?」
 並んで歩くには狭い通路に、互いの足音が混ざり合う。不思議と耳に心地良(ここちよ)い。
「もっといい方法があるんじゃないか、やりたいことは何なのか。何を目指して、どんな努力をするのか。ぼくが決める前に、全て母が決めてきました」
 四号車に続くドアがパッと開いて、差し込んだ光にほまれくんがふらついた。
 床には、段ボール箱が四箱。ほとんどが教科書だが、他にも漫画、文庫本などが十冊ほど、縦に横にと詰め込まれている。それから、一人(ひとり)掛けのソファと備え付けのテーブルが三脚ずつ。束になったバインダーや書類、薄緑色の紙切れが数枚、一番奥のテーブルに広げられていた。
 その席に、少女が一人座っている。
「ぼくが今こうしているのも、理由の半分くらいは、悠人さんがそう言ったから。ぼくだけの決心にはなりません。……でも」
「あと二十分」
 川辺みそぎは、深いため息をついて書類から顔を上げた。ボールペンをゆらゆらと手の中で遊ばせながら、繋がれた僕らの手を見て頬杖(ほおづえ)をつく。 
「あと少しで、楽になるのに」
 ゆるりと目縁を細め、黒飴(くろあめ)のような瞳に僕らを映した。 それは、お菓子を差し出しながら「本当にいらないの?」と首を(かし)げる母親にも似ていて。でも、僕の母親よりは随分と意地が悪そうに。あるいは、ほまれくんにはまた違ったふうに見えているのかもしれなかった。
 ほまれくんは、(おく)せず口を開く。
「ぼく、帰りたいんです。だから、あなたに頼みに来ました」
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