落とす

文字数 1,996文字

 潮風が吹き抜けていく田舎町の駅に八年ぶりで降り立った。田舎と言っても地方都市としては賑やかだったところ。いえ、今でも賑わっている方だろう、駅前はキレイに様変わりしている。でも、大都会、と言われるところで八年暮らした目で見ると、田舎だ。
 出発したのは昨夜、ほとんど丸一日汽車での移動。でも、前よりはかなり早い。
 駅前からすぐの国道、舗装されて広くなってる。しばらく歩いてから斜めにそれた道に入ると両側に飲食店が並ぶ。さすがにここは人が多い。少し顔を伏せ、人と目を合わせないように歩く。
 少し行くと通りの雰囲気が変わる。ここからは色町。以前はここからの方が賑わっていた。でも今はなんだか寂しい空気が漂っている。と言うか、娼館が飲食店や普通の商店になっている。華やかだった娼館が、新しい店と店の隙間で遠慮勝ちに見える。
 そんな色町の途中から路地に入る。建物一つ過ぎるとそこは別世界。雨風を防ぐことさえ満足にできないあばら家が立ち並んでいる。ここは変わらないな。そんなあばら家の一つの前に。ためらいもなく引き戸を開ける。一尺ほど開いたところで突っかかる。これも変わらない。
 一応、ただいま、と言うつもりだったのに、
「誰だ」
と、先に声がくる。玄関からすぐ四畳半、そして六畳が続く二間だけの家。開けたと同時に私の姿が見えてるのに分からないの? と思う私も一瞬分からなかった。八年どころか、八十年ぶりのように変わった父親のことが。
「安子よ」
そう返しながら四畳半に上がる。
「何んしに来た」
何言ってんの、この人。
 三日前手紙が届いた。長くない、位牌を頼む。そんな内容の手紙。慌てて暇をもらって帰って来たのに。
「手紙送って来たでしょ」
「わしが死んだらって書いたじゃろが」
確かにそう書いてあったけど。そして、目の前の父はほんとにもう長くは見えない。
「どこが悪いの?」
足の踏み場もない中に踏み入って、寝ている父に近付く。ほんとによくもまあ、布団と物で畳がほとんど見えない。この部屋にいるだけで病気になりそう。
「どうでもええっちゃろ」
「はあ?」
「医者には年は越せんと言われた」
新年まで二か月と少し。それまで生きれないって言われたの?
「ええ? なんで」
布団の手前の木箱に腰かける。すると父が答えずに体を起こしながらこう言う。
「そんな格好で、はしたない」
膝丈のスカート、父からは下着が見えたかな。でもはしたないって、あんた私をどこに売ったか覚えてる? って言いたい。そう、私は十七の時に娼館に売られた。目の前に色町があるのに、遥か東の店に売られた。まあ、見知った人間に娘が抱かれるのは嫌だったのでしょう。
 タバコに火をつけ、むせる父。
「やめなよ」
「なんが」
「タバコ、体悪いんでしょ」
「今更だ」
「明日、病院行こ」
「そんな金ない」
私もない。売られた年季者の給金なんて雀の涙。しかもほとんど預かりで年季明けまでもらえない。今回の旅費だって店からの借金。どうしようもない。
「金は全部大家に渡した」
父が続ける。
「なんで」
「ここの始末を頼んだ」
もうそんなことまで。
 でも、と続けようとした私を父の声が遮る。
「ああ、せからしか、早よ位牌持って帰れ」
箪笥の上に並ぶ位牌に目がいく。記憶にあるのは四つ。戦争で死んだ、腹違いで年の離れた兄二人とその母親のもの。そして三つ下の妹を産んだ時に死んだ母のもの。だけど五つある。
 帰って来てから気になっていたことが、まさか、と言う思いと共に口から出る。
「いっちゃんは?」
妹のこと。名前は育子。
「あいつも死んだ」
「……」
「悪い病気をうつされたらしい」
「ま、まさか、い、いっちゃんまで売ったほ?」
返事をせずにタバコを消す父。
「なしていっちゃんまで、約束したっちゃよね」
「……」
「いつなの? いっちゃんが死んだの」
「忘れた」
そう言って布団に潜り込む父。
「どこで?」
「……」
「なして、な~して知らせてくれんかったっちゃ」
 立ち上がって見ると位牌の後ろに写真があった。私の記憶にはない妹の姿。臆病な子で、父に怯えていつも私の後ろにいた。ぎこちない笑顔は変わっていない。でも私にだけは心からの笑顔を見せた。それが重なって、涙が出た。ごめんね、いっちゃん。
「早よ、いね」
その声に足元を見降ろす。元々痩せていたのがもう骨だけになったような男がそこにいる。こいつが最後の肉親。でも、こいつが死んでも……。
 翌朝、大家さんに父のことを頼み、いっちゃんの位牌と写真だけ持って帰った。

 数日経ったある日。
 食事もそこそこにやるだけやって客が帰って行った。泊り予定の客、今夜は一人で客室で寝られる。残った料理を食べていたら幼い女中が来た。父が死んだと電話があったと言う。
 もう死んだんだ、それ以上何もない。部屋の鉢植えの木に一つだけ花が咲いていた。最後の父のように白く小さな花。指先で触れると落ちた。そしたら、涙も落ちた。




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