苦難

文字数 679文字

 翌日、練習に訪れるとハンドボールを蹴っている生徒がいた。

「やめなさい。ボールは蹴るものじゃないだろう。」
と伝えると、

「前田先生はいいって言ってましたよ」
と言われる。 
 
 たしかに前田先生は、一般的にだめと言われる部分でも良しとしている部分があった。「そういうことじゃないんだよ」というのが口癖だった。前田先生いわく、本質的な指導をしなければ意味がないという。ボールを蹴るといった形式的なところに目を向けるのではなく、もっとこだわらないといけないところがあるということなのだろうか。それでも言い出した手前、言葉を撤回するわけには行かない。

「今、前田先生は関係ないだろう」

と生徒に伝えた。そう言いながらも一番前田先生の存在を意識しているのは自分なのではないかと思った。

「別にいいじゃないですか」

と言って生徒はやめなかった。自分ではどうにもできない状況だと感じた。こんな時、前田先生ならどうするだろう。そんな事が頭の中を駆け巡った。
 
 そうしている間に、陸上部顧問の水代が通った。生徒はそれを確認するとボールを蹴るのを止めた。水代は生活指導主任だ。見つかったら指導を受けるかもしれないと思い、ボールを蹴るのを止めたのだろう。目の前でおきた一連の出来事をただ見つめながら、何もすることのできない自分の無力さを痛感した。


 大なり小なり、こういった出来事が増えていった。
 気になる生徒を指導しても「前田先生はいいって言ってましたよ」と生徒は言う。そう言っていなくても、そう言っているように感じてしまった。そんな意識の中、生徒に伝える言葉には少しずつ力がなくなっていた。
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