第11話 楽園

文字数 3,384文字

(かえで)ちゃん。大丈夫かい?」

 穏やかな声に目を開けると、マスクをかぶった男が(ひざまず)き、自分を見ていた。
 男がゆっくりとマスクを外す。
 祥太郎(しょうたろう)だった。

「ご飯、持って来たよ。どう? 食べられそう?」

 楓は答える代わりに、渾身の力で祥太郎に体当たりした。
 祥太郎がバランスを崩し、おかゆが床に散乱した。

「うっ……」

 足枷(あしかせ)が食い込み、激痛が走った。痛みに顔をしかめていると祥太郎が近付き、足首をさすった。
 しかし楓はまたしても体当たりし、馬乗りになって噛みつこうとした。

「うーっ! うーっ!」

 何とか楓を振りほどいた祥太郎が距離を取り、哀しげな眼差しを向ける。

「楓ちゃん……」

「……何しに来たのよ! あんたが……あんたが全部悪いんじゃない! そうやって優しい振りをして、ずっと私を監視してたんでしょ? そんなあんたが今更、私に何の用があるって言うのよ!」

「僕は……僕はね、楓ちゃん。本当に君のことが大切なんだ。だって君は」

「家族って言いたいんでしょ? あははははははっ! 聞き飽きたわよ、そのセリフ! 家族家族家族! どこの家族が盗聴器を仕掛けてるのよ! 職場まで監視してるのよ! おかしいよね、おかしいよね! ほら、何か言ってみなさいよ!」

 祥太郎を睨みつけ、楓が叫ぶ。

「君は僕たちの家族だ。いくら君が笑おうとも、どれだけ否定されようとも、僕はそう言い続ける」

「あはははははははっ! 本当、ここの住人ってば、みんな頭がいかれてるんじゃないの?」

「どう言ってもらっても構わない。そういうのもまた、本当の家族になる為に必要なことだろうから」

「うるさいっ!」

 言葉と同時に唾を吐きかける。

「……楓ちゃんにそういうのは似合わない。僕はそう思うよ」

「唾のこと? 何言ってるのよ、このお馬鹿さんは! ひょっとしてあんた童貞? 女は汚い言葉を使いません、おしっこもうんこもしません。綺麗な綺麗なお人形さんです、そんな御伽噺(おとぎばなし)みたいなこと、本気で信じてる(たぐい)? これを見てみなさいよ!」

 そう言って祥太郎に腰を向ける。

「この中はね、私のおしっこやうんこでいっぱいなんだよ! 次の交換の時、一緒に見てみたらどう? おむつの中を! これがあんたの言う所の『女』の本当なんだよ! 汚い言葉だって吐くし、あんたと同じ臭いものも出すんだ!」

「僕は楓ちゃんのこと、人形だなんて思っちゃいないよ。僕は君のことを、一人の女の子としてちゃんと見てる。そして……そんな君のことが大好きなんだ」

「ふざけんなっ!」

 再び唾を吐くと、祥太郎は小さくうなずき、ゆっくりと立ち上がった。

「……今日はこれぐらいにしておくね。次の食事は少し、早めに持ってくるから」

 祥太郎が去った後の部屋で、楓はもう一度叫んだ。

「ふざけるな馬鹿野郎っ!」




 それからも、男たちが何度もやってきては、楓に罵声を浴びせていった。
 楓のアイデンティティ、存在全てを否定していく。
 その言葉は楓の心に深く深く突き去り、次第に楓は、自分が生きるに値しない人間だと思うようになっていった。

 しかし祥太郎が来ると、罵倒してしまう。この行き場のない怒りをぶつけられるのは、彼しかいなかった。

 自分でも分かっていた。卑怯だと。

 罵倒なら、あの男たちにだってすればいい。しかしそれは出来なかった。
 怖かったから。
 祥太郎を罵倒しながら楓は、自分の(ずる)さと弱さにうんざりしていた。
 そして。
 そんな楓を穏やかに見つめる祥太郎に、胸が熱くなっていった。





 祥太郎が部屋に入ると、いくつもの血だまりが出来ていた。
 慌てて救急箱を持ってきた祥太郎は、視線の定まっていない楓に向かい、静かに語り掛けた。

「そろそろだと思ってたよ」

 楓は自分の足を噛みちぎっていた。

 理由は二つ。
 一つは、行き場のない感情のはけ口として。
 そしてもう一つは、色を欲したからだった。

 真っ白なこの部屋に入ってから、心が休まることがなかった。
 どこを見ても色のない空間に、彼女の精神は限界を迎えていた。
 何でもいい、色が欲しい。
 そんな彼女が思い付いたのが、自分の中にある色だった。




 消毒液を吹きかけると、楓は痛みに顔をしかめた。

「ごめんね……すぐ済ませるから、少しの間辛抱してね」

 色のない世界で、誇りも尊厳も放棄した自分。
 罵倒され、自身の存在を否定される毎日に、彼女の心は疲弊しきっていた。

 突然笑ったり、泣いたりした。

 そんな彼女をまっすぐ見つめ、向き合ってきた祥太郎。
 傷口にガーゼをかぶせ包帯を巻くと、祥太郎は優しく撫でたのだった。




「……どうして……どうしてあなたは、こんな私に優しくするの?」

 子供の様な口調で、楓がつぶやく。

「僕は……優しくなんかないよ。ただ」

「ただ?」

「前にも言った通りだよ。僕は君のことが大好き、それだけなんだ」

 その言葉に、楓は無邪気な笑顔を向けた。

「どうして? 私よりいい人なんて、いっぱいいるでしょ?」

「笑わないで聞いてくれる?」

「笑わない」

「多分一目惚れ……だったんだと思う」

「ふふっ」

「ひどいな。笑わないって言ったのに」

「ふふっ、ごめんなさい」

「でも……本当にそうなんだと思う。君に初めて会った時、僕は運命を感じたんだ。ずっとこの人と、一緒にいたいって思った」

「でも私、人として最低だよ?」

「誰だってそうだよ。勿論、僕だって」

「……この部屋に入ってからね、いっぱい考えたの。みんなが言う通り、私は今まで、たくさんの思いを踏みにじって生きてきた。そんな私に、この世界で生きる資格なんてないって思った」

「そんなことないよ」

「ううん、あるの。楽園のみんなからも、いっぱい恩を受けてきた……ここに来た時、もう一度やり直すんだ、頑張るぞって思ってた。でも正直に言うとね、不安で不安で仕方なかったの。
 怖かった……それなのにここの人たちは、みんな優しくて温かくて……いつの間にか、そのことを忘れてしまってた」

「やり直せるよ、楓ちゃんなら」

「……」

「親父についていけば大丈夫。何と言っても、こんな僕でさえ包み込んでくれる人なんだから」

「でも私……失望されたと思う」

「そんなことないよ。楓ちゃんが戻ってくるのを、みんな待ってるんだから」

「嘘」

「嘘じゃない。だから今はみんな、すごく哀しんでる。楓ちゃんを責めてる人だって、部屋から出てきたら泣いてるんだ。辛いってね。ちづるさんや千春ちゃんだって、もう許してあげてって泣いて親父に頼んでた」

「ちづるさん……千春ちゃん……」

「親父やお袋だって、すごく辛そうにしてる。それに親父たちはね、楓ちゃんがここに入ってから、ずっと絶食してるんだ」

「え……」

「楓ちゃん一人にだけ、辛い思いはさせられない。せめてこうすることで、あの子の辛さを分かち合いたいんだって言ってね」

東野(ひがしの)さんが……」

「だから大丈夫。戻って来ていいんだよ」

「私……いいのかな……」

「いいんだよ、楓ちゃん」

「でも私……怖いの」

「今の楓ちゃんに必要なのは、勇気だ」

「勇気……」

「そう、勇気。勇気を持って最初の一歩を踏み出せば……みんなの中に入っていけば、楓ちゃんにもきっと分かる。何だ、こんな簡単なことだったんだってね」

「……」

「確かにここは、外から見れば異質かも知れない。隠し事だって一切ないし、全てをみんなで共有しあってる。誇りも恥も、喜びも哀しみもね。そんな家族、日本中探しても多分ないだろう。
 でもね、それこそが社会の、本来あるべき姿なんじゃないかな。みんなで支え合って助け合う。一人はみんなの為に、みんなは一人の為に」

「……そうなのかも……しれないね……」

「ここにいた数か月は、楓ちゃんにとって、決して悪いものじゃなかった筈だ。温かくてくすぐったくて、いつも帰りたいって思える場所。それがここ、楽園だろ?」

「うん……そう思う。私もずっと、ここにいたい……」

「だったら一歩を踏み出そう。勇気が出ないなら、いつだって僕が支える」

「みんな……許してくれるかな」

「大丈夫だよ。みんなを信じて」

「一緒に謝ってくれる?」

「勿論」

「ずっと傍にいてくれる?」

「僕でよければ、いつまでだって」

「私のこと、好き?」

「大好きだ」

「嬉しい……」

 瞳から、大粒の涙がこぼれる。
 全てを受け入れた涙。
 自分が生きていく場所を得た、安堵の涙。
 そして、共に生きていく仲間を得たという、喜びの涙だった。
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