第1話 須王とお嬢さま
文字数 2,012文字
人生ってなにが起きるかわからない、と小学生の凛子は目まぐるしく変化する環境に思わずため息をついた。
それが半年ほどまえのこと。
須王の部屋に転がりこむようにして始まった居候生活は、思いのほか円滑に続いている。
「おはようございます」
須王はいったい何時に起きているのだろう、と凛子は思う。朝、凛子が目覚めると、彼はすでにきっちりと着替えて朝食の用意をすませている。一方、制服に着替えたものの髪はぼさぼさのままの凛子を見て、須王はすぐさまブラシと髪留めを持ってくると、寝ぼけ
「できましたよ。食事にしましょう」
「ありがとう。いただきます」
須王が作る朝食は正統派の和食である。炊きたてのごはんに具だくさんの味噌汁、甘い玉子焼きに鮭の塩焼。
「今日は何時ごろにお帰りですか」
いつものように須王が尋ねる。
「今日は参観日だから午前中で終わると思う」
「参観日?」
しまった。
須王はじっと凛子を見ていたが「わかりました」というとなにもなかったように食事を再開する。ほっとして凛子も味噌汁を飲む。ランドセルのなかに白紙の原稿用紙がある。今日の参観日の授業で発表する作文の宿題が出ていた。
テーマは『わたしの家族』。
凛子はなにを書けばよいのかわからず、白紙のままだった。
参観日は憂鬱だ。とくに今日は。そのせいか学校に着いてから妙にだるくて仕方ない。生徒たちはみなそわそわしながら、保護者に見守られ自慢げに作文を読みあげる。
ふいに後方がざわめく。振り向くと、三つ揃いを着込んだ須王が入ってくるところだった。凛子は目を見開いて固まる。どうして須王が。ポカンとする凛子の手許から白紙の原稿用紙が奪い取られる。
「なんで書いてないんだよ」
前の席の男子が大声でいう。
「おまえの家、
ボツラク
したんだろ」ひそひそとささやく声がさざなみのように広がる。凛子はうつむいて拳を握る。視界が揺らぐ。ガタン、と椅子が倒れると同時に凛子はなにかに受けとめられていた。
「お嬢さま、熱がありますね」
須王は軽々と凛子を抱きあげると隣の席の男子を見下ろす。少年はその眼差しの鋭さにヒッと縮こまる。
「先生、お嬢さまは体調不良のため早退させていただきます」
「は、はい」
「荷物はあとで取りにきますので」
「はいっ」
有無をいわさぬ須王の迫力に教師まで
帰宅すると凛子はベッドに押し込まれ厳重に布団にくるまれた。そのまま眠っていたらしい。ふと目を覚ますと、ベッドの側に須王が座っていた。
「具合はいかがですか」
「だいじょうぶ」
「まだ熱がありますね。水をどうぞ」
「ありがと」
須王に背中を支えられながら水を飲む。
「担任の先生が、お嬢さまに謝ってほしいと」
「え?」
「作文のテーマが、配慮が足りなかったとのことです」
いつのまに先生と話したのだろう。
「ううん、先生のせいじゃないから」
凛子の家はそれなりに由緒ある家柄で裕福な暮らしをしていたが、父親が事業に失敗して
「ごめんなさい。せっかく参観日に来てくれたのに」
作文は白紙のうえ、倒れて早退なんて。
「私に謝る必要はありません。お嬢さまの成長を見守ることが私の唯一の楽しみですから」
「わたし、もうお嬢さまじゃないのに」
「いいえ。私にとっては永遠にお嬢さまです。将来、どこかへ嫁いでいかれるまで、私が責任を持ってお守りします」
ずいぶん
「どうして?」
須王はすこしためらうような素振りを見せたあと、淡々と応える。
「旦那さまや奧さまにはご恩があります。それに、勝手ながら、お嬢さまのことは昔から歳の離れた妹のように思っております」
「妹?」
「すみません」
「どうして謝るの。須王がおにいちゃんだったらうれしい」
「そう、ですか」
「うん」
そうだ、と凛子は
「作文、須王のこと書いてもいい?」
「私ですか」
「だって、おにいちゃんなんでしょ?」
「それは、しかし、」
元気になった凛子が書いた作文はクラス中から絶賛された。参観日に颯爽と現れ凛子を救いだした須王はまるで
それから約十年のち。
歳の離れた兄妹のように暮らしてきたふたりは紆余曲折のすえ正式に家族になる。
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