6 私小説の二律背反

文字数 1,948文字

6 私小説の二律背反
 平野謙は、『私小説の二律背反』の中で、私小説の発展を分析している。近松秋江の『疑惑』に見られる「人性そのものの罪ぶかさ、いやらしさ」の懺悔と白樺派を代表にした「文壇交遊録」が示す「作家たるものの行蔵が一般読者の興味をひかぬはずはない」という戦略の二つの流れから私小説が形成されている。

 人間を自然科学に基づく実証主義的に描かねばならないとする自然主義文学は、国民国家=産業資本主義体制がもたらした都市住民の生活を舞台として、ゴンクール兄弟やエミール・ゾラなどの一九世紀フランス作家の作品に出現しする、日本では、ゾラが日清戦争から日露戦争にかけての時期に紹介され、小杉天外の『初すがた』(一九〇〇)や永井荷風の『地獄の花』(一九〇二)は最初の影響例である。

 一九一〇年代に入って近代国家体制が確立されると、国家と個人の間の葛藤や脱封建的な国民の生と死が問われ、自然主義文学が本格的に流行する。「人生の従軍記者」を目指した島崎藤村が『破戒』(一九〇六)において被差別部落出身者の苦悩を描き、実際の従軍記録を著わした田山花袋が『蒲団』(一九〇七)で性をめぐる中年作家の苦悶を率直に告げ、自然主義文学が一気に評判を呼ぶ。『早稲田文学』や『読売新聞』などの活字メディアに所属する作家や記者がこの動向に同調し、徳田秋声、正宗白鳥、近松秋江、真山青果が登場し、文学的論争だけでなく、政府・行政の帝国主義政策やメディアの代理戦争が絡みつつ、文壇の主流派としてヘゲモニーを獲得している。

 ところが、この自然主義は人間と社会を自然科学的に観察すると言うより、古臭く狭量な地域社会を舞台として、因習や権威からの解放を求めて大胆に体験や気分を記すスタイルであり、身辺雑事を自己没入的に描写する傾向が強くなり、私小説と化していく。作家自身である「私」を主人公とし、その日常生活をただ綴るこの一人称体の小説は、大正時代に、セクト的な白樺派の「自分」を語る流れを通り、昭和初期にかけて、純文学として日本の小説の主流となっている。

 平野謙によれば、「生の危機意識に対する救抜済の希い」が作者が主人公として綴ることにより、「人生」においても、「思想」においても、「不動のリアリティ」を獲得した小説の一形式である。この隆盛は文学志望者が「現世救済者」や「逃亡奴隷」だったことに由来している。彼らは生活不能者ないし性格破綻者であり、そのプライドを支えたのは芸術家の「真実性」だけであり、これが世間や周囲に示しうる唯一のアリバイである。「みじめな日常生活の断片とその破壊的なすがたにおいて文学の世界に持ちこむしかなかった」。

 平野謙は、『私小説の二律背反』において、「芸術か家庭かの二者択一が芸術家生活の場合にしばしばおこりがちな所以」と「わが私小説家をめぐる独特の二律背反が生ずる」理由を次のように述べている。

 芸術家の場合、わけて日本の私小説のような場合、その芸術家生活の持続と家庭生活の平穏とはしばしば一致しない。家庭の和楽は芸術家の情熱をなしくずしに停滞させ、家庭の危機という餌食によって、はじめてその芸術衝動は切迫感を獲得する。さきにふれたように、私小説が生の危機意識にモティーフを持ち、その危機感が形而上的な生の不安や孤独から隔絶された具体的なものとして成立している以上、そのような傾斜はまぬかれがたいのである。

 私小説は、そのため、書き続けるには私生活を犠牲にせざるを得ず、調和的な生活を送ってしまえば筆を置かなければならないという二律背反に直面する、

 平野謙は、『私小説の二律背反』で、私小説家は本末転倒に直面すると次のように続ける。

 もはやそこでは、一篇の作品を構築するにたる旺盛した実生活がいとなまれ、作者はその生活を題材としてそれに芸術的秩序を与えるというようなノルマルな芸術と実生活との相関関係は逆転して、いわば描くにたる実生活を紛失しながらなお描きつづけねばならぬために、その日常生活において危機的な作中人物と化さねばならぬという一種の価値傾倒がそこにおこなわれるのである。

 森鴎外や志賀直哉には「実生活」と「芸術」の調和的関係に至る方向が見られ、特に、伊藤整が、『鳴海仙吉』で、その「不毛な二律背反をよく救済する」試みを行い、「私小説文学精神の方法化」を具現している。日本の自然主義文学の窮屈な姿勢は、私小説の二律背反という視線の方法化を通じて、その特性を生かしながら、止揚される。

 私小説は、当然、西洋的な告白と異なっている。私小説は近代化の中で派生した社会の鼻つまみ者が生きるために辿り着いた文学であり、そもそもB級文学にすぎない。私小説には、告白の持つ知的な傾向が失われてしまう。
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