初春

文字数 2,304文字

 元旦の配達と集荷から帰ってきて、局内に新年の挨拶を済ますと、二日は休配になる。一緒にお節を食べられないのかと母は不満らしいが、明日親戚の家へ同行するのは避けられなさそうだ。どうして前職を辞めて戻ってきたのか詮索されるのは目に見えているが、仕方ない。この数か月いろいろと有りすぎて、すっかり(きも)が据わってしまった。
「今はメールでもSNSでもできるから。年賀状が減るのは仕方無いかもね」
 配達で訪れると栄枝さんは庭で布団を干していた。明日から孫たちが泊まりに来るの、と言う。だから『エストレア』のお雑煮は食べにいけないわ、槙野くんが行くなら、皆さんによろしく。路上では初詣に向かう着物姿の女性や家族連れが行き交い、初売りに賑わうショッピングモール脇を抜け、集荷の途中近所のお(やしろ)近くを通るので、立ち寄ってみることにした。
 集荷配達のための交通安全祈願は言い訳で、参拝を済ませるとお社の裏手に回る。この古いお社裏はぽっかりと小さく開けていて、幾枝もの梅の木が立っていた。早咲きの梅なので、もう咲いているだろう。槙野は小学生の時分この場所を見つけてから、勝手に秘密基地のようにしてきた。お社も、いつ誰が置いていったのかもしれないベンチも苔むしている。
 春色に染まり出した湿った土を踏んで、伸び切った雑草をかき分けると、梅は咲いたばかりの産毛に露を纏っている。先客がいて、槙野は息を呑んだ。
「レイ」
 冬の陽光が降り注ぎ、梅の花弁の透き通った影を落とす容貌を上げたのはレイだった。髪をまとめ、スーツを着ているのは恐らく新年礼拝の帰りであるためだろう。その清廉な美しさに、槙野は立ち竦む。そうだ、約束しただろう、と幼い頃の自分が囁く。
「また会ったな」
 レイはぎこちなく笑った。見覚えがある顔だ。あの日、中学三年生で迎えた1月1日、槙野はやはりこのお社に来ていた。高校受験祈願は家族と行った初詣で済ませていたのだが、買い物にいく口実で一人家を出た。試験も不安だったが、何にも突出した才能の無い自分が、高校でも大学でも何も成し遂げられることがなく、成績さえ良ければ誰の迷惑にもならなければ漫然と生きていける近い未来が煩わしかった。現実はそんなに単純では無いのだが、若かったのである。そうして、やはりここでレイに鉢合わせた。

 小中学校を通じて、灘波伶とそんなに接点が有ったわけでもない。その出自と外見と反抗的な態度で周囲によく知られてはいたが、槙野はごくたまに放課後一緒に遊ぶだけだ。それも小学校までで、中学では合同授業やイベントの時しか言葉を交わさなくなっていたと思う。ところが、花の下のレイはとても綺麗だった。擦り傷のある頬も、詰襟にかかる長めの黒髪も、切れ込んだ鋭く寂しげな目元も、花弁の落ちる褐色の肌も誰よりも。
「灘波は、進学どうするんだ」
 ベンチに腰掛けて喋った。学校での賑やかな雰囲気は潜んで、俯きがちに話すレイに、槙野は何か伝えなければならない気がした。一生懸命に考えたが、思い付かず適当な話題になってしまう。
「専門学校。ホスピタリティ学べるところ」
「お店を手伝うため?」
 いや、とレイは首を振った。外に出たい。別の国のホテルでもいいし、航空業界でもクルージング業界の端っこでもいい。……ここは、オレのいる場所じゃない。それが、どういう意味だったのか、当時の自分には理解できていなかったと槙野は思う。ただ、海外で働きたいというレイが突然遠くに思えて、羨ましいような悔しいような哀しいような愛しいような気分になった。
「凄いな。じゃあ、会いにいくよ」
 俺はまだ将来何をしていいか分からない。だけど、働いて給料がもらえるようになったら会いにいくから。凄腕のアテンダントになった灘波に、「Welcome aboard」って言ってもらうんだ、いいだろう? 槙野の提案を、レイは目を丸くして聞いていた。それから、少し上気した頬で笑った。
「うん。マキノが来てくれるなら、オレはどこにいても平気だ」
 お前にも、幸運を。立ち上がったレイは花弁のかかった肩を屈めて、槙野の額に祝福の口付けをした。

 感触までぶり返し、槙野はどっと体温が上がるのと同時に血の気が引いた。時々マリア・ママがレイにしているところを見かけていたせいか、受験で忙しくなったせいか、当時の自分はよく平常心を保ったと思う。
「……何だよ、思い出したのか」
 レイが嫌味ったらしく溜め息を吐くが、口元が微妙に笑っている。
「ごめん」
「言っただろう。俺も悪い。覚えていて欲しいけど欲しくなくて、マキノを試すようなことをした」
 あの頃くらいに、オレは自分がマリアと同じなんだって気付いていた。だから初めて衝動的にお前に触れてしまったことを、ずっと後悔してたんだ。『エストレア』に帰ってきて、避けられたらとヒヤヒヤしてたんだが、お前は相変わらずだし。
「母さんの脚ももう大丈夫そうだから、船に戻るよ」
 リックとは十中八九またケンカになるだろうけど、クルーの仲間たちは許してくれたし、ミスターとも他のお客さんたちとも、ちゃんと話さないといけないし。紅、ピンク、白、色とりどりの光の中で、レイは晴れやかに言った。輝く波間で踊る人魚みたいだ、と槙野は眩しく見つめる。異形のままだって、ヒトの魂を手に入れられなくたって、天国にいけなくたって構わない。いつか泡と消えるまで、あなたのことを想わせて。私の帰る場所は、いつでもあなたがいるところ。
 落ち着いたら、今度こそ船に会いにいく。いいだろう? 笑って振り仰いだレイの首筋を滑る花弁と一緒に撫ぜて、槙野はもう一度、色づいた唇に約束を吹き込んだ。
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