一、 サインレントインフルエンサー

文字数 9,510文字

「はぁ、再生回数、六百五十回か」
 喫茶店のアルバイトが終わった僕は、家に帰るとご飯も食べずにパソコンをいじりはじめる。
 再生回数が多いのか少ないのかはわからない。六百回『も』なのか、六百回『しか』なのか。
 他の動画投稿者は、簡単に何万回も再生されているのに、僕ときたら。
 僕――宇治(うじ)小秋(こあき)は、伸び悩んでいた。ボーカロイドに曲を歌わせ始めて約一年。自分でその曲を歌い始めて六か月。曲を作ることに快感を覚えてしまった僕は、大学受験を蹴って、フリーターになった。親には当然いい顔をされていない。アルバイトをしているとは言え、就活もしていないのだから。
 毎日やることと言ったら曲作りか、レンタルショップでCDを借りまくることくらい。本当だったら路上ライブをするとか、ミュージシャンらしいことをすればいいのだが、あいにく僕は楽器が弾けない。だからその代わりのDTMなのだ。路上ライブする勇気も、最初から持ち合わせてない。
六百五十回の再生回数をもう一度確認する。どこの誰が僕の曲を聴いてくれたんだろうか。聴いたうえでどう思っただろうか。
 再生数はあるのに、評価は一件もついていない。六百五十回のゴーストたちは、僕の曲を評価することすら無意味だと感じているのか?
わからないことはたくさんあるが、僕はともかく曲を作るしかできない。それか、もっと自分の宣伝をするべきなのか? いや、もうやっている。つぶやきアプリにフォースブック、やりたくもない写真アプリ。どれもフォロワー数が伸びない。フォロワー数、百人。それも他のメジャーではないミュージシャンにすら遠く及ばない。完全に伸び悩みだ。
有名人になりたいわけではない。ただ、『有名人になれば、曲を聴いてもらえる』。それだけだ。
僕はテレビに出たいわけじゃない。純粋に音楽で天下を取りたいんだ。だけど、そのすべがわからない。
芸能事務所に入るとか? どうやって? 僕の顔はお世辞にも整っているとは言えないし、僕より歌がうまい人なんていくらでもいる。
ネットによくあるフォロワーを増やすための情報商材系の動画サイトを見てもピンとこないし、やりようがないのだ。
ライブハウスでライブ? まずチケットを手売りする勇気がない。一人でやる音楽活動なんて、たかがしれている。
僕は動画サイトで他のミュージシャンの動画を見始める。
みんなミュージックビデオなんて、どういうコネやツテを使って撮ってるんだろう? 『友達』がいればいいのに。そうすれば協力してくれるんだろうな。僕の百人のフォロワーの中に、そんな人がいるのだろうか。基本的に絡んだり、メッセージを送り合ったりしないし、『信者』と呼ばれるほどの熱狂的なファンもいない。全員が無言でフォローしてきた人たちだ。
僕は情報網の中にいる魚なのにも関わらず、一緒に捕らえられる仲間もいない。
ミュージックビデオをなんとなく見たあと、僕は都市伝説を題材にする動画をクリックした。
 動画投稿者は、三人組のミュージシャン。僕が勝手にライバル視しているやつらだ。彼らは邪道だ。音楽だけではなく、面白動画も取ってファン層を広げている。確かにそのやり方ならみんなが彼らを見る。でも、純粋な音楽ファンだけが増えるんじゃない。彼らのルックスや面白さからファンが増えるんだ。
 動画は面白いけど、僕は絶対こういうミュージシャンにはなりたくない。純粋に音だけで食べていけるようになりたい。それが難しいのはわかっている。……本音を言うと、僕に面白い動画を撮る企画力がない。
 それでも彼らの動画は、認めたくはないが面白い。単純な嫉妬だ。邪道なやり方だけど、確実に音楽は聴かれているし、再生回数も一万回以上は行っているからな。
『はい、今日の都市伝説は……』
 都市伝説という題材も悪くない。毎回毎回よくも話の内容を探し出してくるもんだ。
 呆れつつ、心の中でぼやきつつ、パソコンを見つめる。
『みなさん、サイレントインフルエンサーってご存知ですか?』
『えーなになに、たいとくん。聞いたことないんだけど』
『俺も気になるなぁ。インフルエンサーならわかるけど』
 インフルエンサー。有名人や影響力を及ぼす発言をする人……だよな。
 僕は一度動画をストップすると、念のため【インフルエンサー】を検索する。うん、間違いない。僕の認識は合っている。
 僕はこの動画を配信している、ストップ・ザ・キャットのメンバーに注目する。
 ボーカルのたいとくんの言葉が、テロップと一緒に公開される。
『なんと巷には、【サイレントインフルエンサー】なる人物がいるらしいんです!』
 さいれんといんふるえんさー? インフルエンサーが影響を及ぼす人間だとしたら、それは……。
『そうです。ずばりサイレントインフルエンサーとは、表舞台に絶対出ないのに関わらず、影響力を持つ人間、ということですね』
 ……そんな人が本当に世の中にいるのか? 僕はまた動画を一時停止すると、【サイレントインフルエンサー】で検索をかける。が、パソコンには出てこない。画面にはむなしくインフルエンサーの意味しか出ない。サイレントインフルエンサーで出てくるのは、今見ている動画だけだ。
 もう一度動画に戻って詳細を確認する。
『このサイレントインフルエンサー【トリプルゼロ】という人が『売れる』と言ったミュージシャンは、確実に売れるんですよ』
『え? トリプルゼロさんって業界関係者か何かじゃないの?』
ドラム担当のマトムくんがたいとくんにたずねると、首を左右に振った。
『いいえ、違うらしいんです。俺も詳細がわからないんですけど、どうも一般の人みたいで……。裏ではやっぱり業界の偉い人なんじゃないかって言われてますけど』
 音楽業界で偉い人? で、この人が『売れる』と言ったミュージシャンは必ず売れる……ってことは、この人に自分を売り込めば、再生数が増えるかもしれないじゃないか!
『真実かどうかはあなたの判断に委ねます』
 いつもの決め台詞でストップ・ザ・キャットの動画は終わった。
 真実かどうか? そんなのは知らない。だけど、探してみる価値はあるんじゃないか? もしその【サイレントインフルエンサー・トリプルゼロ】に認められるなら、僕は……。
 そのとき、ぐうぅとお腹がなった。そういや夕飯を食べてなかったな。
 こんな日に限って母さんは家にいない。確か趣味のマジック同好会に参加するとか言ってたな。仕方ない。コンビニで何か買ってくるか。
 僕はジャンパーを上に羽織ると、素足にスニーカーというはめちゃくちゃな格好で鍵を閉めて家を出た。

 うちのマンションから百メートルくらいの場所に、コンビニはある。店内に入ると、軽やかなメロディが流れる。僕が入店した合図だ。
 そのまま店内を見ずにお弁当のコーナーへ向かう。先客がいた。長髪で、グレイのスウェットを着た、男か女かわからないような人だ。髪は長いがぱさぱさしているし、身長は僕と変わらない――つまり百六十八センチくらい。黒縁のメガネをかけているが、それも汚らしく見えてしまう。
胸があるかないかもよくわからない人は、そばを手に取った。そのままレジへと向かう。  
そばね。それも悪くはない。腹はなったが、こってりしたものは食べたくなかった。それに曲制作もしたいから、さっさっと食べられるものがいい。
僕もそばを手にすると、レジへと向かい清算する。コンビニを出ると、暗い夜道を歩く。
どうしてコンビニで弁当を買うと、斜めにならないかどうか袋を心配してしまうのだろうか。何度か袋の中身を平行に保とうと必死になりながら、マンションに帰る。
五階に到着すると、尻ポケットを探る。
「あれ?」
 ドアの鍵がない。ポケットをどんなに探しても、冷たい感触がしない。どこかで落としたか? これはコンビニまでの道を、もう一度たどらないといけないかも。
 面倒くさいことになったと頭を抱えていると、階段を上がってくる足音がした。気まずいな。何階の住人か知らないけれど、挨拶くらいはしたほうがいいだろう。
 僕が待ち構えていると、出てきたのは先ほどのスウェットの人だった。なんだ、同じマンションの住人だったのか。ただ正直に言うと、この人は胡散臭い。まるで引きこもりニートみたいな雰囲気。
「あ、君」
 高い声。……女性だったのか。スウェットの女性は俺の横を通りすぎず、声をかけてきた。
「こ、こんばんは」
 一応挨拶はするが、うちのマンションにこんな人がいるなんて知らず、若干恐怖を感じる。フリーターの僕が言うのもなんだけど。
 しかし、その女性は僕の横を通りすぎない。別の階の住人じゃないのか?
 彼女は、僕の腕を突然ぎゅっと握った。
「な、なんですか!」
  咄嗟のことだったので、手を振り払おうと腕を動かす。なのに、女性の腕力は意外と強く、振り払えない。
 諦めた僕は、仕方なく動きを止める。すると女性は静かに言った。
「……落とし物。君のじゃないのか?」
 そっと手の上に、キーホルダーのついた鍵を落とされる。うちの部屋の鍵だ。
「じゃ」
 女性は自分の鍵を取り出すと、向かいの部屋に入っていった。
 悪い人じゃなかったみたいだけど、なんだかちょっと怖い。普通、いきなり他人の腕をつかむか? 今までお向かいさんと会ったことなんてなかったけど、彼女みたいな人が住んでいるなんて、知らなかった。鍵を探す手間は省けたけど、ちょっとした恐怖だ。
僕は家に入ると、一旦その場でうずくまった。
「なんだよ、今の人……」
 考えていても仕方がないか。気味の悪い人が向かいに住んでいるということを、あとで両親にも伝えておこう。
気を取り直して手洗いうがいをすると、さっそくそばを食べ始める。
 そういえば、あの人もそばを買ってたな。
 思い出して、僕はちょっとだけ気持ち悪く感じた。
 食べ終えると、今度は【トリプルゼロ】で検索をかけてみる。しかし検索上位に出てきたのは、なぜか賃貸物件の広告ばかり。僕の欲しいトリプルゼロの詳細は見つからなかった。


 翌朝――。
バイト先の喫茶店に、来客は一名。毎日決まった時間に新聞を読みにくるおじいちゃんだけだ。本当はバイトなんていらないくらいの小規模な店だけど、僕はそれでも置いてもらっていた。
おじいちゃんが新聞を読み終えて店を出ると、マスターの加納さんとのふたりの時間が始まる。次にお客が来るのは、お昼くらいだ。
 僕が洗い物を済ませると、加納さんはたばこを一本取り出した。
「全面禁煙にしないのは、その一本のためですか?」
「まぁな。ランチタイムは奥様方のために全席禁煙にするけど、ここは俺の店だから」
 加納さんは相変らずだ。
 この店に僕が雇われている理由は、僕からしてみれば納得のいかないものだ。元から店の常連だった母さんが、高校卒業したあとすぐに口利きしてくれたのだ。あのときはそのままニート街道まっしぐらだったから。ここのバイトがなければ、僕は今頃引きこもりになっていただろう。あのお向かいさんみたいに。
加納さんは、僕の父さんの後輩で、昔はよくうちにも遊びに来ていた。だから兄貴みたいな
ものだし、口調は荒いけど、人がいい。
 そんな加納さんに、僕は質問してみた。
「加納さん、サイレントインフルエンサーって知ってますか?」
「なんだそれ。俺はカタカナ語には疎いんだよ」
 だろうな。加納さんはパソコンも経理以外に使わないし、携帯もガラケーだ。知るわけがない。が、彼の言葉に僕は驚かされた。
「でも、インフルエンサーはわかるぞ。くだらない広告塔だろ?」
「え? 知ってるんですか?」
「この店開く前は広告業界にいたからな」
 知らなかった。ここの喫茶店は、僕が高校を卒業するときに開店したので、まだ一年とちょっとしか経っていない。
 それまでの加納さんの仕事は、ただの会社員だと思っていたが、広告業界のサラリーマンだったとはな。
「だったらサイレントインフルエンサーのことも知りませんか?」
 加納さんはあごに手を当て、ブツブツつぶやき始めた。
「サイレントってことは『無言』ってことだよな? 黙っていてもインフルエンサーになれる……それはつまり」
「つまり?」
「『風の噂』ってやつだな!」
 あっけらかんと言われて、僕はその場でへなへなと倒れ込みそうになった。
 風の噂。それだけ? だったら都市伝説にもならないだろう。
「で? そのサイレントインフルエンサーがどうしたんだ?」
「僕、音楽作ってるじゃないですか。それを売ってもらえればなぁと思って」
「それ、無料でか? だったら無理だよ」
「え?」
たばこの火を灰皿で消すと、加納さんは僕を指さして笑った。
「あーっははは! なんだ、お前。無料で広告してもらえると思ってるのか? 広告なめんなよ? 広告料っていうのが普通は発生するの!」
「広告料? そんな話都市伝説には出てこなかったんですけど」
「どうせ動画で仕入れた情報だろ? 今の動画は完全に広告と癒着してるからなぁ。若者をだますために、広告って言葉は使わないんだよ」
 そうか。ひとつ合点がいった。
ストップ・ザ・キャットは、僕と同じくらいの年代なのにも関わらず、有名人とコラボしていたり、ミュージシャンと対談している動画も上げたりしていた。広告料を払っているか、それとも他に大人の事情というものがあるのかはわからないが、『癒着』と言われたら納得できてしまう。
「だったら僕がお金を払えば、広告してもらえるんでしょうか?」
「さあなぁ。普通のインフルエンサーなら仕事だからするだろうけど、サイレントインフルエンサーってやつはわからん。俺の時代にはいなかったからな」
 たばこを吸い終えた加納さんは、灰皿を流し場に置いた。
「ひとつだけ忠告してやろうか?」
「なんですか?」
「『ただより高いものはない』。風の噂だったらなおさらだ。悪いことは言わない。やめとけ。俺の勘がそう言っている」
 勘なんて、一番あてにならないじゃないか。加納さんの忠告は、僕にとっては無駄だ。そもそも彼がその広告業界にいた時代と、今とは違う。過去の人の話なんて聞く必要はない。僕にとって重大なのは、『僕を売ってくれる人がいるかもしれない』ということだ。
 お金を払えば有名にしてくれるなら、僕はお金を払う。……今までのバイト代で頼めるなら、だけど。
「息抜きするか。ランチの時間までだけどな。コーヒー淹れてやる」
「あ、ありがとうございます」
 加納さんのいいところは、気配りしてくれるところだ。
 僕は注いでもらったコーヒーに息を吹きかけ、熱を冷ましつつ口をつけた。

 家に帰ると、僕は寝ころびながらスマホをいじり始めた。
 検索エンジンじゃ出なかったけど、もしかしたらつぶやき……口コミなら誰かが何か知っているかもしれない。
 ルーペのアイコンに指を触れさせると、【トリプルゼロ】で検索をする。
 すると、トップに僕が見た動画の宣伝つぶやきが出てきた。話題のつぶやきがこれか。最新のつぶやきは何かないか? 僕は指をすっとスライドさせる。
『都市伝説なんてあり得ない』とつぶやくストップ・ザ・キャットのアンチはどうでもいい。何か情報は……。あった。
『トリプルゼロのつぶやきはバズるらしいよ』
『主につぶやきと写真アプリにいるみたいだけど、アカウントが特定できない。普通のインフルエンサーならフォロワー数でわかるけど』
『フォロワー数が少ない一般人って噂は本当なの?』
 案外ヒントは多数あった。だが、噂の域を出ないし、本人につながるような情報はない。一体どういうことなんだ。これは本当に加納さんが言っていた通り『風の噂』ってやつか? でも、火のない所に煙は立たぬともいう。噂の出どころは絶対にあるはずだ。
 スマホをベッドに投げ捨てると、僕はパソコンを立ち上げた。こうなったら徹底的に調べてやる。主に使われるのはSNS。全部のSNSを駆使して見つけ出してやる。
 僕は、僕を売り出したい。あいつとは違って、生きた証を絶対に残す。まだ日の当たるところには行けないけれど、絶対に僕はメジャーになる。
 僕はパソコンで先ほど見ていたつぶやきにログインすると、【サイレント】と【インフルエンサー】でわけて検索したり、検索除けをしている可能性を考えて、スラッシュを入れたりして調べてみる。しかし、都市伝説として伝わっている限り、本当にその人が存在するのかはわからない。
 写真アプリなんてさらに検索が難しくなる。『私がトリプルゼロです』なんて自らアップしている人なんているわけがない。いたとしたらすでに、ストップ・ザ・キャット以外の人たちも噂しているはずだ。
 つぶやきアプリと同じように写真アプリも検索をかけてみるが、それでも見つからなかった。
「はぁ……無理か」
 八方塞がりだ。あくまで電子上の噂。僕はさほどインターネットに詳しくない。できることと言ったら、検索することだけだ。
 検索でなんでも出てくるなんて、甘い考えだったのかもしれないな。ひとつ忘れていたことを思い出した。
検索した情報が真実かはわからない。
動画だってそうだ。第二のマスコミである動画サイトが、真実を伝えているかどうかだって、正しいかどうかなんて不明だ。
 正攻法。つまり僕にはそれしか手はないということか。
「また新曲作って、地道に再生回数を伸ばしてもらうしかないのかな」
「小秋、ご飯よ」
 ノックもせずに、母さんが僕の部屋に入ってくる。僕はそんな母さんに怒った。
「ちょっと! 部屋に入る前はノックしてっていつも言ってるでしょ!」
「母さんだって忘れるときはあるわよ。ともかくご飯。いらないなら母さんが食べるよ!」
 むちゃくちゃだ。しかしながら、夕飯を食べてからのほうが音楽を作るにはいいかもしれないな。腹がへっては戦はできぬとも言うし。
 母さんが部屋から去るのと一緒に、僕もダイニングに向かった。
 今夜はカレーだ。においでわかる。僕は大皿で四杯ほどおかわりした。
 ……それがまずかった。食後、極端に眠くなった僕は、曲を作るどころか睡眠欲に負け、朝まで眠り込んでしまった。

 朝、四時半。
 ピピッ、ピピッという電子音。何の音かわからず、暗闇の中で手探りすると、枕元からその音がしていることに気がつく。スマホのアラームだ。
「……なんでこんな時間に? セットした覚えないのに」
 おかしいと思いながら、スマホをいじる。ついでにつぶやきでもしておこう。
『スマホのアラームが勝手になった。さすがに朝早すぎ』。
 そう文字入力しようとしたとき、『さ』と打ち込んだあと、勝手に出て来た予測変換候補に、僕は目を疑った。
「なんだこれ!」
 『トリプルゼロ』『は』『いる』『探せ』。
 予測変換のところで文章ができている。見間違いでもないし、朝早いからって寝ぼけているわけじゃない。
 なんでこんな文章ができるんだ? 確かに僕は『トリプルゼロ』と何度も文字入力したけど、普通文章になるか? これは偶然か、それとも目に見えない力が働いているとか? いやいや、考えすぎだ。
 僕は気にしないことにして、また入力をしようとタッチペンで文字を打つ。今のスマホは大き過ぎるから、僕はタッチペンを使っている。
「朝早い……って、嘘だろ?」
今度は『あ』と入力したところ、また予測変換が文章化していた。
『熱海』『トリプルゼロ』『いる』『見つけろ』。
熱海にいるのか? 待て。そもそもがおかしい。昨日まで普通だったスマホが、勝手に文章を作り始めるなんて。あり得ない話だ。これは予測変換。ってことは、僕が今まで入力した言葉のはずだ。でも、『熱海』なんて言葉を入力した覚えはない。『探せ』とか『見つけろ』なんて命令口調を使った記憶もない。
まさか、これはスマホがハッキングされてるとか? それもない。いち一般人のスマホをハッキングする暇な人はいないだろうし、僕のスマホをいじれるようになったって、得することはない。僕はただのフリーターだ。これがクレジットカードの情報を抜かれたとかだったらさすがに一大事だけど、僕はクレカを持っていない。
 わからない。なんで設定していないアラームが鳴った? 予測変換で文章ができる? しかもトリプルゼロが熱海にいるって?
 僕は布団の中でもぞもぞと寝返りを打つ。スマホが乗っ取られたのって、もしかして僕が検索してはいけない言葉を検索したからだったりする?
 ストップ・ザ・キャットの都市伝説動画にもあった。『検索してはいけないワード』。検索すると不幸に遭うとか。トリプルゼロが検索してはいけないワードだったから、とか? でも実害はいまのところ出ていない。
 スマホを置いて、もうひと眠りしようかと思った。が、目が冴えてしまっているし、熱海にキーマンがいるなら、会うチャンスじゃないか? 熱海……うちの最寄り駅から時間はかかるが電車一本で行ける。しかも今日はバイトも休み。家にいると母さんがうるさい。
 行くだけ行ってみようか? この予測変換が真実かどうかはわからない。わからないけど、謎解きゲームみたいで面白そうだ。
「のるか反るか。音楽を売るためなら、のるしかないだろ!」
 僕はすぐに布団から出て顔を洗うと、リュックサックに財布と充電バッテリーを入れ、着替える。首にウォークマンをぶらさげて、ブルートゥースのイヤホンをつけると外出準備は完了。
 お気に入りの曲を流すと、僕は家をこっそり出た。
行くぞ、熱海。何があるかわからないし、トリプルゼロがいるとは限らない。それでもどうにかして見つけ出して、絶対僕の音楽を聴かせて売ってもらうんだ!
『母さん、父さん、熱海に行ってきます』
 置手紙を残すと、勢いこんで玄関の扉を開ける。そこには人がいた。あの気色悪いお向かいさんだ。静かだったからわからなかった。
誰かが廊下にいるときは、極力かちあわないようにしていたのに。
 手にはコンビニの袋を持っている。ということは、買い出しの帰りか。
「お、おはようございます」
「……おはよう。君、旅行?」
「え? まぁ……」
「ふうん」
 それだけ聞くと、お向さんは自分の部屋に
入っていった。
やっぱり不気味だし、それになんで旅行だってわかったんだ?
「あの人とはできるだけ、関わらないようにしよう」
 どんな人かはまったく知らないし、本当は悪い人じゃないのかもしれないけど、危ないことには首を突っ込みたくないからな。
 僕は鍵を閉めると、音楽にノリながら駅へと向かう。
 冬の朝。まだ月や星が出ている。こんな澄んだ空を見るのは、久しぶりかもしれない。
 普通は夕日に向かって夢や希望を叫ぶのかもしれないが、僕の場合は反対だ。
 落ちてこない星、青白い月に向かって願う。どうか探し人に会えますようにって、些細なお願いだ。
 トリプルゼロがどんな人かまったく情報のない中で、探すなんてどうかしている。でもいいんだ。何もしないで後悔して死んでいくより、無茶をして死んだほうがマシだ。僕は、あいつみたいにはなりたくない。あいつとは違うんだ。
 外は寒い。早く電車に乗ってしまいたい。駅のホームは、まだ閑散としていた。冬の悪魔が人々を布団から引き離してくれないのだろう。
 しかしこの寒さがあるから、僕ははっきりと目覚めていられるんだと思う。
 目を覚ましたまま、僕は夢を見ているのかもしれない。予測変換に従って熱海まで、なんて。
 正気の沙汰じゃないことはわかっているが、起きたまま夢を見るのも悪くない。空が紫色だ。こんな風景は今しか見られないから。
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