二、アドベンチャー

文字数 31,200文字

 前にも述べたが、家の最寄り駅から熱海まで一本だ。まだ通勤ラッシュの時間でもなかったので、僕はイスに座れた。リュックを抱いて、暖かい車内の中でうとうとする。
 眠くなってくるが、僕にはまだやることがあってハッとする。寝ている場合じゃなかった。予測変換の文章が、本当なのかどうかを調べないと。
 それに、仮に本当に僕を誘導しようとしているなら、誰か命令している人がいるってことだ。その相手も知りたい。
僕はスマホのメモ帳アプリをタッチすると、真っ白なところに文字を打ち始める。
『君は……』
『誰だ』『だろ』
 驚いた。相手は僕が何を言うのかわかっているかのように、返答を予測変換でくれた。
『教えて』
『あげられません』
 ……ダメか。僕は一体誰に踊らされているんだ。わからないが、僕はトリプルゼロに会えればいい。予測変換で話てくる相手は誰か知らないけれど、僕と彼、もしくは彼女と引き合わせてくれようとしている。自分を今売り込まずに、いつ売り込む? これはチャンスかもしれなんだ。
今度は熱海のどこにいるかを教えてもらわないと。
熱海、と打ち込もうとしたが、『熱海』という漢字が出てこない。仕方なく『熱い』『海』と入力しようとしたところ、予測変換が出た。
『海』『近い』『ホテル』。
 これはもしかして。
『熱海で、海の近いホテルにいるの?』
 最後まで打ち込むと、親指が立っている絵文字が出てきた。合ってるってことか?
 一旦メモ帳を閉じて、ホテルの検索に取り掛かる。ホテル予約のアプリを開き、海が近い
ホテルを探し出す。一番海に近いホテルは……。
「ここだ」
 ホテル熱海クラブ。このこじんまりしたホテルにいるっていうのか? よくわからないまま、僕はこのホテルに予約を入れた。今日から一泊二日だ。
 今まで機材を買うだけに貯めていた金をこんなところで使うなんてな。
 しかし困った。相手と面識がないし、お客で来ているならともかく、従業員という可能性もゼロではない。
『どんなひ……』
『人』『会ってみろ』『探せ』
 予測変換では教えてくれないってことか。僕のスマホの予測変換さんは、敵なのか味方なのかわからないな。
 スマホと会話しているうちに、電車はすでに東京を越えていた。

 静岡県熱海市。観光シーズンではないが、駅には観光客らしき人たちがそこそこいた。さすが温泉地と行ったところか。
 僕は地図アプリを起動させ、ホテル熱海クラブの住所をコピーアンドペーストで入力する。
 僕は観光じゃない。ともかく噂の人物人間にいち早く会いたい。
 地図の通り、僕は商店街の中を通り、海が見える場所まで来た。しかし何かおかしい。地図ではこの辺にコンビニがあるはずなのに、見つからないのだ。
 もしかして、閉店したというのか? そんなわけはないだろう。スマホの地図は有能なはず。スマホを何度も回して、自分の位置を確認しようとする。が、今度は僕の現在位置が駅になってしまった。ここは駅からかなり遠い。おかしい。というか、地図に頼れない。なんだ、これは。信頼しきっていたスマホの地図機能がまったく使えない。
 ここはどうすれば……。初めて来た熱海で道に迷うなんて。髪をわしゃわしゃかきながら歩いていたら、電信柱にぶつかりそうになる。
「やべ、危なっ……って、あれ?」
 電信柱に貼ってあった広告に目が行く。広告の下には地番。この地番を頼りに行けば、ホテルに着くことができるはずだ。ずっとスマホの地図に頼っていたから忘れていたけど、地番を示す広告付きの表示は、電柱がある限りどんな場所にも存在する。地番は戸建ての家の壁にもあるし、これを頼りにすれば……!
 もう一度スマホの地図を見る。だけど今回は自分の位置も目的地までの経路も気にしない。
 地番を見ると、ここは海光町らしい。そこから春日町に向かって海沿いを歩いていけば、ホテルには何とか着きそうだ。
 スマホの地図機能をオフにして、尻ポケットにしまうと、僕はリュックを担ぎ直して海沿いに向かう。
 行くべき場所はわかった。あとは神のみぞ知るといった感じだ。
 僕は地図を信用せず、自分の感性だけで海に向かう。
 熱海にはたくさんの旅館やホテルがある。その中のひとつの調理場裏を通った。廃棄の貝殻が置かれているそばを、猫が横切る。きっと野良猫で、残り物を狙っているのだろう。
 そこを過ぎると、今度は石畳の階段。降りるのは簡単だが、帰りは大変そうだ。
 リュックの中身は意外と軽い。だから下りは身軽に動ける。ただ、上りは息を切らしてしまうだろうな。
 階段を降りると、海が見えた。横断歩道を渡って数メートル。坂道に『ホテル熱海クラブ』という文字が左手に見えた。
 腕時計を見た。お気に入りのニューヨーカーの青い針盤を、長針と単身が追いかけっこしている。時間はまだ十二時。お昼ご飯の時間だ。チェックインにはまだ早い。ホテルの近くにはコンビニがある。ここで食べ物でも買って、海沿いのベンチで休憩するか。
 コンビニで好物のツナマヨといくらのしょうゆ漬けのおにぎり、それと肉まんを買うと、海沿いの道を食べながら歩く。
 するとそのとき、大きな影が僕を襲った。僕の食べていたツナマヨおにぎりを狙ったのだ。空のギャング、ウミネコの襲来だ。
 彼らは観光客に餌付けされたのか、それとも僕が弱そうに見えるから狙ったのか。
 わからないが、僕は残っていたおにぎりを口に無理やり詰めた。ゆっくり食事もできないのか。
 ベンチを見つけた時には、すでに食べ物はなくなっていた。なんだかとてもせわしなく食事をしてしまったようだ。海を見て、おにぎりを食べながらボーッと今後の作戦を練ろうかと思っていたのに、大誤算だ。
 ――ともかく。勢いで熱海に来て、ホテルも
予約してしまった。本当にサイレントインフルエンサーというやつはいるのか?
 ストップ・ザ・キャットの動画は、あれ以来都市伝説ネタはやっていない。ヒントがなさすぎる。握っているのは、予測変換で指示してくるスマホだけだ。
 そのとき、スマホが震えた。びくっとなり、落としそうになるのをなんとか捕まえる。
 何かと思ったら、つぶやきアプリのダイレクトメッセージだ。相手は……相互フォロワーではないし、アイコンも設定されていない。誰だ、こいつ。
 メッセージを見ようと指を滑らすと、俺は目が点になった。
『宇治小秋様 トリプルゼロは会ったことのある人間しか売り込まないそうです。頑張ってください』
 どうして? 僕はどのアプリにもトリプルゼロを探しに行くなんて書き込みをしていない。それに両親にだって……。なのに、なんでこの人は知っているんだ? 大体僕のアカウントは本名ではなく『Koaki』とローマ字のものを使っているので、名字や名前の漢字まで知られているわけがない。
 ぞっとしつつも、相手のアイコンに指を押さえつけると、詳細が出てきた。
『【シードル】つぶやき頻度は少ないです。趣味・音楽鑑賞』
 つぶやきは確かに少ないが、自分の言葉で書いているので、業者ではないだろう。しかも趣味は音楽鑑賞だ。もしかしたらトリプルゼロのことを知っている可能性もある。
 急いでダイレクトメッセージの返信を打とうとかがみこむ。
『どうして僕がトリプルゼロを探しているって知ってるんですか?』
 時計の針の追いかけっこはすぐ細い秒針が長針を抜いていく。
 五分経過、十分経過。相手は忙しくてすぐに連絡できないのかもしれない。
僕は待つことをやめた。風は冷たいが空は青くて澄んでいる。たまにはこうして見知らぬ土地のベンチに座り、空を眺めるのもいいな。スマホを何時間も見続けるより、風の音を聞きながら、空の移り変わりを見ているほうが『生』を感じる。
新しい曲の歌詞が浮かんだら、さらにいい。僕はベンチへ横になった。枕は着替えを入れ
てきたリュックだ。
 なんて気分がいい場所なんだろう。青い空の下、聞こえるのはさざ波の音。平日昼だからかわからないが、こんな場所でのんびりしているのは、犬を連れて散歩中の老夫婦ぐらいだ。
 風は冷たくとも、この気分の良さに水を差すことはない。むしろ美しい自然を感じるスパイスになる。
 チェックインの時間まで、まだ数時間ある。観光船にでも乗ってみようかな。ここから乗り場まで近いし、悪くない。
 せっかく熱海まで来たのに、やることがないというのも寂しい。
 のっそり起き上がると、観光船の時間を確認する。ラッキーなことにあと十分で出発だ。
 急いで観光協会の事務所に入りチケットを買うと、船に乗り込む。寒いけど僕は、室内ではなくデッキに出る。
 汽笛がなると、出発。船が動き出すと、寒いどころじゃない冷たい風が、僕の頬をかまいたちのように切り刻んでいく。
 風の歌か。いつかそんな曲も作ってみたい。音楽とは、雲のない冬の空の美しさや、冷たく感じる風の声を表現するものだから。

観光船で熱海の街を堪能してから降りると、時計は二時三十分を指していた。チェックインは早めの三時でお願いしている。そろそろ向かってもいいか。
僕のミッションは熱海クラブにいるトリプルゼロを探すこと。お客はもちろん、従業員にも聞き込みをしないと。簡単に口を割ってくれるかどうかはわからないけど……。
海沿いを歩いて、坂道を上ると、ホテル熱海クラブに到着する。
誰もフロントにはいない。併設されているレストランにもお客はいない。
カウンターに置かれている呼び鈴を鳴らすと、年配の男性がのんびりと出てきた。
「あの、三時にチェックイン予定の宇治です」
「えーと、宇治様……ね。どれどれ……」
 おじさん……いや、おじいちゃんはメガネをかけると、のんびりとマウスを動かして、パソコンで予約客を調べる。
「宇治様、本日一泊のご予定ですね。お食事の時間はいかがいたしましょうか」
「そうですね、一番早い時間でお願いできますか?」
「わかりました。では六時で。こちらがカードキーとお食事券になります」
 二〇一号室か。このホテルは海沿いの坂道の上に建っているため、三階にフロントがある。
「あっ、それと! あの……トリプルゼロってご存知ですか?」
 今日ひとり目に質問だ。おじいちゃんは顎を手でさすってから、首をかしげた。
「トリプル……なんですか?」
「あ、いえ、なんでもないです。鍵ありがとうございます」
 不思議そうな顔をされたが、気にはしない。あの人はシロだ。何も知らない。知っていたら何か反応があったはずだからな。
 部屋はフロントの下にあった。階段を下りると、カードキーでドアを開ける。
 シングルルームだが、部屋はなかなか広い。ベッドの横にコンセントもある。リュックから充電器を取り出すと、さっそくスマホと接続しようとする。
「……あ、DM来てる」
 スマホを見ると、DMの通知が来ていた。相手はシードル。先ほどの返信だ。
 なぜこの人は僕のことを知っているんだ。
なんで僕がトリプルゼロを探しているのかという質問に、きちんと答えてくれているのだろうか。
緊張しながらDMを開封する。
『突然のDM失礼いたしました。トリプルゼロを見つけるためには、ある試験を受けなくてはなりません。予測変換の指示に従ってください。ご武運を』
「試験って……あ」
 画面が真っ黒になった。いいところでスマホの充電が切れたのだ。急いで充電器とつなげて、赤い充電中のライトが付くのを待つ。
 画面の電池のマークが1%になると、電源ボタンを押す。スマホを再起動させると、僕は先ほどのDMを見ようとつぶやきアプリをフリックする。
 が、しかし。
「あれ? さっきのDMがなくなってる……」
 シードルからのDMがすべて消えている。フォローはしていなかったから、名前を検索してみるが、シードルという名前は出てこなかった。
 さっきのDMは幻覚? いや、まさか。僕はお酒も飲んでないし、寝ぼけてもいなかった。DMを見たのも今だ。意識ははっきりしている。それなのに、DMもアカウントも魔法のように消えてしまっている。
「何が起こったんだ……」
 僕はスマホを持ったまま、その場に立ち尽くす。窓からは海がよく見える。夕日が沈み始めた風景は、作詞するにはベストな環境だというのに、その景色すら気にする余裕なんて僕にはなかったんだ。
 僕はベッドに横になると、ノートとボールペンを取り出す。
まず、僕の目標を書く。
『音楽で売れる』だ。そのためにやることは、
・いい曲を作る
・宣伝をしっかりする
 この二点。そして、その宣伝に関係してくるのが、トリプルゼロと呼ばれる謎の人物。僕の探し人だ。
 さらにもう二人の謎の人物がいる。シードルと、予測変換で僕に指示をしている人間だ。
 シードルは予測変換の指示に従うように忠告してくれた。彼、もしくは彼女もトリプルゼロを探したことがあるとか? または同一人物? アカウントが消えてしまった今ではわからない。
ともかく僕がやることは、ここのホテル内でトリプルゼロを探すことと、予測変換の指示に従うことだ。
またスマホの白いメモ帳を開くと、タッチペンで指示を仰ぐ。
「ええと……ホテルに着い……って、え!」
 また予測変換が僕を惑わす。
『ホテル』『には』『いない』。
 海沿いのホテルにいるって指示したくせに、『ホテルにはいない』だって?
「冗談じゃない! だったら僕は何のために熱海に来たんだ!」
 怒り心頭で乱暴な言葉をメモ帳に打ち込む。
「ふざけるな! こんな宿まで取ったんだぞ! 一万あったら機材のためにちょきん……」
『ちょっと待て』『ヒント』『ある』
「ヒント?」
 ヒントがあるというのに、予測変換は何も告げてこない。そりゃそうか。僕が文字を入力しないと、データが出てこない。
「ヒ・ン・ト……っと」
 『ト』を入力する前に、『テ』のところで変換される。『電話』『紙』。これはもしかして。
「このことか?」
 部屋にあった電話の横に備え付けられているホテルのメモ帳。これにヒントがあるってことか。ペラペラと全ぺージを見たが、どれも白紙。ただ、大体推理ものだとこういう場合……。
「一枚目にヒントが隠されてるんだよな」
 僕は一枚目の紙を凝視した。ビンゴ、予想通りだ。ボールペンの跡がついている。
 鉛筆があればはっきり見えるのだが、跡だけでも文字は判別できる。
「『明日は長野』……長野? まさか……」
 またスマホを手に取ると、予測変換さんに質問する。
「行けってこと?」
『行け』『長野』『いる』
「僕も明日、長野に? なんだそれ!」
 今日は熱海で明日は長野? バイトがあるっていうのに……。それに本当に今度こそトリプルゼロはいるのか? 熱海にいると予測変換で出したくせに、いないじゃないか! 予測変換はあてにならないが、シードルさんは指示に従えっていうし……。これはもしかして、試練だったりするのか? 今の僕の状況のほうが、よっぽど都市伝説じゃないか!
 貯金のおかげでお金はなんとかなるけど、明日のバイトは休まないといけないな。あと、両親にも連続して外泊するって伝えないと。
 タッチペンをテーブルに置くと、スマホ画面を指でいじる。夕日の光で画面が反射する。そこで僕は普段だったら気づかないことに気づいた。
「指紋? これは……文字の位置だ」
 跡は『さ』と『た』についている。僕はタッチペンを使ってスマホをいじるので、指紋が付くなんてことはない。何気なく僕は、『さ』を押して予測変換してみる。
『さ』、『サイレント』『最後』『最初』『さっそく』、『さ』という文字の予測変換は特に文章になっていない。
『し』はどうだ? もう一度タップしてみると、僕に命令が下った。『始発』『で』『いけ』。
「始発? 熱海から長野だったら東京経由して新幹線で行けば、いいんじゃ……」
 今度は『た』の行を調べてみる。『た』から『て』まで、予測変換に異常はなし。となると『と』にヒントがあるはずだ。
『と』と入力する指示が出た。『鈍行で』。まさか明日は鈍行で熱海から長野へ向かえってことか? 僕もどうかしてきてしまったみたいだ。スマホの予測変換は遠隔操作できないことはないだろうけど、スマホの画面についた指紋はどうやってつけたというんだ。
「疲れすぎてるのかな、僕」
 目をこすると、僕は枕に顔を伏せる。こんなあり得ないことって、本当にあるのか? 謎の人物・トリプルゼロって本当になんだ? もしかして僕は、一般人だったら起こらないような超常現象の被害者になっているとか? もうどうだっていい。
 こうなったらトリプルゼロ自身に聞いてみる。絶対に居場所を突き止めて、洗いざらいを吐き出してもらう! 僕は半ばやけくそになる。でも……。
「せっかく熱海に来たんだし、一万円のもとは取らないとな」
 リュックの中から下着を取り出すと、僕は温泉に向かった。
 温泉には先客がいた。四十代くらいの人だ。
なんとなく会釈すると、男の人は僕をにらみつけて、湯から出て行った。
 僕、何かしたか? ひとりで貸し切りだったところを邪魔されて不快になったのか。そのくらいしか気分を悪くさせるような心当たりはない。まぁいいや。今度は僕が温泉を貸し切りにできる。
 身体に湯をかけると、温泉にゆっくりと沈み込む。今日一日の疲れが落ちてゆく気はするが、明日はもっとハードだ。何せ始発で熱海を出発して、鈍行で長野に行かないといけないんだから。のんびりできるのは今のうちだ。
 夕食の時間、フロントを通るとき、受付をしてくれたおじいちゃんに、明日始発で出ることを告げた。
「お客さんは、旅人ですか?」
「いえ、そういうわけではないんですけど」
 僕は答えに窮した。まさかスマホの予測変換の指示通りに動いているとも言えないし、普通は信じないだろう。笑顔でごまかそうとしたとき、おじいちゃんは言った。
「ああ、『カー』の方でしたか。今はずいぶんとお若い方がいるもんだ」
「え……『かー』? なんですか? それ」
「お食事、用意ができておりますよ」
 おじいちゃんは笑顔で僕をテーブルまで案内する。『かー』とは何か聞き出したかったが、おじいちゃんの雰囲気が変わり、なぜだか質問すらできなかった。

 食事は刺身に天ぷら、茶わん蒸しと豪華で
おいしかった。これで一泊七千円は安い。しかし、安いといってもフリーターの身からしたら痛い出費だ。温泉と食事は堪能できたが、明日はトリプルゼロに会えるのだろうか。それが心配だ。鈍行で熱海から長野に行ったとして、本当に長野で会えるのか? 顔も性別も本名も知らない人間に会えるかどうか。これはどんなに最強の運を持っていても、普通は無理なんじゃないか? それとも長野についたらまた、予測変換さんがヒントをくれるのだろうか。
 僕は珍しく自分の運勢を占ってみた。十二月二日の運勢。てんびん座B型の運勢は、最悪
だった。

 早朝。僕は三時に起きると、ホテルをチェックアウトした。
 昨晩のうちに家とバイト先に連絡したが、父さんに怒られた。遊んでいる時間があるなら就職しろとのことだったが、母さんは意外にも寛容だった。
「人生旅をする時間も必要よ』なんて。母さんに父さんの説得を頼むと、今度は加納さんに電話した。が、加納さんもやはり母と同じことを言った。
ただし、「休んだ分は当然バイト代は入らないからな?」と、当たり前のことを言われた。僕みたいなフリーターは有給休暇なんてものはないので、当たり前だ。
 真っ暗な冬の朝方。まだ星がきれいに瞬いている。ほのかなライトをたどって、駅の方向へ歩いていく。念のためスマホの地図と位置情報はオンにしてあるが、やっぱり意味不明な案内が出る。『ここを右折です』。来るときは直進だった。『その先十メートルを左折です』。これも違う。右折だった。一体なんだ、この誤差は。熱海の地図を世界的に大手の検索エンジン会社が間違えるわけがないのに。もし今、日本でスマホを持っている人たちの地図アプリがめちゃくちゃな指示を出しているとしたら、ちょっとしたパニックになっているだろう。でも、世の中は平和だ。僕のスマホだけなのだろうか?
 駅に着くと、まだシャッターが下りていた。あと十五分で始発の時間だ。待っていればすぐに開くだろう。その前に調べなくてはいけないことがある。熱海から長野まで、鈍行で向かう方法だ。
 スマホの乗り換え検索アプリを起動させると、【新幹線を使う】のチェックを外し、熱海~長野間を検索する。
 手元を見つめていると。画面が暗くなった。
顔をあげると、そこにはコートを着た若い二十代くらいの女性が立っていた。
「君も始発待ち?」
「え……ええまあ」
 割と整った顔をしているショートカットにトレンチコートの女性は、僕にコーヒーの缶を向ける。
「これ、さっき自販機で当たり出ちゃって。余ってるからあげる」
「いいんですか?」
「うん、すぐに飲めないし、荷物にもなるからね」
「あ、ありがとうございます……」
 悪い人ではなさそうなので、僕は素直に缶コーヒーを受け取る。しかし飲む前に熱海から長野までの行き方を調べないと。
 どれどれ。東海道本線で富士まで出て、甲府へ。そこから中央線・篠ノ井線で松本へ。松本から長野行きに無事に乗れれば昼すぎくらいには到着できるかな。
「こら、あんまりスマホ中毒になりなさるな。コーヒー、飲まないんだったら返してよ」
 コーヒー缶を手にしても一向に飲まない僕に、名前も知らないお姉さんは、胸元のネックレスを揺らしながらちょっかいをかけてくる。
ブルーの玉に白いビーズが付いた、シンプルなものだ。コートの首元が開いていたので、見えた。
咄嗟に僕はスマホをしまうと、コーヒーのプルタブを開ける。
「いえ、飲みますよ。今日行く場所を調べていて……」
「ふうん? 君、サラリーマンって感じじゃないけど、仕事?」
 その質問に、僕は窮してしまった。仕事でもないし、趣味でもない。旅を趣味にできるほどの余裕なんてない。僕はただ、予測変換さんの指示通りにしているだけだ。
 かといって、『スマホの言う通りに動いています』なんて言えないので、言葉にできない。
「まさか、家出少年?」
「ではないですよ、まさか……」
「へぇ? 本当かなぁ?」
「本当ですって」
 なんで見ず知らずの他人に、ここまで言い訳しないといけないんだ? お姉さんはさらに僕に迫ってくる。
「だったら、昨日はオールで遊んだとか? でも酒臭くもないし。これからどこに行く気?」
「……知らない人に言う義務、あるんですか?」
「一応私、目撃者になるじゃん。君が家出少年だったら。目的地だけでも聞かせてよ」
 目的地くらいだったら、まぁ言っても問題ないだろう。
「鈍行で、長野に行くんです」
「君、乗り鉄ってやつ?」
「そういうわけでは……いえ、そうです」
 しつこい人だなと思った僕は、適当に話を合わせた。これで追及はなくなるだろう。
 実際女性は納得したようで、僕から一歩離れた。
「なんだ、乗り鉄かぁ。じゃあしょうがない」
 女性だからって、近頃は危険なのかもしれない。僕が不安に思ったとき、ナイスタイミングで駅のシャッターが開いた。
 まだ始発発車まで時間はあったが、僕は女性と離れるために少し急ぎ足でホームへ向かった。
 ……よかった。女性は追ってこない。あの服装からして彼女自身も会社員っぽかったが、人は見た目じゃない。
 暖房であたたかくなりはじめた始発電車のシートに座ると、少しうたたねしそうになる。 少しくらいなら大丈夫かな? 僕はスマホをマナーモードにして、四十分後にアラームが鳴るようセットして、尻ポケットに入れた。

 ブブブブッ、と尻ポケットから体全体に振動し、まずいと思って目を覚ます。まだ富士には到着していないが、アラームをセットしておいて正解だった。このまま寝落ちしていたら、長野行きどころか行先不明で混乱に陥っていたかもしれない。
 車内は少しだけ混雑していた。降りるのは次の次。富士駅だ。
 僕はスマホのアラームを切ると、スマホとにらめっこする。行き場所はわかっている。だけど、なんで『鈍行で』なんだ?
 それ以外にもちょっとだけひっかかっていることがある。
 ホテルでおじいちゃんに言われた『かー』の意味だ。
 『かー』ってなんだ? 何かの聞き間違いかとは思ったが、『かー』以外の言葉が思い浮かばない。
 さっそく検索をかけてみる。しかし、検索で出て来たのは『Car』……つまり車のことだらけだった。熱海独特の方言というわけでもなさそうだ。だとしたら、本当に『かー』ってなんだ。カラスの鳴き声か? 車で来ているのかきくなら、ちゃんと『お車でお越しですか』と話してくれるだろうし……なんとも腑に落ちない。
 スマホをいじっていたら、いつの間にか富士駅だ。
 富士から今度は甲府駅に向かうはずだ。僕は電車乗り換えアプリを起動すると、再度行き方を確認する。今いる駅を富士、目的地に甲府と入力しようとしたところ、また予測変換で指示が出た。
 かきくけことタップしてようとしたら、『帰れ』『今日は』『ここまで』。
 えぇっ? 富士まで来たのに、今日はここまで⁉ 冗談じゃない。僕は予測変換さんに反論した。
『冗談じゃない』『何をさせたいんだ』
 あ行から文字を打ち込んで、予測変換を見ていく。相手の言葉は、僕が入力しなくては読むことができない。だから仕方なく、だ。
 相手からの返答が来る。
『今日は』『中止』『帰れ』『命令だ』『長野』『変更』
 命令だって、一体誰が命令しているっていうんだ。それに富士まで来たら、また熱海を経由して帰らないと。
「仕方ないのか?」
 僕は唇を尖らせ、頬を膨らませると富士から熱海までの時間を調べる。こうなったら帰りはグリーン車を使ってやろう。それだけ僕はクタクタになっていた。
 
 熱海から湘南新宿ライン一本で最寄り駅に到着する。グリーン車に乗り込むと、僕はため息をついた。なんで熱海まで行ってきたんだろう。富士まで行ったんだろう。旅行というわけでもないんだから、今朝あの女性に言われた通り、これじゃあただの乗り鉄だ。
 ひとつだけいいことがあったとするならば、初めてグリーン車を利用したということだ。出費は痛いが、ゆったりとして座り心地のよい座席や、二階から見る風景は悪くない。しかも平日昼下がりだから、乗客も少ない。
 僕は音楽を聴きながら車窓を楽しむ。ここでひとついいフレーズが浮かんだことが、今回の旅の成果だ。

「ただいま」
「あんた、帰ってきたの?」
 家に着いたのは夕方。母は夕飯の用意をしていた。そりゃあ驚かれて当然だ。今日も泊まってくると言っていたし。
「ご飯、あんたの分ないわよ?」
「んー、だったらコンビニで買ってくる」
 開口一番がご飯の話題。息子がいきなり旅に出たことには何も文句がないというのはありがたくもあるが、僕自身は少し話を聞いてもらいたい気分だった。
「母さん、僕がなんで旅行してたか聞かないの?」
「かわいい子には旅をさせよって言うでしょ。まあ、あんたも学生ではないんだし、世間を知るならいい経験よ。旅費も自分出してるなら、母さんは何も言わないわ」
「それはありがたいっちゃありがたいんだけ……僕、人を探してて」
「もしかして、ナンパとか?」
「そういうのじゃない。僕、音楽で食っていきたいって言ってるじゃん。そのためにはどうしても会わないといけない人がいるんだ。ただ……会うための難易度が高い」
 僕は母さんに、トリプルゼロのことや予測変換に指示されて、熱海まで行ったことを話した。当然ながら母は、無言で真顔になって、俺のおでこを触った。
「熱はないわよね」
「本当だって」
「トリプルなんとかっていうのもよくわからないし、予測変換のことも母さんには意味不明よ。ネットのし過ぎじゃない?」
 母さんは料理の準備ができると、ダイニングのイスに座った。俺も母さんの隣に座る。
「もう少し現実を見なさい。母さんから見たら、あんたは電波よ」
 電波……。言われてみれば確かに。冷静に、普通に、一般常識的に考えてみれば、予測変換が指示を出すなんてあり得ないし、予測変換と大体自分が打ち込んだ文字だ。打ち込んでない
文字もあったけど、スマホ側のバグという可能性もなきにしもあらずだ。
 スマホの指紋も、ホテルのメモ帳も考えすぎ。
 そう思うと、たった今までの自分がバカらしくなる。僕はスマホに頭を乗っ取られて、熱海や富士まで行ってきたってことじゃないか。
「コンビニ……行ってくる」
 リュックサックから財布を取り出すと、僕は家を出た。

 ああ、なんてバカらしいことをしたんだろう! 家に帰った今考えると、僕が探していたトリプルゼロ自体が都市伝説。それを間に受けるなんてどうかしている。事前調査をしてもデータが出てこないってことは、『存在していない』とイコールじゃないか。
 少しスマホやネット断ちをしたほうがいいのかも。高校を卒業して、フリーターになってから、曲を作っているとき以外、ずっとスマホ
漬けだ。
 暗くなった夜道を歩きながら悶絶する。僕はあまりにもネットに染まっていた。だから現実が見えなくなってしまっていたんだ。ストップ・ザ・キャットの動画も僕にとって悪影響だ。
 ここは少しスマホをオフにして、曲制作に集中したほうがいいか。
そんなことを考えていたら、あっという間にコンビニだ。かごを持つと、まずお菓子の通路に行き、いちごポッキーの少し太くて高いやつ
を入れる。次はパックのお茶。そして最後に行きつく先は、お弁当コーナーだ。
 げ、またいるよ。お向かいさん。なんてタイミングなんだ。偶然だろうけど、監視されているようで嫌だな。挨拶するのも微妙だし、気づかない振りをしてやり過ごそう。
 パッと焼うどんと餃子を取ると、足早にレジへと向かう。会計を済ませ、レンジで温めてもらっていると、お向かいさんもレジへと来て、同じようにお弁当を温めてもらう。
「あ、君。無視とはひどいな」
 最悪だ。気づかれていたか。僕は顔を引きつらせながら挨拶した。
「こんばんは。奇遇ですね。気づきませんでした」
「そうか。にしても偶然だ。いちごポッキーとお茶、それと焼うどんと餃子なんてな」
 僕はぎくっとした。気持ち悪いお向かいさんの袋を見ると、確かにいちごポッキーとパックのお茶が入っている。僕より先にお弁当コーナーにいて、そのままレジに来ているということは、僕より早くコンビニに来て、僕と同じものをかごに入れていたということになる。偶然に
してもできすぎているが、偶然じゃなかったらなんなのだ。説明できない。
「そういや、熱海はどうだったんだ?」
「まぁ……楽しかったですよ」
 言葉を濁していると、レンジがピーピーと鳴った。温まったうどんと餃子を受け取ると、軽く頭を下げて足早にその場を去る。帰り道は一緒だから、お向かいさんより先に行かないと。
 家のドアを開けると、僕の胸は緊張と恐怖でバクバクしていた。
「そういや……熱海に行くって言ったっけ?」
 考えるのも怖くなって、僕は思考を停止させた。

 夕飯を食べると、パソコンを起動させ、今日思いついたフレーズを打ち込む。メモ代わりでいい。本格的に作り込むのは明日以降だ。さすがに昨日・今日と疲れた。
 ふと手がスマホに触れる。……いけないな。僕は情報過多だ。今はスマホをいじらないほうがいい。しかし、そういう枷を自分にはめると、本当にやることがなくなって、急に不安になる。
 何もしないって、久しぶりだ。ごろんとベッドに横になると、思い出してしまうことがある。ホテルのおじさんが言った『かー』のことでも、君の悪いお向かいさんのことでもない。六か月前に死んだバカヤロウ――春日透のことだ。
 僕が『バカヤロウ』なんていうのには訳がある。透は僕の親友だった。透にとっても僕は親友だったと思う。高校に入学したとき、初めて声をかけてくれたのが透だ。気さくで、誰とでも仲良くなれる透は、僕の憧れでもあった。そんなあいつの口癖は、『生きた証を残したい』。それで始めたのがDTM。僕にDTMを教えてくれたのも透だ。僕たちは、バイト禁止だったのにも関わらず、こっそり短期のバイトをして機材費を稼いだ。そして曲を作り始めたのだが、僕よりも透のほうが曲作りの才能があった。憧れもあったが、嫉妬もしていたことは否めない。しかし、彼は突然命を絶ってしまったのだ。自分の意志で。
 人気が出るということは、アンチも増えるということだ。透はそれに慣れていなかったんだと思う。高校でも人柄がよくて人気者だったし、まさか不特定多数の人間に責められるなんて思っていなかったのだろう。あいつは才能があった。それなのに。
 僕はアンチに対して、弱気になったりしない。というか、アンチが出るほどの人気がない。だから僕は『透になりたい』んだ。
 トリプルゼロの噂を真に受けたり、本気でプロを目指しているのは全部自分の曲を聴いてもらいたいから。僕は、『透の生きた証を残したい』んだ。
 スマホがだめなら音楽を聴こう。僕は好きな音楽が入ったプレイヤーを手にし、ブルートゥースのイヤホンを耳にした。
 僕の好きなバンドはたくさんある。バンドだけじゃない。アイドルも歌い手も、ボカロも。一曲目に聴きたいのは【1、2、3】という曲。アーティストは【Z―Taku】と書いて【自宅】と読む。
 Z―Takuの歌詞には意味がないと言われている。あくまでも、ボーカルの声は楽器と同じというスタンスだ。
 目をつぶり、頭の中を真っ白にさせる。僕は考えすぎだ。疲れていたのかもしれない。どちらにせよ、心を無にして音楽に浸ったほうが今はいい。
 シャッフル再生機能で流れてきた二曲目は【ゆっくり行こう】。アーティストは【DONKOU】。この曲はすぐに変えた。鈍行でゆっくりって、今日の悪夢を思い出す。
 三曲目は【スノウワールド】。新潟出身の【コメ】というバンドの曲だ。
 そこまで聴いた僕は、ハッとしてスマホを手にした。ヤバい。これが事実だったら僕は呪われている。気づかなかったほうがよかったのに、なんでわかってしまったんだ。
 まさかと思いつつも、不安になりながらスマホのメモ帳を開く。
『まさか』
『その』『まさか』『だよ』
僕はスマホだけじゃなくて、音楽プレイヤーでも指示を出されるのか。
【Z―Tak】は『自宅』。つまり今いる場所。【1、2、3】は指示の順番。【DONKOU】は『鈍行で行け』。【スノウワールド】はつまり新潟。今度の指令は『新潟に鈍行で行け』ってことだ。
くそっ! 今の僕は音楽さえのんびり聴けないのか! 仕方なく僕は、また旅支度を始める。電波だろうが都市伝説だろうが、どうでもよくなってきた。こうなったら、意地でも突き止めてやる。トリプルゼロに会う、絶対に。透のことを考えていたときに来た指示ってことは、運命を感じてしまう。もしかしたらこれは、死んだ透からのメッセージかもしれない。僕は
透とは違う。絶対に死んだりなんかしない。勇気をもって、この難題に立ち向かってやる。これはきっと、越えなくちゃいけない壁なんだ。
 部屋のドアを開けると、僕は母さんと帰宅していた父さんに言った。
「明日新潟に行ってくる!」
「バカじゃなかろうか」
 父さんの言葉は辛辣だったが、僕もそう思う。僕は『バカヤロウ』だ。

 朝八時。僕は新潟に向かう前に、バイト先に立ち寄った。加納さんに休むことを告げるためだ。電話で済むところだが、ついでにテイクアウトでコーヒーをもらいたかった。
「え? お前何言ってるの?」
 予測変換や音楽プレイヤーに指示を出されたため新潟に行くと言ったら、開口一番これだ。
 でも、加納さんの反応はいたって普通だ。僕は電波に踊らされている。それも自覚はしている。
 僕が詳しく説明すると、加納さんはあごをさすった。
「いくらテクノロジーが進化していると言っても、いち個人にそんな指示が出るか? お前はただのフリーターだろ」
「それはその通りなんですけど……」
 加納さんのいたってまともな回答を聞き、僕は少し不安になった。
 僕がトリプルゼロを調べ出したことが悪夢への第一歩だと思う。ネット上で踏み込んではいけない領域だったのかも。『ネットで検索すると呪われる言葉』なんてストップ・ザ・キャットの動画を思い出す。
 だけどもう、ここまで来たら戻れない。どこまでも電波に踊らされてやる。絶対にトリプルゼロを見つけ出し、『僕』を売り出してもらうんだ。
「加納さんは僕が売れるアーティストになりたいことは知ってますよね」
「まぁな。叶わぬ夢を追ってるなって思ってるよ」
「叶わぬ夢かどうかはわからないじゃないですか」
「トリプルゼロっていう他人に助けを求めいる時点でダメだろ。もっと自分の才能を信じて
曲作りするお前のほうが、俺は応援したい」
「むっ……」
 正論を言われた僕は口をつぐんだ。自分ひとりじゃどうにもならないから、他人の手を借りようとしてるんじゃないか。
「ほら、アメリカン。それでも新潟に行くんだろ? 期待して裏切られるだけだと思うけどな」
「いいんです、裏切られたって。僕は僕の信じる道を行きます」
 紙コップを受け取ると、僕はお金を払い店を出た。

 新潟にはまず高崎まで出て、上越線で水上まで。そこから長岡まで行って信越線で新潟だ。
 地元から高崎まで出るのは、さほど面倒ではない。電車一本で行けるのは便利だ。ただ心配なのは、上越線と信越線に乗ったことがない。そもそも水上にも行ったことがないので、うまく乗り換えができるか心配だ。
 高崎までの電車は空いている。朝の通勤
時間からずれているし、上りではなく下り線。
 この時間から高崎へ行く人間は、あまりいない。
僕はその間、スマホでまたトリプルゼロを探し始める。写真アプリにもいるって話もあったはずだ。
 せっかくだ。普段アプリをあまり更新しない僕だけど、この旅ではどんどん写真を撮っていこう。
 駅の自販機買っておいた、甘酒豆乳のパックの写真をスマホで撮ると、ハッシュタグをつける。
『#トリプルゼロを探す旅』
 もしかしたら、誰か反応を示すかも。運が良ければコメントで情報をくれる人が出てくるかもしれない。
 かといって、僕の写真アプリのフォロワー数は五十人。この中でヒントをくれる人がいるかはわからない。何せコメントなんてほぼつかないから。『いいね!』はつけるくせにね。
 高崎まではまた音楽を聴きながらの旅だ。心配なのはブルートゥースのイヤホンが充電切れにならないか。結構すぐに切れることが多いんだよな。
 それに、昨日みたいにまた音楽からも指示がくるかもしれない。
 今聴いている曲は、ユニゾンの『きみのもとへ』だ。本当に僕はトリプルゼロのもとへ行けるのか? 甚だ疑問ではあるが、明るい曲調に思わずしわが寄っていた眉間が緩んだ。やっぱり音楽はいい。イライラや不安感を取り除いてくれる。
 スマホをいじっていると、写真アプリのマークが上部に出た。まさか、もうコメントがついた? 急いでアプリを起動させるが、ついていたのは知らない人からの『いいね』だった。
 でも、このいいねをくれた人、フォロワーじゃないな。
僕はいいねをくれた人のサムネイルをクリックして、プロフィールを確認する。『コーモリ』さんの自己紹介文は、『Writer.』とそっけなく、シンプルに書かれていた。ついでだからコーモリさんの写真を見ることにして、視線を下に移す。
 これは……弁当の写真か? 見た感じ、駅弁っぽい。それにこの弁当、何か知ってる。次の写真に目を動かすと、ご丁寧に『高崎名物だるま弁当』と書かれていた。
 ん、ちょっと待て。まさかこの写真アプリでも指示が出るのか? 僕は頭を抱えた。
つぶやきアプリでDMを送ってきてくれたシードルさんを思い出す。あの人のアカウントはすぐに消えた。このコーモリさんの写真も、もしかしたら見えない誰かからのメッセージか? 僕は次々と写真を凝視した。
 だるま弁当の次に写っていたのはえんがわの寿司の弁当。これも多分駅弁。そして次に写っていたのは、なぜかバスの写真。その次はなぜか高崎~新潟間の新幹線の時刻表。
今回の指示は新潟まで鈍行で行けというものだ。なんでこんな時刻表が?
あとあるのは雪の写真。雪。まさか降ってないよな? でも時期は十二月なんだからあり得ないわけじゃない。僕はスマホで新潟の天気を調べる。気温は低いが晴れだ。今年は暖冬らしいから、雪はまだなのか。だとしたら、スキー場が大変だな。
 曲が次々と流れ変わる。ミセスの『WanteD! WanteD!』が流れると、気持ちが切り替わる。さあ、高崎だ。何が起こるかわからないが、とりあえず乗り換えの前に買うのは、だるま弁当とえんがわ寿司だ。

 高崎駅には弁当屋がたくさんある。その中のひとつに飛び込むと、コーモリさんの写真にあったのと同じ弁当が目に入る。素早くふたつの弁当を手に取ると、弁当屋の陽気なおばちゃんがレジを打ちながら声をかけてくれた。
「お兄ちゃん、旅行? いいねぇ」
「いやあ、乗り鉄ですね」
 乗り鉄というしかない。一期一会のおばちゃんだし、現状を説明したところで電波は確実。怪しい人判定をこういう人からされると、心が折れてしまう。僕は弱いんだ。
「あーそう? だったらみかんも買っていったら?」
「さすがにお弁当ふたつだと入りませんよ」
 おばちゃんのノリに合わせて遠慮すると、おつりとお弁当をくれる。
「はい、気をつけてね!」
「ありがとうございます」
 気をつけてと言っても、電車に乗るだけだ。電車の中は安全だろうし、決まった挨拶みたいなものだろう。
 そう考えた僕は、甘かった。

 高崎から水上までは、一時間ちょっとかかるらしい。
しかし、やっぱりというかなんというか、電車でスマホを眺めると、コーモリさんの写真に変化があった。僕が買った二種類の弁当の写真が消えていた。
 そうか、僕がアイテムを手に入れると、写真が消えることになってるんだな。あとわからないのはバスの写真と新幹線の時刻表だ。
 ここまで来ると、もはや謎解きゲームだな。下手な脱出ゲームなんかより、リアルで少し怖い。だけどこのゲームをクリアすることで、トリプルゼロに会えるならやるしかない。
 次の駅は渋川か。まだまだ時間がある。もう少し検索しようかと思ったとき、電車が急に止まった。
 何かあってもすぐに動き出すだろう。のんきにスマホをいじっていたが、あたりが騒がしくなる。クリスマス前に旅行しているらしい学生たちや、仕事で電車を使っているサラリーマンの声がイヤホン越しに聞こえてくる。
 さすがに何かあったのか? 音楽を止めて、イヤホンを外すと、運転手が車内放送を始めた。
「停止信号です。この先土砂崩れが起きた関係で、当電車はこの先運転不能となりました。みなさまには大変ご迷惑をおかけいたしますが、電車から降り、臨時バスをご利用ください」
 ……え? 運転不能? しかもこんな山奥で電車を降りて、バスに乗り換え? マジで⁉
 こんなことって本当にあるものなんだ……。
僕が乗っていたのは先頭車両だったが、車掌さんの案内で、後ろに乗っていた乗客が次々と電車を降りていく。僕も指示に従って、電車から梯子を使って降りる。電車から梯子で降りるなんて初めての体験だ。ニュースで見たことはあったが、まさかの事件が自分の身に降りかかるなんて。
学生たちの集団の後ろを、僕は歩く。周りには警察や整備士さんたちがたくさん。しかも歩いている場所は線路。僕は思わず写真を撮る。
『あり得ない事態発生中 #トリプルゼロを探す旅』
 さすがにこれも試練だなんて言わないよな? ただの偶然だよな。そう思いたいが、予測変換には変な言葉が並ぶ。
『ノンフィクション』『笑』
 笑いごとじゃない。もし運が悪かったら、この電車が土砂崩れに巻き込まれてたんだぞ?
 そこまで考えてぞっとした。この試練は、命がけなんだ。生きた証を残すってことは、生半可な覚悟じゃいけない。命を危険に晒してでも、
死に物狂いで必死にやらなくちゃいけないことなんだ。
 僕の考えは甘かったのか? それともトリプルゼロに会うには、そのくらいの覚悟がないといけないってことなのか? 死んだ友人の生きた証のために、自分の命を晒すのか? 僕は……僕は。
 バスは三台来ていて、全員ちゃんと座席に乗れた。僕は窓辺の席に座り、またスマホとにらめっこだ。このバスがどこに行くかわからない。最寄り駅と言っていたが、渋川……だよな。
 駅名を調べると、渋川は上越線と吾妻線しか走っていない。上越線は土砂崩れの関係で復旧
しないだろうし、吾妻線では新潟に行けない。
 ……雨だ。バスのガラスに斜線が流れていく。 
僕は今日、新潟に到着できるのか? 宿は取ったが、到着できなかったら最悪極寒の地で野宿だ。それだけは避けないと。腕時計を見る。時間は午後四時半。まだ夕方のはずなのに、外は真っ暗だ。バスも渋滞しているのか、動きが悪い。渋川からどこにも行けない僕は、どうすればいいんだろう。

渋川に到着したのは二時間後の午後六時半。駅にはスキー目当てできていた学生や、温泉目的のご年配たちが立ち往生していた。ここからどうする? 上越線が動かないと、僕がいるこの駅は本当に陸の孤島だ。
そのとき、駅の外から声がした。
「高崎行きバスがもうすぐ発車します!」
 高崎? このとき急に僕の頭の中のパズルと、胸の中のロジックがぴたりとあった。
 そうだ。写真アプリの新幹線の時刻表。あれは高崎からのものだ。
「待って! 乗ります!」
 発車ギリギリで僕は高崎行のバスに乗り込む。スマホの充電が落ちそうになったところで、持ってきていたバッテリーと接続。コーモリさんの写真を確認しようとしたが、アカウント自体が消えていた。これはビンゴだ。
 でもわからないことがある。どうしてコーモリさんはこうなることを予想できていたんだ? わからないキャラはたくさん出てきている。予測変換で指示を飛ばす人、つぶやきアプリのシードルさん、そしてコーモリさん。
 今流れている曲は、ザ・スターベムズの『MAXIMAM ROCK‘N ROLL』だ。
 まさにロックンロール。内田裕也もびっくりな旅は、誰が操っている? これもすべてトリプルゼロが手引きしているのだろうか。
 だとしたらトリプルゼロは、ただのサイレントインフルエンサーじゃない。未来予知できる超能力者? まさか。超能力なんてあり得ない。 
活路を見出した僕は、揺れるバスの中、終点まで少し眠りについた。

プーップーップーというバスがバックする音て目が覚める。高崎到着、午後九時。昼にも高崎には来ていたんだよな。すごろくで、六進んだのに四戻った感じだ。これだったら最初から高崎から新幹線で新潟に向かっていたし、そもそも新潟は、地元から大宮に出て一本で着く場所だ。それをなんでこんな回りくどいやり方をしなくちゃいけなかったんだろう。
特急券を買いながら、頭の中でぼやく。これがトリプルゼロの意向だと言われても納得できない。トリプルゼロは僕の何を試しているというんだ。さっき思った通り、人が生きた証を残すために命を懸けろってこと? にしても、ひどい。ひどいと言っても、僕が勝手に話に乗っているだけだから、責める筋合いもないんだろうけど。
ずっと固いバスのシートに座っていたから、
新幹線の座席はあまりにも柔らかかった。

 夜十一時。ようやく新潟に着いた僕は、今度自分が泊まる予定のホテルを探すことになった。熱海の一件もあり、スマホの地図が使えないという可能性もある。が、一応調べてみる。
『東立イン』は西口にふたつある。どっちだ?
 スマホを立ち上げたところで、運悪く充電が切れる。バッテリーもアウトか。どうしよう、
ここから土地勘のない場所でホテルの住所もわからない中探すのは無理だ。駅の地図には『東立イン』の名前はなかった。
 悩みに悩んだ僕は、考えるのを放棄した。『放棄』と言っても、野宿しようと考えたわけじゃない。それに宿に行かないと、キャンセル料が百パーセント発生してしまう。
大ピンチを救ってくれる救世主に声をかけようと、僕はタクシーの窓をノックした。
「すみません、東立インに行きたいんですけど、乗せてもらえますか?」
「東立イン? ふたつあるけどどっちかいね」
 やっぱり。タクシーの運転手さんはさすがだ。今の答えだと、どちらの位置も知っている。これはありがたい。
 僕はタクシーに乗り込むと、苦笑いを浮かべながら説明する。
「実はどっちかわからなくて。スマホも充電が切れちゃったから……こういうときはメモしておくべきですね」
「ははっ、若いのに大変だね」
「いやぁ、今日は災難でしたよ。鈍行で新潟まで向かっていたんですけど、渋川でがけ崩れがあって……ありゃ、もう十二時近いや」
 時計を確認していると、タクシーのおじちゃんは僕に言った。
「なんじゃ、お兄さん『かー』の人だったのかい」
「えっ?」
 また出た。熱海でも聞いた『かー』という単語。まさか新潟でも耳にするなんて。
「あの、『かー』ってなんですか?」
 思い切ってたずねると、おじちゃんは困ったように笑った。
「あーそうか、お兄さん、試されてるのか。だったらなおさら言えんわなぁ」
 僕が試されてる? だとしたら誰に、何をだ? 
「あの、もしかしてご存知ですか? トリプルゼロのこと」
「とりぷる……なんだって?」
「ゼロです、トリプルゼロ」
「……はぁ、今はかーのことをそんなハイカラな呼び方をするのかぁ」
 タクシーのおっちゃんは、何かを知っている。はぐらかしているが、トリプルゼロのことを知っているんだ!
 僕は後部座席から身をできるだけ前に寄せる。
「なんでもいいんです! 教えてください、トリプルゼロのこと!」
「それよりホテルに到着だよ。おっちゃん待っててあげるから、フロントで予約してあるか聞いてきな。もうひとつのホテルかもしれない」
「あっ……はあ」
 今日の宿が見つからなければ野宿決定プラス違約金百パーセントだ。
 僕は仕方なくタクシーを降りると、一度ホテルに入る。
 フロントの人に名前を告げると、「ございますね、今日から一泊二日のご予定です」と教えてくれた。どうやら当たりだったらしい。
 僕はタクシーに戻ると、おじちゃんにお礼を言う。
「ありがとうございます。こっちのホテルだったみたいです。では、お金……」
「ほい、七百九十円ね」
「あれ、九十……八十円しかないや。千円で
いいですか?」
「あー、ないんだったら八十円でいいよ」
「えっ、でも待っててくださったのに……」
 遠慮する僕に対して、おじちゃんは勝手にカルトンを下げてしまった。
「いーの、いーの。今日は大変だったんだろ。早くホテルでゆっくりしなぁ」
 おじちゃんは千円札を受け取る気がなさそうだ。僕は好意に甘えることにした。
「わかりました、どうもありがとうございました」
 タクシーを降りると、おじちゃんの車を見送る。もう一度ホテルに入ると、ようやくチェックイン。時間はすでに十二時半を回っていた。
部屋に入った僕は、バッテリーとスマホをコンセントにつないだ。
 タクシーのおじちゃんは言葉を濁したが、ヒントは見つかった。
 どうやら『かー』イコール『トリプルゼロ』だということだ。
 スマホの充電が二パーセントになると、僕は電源を入れた。検索エンジンのアイコンにタッチすると、また『かー』で検索する。出てくるのは前と同じく車のサイトや個人のサイトばかり。
もしかして、ひらがなじゃないのか? カタカナでも検索をかけてみると、ウィキペディアが出てきた。
【カー(K、Ka、Carr、kerr,khaa)】
「K? ドイツ語、フランス語、インドネシア語、ロシア語、ウクライナ語? アルファベットのことか?」
 どこかの国の言葉の頭文字……とか? と予想してみるが、どこの国の言語もなじみがなくてさっぱりわからない。せめて英語だったらまだ何かわかったかもしれないのに。
 それに何かの頭文字という以外の可能性も
十分にある。熱海のおじさんやタクシーのおじちゃんがドイツ語やフランス語を使うのには違和感もあるし。
「トリプルゼロ、本当に一体なんなんだ……」
 考えているうちに、この日は眠ってしまった。

 設定していなかったはずの、ホテルのアラームが鳴る。前の客が設定していたのだろうか。
 朝九時。チェックアウトの時間は十時まで。タイミングがよくて救われた。
 とりあえず急いでシャワーを浴びて、部屋を出る準備をするが、今日は何の指示も得ていない。ホテルを出たら、朝食を取りながら予測変換さんの指示をもらうとするか。なんのヒントもなしに新潟をさまよわないといけないなんて、骨が折れる。ただでさえ昨日は電車が止まってとんでもないことになったんだ。本当はさっさっと帰って自分のベッドで眠りたい。
 駅の近くにあるマクドナルドに入ると、フル充電されたスマホのメモ帳を開く。もちろん音楽を聴きながらだ。
『今日の予定は?』と入力すると、予測変換さんとの会話開始だ。
『今日』『新幹線』『帰れ』『つくば』
 ん……? 僕の地元はつくばじゃない。埼玉だ。なのに『つくば』? ってことは、今日は新潟からつくばに行けってことなのか?
「人使いが荒い……」
 思わず愚痴が漏れる。そもそもこの予測変換
のいうことを聞いて旅をしているけど、どこに行ってもトリプルゼロには会えない。いい加減、あきらめろってことなのかな。それか、実は最初からトリプルゼロに会わせる気なんてみじんもなかったりして。
 僕は正直な気持ちをメモ帳に吐露する。
『もういい加減にしてくれ。トリプルゼロには会わせてくれないのか』
 そう入力しかけたところ、途中で文字が勝手に表示された。
『つくば』『終点』『一丁目一番七〇三』
 つくばの一丁目一番。ここにトリプルゼロ
がいるってことだろうか?
 これで最後だぞ? 僕は自分に言い聞かせて、ソーセージエッグマフィンを口に詰めると、
温かい飲みかけのコーヒーを持って、外に出た。
 空が曇っている。新潟はこれから雪になりそうだ。早いところ関東に帰って、茨城に飛ばないと。今日で僕の旅も終わりなんだから。

 昨日の鈍行からバスの乗り継ぎを思い出すと、新幹線のありがたみがよくわかる。一気に上野まで行ける。そこから京浜東北線に乗り換え秋葉原へ。そしてつくばエクスプレスでつくばに飛べる。何時間も電車に乗ることは変わらないが、到着してしまえば今度は行く場所もわかっている。『一丁目一番七〇三』だ。そこに今度こそトリプルゼロがいる可能性が高い。
 新幹線の中で、信用できないとは言え、一応地図アプリで場所を確認する。一丁目一番。駅から少し離れている広大な土地だ。
 こんなに広い土地が一丁目一番? もしかしてマンションか何かかもしれない。だとしたら『七〇三』は部屋番号だ。ますますトリプルゼロがいるような気がしてくる。
 もし会ったら、まず何て言おうか。秋葉原まで到着したところで、何も考えていなかったことに気づく。
 もちろん、自分の音楽を売るってことは変わらない。だけど、それ以外の言葉を用意していなかった。
 もしいきなり知らない人間が家を訪ねて来て、『自分を売ってください!』って言われても
迷惑だろう。どうして家を知ったのか説明しろと言われるかもしれない。予測変換や音楽プレイヤー、ホテルのメモ帳やスマホの指紋から推理して……って、いやいや。胡散臭すぎるし、自分でも信用できない。
 普通に、ごく一般的に考えて、スマホの予測変換が人間に指示を出すなんてあり得ない。音楽プレイヤーも同じ。メモ帳や指紋なんて言い出したら、完全に妄想が行き過ぎた人だ。
 自分が電波だってことは重々承知していたが、もっと全うで怪しまれない言い方を探すべきか。
 僕は電車のシートで頭を押さえる。トリプルゼロに言いたいことは音楽のことだけど、『かー』についても教えてほしい。ずっとこの旅で引っかかってきたワードだ。
おじさんたちが知っている、何らかの暗黙の了解。熱海のおじさんはうまく話を逸らした。新潟のタクシーのおじちゃんは僕が『試されている』と言った。僕は一体誰に何を試されている? 
トリプルゼロに会えば、それがすべてわかる。もうここまで来たら、戻れない。今日会えなかったら、僕はトリプルゼロのことを忘れる。今まで通り、フリーターに戻って音楽を作り続ける。そして、自分の力だけで音楽を売る。それしか道はない。

 午後二時半。終点のつくば駅は閑散としていた。冬の平日。もう少し人がいてもいいと思ったが、こんなものなのだろうか。初めて来た
土地だから、なんとも言えない。あとは駅から一丁目一番を探すだけ。
 地図アプリで、地図だけを見る。自分の現在地や目的地は気にしない。一丁目一番。ここから直進すれば、広大な土地に着く。マンションか何か。そこの七〇三号室がゴールだ。
 スマホのボタンを押すと、僕はジーパンの尻ポケットにねじ込む。ゴールは目の前だ。
 イヤホンから流れる曲は『声明』だ。堂々と
ドアを開けてもらう。僕の、僕の覚悟をトリプルゼロに受け止めてもらうという意気込みとリンクして、感情が高ぶる。気持ちが高揚していく。それなのに、目の前に現れたのは――。
「……嘘だろ?」
 僕は唖然とした。一丁目一番にあったのは、だだっ広い公団。まるで廃墟のような古い建物。しかもめちゃくちゃ部屋数がある。
七〇三はどこに当たるんだ? 僕はともかく七階以上ある建物を探す。公団は日照権の関係か、階数がバラバラだ。四階建てのものもあれば、十階建てのものもある。十階建てのものは三つ。その中のどこかの七〇三号室にトリプルゼロがいるはずである。
まず、A棟と書かれているところに入って、ポストを確認してみる。七〇三号室のポストは荒れている。古いチラシが山ほど詰め込まれている。この部屋にはどうやら人が住んでいる気配はない。部屋……というか、ここの土地自体に人気がない。これだけ部屋数があるところなら、誰か人とすれ違うことだってあるはずだ。それなのに誰一人会わないし、生活感が皆無だ。
次に入ったB棟七〇三号室のポストも同じ。となると、残りはC棟だ。
――ビンゴ。C棟七〇三号室のポストだけ、きれいになっている。この部屋を誰かが使っているのは間違いない。
エレベーターはあるが、僕は階段で目的地まで向かうことにしたトリプルゼロにようやく会える。緊張の他にも、なぜか湧き上がる怒り。『よくもここまで振り回してくれたな』。自分で勝手に探し始めたくせに怒ってしまうなんて、僕も自分勝手だな。
六階。次のフロアが七階。僕のゴールだ。これで会えなかったらあきらめる。
 数字の7を確認して、部屋番号を片っ端から見ていく。どの部屋も名前の表示はないし、やっぱり人の気配もない。気味の悪い場所だが、都市伝説になっているトリプルゼロがいるくらいなんだからおかしくもないか。
七〇三号室、到着。傘が立てかけてある。雨は降っていないが、ここに誰かが出入りしているのは確かだ。
 一回深呼吸をすると、インターフォンを鳴らす。ピンポン。短めの音。しかし応答はない。二回、三回。何度押しても人は出ない。
「ここで終わり、かぁ……」
 ため息が出たところで、傘がもう一度目に入る。
「ん? なんだこれ」
 持ち手のところに番号が書かれている。『080』で始まる番号。もしかしてこれは、電話番号? 桁数もぴったり十一ある。ラストチャンスってことか。
 僕はこっそり傘のテープをはがすと、自分のスマホを取り出す。しかしなぜかここだけ圏外。つくばって、電波入りにくいのか? 疑問に思いながら広い公団を後にする。広い道路に出ても、まだ圏外だ。
 せっかく最後のチャンスを手に入れたのに、ここで終わるわけにはいかない。電波を探して
いたところ、目に入ったのは公衆電話。ここからなら、確実に電話がかけられる。
電話ボックスに入ると、十円玉を入れて、シールの番号を押していく。ワンコール、ツーコール。やっぱりダメなのか? がっくりして受話器を置こうとしたとき、耳元に声がした。
「留守番電話サービスにおつなぎします」
 留守電? つながるのか? トリプルゼロに。
 今までなかったはずの緊張感が急激にくる。どこへ行っても会えず、さんざん情報に踊らされたが、やっとここでつながるんだ。
 ピーと音がしたあと、僕はもたつく口を必死に動かして、拙い言葉を残す。
「あの! 音楽を、僕の音楽を聴いてください! どうしても売れたいんです! 僕は、僕は……宇治小秋と言います! 電話番号は080―×××―6939。また電話します!」
 三十秒で多大な情報量は残せないが、これでトリプルゼロとの接点ができた。
 傘のテープを大事に腕に着けると、その上に時計を付け直す。絶対もう逃がさない。僕にとっての千載一遇のチャンス。
 公衆電話を出ると、スマホは圏外から5Gに戻った。
 つくばからの帰り道、僕は安心して、電車のシートで爆睡してしまった。

 マンションに帰る前、肉まんをコンビニで買おうと立ち寄る。肉まん以外にもチョコまんやピザまん、カレーマンがある。でもここはやっぱり安定定番の普通の肉まんなのだ。奇をてらうことも大事だが、変わらないもののほうが価値があったりする。……今のはちょっといい歌詞になるかも。
 さて、トリプルゼロの電話番号は手に入れたが、留守録は聞いてもらえただろうか。スマホを確認するが、折り返しの電話はない。当たり前か。相手はようやく捕まえた都市伝説。そう簡単にはいかないだろう。
 それでも少しは期待をしていたので、ため息
が出てしまった。
 肉まんが三つ入ったビニール袋を持った僕は、マンションの階段を上がる。すると、足音がした。誰かいるのか? 気にしないで自分の家まで上ると、僕のうしろにはどこかで見た
女性がいた。
「へ?」
「どーも。缶コーヒー、おいしかった?」
嘘だろ。熱海で缶コーヒーをくれた女性だ。胸元の細身のネックレスが揺れる。なんで僕の後ろに? というか、ストーカー? まさか。
熱海に行った後は新潟にもつくばにも行った。
 ずっとつけてたっていうのか?
 僕は思わず肉まんを持った袋の持ち手をぎゅっと握る。
「そんなに動揺しないでくれる? お向かいさんじゃん」
「お向かい?」
 向かいに住んでいるのは、灰色のスエットを着て、いつも髪の毛ぼさぼさな気味の悪い女性……。
「ちょっと、君失礼だよ。女は身ぎれいにすれば変わるものなの」
「身ぎれいってことは……え? 気味悪いあの人?」
「やっぱ失礼だな。私は藤野井波。ちゃんと挨拶したことはなかったかな」
 藤野さんか。にしても変わりすぎだ。熱海で
あったとき、全然気づかなかった。まぁ、まさぁお向かいさんが遠出した先にいるなんて思いもしないわけだけど。
 藤野さんはスマホを取り出すと、すっと画面に指を滑らせた。
「さっきは依頼のお電話ありがとう」
「依頼?」
「これ」
 電話からは先ほどトリプルゼロに残した留守録の声が聞こえる。
「ま、待ってください! ってことは、あなたが……」
「ここじゃ話もなんだから、部屋入ろう。説明してあげる。長くなるからね」
 探し出したトリプルゼロが、まさかのお向かいさん。だったら今までの旅は一体なんだったんだ? 頭を抱えたくなりそうになるのを我慢して、僕は言われたまま部屋にお邪魔する。
 部屋に入るとそこは、僕の家とは大違いの光景が広がっていた。
 一番広い部屋には、三台のデスクトップパソコン。その前には携帯電話が三台。それと、無線機みたいな機械。 電気をつけてないから、青白い光が部屋を照らしている。
「あの」
「何?」
「トリプルゼロって、一体なんなんですか?」
 質問すると同時に部屋の電気がつく。オレンジのあたたかい光だ。少しほっとする。青い光の中では恐怖を感じたからだ。サイバー空間というか、あまりにも現実味がなかったから。
 藤野さんはコートを脱ぐと、ハンガーにかける。
 ソファに腰掛けるように手で促されると、僕は素直に座ってごくりと唾を飲んだ。
「知らないで探してたの?」
「僕が知ったのは、動画でサイレントインフルエンサーっていうのがいるって話で。トリプルゼロ……藤野さんに音楽を売ってもらいたかったんですけど」
「ああ、ストップ・ザ・キャットのあれね。あいつらにはわざと情報を流して、私の存在をにおわせたの」
「な、何のために……」
「サイレントインフルエンサーについて、君は何も知らない。だけど私までたどり着いた。これは才能よ」
 意味がわからない。僕はただ、音楽を聴いてもらいたいだけだったのに、何の才能があるっていうんだ?
 藤野さんはデスクからトランプを取り出すと、僕に見せる。
 ジョーカーと、スペードのエース。ハートの7。三枚。絵柄を見せると裏返して、シャッフルする。
「一枚引いて。最後は運よ。君の進退がここで決まる」
「進退……ですか?」
「そう。ジョーカーを引いたら、君にもトリプルゼロになってもらう。ハートの7なら現状維持。スペードのエースが出たら、君の望み通り、音楽を売ってあげる」
「待ってください! 僕は何も知らないんです。そもそもサイレントインフルエンサーって、トリプルゼロって何なんですか!」
 藤野さんはあごに手をやると、僕をじろりと見やる。
「そうか。まずはその説明からしないとか。面倒くさいな」
「面倒くさい⁉」
 僕はカッとなりそうなのを堪えた。あれだけ乗り鉄させておいて、面倒くさいのひとことで終わらされちゃたまったもんじゃない。
 面倒くさいと言いながら、段ボールの中に入った缶コーヒーを取り出すと、僕にひとつくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「君の気になることにすべて答えてあげよう。さあ、言ってごらん」
「え? ええと……」
 突然そう言われてしまうとまごつく。それでも聞かなくては。
 僕は缶コーヒーのプルタブをいじりながら、聞きたいことをまとめる。
「まずはサイレントインフルエンサーっていうのは本当にいるんですか?」
「ああ、そのこと。サイレントインフルエンサーは『トリプルゼロ』の副産物として噂になっているものだ」
「えっ、ってことは……どういうことなんですか?」
「答えになってなかったか。つまりサイレントインフルエンサーはいない」
「いない⁉」
 そんな。ここまで僕がトリプルゼロを探してきたのは、インフルエンサーみたいに目立ちはしないけど、目をつけた人は必ず売れるっていいう噂があったからだ。
 いないとなると、僕の音楽を売ってもらうことはできないってことじゃないか!
 僕が目を見開いていると、藤野さんも隣に腰掛けてきた。僕はちょっと身を縮こませた。
 藤野さんは缶コーヒーに口をつけると、天井を見上げた。
「君の目的はパソコンとスマホのログからわかっている。友達だった『透クン』になりたいから、音楽を売ってほしい。違うか?」
「ちょっと待ってください! パソコンとスマホのログって……ハッキングしたっていうんですか⁉」
「ハッキングなんて、気づいていたんじゃないか? じゃなければ予測変換で指示なんて出せない」
 予測変換。確かにそうだ。僕は今まで予測変換に踊らされていた。それと、スマホの指紋……。スマホの指紋もよく考えてみれば、画面の中から写したのかもしれない。
 僕は質問を続けた。
「なんで僕に指示をしていたんですか? わざとトリプルゼロ……自分を探すように」
「君がトリプルゼロを探すらしいと情報が入ってね。だったら二代目として育てて、私は引退しようかと思ったんだ。このジョーカーを引いたら、君は二代目だ。見事試験はパスしたからな」
「その、試験っていうのは……?」
「熱海、新潟、つくばの視察だ。トリプルゼロは情報察知できないといけない。君は完璧に情報をキャッチし続けた」
 視察に、情報察知。まるでこれって……。
「スパイ、みたいですね」
「スパイじゃない。公安だ」
 公安と聞いた僕は、ようやくプルタブを開けて飲んだコーヒーを吹き出した。
「はい、ティッシュ」
「コーヒーを吹くことも予想通りですか」
「まぁ、大抵そうなる」
 ティッシュで口の周りや首元を吹きながら、
必死で頭を回転させる。
 公安って、あのアニメやドラマで出てくる公安か? 秘密警察とか呼ばれちゃって、犯罪者じゃない人を犯罪者にでっち上げたり、日本の裏を仕切っているっていう、あの公安?
 僕はゆっくりと藤野さんを見つめる。
 きれいにしている藤野さんは、どことなく凛としている感じには確かに見える。だけど公安? この普通の女性が? ……いや、まぁ普段は男女どっちかわからない格好をしていたけれども。まさかそこまで計算して、正体をかくしていたとか?
「公安ゼロ係を聞いたことは?」
 首を左右に振ると、藤野さんは自分のスマホを僕に渡した。
「ゼロが使うスマホだ。検索してみなさい」
 言われるがまま、検索バーに『公安』『ゼロ』と入力してみる。なんだか長いウィキペディアが出てきて、頭がついていかない。つまりゼロっていうのは何なんだ?
 すると藤野さんが身を寄せて、スマホの画面に指を載せた。
「大事なのはここだ」
 指で示された場所にはこう書かれていた。
『ゼロに依頼するのは、話が早いからである』
「……どういう意味なんですか、これ」
「どうもこうもない。つまり、勝手に情報をキャッチして、動いてくれる人間を『ゼロ』、特に動きがいいやつを『トリプルゼロ』と呼んでいるってことだ」
 え、えぇぇぇっ⁉ 僕は缶を持ったまま、うなだれた。
 藤野さんの話を総合すると、要するにトリプルゼロは使い勝手のいい公安ってことだよな。で、そのトリプルゼロが藤野さん。僕はその二代目候補。二代目候補になったのは、多分……。
「全部総合すると、察しがいい人間を探すエサが『サイレントインフルエンサー』ってことだったんですね」
「やっぱり察しがいいな!」
「嬉しくありません!」
 僕は藤野さんから逃げ出すように、ソファから立ち上がった。
 大体僕がなりたかったのはミュージシャンであって、音楽を売ってもらうためにサイレントインフルエンサーを探していたんんだ。ゼロとかトリプルゼロとか、公安の人間になりたくて、乗り鉄していたり謎解きしていたりしたわけじゃない!
「僕は音楽を売ってもらいたかっただけなんです! 誰が公安なんてっ……」
「まだ話は続いている。落ち着いて。座ってよ」
「嫌です!」
「じゃあ勝手に話すけど」
 コーヒーを飲むと、藤野さんはため息をつく。その仕草は少し、ほんの少しだけ偉そうで、どことなくオーラが出ているような感じがするけど、悔しいから気のせいということにする。
「トリプルゼロになるってことは、情報の管制塔になれるってことだ。要するに、売りたいもののデータを発信することもできる」
「えっ、それって……」
「君が売りたい音楽を、私がわざとバズらせて売ることもできるということだよ。それが『サイレントインフルエンサー』と言われた所以だ。ただし、音楽の場合、検閲は入るけどね」
 音楽が売れるのか? だったら迷うことなんてないんじゃないか? トリプルゼロになる。そうすれば音楽を売ることなんてたやすくなる。僕の曲をみんなに聴いてもらえるようになるじゃないか。
「それなら、僕は……」
「待て、君は本当にそれでいいのか?」
「は?」
 僕は眉をしかめた。なんでだ。今までトリプルゼロの二代目にしたがっていたはずの藤野さんが、『本当にそれでいいのか』なんて質問、おかしい。
 怪訝な顔をしていると、藤野さんはまたトランプを持った。
「音楽とは、『音を楽しむ』と書くだろう? 売りたいとか、自分の生きた証にするだとか、私は間違っていると思うな。音を楽しむっていうことは、一瞬一瞬を大事にすることじゃないか?」
 その言葉を聞いた僕は、口をつぐんだ。僕すっかりは忘れていた。一番最初、本当に初めて音に触れたときのあの感覚。パソコンでフレーズを入れてみて、『あ、これいい』と思った瞬間。確かに思った。『音に触れるって楽しいな』と。
 それが今はどうだ。透のことがあったとはいえ、僕は売ることに固執しすぎたんじゃないか? それって本当の『音楽』じゃない。『音が苦』だ。
「ここでトランプを引いて、自分の人生を運に任せるか、それとも自分で道を拓くか。どちらがいい? 話を聞く前の君には覚悟が足りてなかったみたいだったから、強制的に運任せにしようと思ったけど、選ばせてあげよう」
 藤野さんの差し出したカードは、僕の運命を決めるものだ。
トリプルゼロの二代目になって、公安の駒になるか、現状維持で帰らせてもらうか、それとも藤野さんに音楽を『売って』もらうか。
僕は缶をぎゅっと握りしめ、目を閉じた。本当に僕が進みたい道は、このカードの中にないんだ。
まぶたをゆっくり開くと、僕は素直に伝えた。
「カードは引きません」
 すると藤野さんは初めてきれいな笑顔を見せてくれた。
「そうか、君ならそういうと思っていた」
「わかってたなら、最初からカードなんて出す必要なかったんじゃないですか?」
 きくと、藤野さんはからからと笑った。
「私自身の賭けだったんだ。まだ直感が正しい方に向いているかどうか、ね」
 意味はわからない。きっと彼女だけしかわからないことなんだろう。
 僕は缶コーヒーを飲み干すと、玄関まで向かった。藤野さんは追いかけもせず、部屋から出ていく僕に手を振ってくれた。
 きっとこれでよかったんだ。僕は僕の道を行く。予測変換やデータに踊らされない、僕だけの未来へ。

 翌日、バイトの予定が入っていた。朝日がまぶしい中、きらめく空を見て僕は、透のことを思い出していた。
 あいつがいたから、僕は音楽を始めた。すべてのきっかけは、あいつだった。今はもういなくなってしまったけれど、あいつがいたから僕は音楽を続けて来ていたんだ。
 すべてのきっかけは人。僕が音楽を始めた
のも、透という人間がいたから。僕がトリプルゼロを探したのも、ストップ・ザ・キャットというみんなが動画を配信していたから。乗り鉄できるお金ができたのも、父さんと母さんが加納さんを紹介してくれたから。すべては人の縁なのだ。
「おはようございます!」
「よう、久々の出勤、ご苦労だな」
 加納さんは冬なのに、水出しコーヒーの準備をしていた。この店のうりは『冬でもうまい水出しコーヒー』なのだ。
「休んでしまってすみませんでした」
「いいよ。で、見つかったのか? サイレントインフルエンサーとかいうのは」
 その問いかけに僕は一瞬止まったが、笑顔で返した。
「ええ、見つかりましたよ。お向かいさんでした」
「は? なんだそりゃ」
 バックヤードに入って、リュックサック
を置くと、エプロンをつける。それと、昨日作ってきたポスターも。
「加納さん、これ貼ってもいいですか?」
「なんだなんだ。『バンドメンバー募集』? って、お前、楽器は……」
「はい、弾けません」
 笑って返すと、加納さんはガチャッとカップを落としそうになる。
「楽器が弾けないのに、バンドメンバー募集って、何をする気だ?」
「曲の提供ですよ。ここの喫茶店のポスターだけじゃなくって、SNSでも昨日から募集をかけてるんです」
 そうだ。僕が藤野さんの部屋を出て、まずやったこと。
『【To the world】Let's play the band with my songs! #DTM #LIFE IS MUSIC』
 世界へのメッセージ。僕がひとりでできることは限られている。音楽を作ること。でも、ひとりじゃ音楽は楽しめないんだ。だから仲間を作りたい。それも日本だけじゃなく、世界で。
 でも、ひとつだけ藤野さんに聞き忘れたことがある。まぁ、お向かいだから聞こうと思えばいつでも聞けるんだろうけど……。やっぱり公安だと知ると、何となく怖い。
「ねぇ、加納さん。『カー』ってなんだか知ってます?」
「カラスか?」
「いや、そのカーじゃなくて」
 僕がそう返答すると、加納さんはにやりと笑った。
「違ぇよ。鳴き声の『カー』じゃなくて、ドイツ語の『K』。アーベーツェーデーの『カー』だ」
「ドイツ語? それってどういう意味なんですか?」
 興味津々でたずねると、またカップを拭きながら加納さんは答えた。
「昔の人は公安のことを『カー』って呼ぶんだよ。知らなかっただろ」
 僕はその答えに失笑した。なんだ、最初から答えを教えてもらっていたのか。熱海のおじさんにも、新潟のおじちゃんにも。大人の言葉に耳を傾けなかったのが悪かったのか? いや、その謎を解こうとしても、スマホの検索画面には出てこなかっただろう。
 もっと人と会いたい。つながりたい。話を聞きたい――。僕は短い旅の中、新しい感情の芽吹きを感じていた。
「お、そろそろ開店の時間だ。看板オープンにしてきてくれるか?」
 加納さんに言われて、外に出る。看板をオープンにすると同時に、僕は自分の心から奏でられる『音』をもっと楽しもうと、そっと誓った。
【了】

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