第4話

文字数 3,776文字

 年が明けて、一月の仕事始めの朝だった。

 洗面所で髯を剃っていた浩一郎(こういちろう)は、私が聞いたことのないような悲鳴を上げた。
 驚いてキッチンから駆けつけると、彼は頬にシェービングクリームをつけたまま洗濯機の前に尻餅をついていた。言葉にならない呻きを漏らしながら、廊下の方を指差している。

「ど、どうしたの?」
「今、鏡に映った! 久美子(くみこ)が! 久美子がいた!」

 私は唖然とした。浩一郎は目を覆って、

「納戸が開いて、出てくるのが見えた……! こっちに向かって歩いてきたんだ!」

 と、喚く。洗面台の鏡には廊下と、その奥の納戸が映っている。扉は閉まったままだった。

 私は洗面所を出て納戸の前に行くと、思い切って扉を開けた。
 当然ながら、何もいなかった。いるはずがなかった。狭い小部屋に不似合いな大型冷凍庫がモーター音を立てているだけだ。

「何もいないわ。見間違いよ」
「本当に見たんだよ! なあ奈江(なえ)……残りは早く処分しよう。今週にでも纏めてゴミに出しちまおう。俺たちを疑ってる奴なんていないよ」
「疑われてないから家捜しされる心配もないでしょ。最後まで万全を期すの」
「あと半年もあんな胸クソ悪いもんと同居なんて耐えられないよ。頼むから」
「そんな弱気だからありもしないものが見えるのよ!」

 ぴしゃりと言い返すと、浩一郎はそれ以上反論してこなかった。この件に関しては完全に私がイニシアチブを握っている。

「ママぁ……」

 小さな足音とともに、パジャマ姿の(まもる)が階段を下りてきた。幼稚園はまだ冬休み中だが、階下で騒いでいたので目が覚めたらしい。手にはお気に入りの合体ロボを握り締めていた。

「もう起きちゃったの? ご飯食べる?」
「うん」
「よし、じゃ着替えしよっか。こっちストーブがあったかいわよ」

 私は衛をリビングの方へ連れて行きながら、浩一郎を振り返った。彼はまだ納戸を気にしている。

「しっかりして、浩一郎さん。あなたには家族がいるんだからね」
「あ、ああ……」

 気弱な返事が不安だった。

 案の定、浩一郎はその後も度々久美子を見るようになった。
 ある時は食事中にダイニングテーブルの下にしゃがみ込んでいると言い、ある時はクローゼットを開けたら逆さまにぶら下がっていたと怯え、帰宅したらいきなり玄関に突っ立っていたとさえ訴えた。いつも血塗れで真っ黒い目を見開き、赤い唇でへらへら笑っているのだと言う。

 私にはそんなものまったく見えなかった。気配すら感じなかった。
 まったく、死んでいてさえ嫌な女だ。浩一郎にだけ付き纏い、罪悪感と恐怖心を煽って、彼の心を自分に向けようとしている。そんな卑怯な女に、私の夫を衛の父親を、奪われてなるものかと思った。

 私はひたすら浩一郎に幻覚だ気の迷いだと言い聞かせ、久美子を廃棄し続けた。まるで自分の体内から老廃物を排泄するように。
 冷凍庫の中身が全部なくなってしまったら、きっと浩一郎も安心して、彼女が付け入る隙はなくなるだろう。

 そうして今年の七月。

「じゃあね久美子、せいせいするわ」

 最後の一袋の中身は、長い時間に冷凍焼けして赤黒く変色していた。私は生ゴミの入った黒いポリ袋にそれを突っ込んだ。
 梅雨明けと同時に、ついに久美子の身体は我が家からなくなった。これでもうあの女の幻は現れない――はずだった。




「楽になりたい……このままじゃおかしくなっちまう……」

 ベッドに横たわった浩一郎は、私を抱き締めて震えていた。

 久美子の身体は片づいて完全に証拠がなくなったというのに、浩一郎の様子は変わらなかった。以前と同じく、いやもっと高い頻度で、久美子に遭遇する。彼女は姿を見せるだけでなく、身体にのしかかったり首を絞めたり危害を加えようとするらしい。
 今夜は、バラバラになった久美子の身体が天井から落下してきたと言う。もちろん私には見えなかったが、浩一郎の憔悴ははっきりと分かった。ここ最近げっそりとやつれてしまったし、仕事にも身が入らないようだ。

 もうこの人は限界だな、と感じた。
 
「俺は自首するよ……自首する」

 私の諦めに呼応するように、浩一郎は呟いた。

「自首すれば楽になれるの?」
「少なくとも今よりはましだ。きちんと罪を償えば、久美子も許してくれるかもしれない」
「そう……でもそしたら衛はどうなるの?」

 浩一郎の身が強張った。私は彼の頭を撫でてやる。

「あなたが逮捕されれば、私だって共犯で捕まるわ。衛は両親を失って、殺人犯の家族として一生後ろ指を指されるのよ。あなたの身勝手の犠牲になれというの? 自分さえ救われればいいの? 浩一郎さん」
「俺に……どうしろと……」
「自分で考えて。何をすべきか――父親として」

 私は浩一郎の腕を振り解いて、背を向けた。タオルケットに(くる)まって目を閉じると、彼の呼吸が聞こえてくる。荒く浅く跳ねていた息は徐々に静まり、やがて小波のように穏やかな音に変わった。
 彼の選択は、予想できた。




 ちりん――ガラスの音が私を現実に引き戻す。

 喜々としておかわりのハンバーグを咀嚼する浩一郎を、私は凝視した。何の屈託もないその姿に、得も言われぬ違和感を覚えた。胸を満たしていた穏やかな幸福感が霧消して、いきなり心がざわついた。
 あの日以来、浩一郎は肉が食べられなくなった。生肉を見たり肉汁の匂いを嗅ぐだけで吐き気を催していたはずだ。

「何? どうしたの、変な顔して」

 浩一郎は脂のついた唇を舐めながら、私を見返した。隣に座った衛は、覚束ない箸使いでポテトサラダを口に運んでいる。

 私の夫は昔からこんな顔をしていたか?
 それに、ああ、そうだ――。
 私は思い出した。

 自首すると言った翌日、彼は朝食を摂って髯を剃ってネクタイを締めて、出勤した。いつも通りに。
 そして、駅のホームから、通過する通勤快速に飛び込んだのだ。
 彼の身体は跳ね飛ばされず、列車の下に巻き込まれて、久美子よりももっと細かく刻まれてしまった。

 自殺による免責期間を過ぎていたため、五千万円の生命保険は問題なく下りた。住宅ローンの方も別に保険に入っていて、以降の支払いは免除された。遺族年金は貰えたし、会社から少なくない額の死亡一時金も受け取った。
 当面の生活費には不自由しないけれど、衛のために私も働かないといけない――そう前向きに決心して。

 思い出した。浩一郎はもういない。だったら、この人は誰なんだろう。

 ちりん――音と一緒に流れてくる風は妙に冷たい。見えない所で赤い蝶がひらひらと舞う。ガラスの凸面から逃げ出して、私の頭の中を巡る。

「え、ほんとにどうしたの? ぼんやりして……具合でも悪い?」

 茶碗を置いて心配そうに身を乗り出すその人を、私は確かに知っていた。浩一郎ではない。でも誰だったか、喉のところまで答えが出かかってるのに。

「あ……ええとね、ええと……」

 誰なのと訊くのが物凄く恐ろしかった。この人が浩一郎でも、そうでなくても、訊いてしまえば何かが壊れそうだった。

 彼はますます怪訝そうに顔を曇らせる。空気を感じ取ったのか、衛はしきりと私たちの顔を見比べた。その拍子に、小さな手から箸が落ちた。
 テーブルの下に転がった箸を、私は拾おうとした。しかし私の手が届く前に、傍らからもう一本の手が伸びてきてそれを摘んだ。

 身を屈めた私の至近距離に、若い女の顔があった。

 短く吸い込んだ息が、ひっ、と変な声に変わる。
 弾かれたように身を起こすと、女もゆっくりと背を伸ばした。何食わぬ様子で、私の隣の椅子に腰掛けているではないか。

 薄い笑みを貼り付けているのは、久美子だった。

 彼女はまるでそこが自分の居場所だと言わんばかりに座っている。図々しく夕食のテーブルを囲んで、家族の一員気取りだ。
 背筋を氷の塊が滑り落ちてゆく。恐怖ではなく、嫌悪のために。
 消えろ消えろ――私の家に、家族に入って来るな。

 久美子は私から目を逸らして、衛に向かって何やら言った。衛は拗ねたように唇を尖らせる。浩一郎が笑いながら口を挟んだ。あれほど怯えていたはずなのに。

 私は混乱する。
 駄目だ、その女はこの世のものではない。私が細切れにして、とうにゴミに出してしまった。近寄っては駄目だ。それは悪いものだ。奪われる。また私の大事なものを奪われる。

 頭の中で煮え立つ焦りと怒りはどうしても口から出てこなかった。
 代わりに赤い蝶が飛び回り、ガラスの音が激しく鳴り響いた。嵐の中に放り出されたように、彼らの会話は聞き取れず、風の唸りと連続する風鈴の音に掻き消された。

 久美子が私を見て何か言った。死に顔と同じ、奇妙に歪んだ笑みを浮かべている。私を見下した顔。不快で吐き気がする。どうしてあんたは平然と私の家庭に入って来ているの。

 それとも――ふいに不安になった。私が間違っているのだろうか。
 本当の久美子は生きていて、とっくに私のすべてを乗っ取っている。殺されて刻まれて棄てられたのは私の方。私は幽霊になって、幸せな日常の続きを夢に見ているだけなのだろうか。

 何が現実でどこからが妄想なのか、分からなくなった。ただ不安だけが膨らんで、風鈴の音は鳴り止まない。ちりんちりんちりん――私は耳を押さえて窓の方を見る。
 カーテンに覆われた窓枠に、風鈴など吊るされてはいなかった。

 私の意識はぼうと煙って、白い靄に包まれた。
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