第2話
文字数 2,833文字
「絶対に奈江 を幸せにする。生活のことで苦労はさせないから、俺のために家庭を守ってくれ」
これが、梶原 浩一郎 が私に言ってくれたプロポーズの言葉だった。
同じ職場の先輩だった浩一郎は、同期の中でも出世頭で、二十代半ばですでに係長の役職に就いていた。容姿こそ平均的だったが言動がきびきびしていて、見栄えのする社交的な男性だった。
彼を狙っていた女性社員は多かったので、交際が始まった時、私は夢でも見ているのかと疑ったくらいだ。地味で引っ込み思案で不器用な私は、とても彼の気を引けるような女ではなかったのだから。
「奈江は控え目で繊細なんだよ。君がいつも細かい仕事をフォローしてくれてるの、俺知ってるから。男を押しのけて前に出る女より、俺は奈江みたいなタイプが好きなんだ」
最初のデートの時、浩一郎が照れながらそんなセリフを言うので、私も赤くなって俯いたのを覚えている。八月の花火大会だった。
むせ返る人いきれの中、不慣れな浴衣を着た私を気遣って、彼はずっと手を繋いでいてくれた。夜空に開く大輪を見るために足を止めたのが、たまたま江戸風鈴の屋台の前だった。どん、という爆音が響く度、繊細なガラスは対照的に涼やかな音を立てる。色とりどりの絵付きガラスは、花火の光を受けて虹色に艶めいていた。
好きなのひとつ選んで――花火が終わって人が流れ出してから、浩一郎は私に笑いかけた。初めてのプレゼントがこんなんで悪いけど、今日の記念に。
私が選んだのは赤い蝶の絵が入った風鈴だった。花や金魚の絵柄はよく見るが、蝶の模様は珍しかった。
彼と結婚して家庭に入ってからも、私は毎夏その風鈴を吊るしている。
最初は二人で引っ越した賃貸マンションに。長男の衛 が生まれ、数年後には新築の一戸建てに。
浩一郎は約束を守ってますます仕事に精を出し、三十前にして課長に昇進した。この年で建て売りとはいえ都内に一戸建てを買えたのは同期の中で彼ひとりである。妻としては誇らしかった。
浩一郎は思う存分外で働き、私は彼のために家庭を守る。古風かもしれないが、私たちはそれぞれの役割に満足していた。
「奈江は賢い選択をしたと思うわ」
電話で話す度に、久美子 はそんなふうに言った。そこには言葉通りの称賛と、羨望と、もうひとつ別の感情が隠されていた。
「ギスギスした会社で争うより、素敵なキッチンで旦那様のために料理をしてる方が、絶対に奈江に合ってるもの」
「主婦だって忙しいのよ。幼稚園の行事やら自治会の仕事やら……」
「暇だなんて言ってないわよ。向き不向きの話よ。私なんて三歩下がって男を立てるなんて無理。こんなだから三十路も近いのに結婚できないのよねえ!」
若い子からはすっかりお局様扱いよと、受話器の向こうで久美子の豪快な笑い声が聞こえる。同じ職場で仕事をしていた時は頼もしく思えたその明るさが、今では神経に触った。
仕事一筋の自分の境遇を自嘲したって、彼女の本心は違うと分かっている。彼女は自らの生き方を誇っているはずだ。
真島 久美子は私とは対照的な人生を選んだ友人だった。
同部署に配属されたのがきっかけで親しくなった同期入社である。一般事務で採用されたにもかかわらず、私とは正反対に貪欲に仕事に食らいついていくタイプで、その積極性に釣り合う有能さを持っていた。女性社員だけに課せられたお茶くみの当番を巡って、課長に猛抗議していたのを覚えている。私が結婚退職した後、総合職に昇格した彼女は、今や男性社員に交ざってバリバリと仕事をこなしていると聞く。
久美子の努力と負けん気は尊敬に値する。男性優位の企業の中で本当に頑張っていると思うし、多少前のめりな感じもするが、私にとやかく言える資格はない。
でも。
「でもねえ、いくら仕事で認められても家に帰れば独りだもの、寂しいわよ。ああ、奈江が羨ましいわ。時々私も思うのよ。もう猫被っちゃって、稼ぎのいい男捕まえて、一生養ってもらうのも悪くないかなって。気楽にさ」
久美子の言い草は時にひどく無神経である。悪気はない――と信じたい。しかし、『経済的に自立した女』が『養われている女』に向ける潜在的な侮蔑が、私の自尊心をチクチクと刺した。細く鋭い毒針のように。
それに、私は感づいている――久美子は浩一郎に気があった。他の多くの女性社員と同じく、かつて浩一郎を狙っていた。
私が彼と付き合い始めた時、久美子は私を攻撃するどころか応援してくれたけれど、それは彼女のプライドゆえだろう。私みたいなパッとしない女に浩一郎を攫 われて、本心では嫉妬していたに違いない。
サバサバした男っぽい性格を演じているけれど、本当は執念深くて根に持つ性格なのだ。昔のやっかみと悔しさが、私に対する言動に無意識に滲み出ているのだと思う。
「もう切るね、久美子。そろそろ浩一郎さんが帰ってくる頃だから」
「ああ、ごめんね長電話。梶原課長、帰るの遅いのね……今日は残業なかったはずだけど?」
何となく不愉快な含み笑いが耳朶を打った。
「どこかで飲んでるのかもしれないわ。しょっちゅうなのよ」
私は受話器を置いた。
率直に言うともう縁を切ってしまいたい友人である。だがそうしてしまうと、彼女の態度や言葉に傷ついていると認めているようで、どうにも悔しかった。
私は幸せなんだもの、寂しい独身女の嫌味なんて同情して聞き流せるわ――そう考えようとしていた。
窓際で風鈴が揺れている。
夜になってやや涼しくなって、窓を開けていればエアコンなしで十分に凌げた。心地よい微風がちりんちりんと澄んだ音を運んでくる。
私はテーブルに肘をついて、目の前で夕食を食べる浩一郎と衛を眺める。私が汗を掻き掻き焼いたハンバーグを、二人とも美味しそうに頬張ってくれている。
「ほんと美味いなあ。このソースも手作り? 店で食うよりずっと美味いわ」
「僕おかわり! ポテトサラダも食べる!」
「はいはい、ちょっと待ってね」
私は席を立って、衛の皿におかわりのハンバーグを乗せてやった。
夢中で食べている夫と子供の姿に、しみじみと幸せを感じる。一生懸命やっていることをそのまま受け取ってくれる家族がいるから、私は頑張れるのだ。別に感謝の言葉や金銭的な対価が欲しいわけではない。彼らの笑顔と健康こそが私の仕事の成果なのだから。
昼間の出来事は浩一郎には黙っておこうと思った。あの女が――久美子がやって来たこと。私にも姿を見せたこと。
衛の前では平静を装い、何事もないように食事をしていても、浩一郎は消耗している。これ以上追い詰めたくなかった。
もちろんすべての原因は浩一郎にある。でも私は彼を責める気にはならなかった。彼は私の夫で、衛の父親だ。家族の幸せのために、私たちは協力しなければならない。
また久美子がやってきたら、今度は私が息の根を止めてやる。また同じ姿にしてやる――。
ちりんと風鈴が音を立てる。赤い蝶は凸面の世界から決して出てこない。
これが、
同じ職場の先輩だった浩一郎は、同期の中でも出世頭で、二十代半ばですでに係長の役職に就いていた。容姿こそ平均的だったが言動がきびきびしていて、見栄えのする社交的な男性だった。
彼を狙っていた女性社員は多かったので、交際が始まった時、私は夢でも見ているのかと疑ったくらいだ。地味で引っ込み思案で不器用な私は、とても彼の気を引けるような女ではなかったのだから。
「奈江は控え目で繊細なんだよ。君がいつも細かい仕事をフォローしてくれてるの、俺知ってるから。男を押しのけて前に出る女より、俺は奈江みたいなタイプが好きなんだ」
最初のデートの時、浩一郎が照れながらそんなセリフを言うので、私も赤くなって俯いたのを覚えている。八月の花火大会だった。
むせ返る人いきれの中、不慣れな浴衣を着た私を気遣って、彼はずっと手を繋いでいてくれた。夜空に開く大輪を見るために足を止めたのが、たまたま江戸風鈴の屋台の前だった。どん、という爆音が響く度、繊細なガラスは対照的に涼やかな音を立てる。色とりどりの絵付きガラスは、花火の光を受けて虹色に艶めいていた。
好きなのひとつ選んで――花火が終わって人が流れ出してから、浩一郎は私に笑いかけた。初めてのプレゼントがこんなんで悪いけど、今日の記念に。
私が選んだのは赤い蝶の絵が入った風鈴だった。花や金魚の絵柄はよく見るが、蝶の模様は珍しかった。
彼と結婚して家庭に入ってからも、私は毎夏その風鈴を吊るしている。
最初は二人で引っ越した賃貸マンションに。長男の
浩一郎は約束を守ってますます仕事に精を出し、三十前にして課長に昇進した。この年で建て売りとはいえ都内に一戸建てを買えたのは同期の中で彼ひとりである。妻としては誇らしかった。
浩一郎は思う存分外で働き、私は彼のために家庭を守る。古風かもしれないが、私たちはそれぞれの役割に満足していた。
「奈江は賢い選択をしたと思うわ」
電話で話す度に、
「ギスギスした会社で争うより、素敵なキッチンで旦那様のために料理をしてる方が、絶対に奈江に合ってるもの」
「主婦だって忙しいのよ。幼稚園の行事やら自治会の仕事やら……」
「暇だなんて言ってないわよ。向き不向きの話よ。私なんて三歩下がって男を立てるなんて無理。こんなだから三十路も近いのに結婚できないのよねえ!」
若い子からはすっかりお局様扱いよと、受話器の向こうで久美子の豪快な笑い声が聞こえる。同じ職場で仕事をしていた時は頼もしく思えたその明るさが、今では神経に触った。
仕事一筋の自分の境遇を自嘲したって、彼女の本心は違うと分かっている。彼女は自らの生き方を誇っているはずだ。
同部署に配属されたのがきっかけで親しくなった同期入社である。一般事務で採用されたにもかかわらず、私とは正反対に貪欲に仕事に食らいついていくタイプで、その積極性に釣り合う有能さを持っていた。女性社員だけに課せられたお茶くみの当番を巡って、課長に猛抗議していたのを覚えている。私が結婚退職した後、総合職に昇格した彼女は、今や男性社員に交ざってバリバリと仕事をこなしていると聞く。
久美子の努力と負けん気は尊敬に値する。男性優位の企業の中で本当に頑張っていると思うし、多少前のめりな感じもするが、私にとやかく言える資格はない。
でも。
「でもねえ、いくら仕事で認められても家に帰れば独りだもの、寂しいわよ。ああ、奈江が羨ましいわ。時々私も思うのよ。もう猫被っちゃって、稼ぎのいい男捕まえて、一生養ってもらうのも悪くないかなって。気楽にさ」
久美子の言い草は時にひどく無神経である。悪気はない――と信じたい。しかし、『経済的に自立した女』が『養われている女』に向ける潜在的な侮蔑が、私の自尊心をチクチクと刺した。細く鋭い毒針のように。
それに、私は感づいている――久美子は浩一郎に気があった。他の多くの女性社員と同じく、かつて浩一郎を狙っていた。
私が彼と付き合い始めた時、久美子は私を攻撃するどころか応援してくれたけれど、それは彼女のプライドゆえだろう。私みたいなパッとしない女に浩一郎を
サバサバした男っぽい性格を演じているけれど、本当は執念深くて根に持つ性格なのだ。昔のやっかみと悔しさが、私に対する言動に無意識に滲み出ているのだと思う。
「もう切るね、久美子。そろそろ浩一郎さんが帰ってくる頃だから」
「ああ、ごめんね長電話。梶原課長、帰るの遅いのね……今日は残業なかったはずだけど?」
何となく不愉快な含み笑いが耳朶を打った。
「どこかで飲んでるのかもしれないわ。しょっちゅうなのよ」
私は受話器を置いた。
率直に言うともう縁を切ってしまいたい友人である。だがそうしてしまうと、彼女の態度や言葉に傷ついていると認めているようで、どうにも悔しかった。
私は幸せなんだもの、寂しい独身女の嫌味なんて同情して聞き流せるわ――そう考えようとしていた。
窓際で風鈴が揺れている。
夜になってやや涼しくなって、窓を開けていればエアコンなしで十分に凌げた。心地よい微風がちりんちりんと澄んだ音を運んでくる。
私はテーブルに肘をついて、目の前で夕食を食べる浩一郎と衛を眺める。私が汗を掻き掻き焼いたハンバーグを、二人とも美味しそうに頬張ってくれている。
「ほんと美味いなあ。このソースも手作り? 店で食うよりずっと美味いわ」
「僕おかわり! ポテトサラダも食べる!」
「はいはい、ちょっと待ってね」
私は席を立って、衛の皿におかわりのハンバーグを乗せてやった。
夢中で食べている夫と子供の姿に、しみじみと幸せを感じる。一生懸命やっていることをそのまま受け取ってくれる家族がいるから、私は頑張れるのだ。別に感謝の言葉や金銭的な対価が欲しいわけではない。彼らの笑顔と健康こそが私の仕事の成果なのだから。
昼間の出来事は浩一郎には黙っておこうと思った。あの女が――久美子がやって来たこと。私にも姿を見せたこと。
衛の前では平静を装い、何事もないように食事をしていても、浩一郎は消耗している。これ以上追い詰めたくなかった。
もちろんすべての原因は浩一郎にある。でも私は彼を責める気にはならなかった。彼は私の夫で、衛の父親だ。家族の幸せのために、私たちは協力しなければならない。
また久美子がやってきたら、今度は私が息の根を止めてやる。また同じ姿にしてやる――。
ちりんと風鈴が音を立てる。赤い蝶は凸面の世界から決して出てこない。