ゼラチン・シルバー・ロスト・ラブ

文字数 2,000文字

カーテンがスカートのように、ふわり、と広がった。
アルバムの一枚一枚の写真には、私のうつくしくない瞬間が映っている。春の陽光がそれらを輝かせるが、私は自室でぼんやりしていた。

一冊のアルバムが引越しのネックだった。4年間を過ごした地方のアパート。春から社会人になり、郷里に戻るから荷物はできるだけ減らしたかった。だけどそのアルバムは、持っていきたかった。
青春の思い出、なんて感傷的なものじゃないよ。
ほんとうは、捨てたってよかった。だって、アルバムの中の写真の私は、いつもうまく映っていなかったから。

「ほんっと、下手だなあ。」
「厳しいね、ヨウコさん。」

彼とは地方の大学の、同じ美術史学科だった。
男子の少ない学科、彼はその中でも、男子につるまずいつも一人だった。

大学一年の夏休み明け、ある講義の日、講義が始まるまで私は、好きな写真家の文庫の写真集を読んでいた。すると彼が話しかけてきた。
「写真、好きなんですか?」
ゼラチン・シルバー・プリントの写真集。モノクロで、古い戦前の写真だった。質感や色の深みがお気に入りだった。
「僕も、写真を撮るんですよ。」
「へえ?」
高画質なデジタルプリントに溢れたこの現代に、彼は珍しくフィルムカメラで撮影しているという。
いつしか、彼は私を被写体に練習するようになった。
「来週はあの庭園に行きましょう」
「今度はあのお寺に。紅葉が綺麗です」
「霧の森の中で撮ってみましょう」
気恥ずかしさもあったし、彼とそれほど仲が良かったわけでもない。彼にカメラを向けられても、私は笑うでもなく、はにかむでもなく、憮然とカメラを見つめていた。どんな表情をしたらいいかわからなかった。

彼は私にはよくわからない、貴重で重厚なフィルムカメラを持っていたのに、写真を撮るのが下手な気がした。チェーンの写真店のバイト代で買ったという、大きく黒いカメラ。
だけどいつも言っていた。
「ヨウコさんが被写体になると、どんな写真もユートピアになる気がする」
と。
「ユートピア?どこが?変なの!」
私はディストピアみたいな表情だったのに。

暗室で彼は何を思っていたのだろうか。徐々に現れる、私の曖昧な表情を見ながら。
彼は言っていた。
「写真って楽しい。いつまでもヨウコさんを撮れたら嬉しいな。」
「ロマンチストだね、私なんて撮ってどうするの。」
それに、写真下手なのにさ。

大学二年になる前の、春のことだった。徐々に暖かくなり、周りが新学年になるのを嬉しくもだるく感じ始めていた頃。
「ねえ、シラバス見た?何履修する感じ?」
大学近くのファストフード店で、私が適当に話すと、この世の終わり、みたいな表情で彼はつぶやいた。
「…僕、大学辞めるんです。」
私はシェイクを飲んでいたストローを吹いた。
「…なんで?」
「本気でカメラマンになりたくて。…写真の専門学校に入り直します。親にはずっと反対されてたけど諦めきれなくて。バイト代も少しは貯まったし」
「…なれると思ってるの?険しい道だよ、プロはきっと」
「挑戦してみたいんです。ヨウコさんを撮りながら、やっぱり写真、フィルム好きだなって。…本当はゼラチン・シルバー・プリント、撮りたいんです。今は少ないあの写真を絶やしたくないんです、あのうつくしさを」
「…そっか」
「あの、お金にも、仕事にもならないかもしれないけど。ヨウコさんには本当にお世話になりました。専門学校に…上京したら会えなくなるけど…よかったら、あの」
彼は、一冊の分厚いアルバムを渡してきた。
「これいままで撮った、ヨウコさんの写真です。下手だけどよかったら」
「…ありがと」
それからはあまり覚えていない。私はショックで、でも何も彼に言えなかった。
自分の感情がわからなかった。
なんて言語化したら良いか。
彼の門出を祝うでもなく、怒るでもなく、縋るでもなく。ただただ、ショックだった。

彼の連絡先はその時消してしまった。その後スマホを機種変して、番号も変えてしまった。いま思えば、なんてことをしてしまったんだろう。
今、彼はどんな写真を撮るのだろう。

春の風が頬を掠めた。涙がぽろっと落ちた。
私は自分の写真を捲りながら、やっと、自分の気持ちに気がついた。

ー彼は、カメラに映っていない、私の思いには気が付かなかったのかな。あまりに鈍感だよ。
ーいや、誰が?私が?彼が?
ー私、あなたのこと好きだった。自分でもわからなかった。
いつも、私、あなたの前でどう笑ったら良いかわからなくて、写真に写っていたの。
だって、あなたがあまりに楽しそうで、嬉しそうで、恥ずかしかった。
もっと可愛く、はにかんで、映ればよかったのにね。
いつかあなたは上手に、うつくしいゼラチン・シルバー・プリントで、誰かの写真を撮るの?
私以外の?
ーそんなこと、考えたくないよ。

涙はぽたぽた落ちて、あいまいな私の写真たちを、水玉に変えていった。
それでも、アルバムは手放せなかった。
カメラに映らない恋だった。
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