第4話
文字数 2,971文字
少年は、私の後を追いかけるように度々現れた。
アトリエの絵画の後ろ、寝室の扉の横、妻の横にたっている時だってある。それを見る度に私は肩をビクつかせて、悟られぬようにと見て見ぬふりに務めた。
日常だった生活が、どんどんドロドロとした非日常に侵食されて、ついにはこれは私の頭の妄想がみせる悪い夢なんじゃないかとそう考えるようになった私だったが、
頬をつねっても痛みは現実のものとして伴い、紙で手を切れば血だって出た。
だから、悲しいことにこれは夢でもなんでもなく身をもって体験している現実に違わない。
なんでこんなことになってしまったのだと嘆いたりもしてみたが、もしかして少年から何らかの助けを求められているのではないか、と考えを改めるまでには相当の時間を要した。
助けを求められている、ということは助けなければならず、手を貸す手間を少年に費やさねばならなかった。
あくせく働いていた頃とは違い、暇も、趣味の時間も、妻との時間も充分取れてそれなりに充実した日々を送っていた私の生活に、少年という異物がめり込んでくるようで……それは恐ろしいもののように感じた。
そんな私の重い腰をあげようと思い立ったのはミオ君がアトリエの教室を休むようになったからだった。
体調不良、と親御さんは言っていたけれど、夏休み中、どうやら外にもあまり出ていないという。
夏休みは小学校のプールが解放され、補習の子たちはもちろん一般生徒もそこで水遊びができるようになっているらしく、ミオ君はそれにだけ参加しているらしいのだった。
プールか、と私は妙な引っ掛かりをおぼえた。子供なのだから、暑いさなかプールに入りたい気持ちは分かる。私だって数十年も昔は、夏休みになると川や海やプールで、肌が真っ黒になるまで遊んでいた。
親御さんがプールにだけは参加する、と言っていたその続きに私は違和感を覚えたのだった。
親御さん曰く、ミオ君は泳ぐでもなく友達とはしゃぐでもなく、ただじっと潜ってみたり、不意に何かを探すように水中を彷徨うのだと監視員の先生から報告があったらしいのだ。
「最近うちの子の様子が変で……」
と教室の月謝を渡しに来た親御さんは首を傾げていた。誰でもいいから聞いて欲しかったんだと私は思った。
こういう深刻な問題ほど、全くの無関係な人の方が話しやすかったりする。
私だって妻に水槽で子供が死んでいるのを見た、なんて話せなかった。悩みを妻に相談することはもう当たり前のようになっているけれど、それだけは喉につっかえて言えなかった。
だから、私はその親御さんの話をただの絵の先生というだけの、近所のおじさんの立場でその話を聞いた。
しかし、私が本当に無関係なら「子供は時々不思議な行動を取ることもありますからね」なんてあっけらかんと当たり障りないことを言ってしまえたかもしれないが、
脳裏で魚の少年が跳ねるようにして溺れて死んでいくのがよぎったせいで、不自然な相槌をうつはめになった。
良くないことが起ころうとしているのは、嫌でも分かった。
それは三又の分かれ道、駄菓子屋を通り過ぎた夕方、画材を買いに行った帰りだった。残暑は長く、涼しくなる気配のない8月後半。
陽炎でアスファルトが揺らめき、痛いほど夕日を反射させているカーブミラー近く、私の前方にミオ君が裸足で立ち尽くしているのが見えた。
彼は半袖半パン、細くて青白い手足がそこから伸びて、例えるなら棺桶から起き上がってきた死人のような目つきで私の前にぬっと現れた。
ミオ君本人であることは間違いなさそうだが、アトリエで絵を描いていたミオ君とは、人相が全く違って見えた。
なにより血色のない唇はあの魚の少年を彷彿とさせ、これは異常事態以外の何物でもないと悟った。
全ては櫓の上の水槽で溺れていた子供を魚と見紛ったのが、はじまりだった。
あんな残酷なものがこの町の風習だなんて、何十年も住んでいるのに聞いたことがない。私は長年そう言い聞かせてきた。
……そうだ、言い聞かせてきたという事は、言い換えれば知っていたがそれが嫌な夢だと思い込みたい、の裏返しだった。
忌々しくおぞましい。人間、あんな残酷な行いを平然とやってのけることが出来るのだと知ってから、目も耳も口も、感覚全てを閉ざしたい気持ちになった。
私と妻の間に子供がいないことも、その風習のせいなんかじゃない。と思い込むことで、私は何とか生きてこれた。
子供が、あの儀式で……。
いや違うだろう。違う違うそんなことない。
………違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
言い聞かせるように私は髪の毛を掻きむしった。
私には元から子供なんていなかった。そうだろ? そうだよな?
答えなんてかえってくるはずもなかった。
こんなの悪あがきなんだろう、私が悪いのだ、頭のどこかではわかっていたのに気付かないふりをしていた。
妙だとも思ったさ、既視感のある鱗の少年、もとい魚の少年がまるで自分の息子のように感じたのだから。
その少年を前に私は目を見れなかった。
見たくなかった。
逸らしたかった。
忌々しい風習のせいで失ったわが子が、最後に櫓の水槽の内側から力いっぱい拳をぶつけて、もがいて助けを求める姿から、ずっと目を逸らし続けたのだから。
頭の中にはさびた鎖で繋がった魚の姿をした我が子が溺れている。ああ、まただ。また溺れて……死んでしまう。
ふと顔をあげると、陽がとっぷり暮れて薄暗くなってきていた。
街灯もないこの通りでは目を凝らさないと靄がかかったように見通しが悪くなるが、この日ばかりは顔を上げた先でちょうどミオ君がぐったりアスファルトに倒れているのが目に入った。
叩き起されたように我に返った私が、ミオ君に駆け寄ると彼の周りはぐっしょり濡れていた。見ようによっては溺れているところを思いっきり引っ張り上げられたようにもとれる。
咄嗟に息があるか確認しようと口元に顔を寄せた時、ミオ君は水を吐き出してげほげほとむせた。
生きてる。
先程真っ白だった顔色も幾分か良くなっていた。ミオ君はゆっくりと起き上がって今の状況が分からないというふうに首を捻った。
私が隣にいることにそれほど驚いた様子も見せず「あ、そういえば」と彼は思い出したように口を開く。
「覚えててくれたみたいだから、もういいって」
とミオ君はそう言った。が、自分ではどういう意味かわかっていないようだった。
「もういい?」
私は復唱してみる。
「うん。僕が身代わりにならなくて良くなったみたい……」
まだ意識が朦朧としているのか、少し舌っ足らずな口調でミオ君は視線を駄菓子屋のベンチに向けて言った。
私もその視線の先を辿って見たが、そこには何もいない。青く錆びれたベンチがあるだけだった。
子供を生贄にする奇妙な風習。
それは人間社会では許されざる蛮行だが、この小さな小さな町では密かに繰り返される儀式だった。
時折、夢に見る。真っ白いシーツのような美しいヒレを揺蕩わせて、助けを求めるようにもがくあの魚を。
泡を吐き出し、櫓のてっぺんで、いくらもがいても舞のように見えてしまうその子供たちの足元で、私は湿った地面に頭をつけて祈る。
─────豊作を、と。
アトリエの絵画の後ろ、寝室の扉の横、妻の横にたっている時だってある。それを見る度に私は肩をビクつかせて、悟られぬようにと見て見ぬふりに務めた。
日常だった生活が、どんどんドロドロとした非日常に侵食されて、ついにはこれは私の頭の妄想がみせる悪い夢なんじゃないかとそう考えるようになった私だったが、
頬をつねっても痛みは現実のものとして伴い、紙で手を切れば血だって出た。
だから、悲しいことにこれは夢でもなんでもなく身をもって体験している現実に違わない。
なんでこんなことになってしまったのだと嘆いたりもしてみたが、もしかして少年から何らかの助けを求められているのではないか、と考えを改めるまでには相当の時間を要した。
助けを求められている、ということは助けなければならず、手を貸す手間を少年に費やさねばならなかった。
あくせく働いていた頃とは違い、暇も、趣味の時間も、妻との時間も充分取れてそれなりに充実した日々を送っていた私の生活に、少年という異物がめり込んでくるようで……それは恐ろしいもののように感じた。
そんな私の重い腰をあげようと思い立ったのはミオ君がアトリエの教室を休むようになったからだった。
体調不良、と親御さんは言っていたけれど、夏休み中、どうやら外にもあまり出ていないという。
夏休みは小学校のプールが解放され、補習の子たちはもちろん一般生徒もそこで水遊びができるようになっているらしく、ミオ君はそれにだけ参加しているらしいのだった。
プールか、と私は妙な引っ掛かりをおぼえた。子供なのだから、暑いさなかプールに入りたい気持ちは分かる。私だって数十年も昔は、夏休みになると川や海やプールで、肌が真っ黒になるまで遊んでいた。
親御さんがプールにだけは参加する、と言っていたその続きに私は違和感を覚えたのだった。
親御さん曰く、ミオ君は泳ぐでもなく友達とはしゃぐでもなく、ただじっと潜ってみたり、不意に何かを探すように水中を彷徨うのだと監視員の先生から報告があったらしいのだ。
「最近うちの子の様子が変で……」
と教室の月謝を渡しに来た親御さんは首を傾げていた。誰でもいいから聞いて欲しかったんだと私は思った。
こういう深刻な問題ほど、全くの無関係な人の方が話しやすかったりする。
私だって妻に水槽で子供が死んでいるのを見た、なんて話せなかった。悩みを妻に相談することはもう当たり前のようになっているけれど、それだけは喉につっかえて言えなかった。
だから、私はその親御さんの話をただの絵の先生というだけの、近所のおじさんの立場でその話を聞いた。
しかし、私が本当に無関係なら「子供は時々不思議な行動を取ることもありますからね」なんてあっけらかんと当たり障りないことを言ってしまえたかもしれないが、
脳裏で魚の少年が跳ねるようにして溺れて死んでいくのがよぎったせいで、不自然な相槌をうつはめになった。
良くないことが起ころうとしているのは、嫌でも分かった。
それは三又の分かれ道、駄菓子屋を通り過ぎた夕方、画材を買いに行った帰りだった。残暑は長く、涼しくなる気配のない8月後半。
陽炎でアスファルトが揺らめき、痛いほど夕日を反射させているカーブミラー近く、私の前方にミオ君が裸足で立ち尽くしているのが見えた。
彼は半袖半パン、細くて青白い手足がそこから伸びて、例えるなら棺桶から起き上がってきた死人のような目つきで私の前にぬっと現れた。
ミオ君本人であることは間違いなさそうだが、アトリエで絵を描いていたミオ君とは、人相が全く違って見えた。
なにより血色のない唇はあの魚の少年を彷彿とさせ、これは異常事態以外の何物でもないと悟った。
全ては櫓の上の水槽で溺れていた子供を魚と見紛ったのが、はじまりだった。
あんな残酷なものがこの町の風習だなんて、何十年も住んでいるのに聞いたことがない。私は長年そう言い聞かせてきた。
……そうだ、言い聞かせてきたという事は、言い換えれば知っていたがそれが嫌な夢だと思い込みたい、の裏返しだった。
忌々しくおぞましい。人間、あんな残酷な行いを平然とやってのけることが出来るのだと知ってから、目も耳も口も、感覚全てを閉ざしたい気持ちになった。
私と妻の間に子供がいないことも、その風習のせいなんかじゃない。と思い込むことで、私は何とか生きてこれた。
子供が、あの儀式で……。
いや違うだろう。違う違うそんなことない。
………違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
言い聞かせるように私は髪の毛を掻きむしった。
私には元から子供なんていなかった。そうだろ? そうだよな?
答えなんてかえってくるはずもなかった。
こんなの悪あがきなんだろう、私が悪いのだ、頭のどこかではわかっていたのに気付かないふりをしていた。
妙だとも思ったさ、既視感のある鱗の少年、もとい魚の少年がまるで自分の息子のように感じたのだから。
その少年を前に私は目を見れなかった。
見たくなかった。
逸らしたかった。
忌々しい風習のせいで失ったわが子が、最後に櫓の水槽の内側から力いっぱい拳をぶつけて、もがいて助けを求める姿から、ずっと目を逸らし続けたのだから。
頭の中にはさびた鎖で繋がった魚の姿をした我が子が溺れている。ああ、まただ。また溺れて……死んでしまう。
ふと顔をあげると、陽がとっぷり暮れて薄暗くなってきていた。
街灯もないこの通りでは目を凝らさないと靄がかかったように見通しが悪くなるが、この日ばかりは顔を上げた先でちょうどミオ君がぐったりアスファルトに倒れているのが目に入った。
叩き起されたように我に返った私が、ミオ君に駆け寄ると彼の周りはぐっしょり濡れていた。見ようによっては溺れているところを思いっきり引っ張り上げられたようにもとれる。
咄嗟に息があるか確認しようと口元に顔を寄せた時、ミオ君は水を吐き出してげほげほとむせた。
生きてる。
先程真っ白だった顔色も幾分か良くなっていた。ミオ君はゆっくりと起き上がって今の状況が分からないというふうに首を捻った。
私が隣にいることにそれほど驚いた様子も見せず「あ、そういえば」と彼は思い出したように口を開く。
「覚えててくれたみたいだから、もういいって」
とミオ君はそう言った。が、自分ではどういう意味かわかっていないようだった。
「もういい?」
私は復唱してみる。
「うん。僕が身代わりにならなくて良くなったみたい……」
まだ意識が朦朧としているのか、少し舌っ足らずな口調でミオ君は視線を駄菓子屋のベンチに向けて言った。
私もその視線の先を辿って見たが、そこには何もいない。青く錆びれたベンチがあるだけだった。
子供を生贄にする奇妙な風習。
それは人間社会では許されざる蛮行だが、この小さな小さな町では密かに繰り返される儀式だった。
時折、夢に見る。真っ白いシーツのような美しいヒレを揺蕩わせて、助けを求めるようにもがくあの魚を。
泡を吐き出し、櫓のてっぺんで、いくらもがいても舞のように見えてしまうその子供たちの足元で、私は湿った地面に頭をつけて祈る。
─────豊作を、と。