文字数 5,942文字

 駅の事務室で、警察官から事情を聞かれた。
 しかしあまり詳しいことは話さなかった。京介が話したのは、スーツを着ていた二人の男の特徴と、彼らが載って言った黒塗りの車の特徴くらいなものだ。
 女の子は隣に座って、じっとその様子を見つめていた。一言も口を挟むことなく、ただじっと。
 事務室を出て、少し歩いたところで京介は一度立ち止まって、やっと息を吐き出した。ズボンのポケットにはいまだ、千明の携帯電話が入っている。
 結局、わからないことばかりだ。なぜ千明の携帯電話が郵便受けに入っていたのかも、便利屋商会とかいう会社と千明との関係も。
 あの深山という男も、考えてみれば不自然だった。あの雑踏の中で、どうしてあれほどまでにすんなりと京介に声をかけることができたのか。
 そんなことを考えている間も、女の子はずっと隣に立っていた。赤いランドセルを背負った背をぴんと伸ばして立つ姿が、なぜか妙に大人びて感じるのは、柔らかそうな長い髪がさらりと流れているせいか。それとも行き交う人々を見つめるその横顔が、あまりにも子供らしくないせいなのか。
 何となく声をかけづらかったが、このままずっと立っているわけにもいかない。
「えっと、ありがとう。君のおかげで助かったよ」
 ぴくりと小さく頭を揺らして、女の子が顔を上げてくる。
 だが、口を開こうとはしない。
「だけど、どうして助けてくれたの」
 記憶が間違っていない限り、京介に、小学生の知り合いはいない。見上げてくる顔にもやはり、覚えがない。
 そういえば、と。
 京介はふと思い出した。今日は土曜日。小学校は休みのはずだ。それなのに、どうして彼女はランドセルなんか背負っているのか。
「えっと、君、お母さんは?」
 じっと京介を見上げてきたあとで、女の子が小さく首を横に振る。
「じゃあ、一人で来たの?」
 すると女の子はまたじっと見上げてきて、それから再び首を横に振る。
 もしかして、言葉が話せないのだろうか。
 そんな予感がしながらも、このままではさすがに困るとばかりに京介はさらに問いかけていく。
「おうちはどこ? もう外も暗いし、送っていくけど……」
 女の子はまたまたじっと見上げてくるばかりで、何も言わない。さっき、あんなにも大声で叫んでいたのが嘘のようだ。
 一人で来たのではないのなら、彼女を連れてきた人が探しているかもしれない。
 迷子として、警察に連れて行ったほうが早いだろうか。
「ない」
「え?」
 唐突に女の子がしゃべったので、京介はつい聞き返してしまった。
「ないよ、家なんて」
 可愛らしい声で、女の子はあっさりと言う。
「ないって、じゃあ、帰るところは?」
「ない」
 またもや言い切られてしまい、京介は困った。しかし。
「じゃあ、どこからここに来たの?」
「家から」
 最後の一言で、今度は頭を抱えたくなる。
 意味がわからない。
 ここはちょうど、新幹線の乗車券売り場の前。通路の真ん中で立ち話をしている二人のことを、足早に歩く人々が邪魔そうに通り抜けて行く。
 とりあえず隅のほうへ移動しようと女の子に背を向けた、そのとき。
「ねえ、おじさんの家に連れてってよ」
 ぴたりと止まって、京介が振り返る。
「おじさんってもしかして、俺?」
「それ以外にだれかいるの?」
 いや、誰もいないけど。
 しかし京介は、まだ二十一歳になったばかりだ。おじさんなどと呼ばれたことなど、あるはずがない。
「君は、いくつ?」
「十一」
 ということはつまり、十歳離れている。このくらいの子が京介を見れば、相当大人に見えるのかもしれないが、おじさんと呼ばれるのはあまり嬉しいことではない。
「おじさんじゃなくて、できればお兄さんって呼んでほしいんだけど」
「なんで?」
 まるで悪気なく、女の子が問い返してくる。しかし彼女にとって、京介をどう呼ぶかなどどうでもいいことのようだ。
 返事を待つ間もなく、話は別のものへと変わる。
「ねえ、連れてってよ」
「連れてってって、俺の家に?」
「それ以外になんかあるの?」
 女の子は当然のように問い返してくるが、京介としてはそれ以外の選択肢がないことが不思議でたまらない。
 だがその答えはごくあっさりと、女の子の口から語られた。
「だって私、おじさんに会いにきたのに」
「俺に? って……」
 問い返した、直後。
「だめじゃないかみはる。勝手にいなくなっては」
 ぽん、と。
 女の子の肩に大きな手が乗せられた。まるで弾かれたように振り返った彼女をのぞき込んだのは、優しく微笑む男性。
 すると男性の隣にいた女性が、すかさず京介に頭を下げてくる。
「すみません、うちの子がご迷惑をおかけしたみたいで」
「あ、いえ」
 なんだ、ちゃんと両親がいるんじゃないか。
 それもなんだか上品で優しそうな人たちだ。もしかしてあの女の子はお嬢様なのだろうかと、ほっとしながら連れられていく女の子を見つめていた京介は、しかしすぐに、その違和感に気づいてしまう。
 父親に手を引かれながらも、こちらを振り返ってくる女の子。その、何かを必死で訴えようとしているような、不安げな瞳。
「――あのっ」
 京介の声に、女の子の両親らしき男女が振り返ってくる。
「本当に、その子のご両親ですよね」
 すると母親らしき女のほうがふっとばかにしたように笑う。
「何を言っているの、あなた」
 途端、かっと体が熱くなった。
 だがそれを吹き飛ばすほどの勢いで、女の子が叫び声を上げて訴えてくる。
「ちがう! ちがうよおじさん! 信じてっ……!」
「! こいつっ……」
 父親らしき男が、手を振り上げた。それを見た京介はとっさに、体当たりするように男にぶつかっていく。倒れるまではいかなかったが、よろけた男の手が女の子の手から離れた。
 その小さな手を、京介がつかんだ。
 そして、走り出す。
 待て、と叫ぶ声が後ろから追いかけてくる。だが、京介は振り返らなかった。大勢の人が歩く駅構内で、ひときわ大きく響く自分の足音。
 人の行き交う通路を抜けて、外へ出た。そこはさらに人で溢れていたが、足を止めることはしなかった。歩道を照らす街灯、ビルの明かり、きらきら輝くイルミネーション。名古屋の夜は光で溢れていたが、そのどれも京介は目に映すことなく、ただひたすらに走り続ける。
 本当に、さっきの男女が後ろから追いかけてきているのか。
 それさえもわからないままに見つけた階段を駆け下りると、明るい照明に照らされた地下街に出た。それでも走り続けていた京介の足は、地下鉄の改札口を見つけたところでやっと止まる。
 上がった息を整えながら後ろを振り返ると、先ほどの男女らしき人影はなかった。
 ほっとしたその足元で、京介以上に荒い息を繰り返している小さな肩が見える。
「あ、ごめん。その、つい必死で」
 女の子が顔を上げた。そして、まだ息の整いきれていない声で言ってくる。
「それより早く改札に入ったほうがいいよ。あの二人が追ってこないうちに」
「え、あ、そっか……」
 女の子の鋭い指摘に納得して、乗車券売り場へ向おうとした京介の後ろを、彼女は当たり前のようについてくる。
 京介は振り返ってたずねた。
「本当に、うちに来るの?」
「うん」
 きっぱりと、即答してくる。
「うちに来るより、警察に相談したほうがいいと思うけど。一緒に行ってあげようか?」
「いいけど、行ったって意味ないと思うよ。警察なんて」
 そう言いきられてしまうと、それ以上何も言うことができない。
 いつ先ほどの二人に見つかってしまうかもわからないところで、あまり悠長なことはしていられない。迷いながらも、結局二枚の乗車券を買った京介は、一枚を女の子に手渡した。
「お金は?」
「いいよ、気にしなくて」
 京介は改札を入った。もちろん、当然のように女の子もついてくる。
 東山線の黄色い電車に乗り込んだ京介の隣に、女の子が座った。背負っていた赤いランドセルは自分の膝に乗せて抱えている。
 やっと座ることができて、京介はほっと息を吐き出した。なんだか随分と長く、息をしていなかったような気さえしてくる。
 目の前の暗い窓には、座席に座る自分の姿と、赤いランドセルを目立たせている女の子の姿が並んで映っている。このままアパートへ戻ってしまって、本当にいいのだろうか。やはり警察に行ったほうがいいのではと思うが、女の子が素直についてきてくれるとは思えない。
「おじさんってさ」
 ふいに、女の子が言う。
「意外と度胸あるんだね。弱っちそうだなって思ってたのに」
「いや、あのね」
 先ほどから、大人びた子だなとは思っていた。いや、それ以上に、態度が偉そうだといわざるを得ない。それは彼女の精神年齢が高い証拠なのか、それとも単純に、京介が下に見られているのか。
 しかしあまりの言われ放題ぶりに、さすがの京介も口を挟んだ。
「とりあえずそのおじさんっていうの、やめてくれないかな」
「どうして?」
「どうしてって、さっきはお兄ちゃんって呼んでくれてたのに」
「うん、あれは特別」
 言い切られて、会話が途切れた。
 地下鉄が伏見駅について、二人は別の地下鉄に乗り換えた。塩釜口の駅までは、あと二十分くらいだろうか。
 京介は、ちらりと腕の時計を見た。時刻はすでに、八時半になろうとしている。
「ねえ、おじさん」
「お兄ちゃん」
 すかさず、京介が訂正した。
 すると女の子もすかさず言い返してくる。
「だっておじさん、私のお兄ちゃんじゃないし」
 そんなことはわかっているが、そういう問題ではない。
「ねえ、おじさんってば」
「お兄ちゃん」
「おじさん」
「だめ、お兄ちゃん。それか、お兄さん」
 女の子が、不満げに口を尖らせてくる。
 きちんと呼び方を訂正するまで呼びかけに応えるのはやめようと、京介はそう思っていたのだが。
「じゃあ、キョウちゃん」
「キョウちゃん?」
 突然女の子が提示してきた妥協案に、声が裏返ってしまう。キョウちゃん、などと呼ばれたことは、今までに一度だってない。
「まあ、いいけど……」
 そう言いかけたところで、京介はふとあることに気づく。
「君、どうして俺の名前を?」
 すると女の子が、むっとして見上げてくる。
「君じゃないよ、みはるだよ」
「え、ああごめん」
 つい謝ってしまったが、名前を知らなかったのだから仕方がない。
「じゃあ、みはるちゃんは、なんで」
「ちゃんいらない。きもちわるい」
 おい、と思いながらも、京介はしかたなく再び言い直す。しかし相手が十歳も歳の離れた子供とはいえ、初対面の人に呼び捨てというのはどうも言いづらい。
「じゃあ、みはる?」
 控えめに呼びかけた京介の言葉に、みはるはなぜか、少しだけ顔をうつむかせた。その姿がどことなくしゅんとして見えたのは、気のせいだろうか。
「なんで、俺の名前を知ってるの?」
「知ってるに決まってるじゃない。わたし、おじさんに会いにきたんだから」
「いや、だからね」
「あ、ごめんキョウちゃん」
 地下鉄が、塩釜口の駅に近づいていく。
 本当に、このままたどり着いてしまっていいのだろうか。京介はまだ、何一つわかっていないというのに。
「ねえ、俺に会いにきたっていうのは、どういうこと?」
 たずねてみたが、返事はない。
 結局、そのまま地下鉄は塩釜口駅に到着してしまった。電車を降り、改札口を出て長居階段を上がると、やっと見慣れた景色が現れてほっとする。
 だけど隣にはやはり、見知らぬ女の子がいる。
 ここからアパートまでの距離は、五分くらいだ。人通りはそれほど多くないものの、駅の周辺は比較的明るく、目の前の道路も広い。しかしその広い道路を渡って奥へと入っていくと、辺りは途端に暗くなる。
 街灯が照らす住宅街の道を、ぽつり、ぽつりと歩いていく。このままみはるを自分のアパートまで連れて行って、本当にいいのだろうか。誘拐騒ぎみたいなことにならないだろうかと思いながらも、放っていくわけにもいかないし、他にどうすることもできない。
「……ねえ、キョウちゃん」
 ふいに、みはるが呼びかけてくる。
「わたしがさっきの人たちに追われてるって言ったら、助けてくれる?」
 京介は、立ち止まった。
 視線を向けた先で、見上げてくるみはるの目があまりにも真剣で、どうしたらいいのかわからなくなる。
「え、と」
 適当に答えてはいけない空気に、言葉が詰まった。さすがの京介も、何が起こっているのかまるでわかっていない中で、わかった、などと軽々しくは答えられない。
「さっきの人たちっていうのは、その、君の両親ではないんだよね」
 うん、と、みはるが頷く。
 そして、言った。
「売られたの、わたし」
 意味がわからなくて、一瞬、思考が止まる。
「……売られた……」
 茫然と、ただ言葉を繰り返しただけの京介に、みはるがまた、うんと頷く。冬の冷たい空気の中で立ち止まっているせいか、彼女の顔は酷く冷め切っている。
 このままではいけない気がして、京介は歩き出した。アパートまではもう少し。この暗い夜道をあと、百数十メートル。
「信じてない?」
 たずねられて、隣を見下ろした。彼女が背負う赤いランドセルが、見慣れた闇に鮮やかに浮かんでいる。
「なんで、そう思うの」
「だって、わかってるから。こんな話、だれも信じてなんかくれないって」
 すねるでもなく悲しむでもなく、ただ諦めているようにみはるが言う。
 京介は、信じるとは言えなかった。過ごしている現実とあまりにもかけ離れている彼女の言葉を、嘘をついているとは思わなくても、簡単には信じることができない。
「君はどうして、俺に会いにきたの」
 半ば逃げながらも、先ほど答えが返ってこなかった問いをもう一度口にしてみる。
 だがやはり、返事は返ってこない。
 アパートが見えてくると、駅で起こったよくわからないできごと全てがどうでもよくなるくらいに、ほっとした。 早く部屋に入りたい。入ったら一番に寝転んで、そのまま眠ってしまいたい。
「お兄ちゃんが、いるから」
 ぴたりと、京介が立ち止まって彼女を見下ろした。ここはもう、アパートの駐車場。部屋まではもう本当に、あと少し。
「お兄ちゃんがいるから。キョウちゃんの中に」
 京介は、動けなくなってしまった。
 頭の中では、告げられた言葉だけがぐるぐると回っている。
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