③
文字数 7,674文字
これは本当にカレーなのかと、そう思ってしまうほどにできあがったカレーは甘かった。
しかしみはるは、文句一つ言わずに食べていた。どうやら彼女にとってこれは、カレーとして納得のできるものだったらしい。
結局、京介はアパートを出た。市民会館へ行くのをやめることも、みはるを置いていくこともできなかった。二人は塩釜口駅から地下鉄に乗り、金山駅へと向かう。
彼女はランドセルから出したポシェットに、財布だけを入れて肩にかけていた。あのランドセルの中には、一体どれだけのものが入っているのか。まるで、四次元ポケットだ。
「そういえば君って、小学生だよね。学校は?」
地下鉄の中、隣に座っているみはるに、京介はふとそんな疑問を投げかける。
「明日、学校あるんじゃないのか? まだ冬休みじゃないはずだし」
「あるよ。あるけど、わたしの学校遠いから」
「遠いって、どの辺?」
「東京」
「東京っ?」
つい声を上げてしまってから、京介はみはるが自分は売られたのだと話していたことを思い出す。
その話が本当なのかどうかは、わからないけれど。
「……そっか。それじゃあ、行けないよな」
そんな当たり障りのないことを言って、京介は顔を前へ向けた。相変わらず暗い窓だ。映っているのは、色のない壁ばかり。乗りなれているはずなのに、どこか知らない場所へと連れて行かれるような錯覚がして、少し恐い。
金山駅は、複合駅だ。新幹線が通りJR線が通り、名古屋鉄道が通って地下鉄が通る。
帰宅ラッシュの今の時間帯は、人で溢れていた。京介は金山駅から外へ出て、コンピューターから印刷した地図をもとに、市民会館へと向かう。
すでに夜が訪れている、都会の町。通りすがる人はみな、周囲には無関心な顔で足早に歩いていく。
「その、さっき言ってたウエハラっていう人って、便利屋協会の人?」
何気なく、京介がたずねてみる。
みはるは少し間を置いて、うん、と小さく頷いた。
金山駅を下りてすぐの曲がり角を曲がり、大通りに面した歩道を歩いていると、すぐに市民会館が見えてきた。わかりやすいのは助かるが、少し近すぎる。地下鉄を降りてから、十分と歩いていないのではないだろうか。
市民会館前の広場には、多くの人が集まっていた。皆、佐々木要一という人の公演を聞きにきたのだろうか。一瞬はそう思ったが、さすがに全員が同じ目的ではないだろう。これだけ大きな建物なのだから、他にも催し物が行われているはずだ。
広場まで来たところで、京介は足を止めてしまった。
――十九時半より金山の市民会館で行われるササキグループ社長佐々木要一の講演会にて、彼の人物を暗殺。
目の前にそびえる市民会館を見上げる。スポットライトのような光に照らされ、夜の空に浮かんでいるその姿に、迫力さえも感じさせられる。
「行かないの?」
つい、びくりとしてしまった。
顔を向けた京介を、みはるがまだあどけなさの残る顔で見上げてくる。
「大丈夫だよ。わたし、ちゃんとあの人たちの顔わかるから」
その記憶力が心強いことは確かだ。しかし彼女は、あの男女を見つけ出したところでどうするつもりなのか。そこまで考えているのだろうかと、疑いたくなってしまう。
時刻は、十九時十六分。市民会館前に貼られているポスターによると、あと十四分ほどで開場。開演は、そのさらに十五分後。
「行こう、キョウちゃん。早く行かないと、時間なくなっちゃうよ」
まるで何も考えていないかのように、みはるがせかしてくる。京介自身も焦っているはずなのに、どうしても足が動かない。
行って、自分はどうするつもりなのだろう。暗殺を止めるつもりなのか。どうやって。
「京介?」
はっとして京介が振り返った。
よく見知った顔が、親しげな笑みを浮かべて片手を挙げている。
伯父の、白石秋人だ。白いシャツに黒いジャケット、普段より畏まった服装が、自由で身軽な普段の彼を少しだけ閉じ込めている。
「何やってるんだ、こんなところで」
「え、えっと、おじさんこそ」
「俺か? 俺はこの講演を聞きに来たんだよ。ほら」
秋人がぴらりと見せたのは、佐々木要一の講演会のチケットだ。
チケットがなければ入れない。
考えてみれば当たり前のことに、京介は全く気がつかなかった。しかしそれよりももっと驚いたことがあった。
「おじさんが講演を? ほんとに?」
「何で疑うんだ。チケットまで見せたっていうのに」
「だってこれ、日本の経済と経営戦略についてって書いてあるよ。おじさんがそんなのに興味があるとは全く思えないんだけど」
「あのな。俺だって一応社長なんだぞ、小さいけど」
「社長っていうか、店長でしょ」
秋人は、名古屋市栄町で小さな商店を営んでいる。だが、本当に利益が生まれるほどに客が来ているのかどうかは、京介の幼い頃からの大きな疑問だ。
「で、お前は何してるんだ、そんな女の子連れて。迷子? に、なるほど小さくは見えないが」
そういえば。
今の一瞬、みはるのことをすっかり忘れていた。
彼女のことをどう説明すればいいのか。小学生の女の子と一緒にいる理由なんて、中途半端なものでは納得してもらえそうにない。
悩む京介の横で、みはるが秋人に向かって丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、みはるです」
「みはる?」
「あ、いやその」
いきなり自己紹介をしたみはると秋人の間に、京介が慌てて割って入る。
「お、おじさん、その俺、何から話していいのかわからないんだけど」
秋人が軽く首を傾けてくる。
だが今は、悠長に話をしている場合ではない。
「その佐々木要一って人、狙われてるみたいなんだ。なんていうか、命を狙われているって、そう聞いて」
あまりにも突拍子もない話だ。話している京介自身がそう思うのだから、秋人にしてみれば冗談としか思えないだろう。
しかし秋人の反応は、想像とは違っていた。驚いている、とはいっても、佐々木要一という人が命を狙われているという内容に驚いているのとは、明らかに違う、このどこか不自然な反応。
「お前、どこで聞いたんだ、それ」
「それは、その」
たずねられて、京介は再び返答に悩んだ。佐々木要一の講演が始まるまで、もう二十分もない。はじめから全てを話すには、時間がなさすぎる。
黙りこんでしまった京介の肩に、ぽんと、秋人が手を乗せた。
「わかったわかった。それについては心配しなくても大丈夫だ、俺が何とかする」
「何とかするって……」
「その代わり」
ちらりと、秋人がみはるを見る。
「あとでちゃんと説明するように」
言われて京介はつい、うっ、と言葉を詰まらせる。
だがきっと、どうせどこかでは話さなければならないことだ。
もう少しで、開場の時間だ。人気がなくなりはじめた広場で、秋人が市民会館を振り返る。
「俺は今から会場へ入るけど、お前は、そうだな。今が二十五分くらいだから」
「って、本当に信じてくれてるのか? こんな冗談みたいな話」
「冗談なのか?」
秋人が京介に向き直って、たずねてくる。
「冗談じゃない、けど」
本当だと、そう言い切れないのも事実だ。京介自身も、半信半疑のままでここまでやって来た。その上着の左ポケットには、あの男の携帯電話。右ポケットには、千明の携帯電話。
「ま、かわいい甥の言うことだからな。……と、言いたいところなんだが」
一度、言葉を切った彼の笑顔が少しだけ、悲しげに揺れる。
「お互い様だ、京介」
「お互い様、って……」
ふいと、秋人が視線をそらした。再びその目が向かった先は、夜にたたずむ市民会館。気づけば空は、真っ暗だ。星がない。月だけが細く小さく浮かんでいる。
「京介」
秋人がちょいちょいと手招きをしてくる。建物の中へ入っていこうとする彼についていこうとした京介は、ふと、みはるを振り返った。どうしたらいいのかわからず立ちつくしている彼女に何とか笑いかけて、ついてくるよう促す。
建物の中に入ると、ほのかに温かさを感じた。そして外の気温が低かったことに、改めて気づかされる。綺麗に磨かれた床が、ぴかぴかと光っている。十九時半を過ぎたからか、廊下にいる人はまばらだ。
少し潜めた声で、秋人が言ってくる。
「講演会が始まって数分と経たないうちに、騒ぎが起こる。そうしたら俺たちはなるべく早くここを離れる。それだけだ」
「それだけ、って……」
まるで全てをわかっているような彼の言葉に、京介が戸惑う。
「よくわからないんだけど」
「何でだ、ちゃんと聞いてたのか? つまりお前はいち早くここを抜け出すことを」
「いや、そうじゃなくて」
「何で騒ぎが起こるんですか?」
突然、無遠慮に口を開いたみはるを、秋人が目を丸くして見下ろした。
沈黙が、三人の間に落ちた。足早に横をすり抜けていった女性を、京介はつい目で追ってしまった。フォーマルなワンピースにストールを被っているその人が向かう先は、佐々木要一の講演会ではなさそうだ。別のホールで行われる、クラシックのコンサートだろうか。それともミュージカル公演のほうだろうか。
「ちょっと、言葉が違ってたかな」
秋人が諦めたように笑う。
「起こるんじゃなくて、起こすんだよ。講演会を中止にさせるために」
この人とは、秋人とは京介がまだ物心のついていない頃からの付き合いだ。母の兄で、だけど京介にとっては本当の父親のような存在で。
それなのに今、この人の考えていることがまるでわからない。
「そんな顔するなよ、京介」
言われて京介は、自分が秋人のことを見つめていたことに気づいた。自分は今、どんな顔をしていたのだろう。秋人の顔からして、いい表情ではなかったことは確かだ。
「とにかく今は、時間がない。俺のほうも、あとでいくらでも説明するから」
秋人が焦ったように、腕時計を見る。
時刻は十九時四十二分。あと数分で、講演が始まる。
「いいか、京介。この廊下を突き当たったところを曲がって少し進むと、ドアがある。非常ドアのような扉だが、開いてるから。そこを出た先の駐車場で待っていてくれ。なるべく人目につかないように」
「人目につかないように?」
そうだ、と秋人が頷く。
「俺、何かやることとか」
「何もしなくていい」
きっぱりと言い切って、秋人が肩に手を置いてくる。
「何もしなくていいから、そこのお嬢ちゃんと隠れてろ」
「え、うん……でも、隠れてろって」
きゃああ、と。
悲鳴が聞こえた気がして、京介が顔を振り向かせた。すぐ後ろにある両開きの扉の向こうは、佐々木要一の講演が行われるホールだ。
「時間か」
ぽつりとこぼした秋人の言葉を追うように、どこからか非常ベルが鳴り始める。ジリリリリ、と耳をつんざく音が響く。ホール内が、市民会館全体が騒然とし始める。
みはるが、カバンの紐を掴んでくる。何が起こっているのかと辺りを見回す京介の耳に、バンと扉の開く音。
「走れ、京介」
秋人の声に、京介が彼を見る。
「大丈夫、俺もすぐに行く」
彼の真剣な顔と、声に、京介はみはるの手を取って走り出していた。それ以外に、どうしたらいいのかわからなかった。
焦らないで、落ち着いて非難してくださいと係員の声がする。焦り、混乱している人々の波が、一階から、二階から押し寄せてくる。
京介は、走った。伯父に言われたとおり、廊下を奥の方へと。慌てて避難しようとする人々とは、逆の方向へと。
入ってきた入り口から、離れていく。肩と肩が激しくぶつかっても、頭一つ下げる余裕がない。
後ろへ引っ張られそうになるみはるの手を強く引き返して、京介は突き当たりを曲がった。その先の壁に見える、灰色のドア。関係者専用にも見えるそのドアを開けて外に出ると、秋人が言っていたとおり駐車場につながっていた。
外に出た途端、ひゅうっと冷たい風を感じた。先ほどまでの騒がしさから一転して、ここはあまりにも静かだ。
「ここで、待っていればいいのか」
みはるの手を握ったまま、京介が歩き出した。なんだか途端に、現実に帰った気分がした。アスファルトの硬い感覚が、下ろした足から全身に伝わってくる。
ぽつぽつと立つ街灯に照らされて、様々な種類の車が並ぶ。ドアからあまり離れすぎていない一台を選んで、京介はその後ろに身を隠すように座り込んだ。隣にちょこんと、みはるがしゃがみ込んでくる。
「ごめんな、引っ張って。痛かっただろ」
「ううん、平気」
強がっているのか、本当に何も感じていないのか。判断もつかないほどの気丈な声で、みはるが言う。
建物の中ではまだ非常ベルの音が鳴り響いている。一体何が起こっているのか。なぜこうして身を隠しているのかさえも、京介にはわからない。
あの悲鳴は、何が起こったことを示していたのか。建物の中で伯父は、何をしているのか。
騒ぎ出す胸を抑えるように、京介は暗く沈んだアスファルトに視線を落とした。
「探す暇、なかったな。その、ウエハラって人」
彼女はきっと、佐々木要一の暗殺を止めること以上に、そのウエハラという人物を探したかったはずだ。
理由はわからないけれど、そんな気がしていた。
「うん。でも、いいんだ。べつに、今日じゃなくても」
切れ切れな言葉に少し、未練を感じる。
結局、ウエハラというのがどういう人物なのかわからないままだ。だが彼女がそのウエハラという人と会わなかったことに、京介はどこかほっとしていた。
ウエハラ。
その名を口にしたときの彼女を思いだすと、京介は、不安を感じずにはいられない。
「キョウちゃんこそいいの? その、ちあきっていう人のこと」
たずねられて、京介が顔を向ける。
この不安に駆られそうな暗闇の中でも、みはるの顔には微塵の不安も感じられない。
「俺も、いいんだ。今日じゃなくても」
風に、木の葉のざわめく音がした。そこに混じって、かちゃっと、ドアの開く音がする。
伯父だろうか。
体を浮かせようとした京介を、みはるが思い切り引っ張って引きとめてきた。倒れるように再び座り込んだ京介の耳に、彼女の緊張した声がする。
「キョウちゃん、あの人」
あの人、と言われて連想される人物は、一人だ。
そっと、車体の陰から背後を覗いた。遠い上に暗くて、京介にはそれが誰なのかわからない。だが記憶力に自信を持っている彼女が言っているのだから、あれはおそらく伯父ではなくて、みはるの父親のふりをしていたあの男。
「出てこい、ここにいるのはわかっている」
明らかに秋人ではない声に、京介は慌てて頭を引っ込めた。
身を硬くする彼女を背に、息を潜めた。ここにいては、見つかるのも時間の問題だ。どこか移動できる場所はないかと、京介が周囲に視線を走らせる。
すると今度は痺れを切らしたような怒号が飛んでくる。
「出てこい小娘! 出てこねえと撃ち殺すぞ!」
撃ち殺す、という言葉に思わず肩が震える。銃を持っているのだろうかと、現実感のない憶測が真っ白な頭を回る。
足音が近づいてくる。
どうする。どうしたらいい。
奥にとまっている車の影へと移動したところで、動いているところを見つかっては意味がない。だがここにいるわけにもいかない。こうしている間にも、男はもう、すぐそばまで。
「逃げて、キョウちゃん。わたしがおとりになるから」
背後から呟かれた、決意のこもった声。京介の横をすり抜け、車の影からみはるが出て行こうとする。
「ばっ、何やってんだ!」
潜めた声でたしなめて、京介は彼女の手を掴み自分の後ろへと引っ張り込む。
「危ないだろっ、相手は銃を」
「平気だよ。言ったでしょ、さっき。私、銃弾だって止まって見えるくらいに目がいいって」
「だからって何になるんだよ」
すかさず言った京介に、みはるがむっと顔をしかめてくる。
「何にでもなるよっ。少なくともキョウちゃんよりは何にでもなるもんっ」
彼女の目は本当に、銃弾が止まって見えるほどにいいのか。
しかし今、京介にとって重要なのはそこではない。
「君が本当に銃弾が見えて避けられたって、あの男に捕まらないわけじゃ」
ごつっ、と。
後頭部に振動が走ったところで、京介の思考が止まった。振り返って、確かめたい。はずなのに、振り返ることができない。
「見つけたぞ、小娘。こいつの頭を吹っ飛ばされたくなかったら、大人しくこっちへこい」
背後から聞こえてくる、男の声。
混乱に揺れる瞳をぐっと堪えるように歯を食いしばる京介の目の前に、さらにきつく唇を噛み締めているみはるの顔。暗い地面についたその手が、震えていることに気づく。
彼女が、立ち上がろうとする。京介はとっさにその手を掴んで、彼女を無理矢理座らせていた。
そして庇うように背を向ける。京介の目の前に飛び込んできたのは、暗く小さく、先の見えない穴。
「! キョウちゃっ……」
「絶対に、前に出るなよみはる」
恐怖を押し殺すように告げて、突きつけられた銃口を見つめる。アスファルトの上で握りしめた手に爪が食い込む感覚が、京介をこの場所につなぎとめる。
逃げて、と。先ほどのみはるの声が、頭の中に甦る。
ここは、どけない。行きたくもないところに、彼女を引き渡せない。
動こうとしない京介に、男が不敵に笑う。
「震えてるぜ、お兄さん」
カチ、と聞こえた音に京介が目を眇めた、次の瞬間。
パアンッ、と乾いた音がした。
一瞬何が起こったのかわからなかった。気づけば男が目の前で、血の流れている腕を押さえてうずくまっている。
彼が持っていたはずの銃は、数メートル先の地面に。
「来いっ、京介!」
京介はみはるの手を取って、駆け出した。ダークブルーの車の前で、秋人が後部座席のドアを開けて待っている。
その手に握られているのは、拳銃。その銃口を、真っ直ぐ男へ向けている。見たことのない伯父の姿に胸がざわつきながらも、足を止めることはできない。
夜の駐車場。とまっているたくさんの車。だが京介の目は、開け放たれたドアの向こうしか見ていない。一刻も早く、車内へ。安全なところへ。
「白石秋人っ!」
先にみはるを車へ乗せた京介は、つい、振り返ってしまう。
「貴様! どこまで邪魔をすれば気が済むんだ!」
しゃがみこんだままで腕を押さえ、睨みつけてくる男の鋭い目。
早く乗れ、と。
うながされて京介も車に乗り込むと、秋人は後部座席のドアを閉めた。そして男に向けていた銃を下ろすと、運転席に乗り込む。
シートベルトを締める間もなく、彼は車を発進させた。
その後を追うように、二発の銃声が夜の闇に鳴り響いた。
しかしみはるは、文句一つ言わずに食べていた。どうやら彼女にとってこれは、カレーとして納得のできるものだったらしい。
結局、京介はアパートを出た。市民会館へ行くのをやめることも、みはるを置いていくこともできなかった。二人は塩釜口駅から地下鉄に乗り、金山駅へと向かう。
彼女はランドセルから出したポシェットに、財布だけを入れて肩にかけていた。あのランドセルの中には、一体どれだけのものが入っているのか。まるで、四次元ポケットだ。
「そういえば君って、小学生だよね。学校は?」
地下鉄の中、隣に座っているみはるに、京介はふとそんな疑問を投げかける。
「明日、学校あるんじゃないのか? まだ冬休みじゃないはずだし」
「あるよ。あるけど、わたしの学校遠いから」
「遠いって、どの辺?」
「東京」
「東京っ?」
つい声を上げてしまってから、京介はみはるが自分は売られたのだと話していたことを思い出す。
その話が本当なのかどうかは、わからないけれど。
「……そっか。それじゃあ、行けないよな」
そんな当たり障りのないことを言って、京介は顔を前へ向けた。相変わらず暗い窓だ。映っているのは、色のない壁ばかり。乗りなれているはずなのに、どこか知らない場所へと連れて行かれるような錯覚がして、少し恐い。
金山駅は、複合駅だ。新幹線が通りJR線が通り、名古屋鉄道が通って地下鉄が通る。
帰宅ラッシュの今の時間帯は、人で溢れていた。京介は金山駅から外へ出て、コンピューターから印刷した地図をもとに、市民会館へと向かう。
すでに夜が訪れている、都会の町。通りすがる人はみな、周囲には無関心な顔で足早に歩いていく。
「その、さっき言ってたウエハラっていう人って、便利屋協会の人?」
何気なく、京介がたずねてみる。
みはるは少し間を置いて、うん、と小さく頷いた。
金山駅を下りてすぐの曲がり角を曲がり、大通りに面した歩道を歩いていると、すぐに市民会館が見えてきた。わかりやすいのは助かるが、少し近すぎる。地下鉄を降りてから、十分と歩いていないのではないだろうか。
市民会館前の広場には、多くの人が集まっていた。皆、佐々木要一という人の公演を聞きにきたのだろうか。一瞬はそう思ったが、さすがに全員が同じ目的ではないだろう。これだけ大きな建物なのだから、他にも催し物が行われているはずだ。
広場まで来たところで、京介は足を止めてしまった。
――十九時半より金山の市民会館で行われるササキグループ社長佐々木要一の講演会にて、彼の人物を暗殺。
目の前にそびえる市民会館を見上げる。スポットライトのような光に照らされ、夜の空に浮かんでいるその姿に、迫力さえも感じさせられる。
「行かないの?」
つい、びくりとしてしまった。
顔を向けた京介を、みはるがまだあどけなさの残る顔で見上げてくる。
「大丈夫だよ。わたし、ちゃんとあの人たちの顔わかるから」
その記憶力が心強いことは確かだ。しかし彼女は、あの男女を見つけ出したところでどうするつもりなのか。そこまで考えているのだろうかと、疑いたくなってしまう。
時刻は、十九時十六分。市民会館前に貼られているポスターによると、あと十四分ほどで開場。開演は、そのさらに十五分後。
「行こう、キョウちゃん。早く行かないと、時間なくなっちゃうよ」
まるで何も考えていないかのように、みはるがせかしてくる。京介自身も焦っているはずなのに、どうしても足が動かない。
行って、自分はどうするつもりなのだろう。暗殺を止めるつもりなのか。どうやって。
「京介?」
はっとして京介が振り返った。
よく見知った顔が、親しげな笑みを浮かべて片手を挙げている。
伯父の、白石秋人だ。白いシャツに黒いジャケット、普段より畏まった服装が、自由で身軽な普段の彼を少しだけ閉じ込めている。
「何やってるんだ、こんなところで」
「え、えっと、おじさんこそ」
「俺か? 俺はこの講演を聞きに来たんだよ。ほら」
秋人がぴらりと見せたのは、佐々木要一の講演会のチケットだ。
チケットがなければ入れない。
考えてみれば当たり前のことに、京介は全く気がつかなかった。しかしそれよりももっと驚いたことがあった。
「おじさんが講演を? ほんとに?」
「何で疑うんだ。チケットまで見せたっていうのに」
「だってこれ、日本の経済と経営戦略についてって書いてあるよ。おじさんがそんなのに興味があるとは全く思えないんだけど」
「あのな。俺だって一応社長なんだぞ、小さいけど」
「社長っていうか、店長でしょ」
秋人は、名古屋市栄町で小さな商店を営んでいる。だが、本当に利益が生まれるほどに客が来ているのかどうかは、京介の幼い頃からの大きな疑問だ。
「で、お前は何してるんだ、そんな女の子連れて。迷子? に、なるほど小さくは見えないが」
そういえば。
今の一瞬、みはるのことをすっかり忘れていた。
彼女のことをどう説明すればいいのか。小学生の女の子と一緒にいる理由なんて、中途半端なものでは納得してもらえそうにない。
悩む京介の横で、みはるが秋人に向かって丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、みはるです」
「みはる?」
「あ、いやその」
いきなり自己紹介をしたみはると秋人の間に、京介が慌てて割って入る。
「お、おじさん、その俺、何から話していいのかわからないんだけど」
秋人が軽く首を傾けてくる。
だが今は、悠長に話をしている場合ではない。
「その佐々木要一って人、狙われてるみたいなんだ。なんていうか、命を狙われているって、そう聞いて」
あまりにも突拍子もない話だ。話している京介自身がそう思うのだから、秋人にしてみれば冗談としか思えないだろう。
しかし秋人の反応は、想像とは違っていた。驚いている、とはいっても、佐々木要一という人が命を狙われているという内容に驚いているのとは、明らかに違う、このどこか不自然な反応。
「お前、どこで聞いたんだ、それ」
「それは、その」
たずねられて、京介は再び返答に悩んだ。佐々木要一の講演が始まるまで、もう二十分もない。はじめから全てを話すには、時間がなさすぎる。
黙りこんでしまった京介の肩に、ぽんと、秋人が手を乗せた。
「わかったわかった。それについては心配しなくても大丈夫だ、俺が何とかする」
「何とかするって……」
「その代わり」
ちらりと、秋人がみはるを見る。
「あとでちゃんと説明するように」
言われて京介はつい、うっ、と言葉を詰まらせる。
だがきっと、どうせどこかでは話さなければならないことだ。
もう少しで、開場の時間だ。人気がなくなりはじめた広場で、秋人が市民会館を振り返る。
「俺は今から会場へ入るけど、お前は、そうだな。今が二十五分くらいだから」
「って、本当に信じてくれてるのか? こんな冗談みたいな話」
「冗談なのか?」
秋人が京介に向き直って、たずねてくる。
「冗談じゃない、けど」
本当だと、そう言い切れないのも事実だ。京介自身も、半信半疑のままでここまでやって来た。その上着の左ポケットには、あの男の携帯電話。右ポケットには、千明の携帯電話。
「ま、かわいい甥の言うことだからな。……と、言いたいところなんだが」
一度、言葉を切った彼の笑顔が少しだけ、悲しげに揺れる。
「お互い様だ、京介」
「お互い様、って……」
ふいと、秋人が視線をそらした。再びその目が向かった先は、夜にたたずむ市民会館。気づけば空は、真っ暗だ。星がない。月だけが細く小さく浮かんでいる。
「京介」
秋人がちょいちょいと手招きをしてくる。建物の中へ入っていこうとする彼についていこうとした京介は、ふと、みはるを振り返った。どうしたらいいのかわからず立ちつくしている彼女に何とか笑いかけて、ついてくるよう促す。
建物の中に入ると、ほのかに温かさを感じた。そして外の気温が低かったことに、改めて気づかされる。綺麗に磨かれた床が、ぴかぴかと光っている。十九時半を過ぎたからか、廊下にいる人はまばらだ。
少し潜めた声で、秋人が言ってくる。
「講演会が始まって数分と経たないうちに、騒ぎが起こる。そうしたら俺たちはなるべく早くここを離れる。それだけだ」
「それだけ、って……」
まるで全てをわかっているような彼の言葉に、京介が戸惑う。
「よくわからないんだけど」
「何でだ、ちゃんと聞いてたのか? つまりお前はいち早くここを抜け出すことを」
「いや、そうじゃなくて」
「何で騒ぎが起こるんですか?」
突然、無遠慮に口を開いたみはるを、秋人が目を丸くして見下ろした。
沈黙が、三人の間に落ちた。足早に横をすり抜けていった女性を、京介はつい目で追ってしまった。フォーマルなワンピースにストールを被っているその人が向かう先は、佐々木要一の講演会ではなさそうだ。別のホールで行われる、クラシックのコンサートだろうか。それともミュージカル公演のほうだろうか。
「ちょっと、言葉が違ってたかな」
秋人が諦めたように笑う。
「起こるんじゃなくて、起こすんだよ。講演会を中止にさせるために」
この人とは、秋人とは京介がまだ物心のついていない頃からの付き合いだ。母の兄で、だけど京介にとっては本当の父親のような存在で。
それなのに今、この人の考えていることがまるでわからない。
「そんな顔するなよ、京介」
言われて京介は、自分が秋人のことを見つめていたことに気づいた。自分は今、どんな顔をしていたのだろう。秋人の顔からして、いい表情ではなかったことは確かだ。
「とにかく今は、時間がない。俺のほうも、あとでいくらでも説明するから」
秋人が焦ったように、腕時計を見る。
時刻は十九時四十二分。あと数分で、講演が始まる。
「いいか、京介。この廊下を突き当たったところを曲がって少し進むと、ドアがある。非常ドアのような扉だが、開いてるから。そこを出た先の駐車場で待っていてくれ。なるべく人目につかないように」
「人目につかないように?」
そうだ、と秋人が頷く。
「俺、何かやることとか」
「何もしなくていい」
きっぱりと言い切って、秋人が肩に手を置いてくる。
「何もしなくていいから、そこのお嬢ちゃんと隠れてろ」
「え、うん……でも、隠れてろって」
きゃああ、と。
悲鳴が聞こえた気がして、京介が顔を振り向かせた。すぐ後ろにある両開きの扉の向こうは、佐々木要一の講演が行われるホールだ。
「時間か」
ぽつりとこぼした秋人の言葉を追うように、どこからか非常ベルが鳴り始める。ジリリリリ、と耳をつんざく音が響く。ホール内が、市民会館全体が騒然とし始める。
みはるが、カバンの紐を掴んでくる。何が起こっているのかと辺りを見回す京介の耳に、バンと扉の開く音。
「走れ、京介」
秋人の声に、京介が彼を見る。
「大丈夫、俺もすぐに行く」
彼の真剣な顔と、声に、京介はみはるの手を取って走り出していた。それ以外に、どうしたらいいのかわからなかった。
焦らないで、落ち着いて非難してくださいと係員の声がする。焦り、混乱している人々の波が、一階から、二階から押し寄せてくる。
京介は、走った。伯父に言われたとおり、廊下を奥の方へと。慌てて避難しようとする人々とは、逆の方向へと。
入ってきた入り口から、離れていく。肩と肩が激しくぶつかっても、頭一つ下げる余裕がない。
後ろへ引っ張られそうになるみはるの手を強く引き返して、京介は突き当たりを曲がった。その先の壁に見える、灰色のドア。関係者専用にも見えるそのドアを開けて外に出ると、秋人が言っていたとおり駐車場につながっていた。
外に出た途端、ひゅうっと冷たい風を感じた。先ほどまでの騒がしさから一転して、ここはあまりにも静かだ。
「ここで、待っていればいいのか」
みはるの手を握ったまま、京介が歩き出した。なんだか途端に、現実に帰った気分がした。アスファルトの硬い感覚が、下ろした足から全身に伝わってくる。
ぽつぽつと立つ街灯に照らされて、様々な種類の車が並ぶ。ドアからあまり離れすぎていない一台を選んで、京介はその後ろに身を隠すように座り込んだ。隣にちょこんと、みはるがしゃがみ込んでくる。
「ごめんな、引っ張って。痛かっただろ」
「ううん、平気」
強がっているのか、本当に何も感じていないのか。判断もつかないほどの気丈な声で、みはるが言う。
建物の中ではまだ非常ベルの音が鳴り響いている。一体何が起こっているのか。なぜこうして身を隠しているのかさえも、京介にはわからない。
あの悲鳴は、何が起こったことを示していたのか。建物の中で伯父は、何をしているのか。
騒ぎ出す胸を抑えるように、京介は暗く沈んだアスファルトに視線を落とした。
「探す暇、なかったな。その、ウエハラって人」
彼女はきっと、佐々木要一の暗殺を止めること以上に、そのウエハラという人物を探したかったはずだ。
理由はわからないけれど、そんな気がしていた。
「うん。でも、いいんだ。べつに、今日じゃなくても」
切れ切れな言葉に少し、未練を感じる。
結局、ウエハラというのがどういう人物なのかわからないままだ。だが彼女がそのウエハラという人と会わなかったことに、京介はどこかほっとしていた。
ウエハラ。
その名を口にしたときの彼女を思いだすと、京介は、不安を感じずにはいられない。
「キョウちゃんこそいいの? その、ちあきっていう人のこと」
たずねられて、京介が顔を向ける。
この不安に駆られそうな暗闇の中でも、みはるの顔には微塵の不安も感じられない。
「俺も、いいんだ。今日じゃなくても」
風に、木の葉のざわめく音がした。そこに混じって、かちゃっと、ドアの開く音がする。
伯父だろうか。
体を浮かせようとした京介を、みはるが思い切り引っ張って引きとめてきた。倒れるように再び座り込んだ京介の耳に、彼女の緊張した声がする。
「キョウちゃん、あの人」
あの人、と言われて連想される人物は、一人だ。
そっと、車体の陰から背後を覗いた。遠い上に暗くて、京介にはそれが誰なのかわからない。だが記憶力に自信を持っている彼女が言っているのだから、あれはおそらく伯父ではなくて、みはるの父親のふりをしていたあの男。
「出てこい、ここにいるのはわかっている」
明らかに秋人ではない声に、京介は慌てて頭を引っ込めた。
身を硬くする彼女を背に、息を潜めた。ここにいては、見つかるのも時間の問題だ。どこか移動できる場所はないかと、京介が周囲に視線を走らせる。
すると今度は痺れを切らしたような怒号が飛んでくる。
「出てこい小娘! 出てこねえと撃ち殺すぞ!」
撃ち殺す、という言葉に思わず肩が震える。銃を持っているのだろうかと、現実感のない憶測が真っ白な頭を回る。
足音が近づいてくる。
どうする。どうしたらいい。
奥にとまっている車の影へと移動したところで、動いているところを見つかっては意味がない。だがここにいるわけにもいかない。こうしている間にも、男はもう、すぐそばまで。
「逃げて、キョウちゃん。わたしがおとりになるから」
背後から呟かれた、決意のこもった声。京介の横をすり抜け、車の影からみはるが出て行こうとする。
「ばっ、何やってんだ!」
潜めた声でたしなめて、京介は彼女の手を掴み自分の後ろへと引っ張り込む。
「危ないだろっ、相手は銃を」
「平気だよ。言ったでしょ、さっき。私、銃弾だって止まって見えるくらいに目がいいって」
「だからって何になるんだよ」
すかさず言った京介に、みはるがむっと顔をしかめてくる。
「何にでもなるよっ。少なくともキョウちゃんよりは何にでもなるもんっ」
彼女の目は本当に、銃弾が止まって見えるほどにいいのか。
しかし今、京介にとって重要なのはそこではない。
「君が本当に銃弾が見えて避けられたって、あの男に捕まらないわけじゃ」
ごつっ、と。
後頭部に振動が走ったところで、京介の思考が止まった。振り返って、確かめたい。はずなのに、振り返ることができない。
「見つけたぞ、小娘。こいつの頭を吹っ飛ばされたくなかったら、大人しくこっちへこい」
背後から聞こえてくる、男の声。
混乱に揺れる瞳をぐっと堪えるように歯を食いしばる京介の目の前に、さらにきつく唇を噛み締めているみはるの顔。暗い地面についたその手が、震えていることに気づく。
彼女が、立ち上がろうとする。京介はとっさにその手を掴んで、彼女を無理矢理座らせていた。
そして庇うように背を向ける。京介の目の前に飛び込んできたのは、暗く小さく、先の見えない穴。
「! キョウちゃっ……」
「絶対に、前に出るなよみはる」
恐怖を押し殺すように告げて、突きつけられた銃口を見つめる。アスファルトの上で握りしめた手に爪が食い込む感覚が、京介をこの場所につなぎとめる。
逃げて、と。先ほどのみはるの声が、頭の中に甦る。
ここは、どけない。行きたくもないところに、彼女を引き渡せない。
動こうとしない京介に、男が不敵に笑う。
「震えてるぜ、お兄さん」
カチ、と聞こえた音に京介が目を眇めた、次の瞬間。
パアンッ、と乾いた音がした。
一瞬何が起こったのかわからなかった。気づけば男が目の前で、血の流れている腕を押さえてうずくまっている。
彼が持っていたはずの銃は、数メートル先の地面に。
「来いっ、京介!」
京介はみはるの手を取って、駆け出した。ダークブルーの車の前で、秋人が後部座席のドアを開けて待っている。
その手に握られているのは、拳銃。その銃口を、真っ直ぐ男へ向けている。見たことのない伯父の姿に胸がざわつきながらも、足を止めることはできない。
夜の駐車場。とまっているたくさんの車。だが京介の目は、開け放たれたドアの向こうしか見ていない。一刻も早く、車内へ。安全なところへ。
「白石秋人っ!」
先にみはるを車へ乗せた京介は、つい、振り返ってしまう。
「貴様! どこまで邪魔をすれば気が済むんだ!」
しゃがみこんだままで腕を押さえ、睨みつけてくる男の鋭い目。
早く乗れ、と。
うながされて京介も車に乗り込むと、秋人は後部座席のドアを閉めた。そして男に向けていた銃を下ろすと、運転席に乗り込む。
シートベルトを締める間もなく、彼は車を発進させた。
その後を追うように、二発の銃声が夜の闇に鳴り響いた。