第8話

文字数 1,097文字

 この辺り一帯は、戦災の被害もあったろうが、今も江戸の情緒を感じさせてくれる。さらに行くと、湯島天神の前に出た。大都会に見付けた小さな緑のオアシスみたいな、梅の木の多い庭を歩いてみた。
 ここには、平安時代の貴族で、政治家や優れた文人としても知られた菅原道真を祀っている。思えば、道真も都での政争の末に九州の大宰府に左遷され、流人同様に扱われたまま、その地で無念の死を遂げていた。その後に起きた都での様々な災厄(さいやく)は、道真の(たた)りとして語り継がれたという。元々は怨霊を鎮めるための天神信仰だったが、この湯島にも天神様が分祀され、今では学問の神様として崇められている。
 社殿の賽銭箱の前では、中学生らしい二人の女子が、しっかり手の平を合わせ一心に願掛けしている。私は、その姿を眺めながら、心の中で応援した。<二人とも頑張れよ>
 境内には、合格祈願と記された多くの絵馬が、所狭しと奉納され、かつての祟神は多くの受験生の守り神となっている。
 そこを後にして、やがて、大きな坂を下ると不忍池の側に出た。そして、ビルの谷間に見える池へと向かった。蓮の咲く水面を渡る風を心地よく全身に受けながら、柳の下の道をのんびり歩いた。この池の西の端を北へと歩いていけば根津に出る。
 池之端(いけのはた)にある横山大観がかつて住んだという屋敷の前を通り過ぎた。そこからの景色は、大観の郷里である水戸の千波(せんば)湖の景色によく似ていた。東京大学の塀のそばに見付けた小さな蕎麦屋で夕食を済ました。

 宿に着いた時には、足が棒のようになっていた。今日はどれくらいの距離を歩いたものか。その疲れも様々な発見があった満足からか、心地よくさえ感じられた。すぐに風呂へ入る。
 風呂上がりに部屋へ戻って、帰りがけに買ってきた缶ビールを飲む。乾いた喉元を程良く冷えたビールが一気に通り過ぎていった。
 いつの間にか、うとうとと寝込んでしまっていた。誰かに、肩を揺すられたような気がして、ふと目を覚ました。上半身を起こすと身震いがした。座布団を枕に畳の上に浴衣のまま寝込んでいたので、寒くて目が覚めたのだろうか。
 トイレに行った。クレゾールの臭いがツンと目にしみた。
 トイレから出て、薄暗い廊下を談話室の方へ歩いていくと、白く照明の灯った談話室の中に誰かいるのが見えた。談話室のソファーの上に美里が眠っていた。
 ガラス戸に手を掛けようとしたその時、部屋の壁際に浴衣姿で恐ろしい形相で立ちつくす美加の姿があった。
 私は、そのまま動けなかった。美加の両手の間には、赤い帯紐が握りしめられていた。それを、寝ている美里の首に巻き付けようとしている。私は、慌ててガラス戸を開けた。


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