第5話

文字数 12,598文字

 夏季長期休暇が残すところ二週間となり、学生の多くがそれまで目を背けていた課題の山を意識し始める頃。
 最初は小さな違和感だった。自宅から三キロほど離れた場所で【下級悪魔】出現を感知した。ちょうどそこは(彼女の言葉を借りるなら)椿の縄張りだ。以前、彼女は私に弱った姿を見せた。しかし、彼女自身の人柄はともかく、その実力は疑いようがない。なら、放っておいて大丈夫だろう。私はそう考えた。そして、数分後には擬似神代領域の展開を感知。何も問題はないはずだった。
 だが、その領域は十分経過しても、さらに二十分経過しても、一向に解除されない。私たちは領域の存在は感知できるが、空間内部の様子は実際に侵入しなければわからない。
 まさか、彼女が。一抹の不安が脳裏を掠めた。【下級悪魔】との戦闘にしては、余りにも時間が経ち過ぎている。だが、領域は私たちに宿る神々の力の一端として形成される。もし私たちが敗れたのなら、音もなく崩れ去るのが道理だ。それが異変を来すことなく、かといって解除される気配もなく維持され続けている。それ自体が既に異常だった。彼女に何があったのだろうか。
 自転車に飛び乗り、その領域に駆けつけた私の目に飛び込んだのは、目を疑う異様な光景だった。
 見慣れた灰色の世界。だが、そこに見慣れた悪魔の姿はなく、あるのは見慣れた椿の姿と、見慣れぬ少女の後ろ姿。
 その二人が、金属同士がぶつかる不快な音を響かせながら斬りむすんでいる。見慣れない少女が少女の背丈より遥かに長い得物――丸みを帯びた独特な刃先の形状から、おそらくあれは(ほこ)だ――を自在に振り回し、椿に斬りかからんとする。椿は両手に持つ二本の短剣で少女の苛烈な猛攻をなんとか防いでいる。
「これは……」
 思わず言葉が漏れた。想定していない事態だ。【ゴッズ・ホルダー】同士が戦う? どうしてそんなことに──
「蓮美さん!」
 私に気づいた椿が声を上げた。長鉾の少女が振り返る。その姿を目視して、私は再び喫驚した。
「あなたは……!」
「あら、あなたも【神遣いの巫女】でしたの? ……いや、あなたは」
 腰ほどまで伸びた黒髪をなびかせながら、彼女──栗花落が私を見据えた。
 理解が追いつかない。椿が戦っている相手は私たちと同じ存在で、しかもそれは夏休み前に転校してきた栗花落だった。
 一体、どういう──
「蓮美さん、避けて!」
 椿の叫びと同時に、栗花落が一瞬で間合いを詰め斬り掛かってきた。瞬時に斧槍を手に取り、間一髪でそれを防ぐ。
「残念、防がれてしまいましたか」
「栗花落さん、あなた何を……!」
「あなたはどうやらイレギュラーのようですわね。ですが、あなたが何者であろうと、私は私の目的を果たすのみ」
 栗花落の長鉾を弾き、後ろに跳んだ。しかし、栗花落が勢いをつけて飛び込んでくる。再度、後方へ回避。だが、執拗に距離を詰められる。栗花落の容赦ない鉾捌きを辛うじて防ぐ。
 こいつ、戦い慣れている! それも悪魔相手ではない。得物を持った人間相手に、だ。
 栗花落の苛烈な攻撃を捌いている最中、視界の隅に力を溜める椿が映った。
「――【紡がれし運命の糸(ニーマ・ティス・モイラス)】!」
 栗花落が椿の声に気を取られた。その隙をつき、大きく後ろに跳んで距離を取る。同時に、灰色の地面から光り輝く無数の錦糸が栗花落を捉えた。椿の【権能】だ。
 椿に宿る一柱の神。それはギリシャ神話における【運命の三女神】が一柱、紡ぐ者【クロト】だ。【運命の三女神】とは、〝糸〟を紡ぐ女神【クロト】、割り当てる女神【ラケシス】、断ち切る女神【アトロポス】からなる、人間の運命を司る神々。彼女たちによって紡がれ、割り当てられ、断ち切られた〝糸〟は人々の運命そのものであり、彼女たちによって定められたその運命からは、何人たりとも逃れられない。
 そして、椿の【権能】によって紡がれた〝糸〟は、割り当てられることも、断ち切られることもない。故に、彼女の〝糸〟によって縛られたものはその座標、時間はおろか、運命さえも永遠に固定されてしまう。身動きなど出来るはずもない。
 武器を下ろし、栗花落に問う。
「栗花落さん。あなた何をしようとしているの?」
 栗花落は自分を搦めとる無数の糸、私、後方の椿を順々に見渡し、唐突に高笑いし始めた。
 私たちを嘲笑っているわけではない。心底、愉快で仕方がないという笑い。悪寒が全身を駆け巡った。冷たい汗が背中を伝う。
「質問に答えて!」
 椿が叫んだ。栗花落が高笑いを止め、振り返って椿を見た。
「だって、可笑しいんですもの。今の貴方達が。……この程度で私を捉えたと、本気で思っていらして?」
 刹那、栗花落に絡みついていた黄金の錦糸が溶けるように霧散した。
「そんな!」
 椿の驚愕が響き渡る。栗花落は手に持っている長鉾を椿目掛けて、勢いよく投げた。弧を描きながら宙を舞う長鉾は、そのまま一閃、呆気にとられたままの椿を切り裂いた。
 椿の絹を切り裂くような悲鳴。彼女の身体から噴水のように血飛沫が上がり、衣服を鮮血で染めていく。椿はそのまま崩れ落ちるように倒れこんだ。
「椿ぃぃぃぃぃぃ!」
「次は貴方の番でしてよ?」
 栗花落が徒手空拳、そのまま向かってくる。
 椿の糸は絡めとった対象の運命をその座標に固定する〝運命の糸〟だ。因果にさえ干渉するその糸は、決して人の膂力などで揺るがない。ならば、椿の糸を霧散させたあの現象こそ、栗花落の【権能】──
 力を出し惜しみしている場合ではない! 椿を助けるために早く【権能】を──
 だが。ここで【権能】を使えば、あの時の悪魔に私の能力を見破られるかもしれない。あの悪魔は常に気配を殺して私の様子を窺っている筈だ。ここで使うのは──
 一瞬、躊躇した私を、
『怖いの』
 数日前に見た椿の涙が背中を押した。
 見られているからなんだ、観察されていることがどうした!
 ここで椿を見捨てるぐらいなら、あの子を見殺しにするぐらいなら、私は──
 神に祈ったりしていない!
 眼前に迫る栗花落が拳を固めたのが見えた。
「──【時間跳躍(ジャンプ)】!」
 栗花落の驚いた顔を尻目に、急激な浮遊感に身を任せる──

「質問に答えて!」
 焦り、叫ぶ椿。高笑いする栗花落。間に合った!
 一目散に栗花落に駆け寄る。栗花落が私に気づき、高笑いを止めた。だが遅い。
 その勢いのまま左足で地面を踏み固め、慣性を乗せてたまま高く上げた右脚で、栗花落の顔面を蹴り抜いた。
 糸で固定されている栗花落は仰反ることもできず、ただ喫驚しているばかりだ。
「蓮美さん⁉」
「気を抜かないで! こいつにあなたの〝糸〟は効かない!」
 椿と目があった。椿が躊躇いながらも頷く。
 糸が解けた。解放され、放り出された栗花落が蹴りの余韻でよろめいている。
 まだだ。こいつに反撃の余地は与えない。すかさず、渾身の右ストレートを脇腹にぶち込む。間髪入れずに回し蹴り。再び正拳突き。倒れた栗花落に馬乗りになった。両腕を踏みつけながら襟元を掴み、顔面に何度も拳を振り下ろす。
 もう一度、もう一度、もう一度!
「蓮美さん! もうやめて! 彼女はボロボロよ!」
 椿の声がどこかで聞こえた。
 いや、まだだ。こいつは椿を、なんの躊躇もなく殺した。脳裏に先程の光景が過る。怒りのあまり顔が熱い。こいつは許せない、絶対に許さない、こいつだけは──!
 高く振りかざした拳を下ろそうとして、振り下ろせなかった。見れば、見慣れた〝糸〟が私の腕に巻きついている。
「蓮美さん、やり過ぎよ! あなたらしくないわ。一体どうしてしまったの?」
「どうして、そんな悠長なことを言っていられるの! こいつはあなたを──!」
 そこまで口にして、わずかに残された理性が待ったをかけた。私の能力は誰にも告げていない。それは共に戦った椿さえ例外ではない。ここで先程の光景を話すわけにはいかない。あの悪魔がいつどこで聞いているとも知れないのだから、尚更のことだ。
 行き場を失った拳を、しかし解くわけにもいかず、膠着した。誰も何も言わず、私の鼓動だけが耳元で大きく脈動する。
 やがて、栗花落が痣塗れの顔で不敵な笑みを浮かべた。
「……なんて滑稽なのかしら」
 栗花落が口を開いた。それに椿が反応する。
「あなたの目的は何なの? 私や蓮美さんを襲って何の意味があるの?」
「それをあなたがたに話したところで理解出来ませんわ。今日のところは、私も引き下がりましょう。ですから、解放していただけませんこと?」
 栗花落の言葉を聞き、私の中の憤怒が再び勢いを取り戻した。
「あなた、自分の状況をわかっているの⁉ いいから、さっさと目的を吐きなさい! でないと……」
「どうなるというのでしょう? あなたに殺意があっても、あなたのお仲間はそれを認めない。だから、この状況ではあなたも私を殺せない。そして、私も今は何もできない。仕切り直した方が良いのではなくて?」
 まるで対等であるかのように錯覚させる申し出。しかし、栗花落の言ったことは的を射ていた。椿に能力を明かせない以上、私が見た光景を告げるわけにはいかない。それに、椿は私が怒りに身を任せて栗花落を殺めることをよしとしないだろう。
「……あなたを解放する前に、条件があるわ」
「何でしょうか?」
「あなたの目的を教えなさい。あなたが悪魔の手先だと言うのなら、黙って解放するわけにはいかない」
 悪魔とは、古来より人間を惑わせ、堕落させる存在だ。【ゴッズ・ホルダー】となった少女が悪魔に取り憑かれたなんて話は聞いたこともないが、だからと言ってあり得ないと断言できない。神々の権能を預かり受けてなお、悪魔の誘惑に乗る人間。もしそんな人間がいるとすれば、きっとそれは貪欲で傲慢極まりない人物だ。
「私を斯様な〝不浄〟と同列にしないでくださいませ。私は、全て皆様のために働いております」
 栗花落の顔から笑みが消えた。私の眼を真っ直ぐに見据え、語り始める。
「あなた方は自らの〝呪われた運命〟を知らない。ならば、知らぬままの方が幸せでしょう! 私は、あなたたちを救済しようとしているのです!」
 私たちの、〝呪われた運命〟? 彼女は何を知っているというのか。私には皆目見当がつかない。
 だが、彼女の主張は、あまりにも一方的過ぎた。
「それは、つまり何も知らないまま死んだ方が幸せだと? あなたに殺されることが私たちの救いになると?」
 私が厭味ったらしく聞くと、栗花落は真顔のまま即答した。
「はい。時が来れば必ずわかることでしょう。私の行いは一切合切が正しかったのだと」
 背筋が冷えていくのを感じた。栗花落の言葉は陳腐で、使い古されたセリフだ。だが、栗花落はそれを妄言などではなく本心から言っている。そう理解した途端、私の下で薄ら笑いを浮かべる彼女の姿に、言い知れぬ寒気を覚えた。
 気味が悪い。
「……それ以上話すつもりはないの?」
「ええ、ありませんわ」
「そう。ならもういいわ。行きなさい」
 栗花落の上から退いた。彼女が緩慢な動作で起き上がる。
「ありがとうございます。いつか、あなたがたも理解するでしょう。私に『救われておけばよかった』、と。では、ご機嫌よう」
 栗花落はスカートの裾をつまんで一礼し、その姿を溶けるように消した。領域から離脱したのだ。
 やり場のない怒りを持て余していると、椿が恐る恐る私に問いかけた。
「えぇっと、彼女は蓮美さんの知り合いなの?」
「転校生よ。つい一ヶ月前に転校してきたばかりの」
 彼女が自己紹介で告げた〝家庭の事情〟とは、おそらくこのことに関係しているのだろう。
「今後、領域に接続する時は必ず私を呼びなさい。私が行けない場合は【下級悪魔】なんて捨て置きなさい。いいわね?」
 彼女は椿が一人でいるのなら、これ幸いとばかりに躊躇なく椿を殺すに違いない。それだけは絶対にさせない。
「えぇ、わかったわ。それと……ありがとう」
 何に対してお礼を言われたのかわからない。私は礼を言われるような行動はとっていないはずだ。私が押し黙ったまま戸惑っていると、椿がはにかみながら言った。
「あなたが彼女の何に対して怒っていたのかはわからないけれど、私を助けてくれたんでしょう? だから、ありがとう」
「……【ゴッズ・ホルダー】を狙うなら私の敵でもある。それだけよ。あなたのためじゃないわ」
「本当、素直じゃないんだから」
 椿がくすりと笑った。悔しいがかなえにも劣らないほど可愛い。椿の笑顔に自分でも説明できない感情が湧き上がり、居てもたってもいられず逃げるように領域を離脱した。



 夏至を過ぎ、盛夏を過ぎてなお蒸し暑い日が何日も続いた。昼夜を問わない高温多湿。じりじりと身を焦がし、肌を焼く紫外線。一歩外に踏み出せば、ここぞとばかりに全身のありとあらゆる場所から汗が噴き出す。もともと外出が好きでない私は、ますます空調の効いた部屋に引きこもる一方である。
 そんな私が、なぜ駅前で汗だくになりながら行き交う人々を眺めているのか。もちろん好んでこうしているわけではなく、むしろ気分は最悪だ。じっとりと湿った肌の不快感。水分を吸ってまとわりつく肌着。夏なんて大嫌いだ。
 だが、私は知っている。もうじき、至福の時間が訪れることを。
「蓮美ちゃーん! お待たせー!」
 背後から聞こえた、溢れんばかりの元気な声。それまでの不快感が吹き飛ぶように消えて、自然と顔が綻んだ。振り返り名前を呼ぶ。
「かなえ、待ってたわ!」
 視界に飛び込んでき浴衣姿のかなえの可愛らしさは、私が持てる語彙すべてを以ってしても言葉に形容できないほどだった。ピンクを基調として全身に桜の花びら模様がデザインされており、それをピンクの混じった赤い帯が引き立てている。可愛い。これが、天使か。あまりの可愛さゆえに一瞬前後不覚となり、足元がフラついた。
「蓮美ちゃん⁉ 大丈夫?」
 慌てて駆け寄ってくれたかなえにしがみついた。可愛い。可愛すぎて言葉にならない。
「え、ええ。わたしは大丈夫よ」
「本当? 無理してない?」
「えぇ、本当に大丈夫よ。私は大丈夫。だから、かなえ。その可愛いお顔をもっとよく見せて? ね? いいでしょう?」
「蓮美ちゃん、ち、近いよ!」
 逃げようとするかなえの顔を、すかさず捉えた。かなえの顎を逃げないようにしっかりと、それでいて痛みを感じさせない絶妙な力加減。逃さない。この可愛いかなえの姿を脳裏にバッチリと焼き付けなくては。
「あぁ、可愛いわ、かなえ……! もっと、もっと近くで見せて」
「蓮美ちゃん、近い! 誰か、誰か助けてー!」
 あぁ、戸惑っているかなえも新鮮で可愛い──
「はいはい。それぐらいにしておいてあげたら?」
 椿が私とかなえの間に腕を入れ、強引に引き離した。抗おうとしたが椿の力が強く、あっけなく剥がされてしまった。その隙に椿の後ろに隠れるかなえ。ああ、どうしてこいつを呼んでしまったの、かなえ!
「あなた……邪魔しないでもらえないかしら?」
「じゃ、邪魔って何よ! 目の前で困ってたから助けただけでしょう!」
「それが邪魔以外の何者でもないのよ。いい加減気付きなさい。いい? 私とかなえはスキンシップをとっていただけ。いくら夏休みとはいっても毎日会うことはできない。だから、その会えない時間を埋めるためのスキンシップなの。わかったかしら?」
「……そうなの?」
 椿が背後のかなえに訪ねた。かなえが身を縮こまらせながら、小動物のようにふるふると首を振った。
「ほらね?」
 ドヤ顔で宣言する。
「いや、何が『ほらね?』なのよ! 否定してるじゃない!」
「わかっていないわね。それはただの照れ隠し。かなえだって本当は喜んでいるはずよ」
「おい、瑠璃。やべぇぞ。蓮美の思考回路がストーカーみたいになってきやがった」
「慣れだよー、慣れ。蓮美は中学からこんな感じだったよー」
 椿とかなえの後ろから、瑠璃と菱子が他人事のように言う。それを聞いた椿が信じられないと言う表情をした。
「蓮美さん、あなたまさか毎日こんなことをしているの⁉ 信じられない! この前、私を助けてくれた時はあんなにカッコ良かったのに……」
 椿が両手で顔を覆った。後ろからかなえが椿の頭を撫でて慰める。羨ましい。
「椿ちゃん。その話、詳しく教えて」
「か、かなえ! 違うのよ。その話には事情が──」
「蓮美ちゃんには聞いてない」
 いつものかなえからは考えられないほど、冷たい口調。これはこれでいい。
「はいはい。夫婦漫才はその辺にして行くよー」
「おい、早く行こうぜー! 良い場所が埋まっちまうよー」
 永遠に続くと思われた夏休みも気が付けば残すところあと数日。暑さだけを残して季節が移ろわんとするこの時期。私たちは夏休み最後のイベント、『花火大会』に参加すべく集まった。上代市は海に面しており、港が有名な地方都市だ。この地の利を活かさない手はない、と言わんばかりに夏の風物詩である打ち上げ花火は、なんと海上で打ち上げる。夜空に咲き乱れる花火ももちろん美しいが、その花火が真黒な海面を鮮やかな色々に染め上げるのもまた美しい。これこそが名物の一つ、『海上花火大会』である。
 しかし、名物であるということはもちろん、ここぞとばかりに押し掛ける観光客が大勢いるということであり、スタートダッシュに出遅れてしまえば人波に揉まれるばかりとなる。有料の観覧席で見るのが一番いいのだろうが、高校生である私たちにそんな金銭的余裕はない。だからこそ、私たちは陽が沈む前から行動している。だが。
 陽が傾き、空と海面を朱色に染め上げながら沈み行くこの時間帯でも人が多い。もう少し早く集合するべきだったか。
「あちゃー、もう人がいっぱいだ。こりゃいい場所取れるかわからねぇな」
「はぐれないように気をつけようねー」
 人混みをかき分けながら進んでいく。
「ねぇ、あれから大丈夫なの?」
 私の後ろを歩いている椿が、声を潜めながら私に尋ねた。普段察しが良くない私にも、椿が何を尋ねているのかは容易に察せた。
「ええ、まだ一度も見かけていないわ」
 擬似神代領域で栗花落と衝突してから、ちょうど十日が経過した。あれ以降、私が感知した悪魔の出現は三度。しかし、そのいずれもが一瞬で消滅した。栗花落の仕業に違いない。現れた【下級悪魔】を消滅させているということは、おそらく彼女は悪魔に憑りつかれたわけではないのだろう。私たち同様、悪魔と戦わなければならない運命を背負っているということだろうか。だとしても、私や椿に向けた彼女の殺意は本物だったし、椿を殺害することに一切躊躇がなかった。一体、彼女の目的はなんだ?
 ――あなた方は自らの〝呪われた運命〟を知らない。
【ゴッズ・ホルダー】には、まだ私たちが知らない何かがある──?
 わからない。だが、彼女は危険すぎる。警戒するに越したことはない。
「引き続き、あなたは一人で向かわないようにしなさい。どうしても必要があるなら、私を呼んで」
「あなたは、だって。まるで、自分は大丈夫みたいな言い草ね。そんなに私は弱く見えるの?」
「あなたを侮っているわけじゃないわ。ただ、あなたの【権能】は彼女に通じない。あなたと彼女では相性が悪すぎる。それだけよ」
 くすっと椿が小さく笑った。
「何がおかしいの?」
「いえ、なんだかんだ言っても私のこと心配してくれてるんだなーって、思っただけよ」
「馬鹿なこと言わないで」
「本当、素直じゃないんだから。……ねぇ」
「何よ」
「この浴衣どう思う? 似合ってる?」
 今日の花火大会に浴衣を着てきたのはかなえと椿だけだ。まず、かなえは言わずもがな可愛い。元々天使のように可愛いかなえが、可愛らしい浴衣(おそらく彼女の母が選んだもの)との相乗効果で、筆舌に尽くしがたい愛らしさだ。それは下界に降り立った女神のごとく。彼女の母親には何度礼を言っても足りない。
 一方、椿の浴衣は白地をベースに大柄な黄色いひまわりの模様がデザインされており、それを金と白のボーダーの帯で結んでいる。ひまわりと言えば元気に満ち溢れたイメージだが、どこか大人びた趣の浴衣だ。
「そうね。似合っていると思うわ」
 本心だ。以前の椿なら似合っていないとはっきり言ったかもしれない。だが、今の椿はどこか陰鬱さが抜けて快活になったような気がする。憑き物が落ちた、という表現がしっくりくるか。
 なんにせよ、椿の浴衣は今の彼女に似合っていると思う。素直にそれを認めた。
「そぉ? 本当に? ふふっ、嬉しいわ! ありがとう!」
 椿が朗らかに言った。椿の笑顔も本心なのだろう。私に似合っていると言われて、何が嬉しいのかさっぱりわからないが。
「椿ちゃん、どうしたの?」
 私の前を歩いていたかなえが振り返った。
「蓮美さんが、私の浴衣を似合ってるって言ってくれたの! それが嬉しかっただけ!」
 途端、かなえの目がすっと細くなった。
「ふーん、蓮美ちゃん。私以外の女の子にもそんなこと言っちゃうんだ」
「ち、違うのよ! これは言わされただけで、そもそも一番可愛いのはかなえに決まっているわ!」
「口では何とでも言えるよね。まぁ? 蓮美ちゃんが誰に何を言っても? 私には関係ないけど?」
 拗ねたかなえも可愛い。だが、今はそれどころではない。
 なんとか機嫌を治してもらおうとあれこれ弁明していると、先頭を歩いていた菱子が大きな声を上げた。
「おい、着いたぞ! ここだ、ここ」
 着いてみれば、そこは打ち上げ場所から遠く離れた小さな公園。公園といっても遊具があるわけでもなく、コンクリートで打ち固められた地面にベンチがいくつか並んでいるだけの殺風景なものだった。気がつけば人混みも消えていて、視界に写る人影は数えられる程度。
 そうだ。去年も私たちはここで花火を見た。菱子に連れられて、本当によく見えるのか半信半疑になりながらもみんなで見た花火は、少し遠かったけれど、それでも十分過ぎるほど眩しくて、美しかった。
 陽が半分以上地平線の向こう側に沈み、空は徐々に黒く染まりつつあった。あとはもう待つだけだ。
「いやー今年も空いててよかったねー」
 瑠璃の声はいつもの調子だが、顔が綻んでいる。
「おう! ここはとっておきの穴場だからな!」
 菱子が得意げに言った。この場所は、菱子にとって思い出の場所だという。菱子が幼い頃、父親に数時間も駄々を捏ねて連れてきてもらったのだとか。
「じゃあ、花火が始まるまで待とうか!」
 かなえが元気よく言う。その声はいつもより弾んでいる。
 空いているベンチに腰を下ろそうと思い、周囲を見渡した。辺りにはベタベタとくっついている年若い男女が多い。ここは普段からカップルが多いことで有名な場所なのだという。なるほど、デートのついでに花火も鑑賞できるここは恰好のデートスポットなのだろう。
 と、その中に見覚えのあるカップルを見つけた。正確にはカップルの女性に、だ。ベンチに座って肩を寄せ合い、お互いの顔を近づけて何かを囁き合っている。私の記憶が正しければあれは──
「菱子、あれ……」
 菱子は応えない。ただ無言のまま、無表情でその女性を見つめている。その女性がこちらに気づいたらしく、二人とも立ち上がって私たちのほうへ寄ってきた。
「あらー、菱子じゃん! こんなところでどうしたのぉ?」
 ねっとりとした猫撫で声。菱子が嫌悪の表情を示した。
「……関係ないだろ」
「ひっどぉい。母親に対してその言い方! ごめんねぇ。この子私の娘なんだけど、反抗期みたいでぇ」
 女性──菱子の母親が見知らぬ男に寄りかかりながら、甘えた声で言った。男は笑いながら何も言わず曖昧に頷いた。
 彼女が私たちを舐めるように見回す。明らかに私たちの容姿を値踏みする視線。寒気がした。
「あー、そういうことね。菱子、あんたもガキねぇ。女の子だけで花火だなんて。もう高校生なんだから、彼氏の一人や二人作らないと! 青春なんて今だけよぉ?」
「……関係ないだろ、あんたには」
 菱子が目を伏せ、虚に言う。途端、菱子の母親が血相を変えた。
「おい、親に向かってなんだその口の聞き方!」
 先程までと打って変わって、ドスの効いた低い声。菱子は応えない。視線を逸らしたまま、目を合わせようともしない。
「……もういい。しばらく帰ってくるなよ」
 菱子の母親はそれだけ言うと、男に向き直り、
「本当にごめんねぇ。この子、今日は帰ってこないらしいから、続きは家で。ね?」
 男がやはり曖昧に笑った。
 そして、菱子の母親はそのまま男と腕を組んで、足早にこの場を去った。
 誰も言葉を発さずに幾ばくかの静寂が流れ、菱子が一言、
「悪ぃ。今日は帰るわ」
 とだけ言い残し、私たちに背を向けて歩き出した。誰一人として声をかけることが出来なかった。今の菱子に帰る場所なんてない。そうわかっていながら、私たちは菱子を引き止める言葉を知らなかった。
 ただ時間だけが過ぎ、やがて遠くから轟音が響いた。
 夜空を照らす花火はやっぱり綺麗だったのだけど、それでも私たちの胸に抱えた思いを晴らすことは出来なかった。
 花火が終了し、私たちは口数が少ないまま解散した。
 帰り道、いつもの鋭い頭痛がした。それは一瞬で治ったのだが、胸の内に湧いた嫌な予感がどうしても拭えなかった。



 夏休みが終わり、迎えた新学期。だが、特に変化はない。いつもと同じ教室、同じ顔触れ、同じ授業。菱子もあれから変わった様子は見られない。にぎやかで騒々しくて、底抜けに明るい菱子のままだ。本当に気にしていないのか、それともその思いにふたをして胸の内に抱えているのか。真実はどうなのか私たちにはわからないが、菱子が私たちに何も言わない以上、私たちも何か言うわけにはいかない。
 栗花落も何一つ変わらない。夏休みが開けてから、彼女は一度も私と目を合わせることさえない。そして、彼女に話しかける人物もいない。夏休み前の光景そのままだ。私としては彼女が襲い掛かって来ない限り放置するつもりだが、もし次に同じことがあれば容赦するつもりはない。常に警戒しておくことにする。
 悪魔は変わらず出現している。週に二、三度の頻度で現れているが、いずれも【下級悪魔】が少数だけだ。基本的には私一人で、タイミングが合えば椿と二人掛かりで処理しているが、それも何事もなく終わる。栗花落の気配さえ感じることはない。
 それと、あの声だけで姿を見せなかった悪魔。
『いつでも見守っているからねー』
 耳にこびりついて離れない軽薄な声。あれから一度も接触はないが、だからと言って近くにいないという保証はない。今もすぐそばで私のことを狙っているのだろうか。
 考えなければならないことが多い。だが、私はこの平穏な日常を、その目まぐるしいまでの多忙さに流されながら享受していた。
 そして中間試験を終え、解放された気分でいたのも束の間。残暑の名残も消え、外気にわずかな肌寒さを感じ厚着をし始める人も増え始めた頃。私たちは次なる行事に取り組むこととなった。
 それは文化祭。数ある学校行事の中でもひときわ華のある行事として唯一無二の存在であり、学生なら誰もがこのイベントの熱に浮かされながら、その準備にのめり込む。
 そんなある日のことだった。
「うーん、こんな感じでいいかなぁ。ねぇ、蓮美ちゃん。どう思う?」
 かなえが不安げに聞いてきた。かなえがやっているのは出店の看板製作。その素晴らしい芸術センスをクラスメイト達に買われ、見事に抜擢されたのだ。一方、私は誰にでもできる教室内の飾りづくり。
 美的センスのない私からすれば、贔屓目抜きに問題のない仕上がりに見えるのだが。
「ええ、完璧よ。さすが、かなえだわ」
「えー? 本当かなぁ? ……ねぇ、瑠璃ちゃん。どう思う?」
「私はいいと思うよー。っていうか、かなえはむしろ気にし過ぎかなー?」
 瑠璃も肯定。だが、かなえはそれでも満足していない様子だ。
「菱子ちゃんはどう思う?」
「……強いて言うなら、色がちょっと濃いな。もっと色味を薄くした方が綺麗に見えると思うぜ」
「やっぱりそうだよね! ありがとう菱子ちゃん!」
「おう」
 かなえは納得がいった様子で、早速パレットの絵の具を弄り始めた。
 一方、菱子はかなえの方をちらりと見ただけで、飾りを作る手を止める気配さえない。いつもの菱子ならここぞとばかりに、私と瑠璃を煽り倒すはずだ。だが今は一心不乱に飾りを作っている。
 私と瑠璃は顔を見合わせた。菱子の様子がおかしい。もちろん、作業に集中しているということなら、それは間違いなくいいことなのだが。
「……ねぇ、菱子」
 おそるおそる話しかけてみた。
「なんだよ」
 返ってきたのはぶっきらぼうな一言。私を見ようともしない。
「落ち込んじゃ駄目よ。赤点の一つや二つ、誰にでもあるわ」
 今回の中間試験で菱子は赤点を取っていない。それどころか、これまでと比較しても段違いにいい点数で、どの教科も平均点に肉薄する程の点数を取って見せた。喜ばしいことだ。
 当然、そのことを私は知っている。だからさっきの発言はわざとだ。いつも通りの菱子ならここで、
『今回は赤点とってねぇよ!』
 と、逆鱗に触れられた龍のごとく暴れ始める。それは裏返せば相手の発言に憤る余裕があるということだ。
 しかし。
「そうだな」
 返答は随分とあっさりしたものだった。菱子はやはり手を止めず、黙々とハサミで折り紙を切り続けている。
 私と瑠璃は再度顔を見合わせた。菱子の様子が明らかにおかしい。少なくとも私では対処できない。
 目配せすると瑠璃が小さく頷いた。
「あー、もう二〇時だよー。そろそろ切り上げて帰ろうかー」
 瑠璃がいつもの間延びした声で、自然に声をかけた。作業に集中していたためか、教室内に私たち以外のクラスメイトがいないことに、今更気が付いた。みんな途中で切り上げて帰ったのだろう。
「うーん、そうだね。続きは明日にする!」
 かなえが元気よく言った。それに続いて私も調子を合わせる。
「そうね。帰りましょうか」
 だが、肝心の菱子は、
「あたしはまだ続ける。あんたらは先に帰ればいい」
 とだけ淡々と言った。先程まで作業に集中していたかなえも、さすがに違和感を覚えたらしい。不安げに私と瑠璃を見た。
「じゃあ、私ももう少しやっていくねー。二人ともお疲れー」
 瑠璃が言った。私は半ば強引にかなえを連れて、教室を出た。
 教室を出た時、瑠璃と一瞬だけ目が合った。綺麗な彼女の瞳に不安の色が浮かんでいるように見えたのは、私の思い違いだろうか。
 さすがに外は真っ暗で、電灯の少ない学校付近は女性の一人歩きを躊躇わせるほど人気がない。
 私とかなえは無言のまま駅まで歩き始めた。あれだけ騒々しかった虫の鳴き声も、今はもう聞こえない。
 道中、かなえが私に話しかけた。
「ねぇ、蓮美ちゃん」
「何? かなえ」
「……ううん、何でもない。文化祭、楽しみだねー」
 かなえが空を見上げた。私もつられて顔をあげる。夜空にはどす黒い雨雲が所狭しと立ち込めており、私たちには月明りさえ届かない。
「えぇ、そうね」
 私は、そう返事をすることしか出来なかった。
 帰り道、かなえと二人きりの通学路はいつもより暗くて、心細い気がした。


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