最後の夏休み。

文字数 4,046文字

 夏休みの終わりまで後半日、夏休みの宿題を終わらせ夏期講習の予定も入っていない僕は、冷房の効いた部屋で横になり、スマートフォンを操作したりして、漫画本を読んで時間を潰した。僕にとっては中学生活最後の夏休みであり、また平成と言う年号最後の夏休みだったが、僕には感慨も感傷も無かった。選挙権を持たない僕にとっては、すべてが選挙で選ばれた大人たちが勝手にやっている事に思えた。
 僕は二階の自分の部屋を降りてリビングに向かい、冷蔵庫の中で冷えていたペットボトルの麦茶を取り出した。蓋を開けてコップに注ぎ、一口飲んでまた部屋に戻った。部屋に引きこもっても何もする事は無かったが、リビングにとどまる理由も無かった。
 蒸し暑い廊下を抜けて部屋に戻ると、僕はベッドの上に放り投げたスマートフォンを手に取った。パスコードを入れて開くと、クラスメイトの北村あかりからLINEが入っていた。アプリを開いてみると、こんなメッセージが入っていた。
「川井くんは今暇ですか?」
 スタンプも何もないメッセージを見ると、僕はこう返した。
「暇だよ。家でマンガを読んでいた」
 僕もスタンプも何もつけない状態で返信メッセージを送ると、一分程でこんなメッセージが返って来た。
「暇なら山下公園辺りを散歩しない?」
 僕は考えた。僕と北村は恋人付き合いをしている訳では無かったが、かといって普通の友達のような間柄でもなかった。
「いいよ。どこで待ち合わせる?」
 僕は再びLINEを返した。僕はベッドから起き上がり、財布と小銭入れを用意した。
 暫くして北村からLINEの返信が来た。開いてみるとそこにはスタンプの無い色気とは無縁の文があった。
「一時半に氷川丸の前で」
 僕はその文を見て、時計を見た。時間は午後十二時四十分。僕は慌ててスマートフォンと小銭入れ、財布をハーフパンツのポケットに押し込んで、廊下を抜けて靴を履いて玄関から外に出た。僕は庭先で車を洗車していた父に向かって出かけてくると告げて、最寄り駅の京浜東北線の山手駅に向かった。
 山手駅から石川町までは駅一つの距離だったが、今日の厚さは余りにも酷く、とても歩いていく気分になれなかったので、京浜東北線を使う事にした。駅の改札を潜り、大宮方面のホームに出ると、二分も経たずに電車が滑り込んできて、停まるとドアが開いて僕はそれに乗った。
 やがてドアが閉まり、電車が大宮方面に向かって走り出す。電車に揺られて五分も経たないうちに、石川町の駅に着いた。
 僕は電車を降りて、ホームに降り立ち中華街方面の改札から街に出た。中華鍋より熱い今年最後の夏休みを過ごそうとする人達で中華街は賑わっており、そこら中で杏仁風味のソフトクリームやタピオカミルクティーを飲む人が見受けられた。僕は途中寄り道をしてメインストリートにある公生和と言うお店でタピオカココナッツミルクを買って、飲みながら長陽門を抜けて山下公園に入った。
 山下公園は周囲に遮るものが無かったので、夏の最後の日差しを直に受けてとても暑かった。僕は氷川丸近くの水上バス発着場近くのベンチに座った。ベンチの表面は太陽の日差しで熱くなっており、フライパンで焼かれるベーコンの気分が少しわかったような気がした。
 ポケットからスマートフォンを取り出して、今の時間を見た。午後一時二十四分。ほぼ待ち合わせの時間だと思うと、北村からLINEが入った。
「今山下公園に着いた」
 僕はスマートフォンの画面から視線を外し、周囲を見回した。すると、オレンジのTシャツにハーフパンツと言う格好の北村を見つけた。
 北村も僕を見つけると、小走りに僕の元へと駆け寄って来た。僕はベンチから立ち上がり北村の方に歩み寄り、「よう」と声を掛けた。
「川井も今来たところ?」
「ああ」
 僕はそう答えた。僕はスマートフォンをハーフパンツのポケットに仕舞ってこう言った。
「これからどうする?」
「どうしようか?」
 北村も同じ言葉を返した。
「とりあえず、涼しいところに行こうよ」
 僕が提案すると、僕と北村は氷川丸の前を離れて赤レンガ倉庫方面に向かった。僕達は氷川丸と大さん橋の間にあるコンビニに入り、そこで涼を取るついでに北村の飲み物を買った。
「氷川丸を見る?それともマリンタワーに行こうか?」
 コンビニを出た僕は北村にそう提案した。足を延ばして横浜スタジアムを超えて伊勢佐木町に行っても良かったが、義務教育中の僕達には不健全すぎる界隈だったし、何より遊べる場所が無かった。
「せっかく山下公園に来たのもあれだけれど、バスを乗り継いでみなとみらいに行こうよ」
 北村が買ったコカ・コーラのキャップを開けながらそう答えると、僕は「そうだね」と快諾した。山下公園に来た意味がなくなってしまったが、僕と北村にニューグランドホテルの喫茶店に入る勇気など無かった。
 僕と北村は市営バスに乗って桜木町の駅に着いた。駅前のバス乗り場に降りると、僕たちはそのままランドマークタワーに向かって歩いた。動く歩道を抜けてランドマークタワーに入ると、僕達が生まれる前に弾けたバブル経済期の美的センスで作られた内装やテナントが僕達を出迎えた。
 僕と北村は商業区画にある様々なテナントを見て回った。いいなと思ったおしゃれな品々を扱う店の前で僕は足を止めて、鞄やかっこいいジャケットを見て自分がそれぞれの品を身にまとった姿を想像してみる。
「こういうやつって、欲しいなって思う時は有るの?」
 僕の隣で北村が尋ねる。
「あるよ。いずれこういう品々を買い求める年齢になるからね」
 僕はそう答えて、小さく添えられたプライスタグの金額を見た。そこに掛かれている値段は殆どが五桁以上の値段で、中には六桁で七桁近い金額の物もあった。こういう品々を買えるようになるには、どれ程の月日と学歴、それに年収が必要なのだろう?
 テナントを見て回るのが飽きると、僕たちはランドマークタワーを出て横浜美術館に通じるホールに出た。横浜美術館ではモネの企画展を開いていたが、入場料を払うなら別の事に使いたかった。海側にある階段を下ると、焼けるような暑さの中で大道芸の人が何かパフォーマンスをしていた。
 僕と北村はそれを横目で見ながら道路に降りて、横浜ロイヤルパークホテルの車寄せを見た。確か僕がまだ小さかった頃にAPECのサミットが開かれ、オバマ大統領が泊まったホテルだ。昔社会科の学習の際、横浜でAPECが開かれた事を習った時、このホテルを後にして羽田に向かうオバマ大統領の車列を動画で見たことがあった。
 僕たちはランドマークを離れてクイーンズスクエア横浜から横浜ワールドポーターズに向かった。この辺りは伊勢佐木町より健全でランドマークより庶民的な雰囲気だから、家族連れや僕達と同世代の人たちが多くいた。
 僕たちは横浜ワールドポーターズに入り、三階に上がってまた様々なテナントを眺めた。ランドマークタワーのテナントより庶民的な品々が並び値段も安かったが、アルバイトの出来ない僕らには値段が高かった。
「何か欲しい物とかあるの?」
 僕は北村に尋ねた。
「いいや、別に。いいなとは思うけれど必要な物じゃないもの」
 北村の言葉に、僕は妙に納得した。確かに北村の言う通り、本当に自分が必要とする物は品質の善し悪しではないと思う。大切なのはその人にとって特別かどうかなのかと言う事だ。
 その後僕と北村は横浜ワールドポーターズの一階のタリーズコーヒーを訪れて、アイスカフェラテを二つ頼んで外に出た。僕と北村の二人は赤レンガ倉庫に向かい、海上保安庁の巡視船が係留されている場所まで歩いて、そこから横浜の海を眺めた。遠くの海上にはコンクリートで作られた島々が浮かび、その上を白く塗られた首都高速道路湾岸線が横たわっていた。
「いつ見ても、この街の海は開かれているようで色んなものが見えるよね」
 北村が呟いた。
「なんでそう思うのさ」
 僕は聞き返した。
「海は世界と繋がる場所だけれど、この街に住む私達は海を眺めるだけで外に出ようという気が小さい気がする。まあ、これは都会の海に限った話なのかもしれないけれど」
「確かに。海と人間だけの場所だったら、人は海に出るだろうね。この街には何でも揃っているから、海を志さないのかもね」
 僕はそう答えた。本来なら僕達は海に出て荒波に揉まれて苦難を乗り越え、目的の島までたどり着く必要があるのかもしれない。しかし今の僕達は住む場所にあらゆるものが取り揃えてあるから、外に出る必要が無いのだ。
「出来る事なら、この大海原を支配するような大人になりたいね」
 僕はそう続けた。
「もうすぐ平成が終るけれど、年号が変わってもこの街から見える海の印象は変わるかな?」
 北村が漏らす。
「海は不変の物だよ。でも、海を見て何かを考える僕達は変わっていると思う」
 僕はそう答えた。僕達は変化の最中にあり、その僕達が住み着いて作っている社会は常に変化している。この海も、今はそっと僕と北村に寄り添っているが、僕達が成長すれば違う表情を見せるだろう。
 僕はアイスカフェラテを一口飲んだ後、北村にこう言った。
「何年かしたら、またこの街の海を一緒に眺めよう。その時僕達がどんな人間になっているか分からないけれど、また何かを話せる間柄でいようよ」
 僕が言うと、北村は小さく頷いた。時間はもう午後四時を回って、夕方の世界を作り始めている。西の空はオレンジに染まりつつあり、空を流れる雲は白磁のような色からどこか陰のある真珠色になり始めていた。時間の流れは残酷だ。この世界に住む僕達にあらゆる変化を促すのだから。
 この平成最後の夏休みも、時代の変化の中に埋もれて小さくなるかもしれない。だがこの時北村と一緒に過ごした思い出は、忘れないでいたい。

(了)
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