第2話

文字数 5,786文字

 ラキチは自分が鬼神丸より強いとか弱いとか、そんなことは露ほども考えなかった。ただ、ユジが殺されるのを黙って見ていることなど耐えられなかった。
 ラキチは短刀を握り直した。そして荷台の影から飛び出し、刃先を鬼神丸に向け、叫び声をあげながら弾丸の如く突っ込んでいた。
 鬼神丸がこちらを振り返った。ラキチの目と鬼神丸の目が噛み合った。しかし鬼神丸のその目には、恐怖も驚きも映っていなかった。迫ってくる死にもこれほどまでに冷静なのかと逆にラキチは驚いた。けれどもこの距離まで詰められたのであれば、ラキチは鬼神丸を殺せると確信していた。
 あと三寸。三寸で刃が鬼神丸に触れるという時に、ラキチの体がふわりと浮いた。
 鈍い痛みが全身を走り、気がつけばラキチは投げ飛ばされていた。
 足元に長い影が近づくのが見えて、鬼神丸が歩み寄ってきたことがわかった。
 形勢逆転だ。
 目の片隅に、先ほどまで自分が持っていた短刀を弄ぶ手が見えたとき、自分が死ぬ様子がありありと頭に浮かんだ。
 一気に先程の勇気はどこかに消えてしまった。足も手も震えて使い物になりそうにない。
「あんたにゃ、まだ私は殺せやしない」上から声が降ってきた。
 弱い自分が辛くって、情けなくて、悔しくて、胸は張り裂けそうだったが、もうどうしようもない。自分の命は敵の手の中なのだ。
 どうせ死ぬなら、最期くらい勇ましく死にたい。
 恐怖を必死で押し殺し、顔をゆっくりとあげた。死ぬその瞬間まで睨んでやろうと思った。
 見下ろす鬼神丸とがっちり目があった。
「いい目をしてるが、あんたがこれ以上襲ってこなければ、私もあんたを殺しゃしないよ」鬼神丸はそう言い、短刀を遠くに放り投げた。
 鬼神丸は穏やかにそこに立っていた。ゆるりと立つその姿からは殺気というものが感じられなかった。
 何よりラキチが驚いたのは、鬼神丸が女だったということだ。
 ユジと同じくらいの歳であろうその女は、体に対して多少大きい男物の旅装束をゆったりと着こなし、普通それぐらいの歳の女がするであろう化粧は一つもしていなかった。
 そもそも、女の盗人なんて聞いたことがない。
「女……なのか?」ラキチはおずおずと口を開いた。
「私が男に見えるかい。女だよ」ラキチは茫然と目の前の女を眺めた。
「力比べではね、女が男にかなうはずはないんだが、殺し合いになると、ことは変わってくるんだよ」ラキチの心の中を読んだかのように鬼神丸は答えた。
 すっと鬼神丸が後ろを振り返って、ユジの側に再び屈んだ。
「やめろ!その男に手を出すな」ラキチは咄嗟に叫んだ。
「こいつも殺してなんかないさ。気絶してるだけだよ。気絶している間に自分の舌で窒息しないように、整えてやるのさ」鬼神丸はユジの衣を引っ張り状態を起こすと、そのままよいしょと持ち上げて、ラキチが乗ってきた馬車の荷台の空いているところに乗せ、体勢を整えた。
「どうせ、こいつの目が覚めるまでには大分あるんだ。あったかいもんでも作ってやるから、ついておいで。あんた、馬に一人で乗れるかい?そうかい。なら、私の馬に乗りな。ちょっと矢が掠ったから、機嫌は悪いと思うが、行先にはきちんと連れて行ってくれるだろう」鬼神丸は桜の木の下で、落ち着きなく土を蹴っている馬を指差して言った。
「普段はいいやつだから、よろしく頼むよ」
 わけがわからないラキチは、ただ言われるがままに従った。どうせ、やりあったってラキチに勝ち目がないということはさっき理解した。素直に聞くしかない。
 鬼神丸はラキチの馬車に乗り、ラキチの馬はその後に続き道を進んだ。すぐに街道を逸れ、脇道に入り、さらに行くと道なき道を進んだ。道を外れてしまうと、自分がどこを歩いているのかもはやわからず、とんでもないところに来たのではないかと不安になった。
 前を行く馬車の松明が辛うじて辺りを照らしていたが、ラキチがここがどこかを知るには不十分であった。
 考えてみたら、ラキチは街道沿いしか通ったことがないのだ。街道の外に他の世界があることは知ってはいたけれども、その実感はなかった。
 怖くはあるけれども、明るい時にここに来て見たかったな。なんとなく、そうも思った。
 幸い鬼神丸の馬は行き先を理解しているようで、前方の鬼神丸を見失うこともなかった。
 十分ほど歩いたところで、目的地に辿り着いた。土手に穴が掘られており、それが鬼神丸の住処だった。
 鬼神丸は馬車の松明を外し、穴の中に持って入り、中央に作られた簡素な炉に火を灯した。そしてラキチも中に入るよう促した。
 鬼神丸が再び外に出て馬たちの世話をしている間、ラキチは藁で編んだ敷物の上に座り辺りを見回していた。
 もっとも逃げようとしても逃げられるとは思わなかった。
 鬼神丸の住処は随分と質素なものだった。
 ラキチは盗人の住まいとはもっと豪華絢爛、贅沢の限りを尽くしているものだと思っていたので驚いた。
 穴の奥に食材が積み上げられているだけで、お宝なんてどこにもない。
 炉の上に鍋が置かれてあるが、その中身はラキチが普段食べているものよりもずっとひもじかった。
 ただ武具は土むき出しの壁に沿って豊富に置かれてあった。弓だけで五張、太刀も三振り、他には槍に手投げ剣、盾、それからいくつものラキチが知らない武具が置いてあった。
 鬼神丸がユジを背中に抱えて帰ってきた。ちょっと雑な運び方で、何度か垂れ下がった腕や足を壁にぶつけているのを見た。重さのせいかもしれないが、わざとなのかもしれない。ぶつける度にユジは呻き声のようなものを漏らしたが鬼神丸はそれをことごとく無視していた。しかしなんとかユジはごわごわの敷物の上に寝かせられた。
 ラキチはユジの横に駆け寄り、呼びかけた。けれども、ユジは伸び上がっており、ラキチの声に答える気配はなかった。
「大丈夫。よく眠ってくれるように薬を仕込ませてもらったのさ」後ろから鬼神丸がラキチの肩に硬くて温かい手を置いた。
「鍋もあったまっただろ。食べな」そう言うと、鬼神丸は木の椀に木の柄杓で鍋の中身をすくって、木の匙を添えてラキチに手渡そうとした。
「いらない」ラキチは首を振った。
「どうしてだい?ほら、毒は入ってないよ」鬼神丸は自ら鍋の中身を食べて見せた。
「いらない」ラキチは繰り返した。
 いくらでもラキチを殺せる瞬間があったのにもそうしていないことから、ラキチは既に鬼神丸の己を殺す気がないという言葉は信じていた。
 だから毒の問題ではなかった。盗人に施されることを、わずかな正義感が拒んでいたのである。
 それにラキチは木の食器を見るのは初めてだった。いつも真っ白な陶器や透き通ったガラスに入ったものを食べていた。茶色い木の食器は随分と不清潔に見える。そんなもので食べる気にはならない。
「泥棒と同じ釜の飯なんて食えるか」悪党に歯が立たなかった悔しさも加わって、ラキチはせめてもの抵抗と歯を食いしばり呟いた。
 考えれば考えるほど、今こうして盗人の世話になっているということが、許されざるべきことのように思えてくる。
「なあ。なぜ殺さなかった」ラキチは鋭い口調で尋ねた。
「盗みが目的だからさ。殺しは目的じゃない。殺す必要がなければ、わざわざ殺しゃしない」鬼神丸は熱々の鍋を自分の椀にとりながら淡々と答えた。
「じゃあ、今までお前は人を殺さなかったのか」
 鬼神丸は首をゆっくりと振った。
「いや。この手についた穢れが洗い落とせないほどたくさん」鬼神丸は匙を一度置き火に己の手をかざした。
「じゃあ、何故俺たちは殺されなかった。情けでもかけられたのか?殺すにも値しなかったのか?」
「あんたはあそこで殺されたかったと言うのかい?」
 ラキチは答えられなかった。当然死にたくはなかった。けれども敵が自分を殺さなかったのは、何かとても不当なことであるような気がしてたまらなかったのだ。
 鬼神丸は静かに鍋をすすった。そして椀を置き、一呼吸置いてから口調柔らかに口を開いた。
「あんたの言ったことは半分当たっている。でも半分違う。あんたたちを殺さなかったのは、あんたたちが弱かったからだ。私にあんたらを殺さずすむだけの余裕があった……。ああ、あんたの連れを悪く言うつもりはないよ。確かにやつは思っていたより強かった」ラキチの頬に赤みが差したのを見て鬼神丸は慌てて付け足した。
「でも、上には上がいるってことさ。それにあんたの連れくらいのやつが束になって襲ってくることもある。そんな時は、殺らないとこっちが殺られるんでね」
 ラキチは黙り込んだ。
 今目の前にあるのは穏やかな一人の女の顔だった。天井に開けられた煙抜きの穴のめがけて走る湯気の揺らめきの奥に、今日一日何事もなかのような平和な顔をした彼女がいる。けれども、鬼神丸が噂通りのとんでもない手練れだったということも真実だった。その腕でいくつもの危険を乗り越えてきたからこその落ち着きなのだろう。
 一見穏やかそうに見えるこの女が潜り抜けてきた修羅を思うと、己の弱さが余計に身に染みた。
 鬼神丸はラキチを静かに眺めていたが、やがて立ち上がって言った。
「食べな。さっき腹の音が聞こえたよ。私はちょっと頬の傷洗ってくる」
 確かにラキチは気がつけばお腹が減っていた。意地を張って食べないでいても、何も得にはならない。
 湯気立ち昇る鍋と穴の外に向かう鬼神丸の無防備な背中が目に入った。
 ラキチは一つ大きな溜息をつくと、鍋の方を選んだ。
 木の椀を持ち上げてみる。思いの外軽くて、しかも丈夫そうであった。鍋の中身を椀に入れてみる。あまり美味しそうには見えなかった。雑穀を煮たものらしい。
 匙ですくって食べてみる。口の中に温もりと出汁の旨みが広がった。想像していたより、ずっと美味しい。
「どうだい?いけるだろ。昔、料理の手ほどきは受けてるんだ。味には自信があるよ」鬼神丸が穴に戻ってきた。
 ラキチはしぶしぶ頷いた。
 血が洗い落とされた鬼神丸の頬は、うっすらと筋のような傷痕を残すばかりで、さほど酷い傷ではなかったことがわかった。
「なあ。鬼神丸。あんた、いつもこんな生活送ってるのか?」ラキチは汁をすすりながら、鬼神丸に問うた。
「食事のことかい?そうだね。その日あるものを使って作るからね。でも、大体似たようなもんかな」
「いや、そうじゃなくてさ。誰かを襲って、傷つけて、盗んで……。ずっとこうして生きているのか?」
「別に毎日盗みをしているわけじゃないさ。必要な時だけ。……そういう答えが聞きたいんじゃないね。そうだよ。もうずっと、盗人をしている」
 けれども、そう言い胡座をかいて座った鬼神丸に盗人の面影はなかった。
 ラキチは盗人になる者は狂人か何かだと思っていた。しかし鬼神丸と呼ばれこの地に名を轟かす盗人は、近くで見れば偏屈ないただの女だったのである。その凡人が当たり前の如く盗みを働くのがラキチには許せなかった。
「なんで、盗人なんかになったんだ。そんなの卑怯者がすることだ」わずかにでも栄養をとったことで、体が熱を持ち、ラキチには再び正義の心が湧き上がっていた。
「卑怯者……。確かにそうかもしれないね。間違いないよ。けれどもね、なりたくて、盗人になるやつなんか、どこにもいないさ」
「どんな理由であれ、盗みは悪いことだ」ラキチは鬼神丸をありったけの力を込めて睨んだ。鬼神丸はとりあう様子もなく、再び鍋の中身をおかわりした。
 鬼神丸が食べる間、ラキチはずっと睨み続けた。鬼神丸も何も語らなかったし、外で鳴く虫の声が聞こえるほど静かな時間だった。
 しばらく黙る間に、腹が立てども今は明らかに鬼神丸の立場が強いということを思い出し、また溜息ついた。溜息をついてしまうと、怒りも少し収まった。
「そういえば、ユジが……あんたが顎を叩き割ったやつだが……言っていた、ギゾクってなんだ。あんたのことギゾク鬼神丸って呼んでただろう」自分で作っておきながら、やはり沈黙というのはどこか気まずく、ラキチは何か話すきっかけが欲しくて思わず尋ねた。
 けれども鬼神丸はそう呼ばれることが嫌だったらしい。
「家に帰ってあんたの親父にでも聞きな。私はね、義賊って呼ばれるのが嫌いなのさ。何を言おうと、人殺しの盗人には違いないから」声を荒げたりはしなかったが、その声に明らかな不服の気持ちが見てとれた。
 空気がまた少し重くなった。
 別に盗人と良い雰囲気になる必要なんてないのだが、どうも友人と仲違いしてしまった時のような感じがして、落ち着かない。
 また妙な沈黙が続いた。
 しかし次に先に口を開いたのは向こうだった。
「悪かったね。気分を害させたりして」ラキチは思わず鬼神丸を二度見した。
 いくら見た目が普通の女だからといっても、彼女は正真正銘大悪党の鬼神丸なのだ。盗人に謝罪の言葉はあまりにも不釣り合いだ。
「謝るなんてなんだよ。あんた、盗人らしくない」
「そうかい?私は生粋の盗人だよ。あんたがこの世に生まれる前からこの稼業をしている」鬼神丸は首を傾げて言った。
「でも、盗人のように見えない」ラキチは首を振って言った。
「そうかい。でも、あんたの盗人の想像ってどんなもんだい。そっちの方が間違っているんじゃないか」
 ラキチは思わず言葉に詰まった。確かにこれまで一度も盗人なんかと話したことはない。
 見たことなら一度あった。盗みはを働いた罪人が処刑場まで檻の馬車で運ばれていくのに遭遇した。目はぎろついて、髪はボサボサ、唇がいやらしくめくりあがったその者たちを幼きラキチは恐ろしく思ったものであった。これが罪人なのだとラキチは知った。
 けれども、その知ったというのは知った気がしただけで、本当のところは何も知らなかったのかもしれない。だって見ただけなのだから。
「そうかもしれない」ラキチは呟いた。
 この人はラキチが思う盗人とは随分違っている。ずっと穏やかで温かみがある。それならば、いつ道を違ったのだろう。いや、それとも盗人が道を誤った者の末路だというのは、それすらもラキチの思い込みであるのだろうか。
「なあ、もう一回聞くけどさ。どうして盗人になった」ラキチの声は穴の中に静かに響いた。
 鬼神丸は少しためらった。けれども「長い話になるよ」と前置きしてから、ぽつぽつと話し始めた。
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