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 野生のトナカイの背中に乗せられて、森の中を始めて駆けていったときのことを、私はとてもよく覚えている。すべてが思いがけないことで、とても恐ろしかった。
 トナカイの背中が嵐の日のボートのように前後に踊るので、私は強くしがみついていなくてはならなかった。まわりの風景が目に入ってはいたが、楽しむ余裕などはもちろんなかった。タタッ、タタッと、ひづめがやわらかい地面を踏む音が響いている。
「バカ、止まれ。バカ」と私は叫んだが、トナカイは聞く耳を持たないようだった。私の腕や肩やスカートのすそを草や木の葉がこすっていくほど狭い獣道を駆け続けた。トナカイはときどき、くいと頭を動かしたが、あれは垂れ下がっている木の枝を避けていたのだろう。しがみついている両腕を通して、トナカイの呼吸や、血管の中をどくどくと流れている血流が感じられた。
 森の中は薄暗く、太陽の光も直接は差し込まない。ときどきそこらの草や木に、青や赤の驚くほど鮮やかな花が咲いていたりする。そういうもののそばを通り過ぎるときには、まるで汽車に乗って、信号機のそばを駆け抜けていくような気がしたが、そんなことをおもしろがっている余裕はなかった。
 どこまで連れていかれるのだろうと、私はとても不安だった。この森はあまりにも深く複雑で、道に迷いやすく、人が入ることはほとんどない場所だということは私も知っていた。私は信仰心のある子供ではなかったが、このときだけは神に祈りたいような気持ちだった。だが普段の不信心のせいか、あまりにも不安が強かったせいか、その祈りの言葉さえ、一つも思いつくことができなかった。
 まだトナカイは走り続けている。森はさらに暗く深くなり、おおいかぶさる木々はまるでトンネルのようだった。いつの間にか私は、なぜ自分がこんな目にあうことになったのか、自分でも気づかないうちに思い返し始めていた。


 母は、私がまだ赤ん坊だったころに死んでいた。それ以来、私は父と二人だけで暮らしていたのだが、その父が一年間、仕事の都合で外国へ行くことになったので、私は伯母に預けられることになった。父についていってもよかったのだが、伯母は山の中の修道院に住んでいる修道女で、外国の騒がしい町よりもそっちのほうが気楽なように思えたので、私は伯母のところへ行くことにした。
 外国へ旅立つ父を見送った後で、学校の教科書や着替えを詰めた大きなトランクを二つ抱えて、私は小型の貨客船に乗った。フィヨルドをさかのぼっていく定期船で、古めかしい形をして、大きな煙突から黒い煙をもくもくとはいていた。
 この船は足が遅いので、私は船内で一泊する必要があった。父が奮発して一等船室を取っておいてくれたので、私は広いベッドで、足を伸ばして眠ることができた。翌日の午後遅く、船は予定通りにフィヨルドの終点に着いた。フィヨルドというのは、大昔に氷河に削られてできた山脈が、その後、水につかって海岸になった場所のことで、ぎざぎざに切り込んだノコギリの刃のような垂直の尾根が、そのまま何十もの岬や入り江になっている。岸を離れると、水はすぐに何十メートルもの深さになる。私の旅の目的地はこのフィヨルドの一番奥まったところにあって、そこから先には、小川のようなものはともかく、動力のついた船が入っていけるほど幅の広い水路は一つもないそうだった。
 その町はケンネルといって、切り立った山地と水の間にほんの少し開けた平らな場所に、ツバメの巣のようになんとか張り付いて存在しているという感じだった。船が着く短い浮き桟橋のわきに、おもちゃのように小さな町役場があって、その隣に、木材や魚の加工場、品数の少ないマーケット、一学年が十人に満たない中学校といった建物が並んでいた。私も明日から、その学校に通うことになっていた。
 私はデッキの上に出て、ケンネルの町が近づいてくるのを眺めていた。浮き桟橋まであと三百メートルというところで、船がスクリューを逆回転させてブレーキをかけ始めたので、波が大きく泡立った。
 このあたりの水は、岸辺に群生しているアシ科の植物の茎に含まれているタンニンが溶け出すせいで、紅茶のように赤い色をしていた。それが激しくかき回されて、白い泡を立てるのを、私は手すり越しに眺めていた。
 赤い水というのは、本当に奇妙な眺めだった。でも赤いなりにとても透き通っているので、数メートル底でも簡単に見通すことができた。岸辺と同じように、水の底にも、とがった岩がごろごろしている。枯れた太い木の幹が、沈んで倒れていたりもする。しっぽの先の白いおかしなナマズが、さっと横切ったりもする。あのナマズは『降参ナマズ』というのだと船長が教えてくれた。確かに、水中を動くあの白い尾びれは、敵に降伏するときの白旗に見えなくもない。
 ほっとしたのは、約束どおり、船着場に迎えの馬車が来ていたことだった。伯母本人ではなかったが、修道女が一人、浮き桟橋の上に立っていて、デッキの上にいる私を見つけて手を振った。若い気さくそうな人だったので、私は気が楽になった。何度かやり取りした手紙の感じから、伯母は気難しい人ではないが、あまりにもくそまじめで、軽口や冗談を言えるような相手ではない感じがしていた。並んで馬車に乗るのに理想的とは言いがたい。
 若い修道女は、ヘルターという名だと自己紹介した。すぐに私のトランクの一つを持って、馬車まで運んでくれた。残りの一つを持って、私もついていった。数人だったが、他にも下船する乗客がいて、ここで乗船する客や、それを見送りにきている人たちもいた。そういう人たちと顔が合うたびに、ヘルターはあいさつをしていた。こんなに小さな町では、知らない顔など一つもないのだろう。すぐにその中に私も加わるのだろうなと思った。
 ヘルターはまだ若く、三十歳にはなっていないだろうと思えた。背が高くやせていて、肩の上で、顔はいつも楽しそうに笑っている。修道女の制服のボタンをエリまで全部きちんと留めている。夏のはじめの少し暑い日だったのだが。
 馬車は、船着場の表に止めてあった。もちろん貴族が乗るような立派なのじゃなくて、シンデレラが乗るようなものでもなく、屋根も何もない四角いだけのものだった。スポークのある木製の車輪が四つついていて、茶色い小柄な馬が一頭つないである。馬はやる気のなさそうにうなだれているが、ヘルターと私がやってくるのを見ると顔を上げ、頭をぶるぶると左右に振った。
 ヘルターは、持っていたトランクを荷台に置き、私の手からも受け取って、並べて置いた。それから馬のところへ行って、たてがみを二、三回なでてやった。
 私とヘルターは、ベンチみたいな形の御者台に並んで座り、馬車が動き始めた。もちろん道は、舗装などされていなかった。もとは石がごろごろしていたに違いないが、人の足や馬車の車輪に踏まれて、くだけて細かな砂のようになってしまっている。形の残っている石もその中にうずまって、顔だけを出している。その上を、馬車はゆっくりゴトンゴトンと進んでいく。馬は相変わらずやる気がなさそうだが、それでもただ立っているよりは気がまぎれるのか、歩きながら、しっぽだけは機嫌よさそうに左右に振っている。
 建物の列の一番最後は中学校の校舎だったが、町は本当にすぐに終わってしまった。私は振り返って眺めたが、この町は開拓時代からまったく大きくなってはいないんじゃないかという気がした。町というよりも、しみったれた木造の建物の集まりに過ぎない。
 最初の曲がり角を曲がって、町が見えなくなったので、私がまた前を向くと、ヘルターが口を開いた。私の目の前には、小柄な馬の茶色い背中と、せいぜいトラック一台分の幅しかない狭い道がずっと伸びているのが見えているだけだ。道の右側は岩の壁で、サルでも登ることはできないと思えるぐらい急だ。ほとんど垂直といっていい。
 道の左側は森で、木が隙間なくぎっしり生えている。でも気をつけていると、ときどき細い小道のようなものがあって、森の奥深くへと分け入っているのが見えた。
「あれは人の道じゃないのよ。獣が通る道よ」私の視線に気づいて、ヘルターが言った。
「どんな動物がいるの?」
 私の声は少し不安そうに聞こえたのかもしれない。ヘルターが笑った。伯母から私のことをどう聞かされているのか知らなかったが、都会生まれの軟弱な子供と思われていたのかもしれない。
「危ない動物はいないわ。狼は開拓者たちがとっくに絶滅させてしまったもの。もっと北へ行かないと熊もいないしね。このあたりで危険な動物といえば、アライグマぐらいだわ。いたずらな連中だから、畑の作物を荒らすことがあるのよ」
 そんなことを話しながら、ヘルターは馬車を走らせ続けた。
 左側の森の向こうには、ギザギザした岩山が見えていた。三角形をした頂上がいくつも並んでいるが、走っていくにつれてそれらが視界から消えたり、また新しいのが見えてきたりして入れ替わっていく。私は顔を左に向けたまま、眺めていた。
 だんだん道が登り坂になってきた。岩山が近寄ってきて、標高も高くなってゆく。でも、右側は相変わらず岩の壁だ。だから、進むにつれて空が狭くなってゆくが、雲が近くなったような気は特にしない。左側の岩山の頂上近くに、細い道が白く、ヘビみたいにぐねぐねしながら走っているのがかすかに見えたような気がした。あれも獣道だろうかと思った。
 私はふと、その白い道らしきものの先のかなり高いところに、垂直に立った長方形の岩のようなものが見えていることに気がついた。まるで巨大な石像みたいに見えるが、本当は四角く削れるか、割れるかしただけの岩なのだろうけど、高さは百メートル以上あるように見える。でも近くへ行けば、もっと小さい岩だとわかるに違いないという気がした。
「あれをごらん」
 ヘルターが不意に大きな声を出したので、私は少しびっくりした。ヘルターは左を向き、少し先を指さしていた。
「どうしたの?」
 私もそっちを向いた。道の右側にはやっぱり岩の壁が続いていたが、左側の森は谷底のように低くなり、見晴らしがよくなっていた。さっきの岩山は終わって、今は谷の向こうには尾根が横たわっていて、怪獣の長いしっぽのように、私の視野を左から右に長くつらぬいている。ヘルターは、その尾根の一ヵ所を指さしていた。
「何が見えるの?」私もその方向を眺めたが、何もわからなかった。尾根は、ひび割れてごつごつした岩の巨大な塊にすぎなくて、あちこちに木がかたまって生えているが、森といえるほどじゃない。もう夕方で日が暮れかけていたから、太陽の光が長く伸びて、そこら中の岩や木の根元に何百もの暗がりを作っている。
「あれよ。動物の群れがいるでしょう?」ヘルターは馬車を止め、御者台の上で身体をずらして私に頭を近づけ、腕をまっすぐに伸ばしてもう一度指さした。「あの大きな木のちょうど右下あたり。やっこさんも立ち止まって、こっちを見ているわ」
 やっと私にもわかった。茶色い鹿の群れだった。岩の色に溶け込んでわかりにくかったのだと思う。十五頭ぐらいいた。岩の上に立ち止まって、こっちを見ている。谷をはさんでいるし、距離もあるから、私たちを怖がっている様子はない。群れのボスのなのか、その中の一頭が先頭に立っている。ここから見ていても、他の鹿たちよりも一回り体が大きいことがわかる。胸板も分厚く、毛皮もたっぷりとしていて、シルエットは、豊かなエリマキをした貴婦人のようだ。頭の上には、複雑に枝分かれした巨大な角が王冠のように乗っかっている。しっぽだけは、馬などとは違って、短くかわいらしいのがちょこんとついている。見ているとこのしっぽは、自分は鹿の本体とは独立した存在だとでもいうように、とつぜん意味もなくプルプルと動いたりする。鹿たちは、まるで何かの絵のように、前足をまっすぐにそろえて立っていた。
「あれはトナカイよ」
 また声が聞こえたので、私はヘルターを振り返った。何秒もの間、私は夢中で眺めていて、ヘルターのことも馬車のこともすべて忘れてしまっていたのであわてて振り返ったのだが、ヘルターはすぐにうれしそうに笑った。
「トナカイ?」私は言った。
 ヘルターはもう一度にっこりした。「あなたは運がいいわ。ここへ来た最初の日にあれを見ることができるなんてね」
「どうして?」
「あのトナカイたちは、せいぜい年に一度か二度しか人前に姿を見せないのよ」
「トナカイって、鹿じゃないのね」
「鹿は鹿よ。でもトナカイのほうがもっと大きい。角もあんなに立派でしょう? だけどあれは不思議な群れでね。トナカイというのは普通、季節によってあちこちに移動するものなの。渡り鳥のようにね。でもあの群れは違うわ。あの群れだけは、一年中このあたりにいるの。いつも森の奥深くにいて、人前に出てくることはほとんどないけれどね」
 私は、もう一度トナカイたちを眺めた。トナカイたちは、まだ同じ場所にいた。群れのボスと一瞬目が合ったような気がした。だが、一秒もたたないうちにトナカイたちは動き始め、あのボスを先頭にして、尾根の向こう側へ下っていき始めた。岩陰に隠れて、すぐにトナカイたちは見えなくなってしまった。
 ヘルターは手綱を取り、「はいっ」と掛け声をかけ、馬車を再び進ませ始めた。トナカイたちが見えなくなってしまった後も、私はじっと尾根の方向を眺めていた。
「そうだわ、ケイト」
 不意にヘルターが内緒話でもするような声を出したので、私は振り返って見つめた。「どうしたの?」
 ヘルターは私を見つめ、困ったような顔をした。話を切り出したのはよいが、続けてよいものかどうか迷っている顔に見えた。
「どうしたの?」私はもう一度言った。
「あまり大げさに取らないでね」
「ええ」
「あなたが今日から暮らすことになる修道院には、幽霊の話があるのよ」
「幽霊?」
「でもただの噂よ」ヘルターは機嫌を取るように微笑みかけた。この話を始めたことをやはり後悔している様子だ。だが、私は少し好奇心を感じていた。
「どんな噂?」
「私も見たことがあるわけじゃないのよ。誰も見た人はいない。足音を聞いた人がいるだけよ。私は聞いたことはないけどね。古株の修道女たちはあると言っているわ」
「どんな足音なの?」
 ヘルターは私に顔を近づけ、声を小さくした。そんなことをしなくても、声が届く範囲にいるのは馬だけなのだが。
「人の足音じゃないのよ」
「でも幽霊の足音なんでしょ?」
「馬の足音なのよ。大きくて重々しくて、いかにもヨロイを着て長いやりを持った騎士が乗っているという感じなんですって。ひづめがコツコツいいながら、真夜中、修道院の廊下を歩いているのが聞こえるの。もちろんそんな時間には、私たちはみんなベッドの中で眠っているから、ドア越しに聞こえてくるのよ」
「それだけなの?」
「聞いた人は何人もいるのよ。ドアを開けて正体を確かめる勇気のある修道女は一人もいないけどね。私だってごめんだわ。だから、あなたも耳にすることがあるかもしれないけど、あまり驚かないでね。害を受けた人はいないのだから」
 そんなことを話しながら、私とヘルターは馬車を進ませ続けた。そのうちに、道がもっと細くなった。本当に馬車一台がぎりぎりという感じだ。上り坂もきつくなって、馬車のスピードも落ちて、馬は身体を前に傾けて、一歩ずつ、やっとやっと上っていくという感じになった。日が暮れて真っ暗になる少し前に、やっと修道院に着くことができた。
 修道院は、まわりに何もない山の中にぽつんとあって、本当に孤立していた。中世に建てられた城を改造したものだったから、形は本当に城そのものだったが、絵本に出てくるような背の高いかっこいいものではなかった。背の低いずんぐりしたもので、窓の数も少ないから、室内はいつも薄暗くて、冬の朝にはとても寒くなるそうだった。台所の流しで水が凍っていることもあるとヘルターは言った。
 本当のところ、修道院全体の形は、城だったころとあまり変わってはいなかった。堀は埋め立てられて畑の一部になってしまっているが、内と外の二重の城壁は今でもちゃんと残っていた。内側の城壁はそこそこ高いが、外側のはごく低いから、遠くから見たときのシルエットは、砲と煙突をすべて取り去った不恰好な戦艦のようだった。中庭の壁沿いに、宿舎や厨房、ちょっとした作業場や物置が作られていた。南のすみには、ここが領主の住まいだった時代からの礼拝堂があって、今でも日曜になると、人数は多くはなかったが、近在から信者たちがやってきて礼拝が行われていた。敷地の北のすみに背の高い塔のようなものが一つぽつんと立っているのが、馬車の上からも見えた。ひょろりとしたキノコのような頼りない形なので、何に使うものなのだろうと思った。
 馬車は、ゆっくりと修道院の中へ入っていった。さっきも言ったように、堀は埋められて、ただの地面になっている。かつて跳ね橋があったはずの城門は、今はただの四角い通路にすぎなくて、でも石のアーチの下をくぐりながら天井を見上げると、侵入してきた敵の頭の上に石を落とすのに使った穴がまだ残っていたりした。
 城門をくぐると、すぐ中庭になる。こんな時間だったから、馬車を降りて、私はすぐに食堂へ連れて行かれた。ヘルターと二人でカバンを持って、中庭を横切っていった。どの部屋が食堂なのか、ヘルターが指さしたわけではなかったが、明かりのついた部屋は一つしかなかったので、すぐに見当がついた。私はヘルターのあとをついて歩いていった。
 中庭は、平らにならされてはいたが、とがった石のかけらがやはりごろごろしていて、歩くと、足の下で小さく音を立てた。それでも、すみには畑や小さな花壇が作ってあって、いくつか花も咲いていた。もちろん畑や花壇の部分だけは、黒いやわらかい土に入れ替えてあった。
 あたりは暗くなりかけていたが、足もとが見えなくなるほどではなかった。修道院を取り巻いている森の木々も、まだはっきりと見ることができた。私とヘルターは、食堂へ通じるドアのところまでやってきた。ここ数十年のうちに新たに取り付けた出入口のようで、木でできていて、濃い緑のペンキで塗られていた。ちびてピカピカになった真鍮のノブがついている。こんなものだって、ここが修道院に改造されたときには最新式で、都会の香りをさせていたのかもしれない。
 ドアノブのわきには鍵穴があったが、小さな木片を突っ込んでふさいであった。どうしてなのだろうと私は不思議に思ったが、後になって聞かされたのだが、あるときこの鍵穴の中に巣を作ろうとしたジガバチがいて、それでは困るから穴をふさいだのだということだった。そもそもこのあたりでは、夜間に鍵をかける習慣もなかった。
 このドアを通り抜けると、直接食堂へ入っていけるようになっていた。食堂の中ではもう夕食が始まっていて、ヘルターがドアを開けると、テーブルについていた修道女たちがいっせいにこちらを向いた。十五人ぐらいいたが、みんな少し驚いたような顔をしている。食前の祈りが始まるところだったのか、胸の前で両手を組み合わせかけている人もいた。でもみんな黙っている。
 だがヘルターが「新しいお仲間ですよ」と声をかけたとたん、食堂の中の緊張のようなものは一瞬で解けた。巨大な水圧にじっと耐えていたダムが一瞬で決壊したときのように、修道女たちは声を上げ、息をついた。とたんにざわざわ言い始める。
 私はまだカバンを手に持ったまま、食堂の中を眺めた。学校の教室二つ分ぐらいある広い部屋で、縦に細長い。天井は高く、アーチのような形で屋根を支えている。何本もの垂木が、クジラのあばら骨のように見えている。部屋の奥には、幅が二メートルぐらいの暖炉がある。そのわきには、厨房へ通じるらしい細い通路。振り返ると、部屋の反対側のはしには、修道院内のどこか別の場所に通じているらしい広い通路の入口がある。屋根と天井と窓以外は、壁も床もすべて石でできているようだった。その床の上に、太い木材でできたテーブルが二つ並べて置いてあって、修道女たちはそれに向かって座っていた。彼女たちのおしりの下には、ベンチのように長い腰かけがある。
「あなたがケイトね」
 声が聞こえたので後ろを振り向くと、他の修道女たちと同じ制服を着た中年の女が立ち上がって、私に向かって歩いてこようとするところだった。会うのははじめてだったし、写真を見たこともなかったのだが、伯母だとすぐにわかった。年は離れていたが、伯母は母の姉だった。
 伯母は私のところへやってきて、軽く手をとった。私はカバンを床に置き、手を取られるままになった。
 微笑みながら、伯母は私を見つめていた。背が高くがっしりしていて、いかにも大女という感じがする。本当に肉付きがよくて、手も肩も腕も何もかも丸い。頭巾で隠しているから髪の色はわからないが、私と同じように眉はとても黒く、やわらかくカーブしている。手紙から受けた印象とは違って、話しにくい相手だという感じはしなかった。そのことに少し驚いた。
 すぐに私は修道女たちに紹介され、カバンだってその場に置いたままで、一緒にテーブルについた。私の前にも皿が置かれ、夕食が始まった。
 修道院の夕食というのは、想像していた通りのものだった。キャベツの葉やジャガイモのかけらが浮いているシチューで、薄いコーヒーと、ここの畑で取れた麦を使って焼いた固いパンがついた。望めば、このパンにはバターを塗ることができたが、私は好きではないからやめておいた。イチゴのジャムでもないかとテーブルの上をきょろきょろしたのだが、もちろんあるはずはなかった。
 夕食がすむと、伯母は立ち上がって、私を部屋へ案内してくれた。食堂を抜けるとすぐに広い廊下があって、それをずっと行って、突き当りを右に曲がると別の棟があり、ここが修道女たちの部屋になっていた。全員が個室を持っていて、私も一つもらえることになっていた。廊下を歩きながら私は、ここを足音だけの馬と騎士が歩いていくのかなあと思っていたのだが、不思議なことに、それが特に怖いとも恐ろしいとも感じなかった。
 私がもらったのは一番端の部屋で、大きさも作りも他の部屋とまったく同じだった。古めかしい木製のベッドと小さな戸棚が一つある。左側の壁は一ケ所、四角くくぼませてあって、花を飾ったりできるようになっているが、目にした瞬間に私は、そこは本棚として使うことに決めていた。部屋の奥の壁には正方形の窓があって、今はカーテンが引かれていた。右側の壁には小さな額がかけてあって、油絵が入れてある。誰が描いたものか知らないが、馬の絵だった。背景に海が見えている草の生えた岬に立って、たてがみいっぱいに風を浴びている。見ていると、今にも首を大きく振っていななくのではないかという気がする。
 窓の下には、小さな机とイスがあった。机の上には、石油ランプが乗せてある。机の上に影を落とさないように工夫されたスチューデント・ランプというやつだ。私が学校の勉強をするときのために用意してくれていたのだろう。そのとたんに、明日から学校が始まるのだと思い出して、私は少し気分が暗くなった。
「一年間、ここがあなたの家になるのですよ」
 伯母の声が聞こえたので、私は振り返った。私はカバンを床に置き、一、二歩下がって、ベッドの上に腰かけた。かすかな音を立てて、ベッドがきしんだ。伯母はにっこりして私を見つめ、自分は机の前のイスに腰かけた。
「あなたは都会の生まれだから、戸惑うこともいろいろあるかもしれないけれど」伯母は口を開いた。「慣れれば田舎暮らしもいいものですよ。私もあなたのお母さんと同じ家で生まれたのだけど、ここへ来てすぐに落ち着いたわ」
「でもここは、田舎というよりも僻地という感じね」私も口を開いた。
「修道院だから、ある程度不便な場所に建てられるのは仕方がないわ。俗世を離れるためだから」
「だけど、少し離れすぎじゃない?」
 伯母は再びにっこりした。「そんなことよりも、今夜はもう休みなさい。遠くからやってきたのだから、お話はまた明日にしましょう。明日からは学校へも行くのでしょう?」
 学校のことなんかわざわざ思い出させてくれなくてもよいのにと私は思ったが、口には出さなかった。
 こんなふうにして、私の修道院での生活が始まった。修道女たちに混じって、ここで寝起きするようになった。修道女たちは、祈りと畑仕事でいつも忙しそうにしていた。私は中学校に通うことになっていた。あのケンネルにある中学校だ。小学校なら、ごく規模の小さいものがあちこちの村にぽつんぽつんとあるらしかったが、数十キロ以内には、中学校はこれ一つしかないということだった。
 朝だけは、私は学校まで馬車で送ってもらえた。郵便物を出したり受け取ったりする以外にも、修道女たちにも町へ買出しに出かける必要があったからで、ヘルターの仕事と決まっているようで、いつも彼女が手綱を取った。
 町につくと、ヘルターはいつも同じ店の前で馬車を止めて、買い物を始めた。店の前には『キャリッジの店』と大きく書かれた看板が出ていたが、商店と呼べそうなものはケンネルにはこの一軒しかなくて、郵便局もかねていた。馬車を降りて、私はそのまますぐに学校のほうへ歩いていくのが普通だったが、たまたま早くついたときには、店の中をのぞきこんでみることもあった。店内は薄暗く天井は低く、間口は狭いが奥行きだけはあった。両側の壁に背の高い戸棚が造りつけてあって、ありったけの商品が並べてある。店の主人は中年の男で、皮製の明るい灰色のエプロンをして、一番奥にあるカウンターの向こうにいつもいた。この人には娘がいて、同い年だったから、私は学校で親しくなった。
 店の中に入って、ヘルターが買い物をしたり、主人とおしゃべりをしたりするのを横目で見ながら、私は戸棚を見回してみた。塩漬けの魚、ベーコン、パスタ、コーヒー豆、砂糖、塩、小麦粉、茶の葉、果物といったものが、ビンや缶に入れられたり、むき出しだったり、薄い紙に包まれただけの状態で並べられていた。それが店の奥のあたりで、道に近い手前のあたりには、シーツやカーテンや洋服に使う生地、板や角材などの木材、くぎ、しっくい、ペンキやニス、セメント、それに混ぜる砂、ガラス板、畑で使う肥料などが並べられていた。カウンターのすぐ前には、紙やインク、本、数日遅れの新聞、雑誌、ランプに使う油の缶などが置かれていた。店内の一部には特別に仕切った四角い場所もあって、縦横が二メートルもなかったが、そこが郵便局だった。数は三十ぐらいしかなかったが私書箱があり、切手や小為替のたぐいも販売していた。僻地だから特別料金が加算されるが、電報を打つこともできた。
 ところで、なぜこの町にはケンネル(犬小屋)などというおかしな名前がついたのかというと、開拓時代の始めにはあまりにも粗末な家しかなかったのでそういう自虐的な名をつけたのだとか、ここの最初に住み着いたのがケンネルズという名の男だったからとかいう説があったが、どちらが本当なのかは誰も知らなかった。前者が本当だろうと私は想像していたが、私がいた時代でも、そっちの説が正しいと思えるような建物ばかりが並んでいた。
 中学校の建物は、ここへ来た最初の日に見たとおりで、木造の小さなものだった。入口は一つしかなくて、屋根は切妻になっている。その屋根の上には風見鶏が乗っているが、いかにもとってつけた感じで、あまり似合ってはいなかった。本当に四角いだけの建物で、壁も屋根も木で作られているが、屋根の表面だけは、雨漏りを防ぐために薄い金属板が張られている。去年張り替えたのだとかで、そこだけは新しくきらきらしていたが、それがまたちぐはぐな感じだった。
 玄関から校舎の中へ入ると、短い廊下があって、すぐに教室につながっていた。この教室が校舎の大部分を占めていて、あとはロバリー先生のための小さな控室と物置があるだけだった。トイレは、校舎の裏にある狭い運動場のわきに小さな小屋が建ててあって、それを使っていた。
 ロバリー先生というのは四十歳ぐらいの男の人で、この人がすべての教科を教えていて、他には教師は一人もいなかった。生徒は十五人ぐらいいたが、年齢はばらばらで、十二歳から十六歳までが、一つの教室にごっちゃになっていた。その中の一人、オスカーという名のいかにも腕白そうな男の子がさっそく教えてくれたのだが、ロバリー先生は背が高くてあんなにやせているけれど、実はものすごい大食漢で、普通の量の食事だけではとてもたりなくて、新しい死人が出るたびに、夜中に墓地に忍び込んで墓を暴いては死人をバリバリ食べているのだそうで、「修道院の裏の墓地にも出没するらしいから、修道院に住んでいるのなら、おまえも気をつけろ」と言われたが、バカらしくて、私は返事もせずに鼻を鳴らしただけだった。
 このあたりの子供は、私のような都会の子供は軟弱で泣き虫だと思っているらしかったから、バカにされないためにも、私は早いうちに一発がつんと言わせておくことにした。だからその機会を探していたのだが、それは学校へ行くようになって三日目にやってきた。
 ロバリー先生が黒板の前に立って、歴史の授業を始めようとしていた。この学期の最初の歴史の授業だったのだが、その中でロバリー先生は、国や社会だけでなく、それぞれの家庭や家系にも歴史があるという話をした。それからロバリー先生は生徒の一人一人を立ち上がらせ、自分の家の歴史について、一分かそこら話をさせた。だからみんな話し始めたのだが、たいがいは農場や開拓者の家の子で、先祖がどこそこから引っ越してきて、どこを開拓し、その前は何をしていたという話が多かった。そういうのが何人か続いた後で、とうとう私の番がやってきた。立ち上がって、私は話し始めた。
「私の曽祖父の祖父は帆船を持っていて、南の海をいろいろ旅していました。そして外国で金鉱を見つけ、お金持ちになって帰ってきました。その息子は政治家になるという野望を持ち、議員の選挙に立候補し、貴族や議員たちにたくさん賄賂を贈って一文無しになったのに、選挙には落選してしまいました。その人は腹を立てて、議員や貴族たちに仕返しをしようとして、ある屋敷からトンネルを作って掘り進み、議事堂の地下室に達し、そこに樽いっぱいの火薬を七つ運び込みましたが、爆破はうまくいかず、本人も捕まって、しばり首になりました。だから私の家は、今ではあまりお金持ちではありません」
「それは本当なのかい?」口を閉じて私が座ると、ロバリー先生が言った。びっくりしたような、きょとんとした顔をしているのがおもしろかった。
 もちろん私は、すぐにうなずいた。すべて本当のことだった。あの事件以来、私の家は社会的な力を失ってしまったが、少なくとも歴史の教科書に名前は残った。
「バヨネッツというから、同じ姓だなとは思っていたのだがね」とロバリー先生は締めくくって、次の生徒を指さして立ち上がらせた。
 バカにされないようにガツンとやるという意味では、この作戦は成功のようだった。このあと私は、男の子たちから髪を引っ張られたり、ポケットの中にチョークのかけらを入れられたりするようなことはなくなった。


 その数日後、午後になって学校を終えて、私は一人で山道を歩いていた。ケンネルの町が見えなくなって、まわりには岩と森と空しかない上り坂にかかったあたりだった。天気のよい日で、雲は空のすみにほんの少し、小さいものがいくつか浮かんでいるだけだった。
 そうやって何分間か歩き続けて、ふと前を見たとき、前方のはるか遠くに何かがいることに私は気づいた。ここは道が何百メートルか直線になっていて、まるで天国へでもまっすぐ上っていくみたいに、空に向かって駆け上がっていた。私はその一番下にいて、ずっと先にその何かが見えているわけだった。
 私は、立ち止まって目をこらした。茶色をしたものだった。このあたりの地面は、どこもかしこも白くて、岩がごろごろして砂っぽかった。何日か雨が降らないと、すぐにほこりだらけになった。馬車に乗せてもらっているとき、走りながら後ろを見ると、車輪が白いほこりを派手に巻き上げているのが目に入った。路面はデコボコだらけだが、都会の石畳とは違うそういう乗り心地も、私にはおもしろく感じられていた。それはともかく、そういう真っ白な坂道の頂上あたりに、その茶色のものが見えているわけだった。
 身動きをしないので、それが何なのか、長い間わからなかった。でも不意に動き始めたので、とつぜん私にはわかった。あの茶色は毛皮で、そういう動物が一匹、この先の道の真ん中に立って、こちらを見ているのだった。その頭の上に、王冠のような角が乗っていることにも私は気がついた。
 私は少し注意して眺めたが、いるのは一頭だけで、なぜか群れは連れていないようだった。トナカイのボスが群れを離れて一頭だけで行動することが、よくあることなのかどうなのか知らなかったので、これが珍しいことなのか、そうでないのかは私には判断がつかなかった。トナカイは立ち止まったまま、じっと私を見つめている様子だった。
 どうしたのだろう、と私は思った。どうして私を見つめているのだろう。私はどうすればいいのだろう。このままあのトナカイに向けて歩き続けてもいいのだろうか。
 だが私には、長いあいだ心配し続ける必要はなかった。トナカイは不意に動き始め、ぴょんと飛ぶように道を離れ、茂みの中へ見えなくなってしまった。
 翌日、学校へ行って、昼休みに友だちと話していたとき、私はこのトナカイのことを思い出した。私はキャリッジさんの娘のアリシアと親しくなっていて、休み時間にはいつも一緒にいた。アリシアは長い金髪のきれいな子で、淡い色の瞳をいつもきらきらさせていた。ただ、店で父親の手伝いをさせられることがあるのか、ときどきベーコンや塩漬けの魚の匂いをさせていることがあった。本人は気がついていないに違いなかったが。
「あのトナカイの名前は、フサルクというのよ」とアリシアは教えてくれた。
「フサルク?」
 私は目を丸くしていたに違いない。アリシアが笑った。「変な名前よね。どういう意味なのか、誰が名づけたのかもわからないけど、町の人はみんなそう呼んでいるわ」
「フサルク」私はもう一度つぶやいた。なんだかとても不思議な名前のような気がした。りりしいような優しいような。男らしいような女らしいような。
「フサルクってメスなのよ」突然またアリシアが言ったので、私は驚いて顔を上げた。アリシアは笑った。
「あのトナカイはメスなの?」
「町の人はみんな知っていることよ」アリシアは機嫌よく続けた。「メスのトナカイが群れのボスになるのはとても珍しいわ。それに、その群れが冬になってもツンドラ地帯へ移動せずに、一年中このあたりにとどまっていることもね。
 近くで見たことのある人の話では、フサルクって、とても体が大きいんですって。普通のオスのトナカイよりもよっぽど大きい。だから、メスなのに群れを率いることができるのだろうって」
「大きいって、どのくらい?」私は昨日のことを思い出しながら言った。あのとき、フサルクまでの距離はどのくらいあったのだろう。
 アリシアは、いたずらっ子のように目をくりくりさせた。「このあたりの農場にいる馬たちよりも大きいわよ。おばけトナカイというあだ名もあるぐらいだから。サミュエルじいさんの話だからあてにはならないけど、近くで見ると、本当に象ぐらいあると思えるほどなんだって」
 サミュエルじいさんのことは私も知っていた。いつも酔っ払って、船着場に座り込んでいる男だ。だからあまり信用できないとしても、農耕馬よりも大きいというのは気になった。私は、このあたりの農場ですきを引いている馬たちのことを思い浮かべた。胴も足も太く、都会で馬車を引いたり人を乗せたりしている馬たちとは比べ物にもならない。肩までの高さが大人の身長ぐらいある。だから、もしフサルクがあれよりも大きいのだとしたら…
 だがこのとき、午後の授業の始まりを告げるベルをロバリー先生が鳴らし始めたので、私の空想はここで終わりになってしまった。
 この日の学校がすんでから、私はわくわくしながらあの山道にさしかかったが、フサルクに出会うことはなかった。修道院について、私はすぐに伯母の部屋へ行った。伯母はここの修道院長だったから、事務や書類仕事をするための部屋を一つ持っていた。ノックをしてみたが返事はなく、いつもカギのかかっていないドアを念のために押し開けてみると誰もいなかったので、そのうちに伯母も戻ってくるだろうから、私は中に入って待つことにした。
 見回すと、壁は板張りになっていて、石がむき出しのままになった他の部屋よりも少しは部屋らしく見えた。真ん中に大きな机があって、何冊かの本、書類の束とか、まだ封を切っていない郵便物とか、そういったものが上に置いてあった。
 机の向こう側には、伯母が座るイスがあった。高い背があって、全体が茶色い木でできている。その木の表面には、細かい模様が彫ってある。一度は座ってみたいと思っていたが、見つかって怒られたら嫌だから、私は机の前に立ったまま待っていた。
 伯母はすぐに戻ってきた。鶏小屋の掃除でもしていたのかもしれない。制服のそでに白い羽根が一枚くっついていた。手を伸ばしてそれをとってやりながら、私は話しかけた。
「ねえ伯母さん。フサルクって、ずっと前からこのあたりにいるの?」
 伯母は小さくありがとうとつぶやき、にっこりしてイスに座った。私をまっすぐに見上げ、口を開いた。
「どうしてそんなことをきくのです?」
 その声の中に、何かおかしな雰囲気があることに私は気がついた。何なのかよくわからなかったが、恐怖か怒りのようなものだという気がした。でもあまりにもかすかな印象だったから、思い過ごしかもしれないという気もすぐにした。私は少し戸惑って見つめ返したが、もう伯母の顔には何も見えなかった。
 やっぱり思い違いだったのかと思って、私は口を開き、ここへ来た最初の日に馬車の上から見かけたことや、学校から帰る途中の山道でも見たこと、フサルクという名のメスだとアリシアから教えられたことなどを話した。伯母は私を見つめたまま、黙って聞いていた。
「あれがフサルクという名だというのは本当です。群れを率いているメスだということもね」とうとう伯母は言った。「いいわ。あなたも気になるだろうから、いま話しておきましょう。といっても、あれは危険な動物ではないのですよ。たまたまあなたは二度も見かけたようだけれど、いつもは森の奥深くに潜んでいます。人前にはめったに姿を見せません」
 伯母はいったん口を閉じた。私は黙って待っていた。伯母はしばらくの間、どこから話し始めたものか迷っている様子だったが、とうとう心を決めたようだった。伯母は再び口を開いた。
「もう十年以上も前のことだけれど、ここから少し離れた場所に、ブロンズという名の女が住んでいたのです。家族は都会にいたのですが、事情があって家族から離れて、ブロンズは山の中で一人で暮らしていました」
「どんな事情?」
 伯母はにっこりした。「それは、あなたのような子供には話せないことよ」
 私は不満だったが、話の続きを聞きたかったので、それ以上は言わないことにした。伯母は続けた。
「ブロンズは昼間、よく一人で野山を散歩していました。食べ物や身の回りの世話は、そばにいる女たちがしていました。そのブロンズがある日、森の中で一頭のトナカイを見つけたのです。まだ乳離れもしていない子供のトナカイで、北へ移動していく群れからどういうわけか一頭だけはぐれてしまい、一人ぼっちで取り残されていたのです。
 子トナカイは、ブロンズの姿を見ても怖がる様子はありませんでした。疲れきって、それどころではなかったのかもしれません。母親を求めて鳴き続け、何日間も当てもなくさまよっていたのでしょう。ブロンズが頭をなでてやっても嫌がる様子はなく、小川の水を手でくんでやると、ごくごくと飲んだそうです。ブロンズは、このトナカイを家へ連れてかえることにしました。
 ブロンズは、このトナカイを自分の手で育てることにしました。そうしないとすぐに死んでしまうことはわかりきっていたからです。群れに戻してやるにしても、北へ行った群れがこのあたりに戻ってくるのは何ヶ月も先のことです。それまで一人で生きていけるはずはありません。
 ブロンズは子トナカイに、フサルクと名をつけました。どういう意味をこめてかは誰も知りません。ブロンズはフサルクに牛のミルクを与え、フサルクは、実の子供のようにブロンズになつきながら成長していきました」
「それがあのトナカイなの?」
「ええ」伯母はにっこりした。「でもそれから何ヶ月もたたないうちに、ブロンズは突然死んでしまいました。病死だったようです。フサルクは群れに戻されました。偶然だけれど、ちょうど同じころにトナカイの群れがこのあたりに姿を見せたのです。フサルクはすっかり成長して、角の生えかけた若いトナカイとなっていましたが、群れは自然にフサルクを受け入れてくれました」
「ブロンズはどういう病気で死んだの?」
 伯母は、ゆっくりと首を横に振った。「それは知りません」
「ふうん」
「その後もこの群れは、それまでと同じように、このあたりと北のツンドラ地帯を季節ごとに往復して暮らしていました。それが何年か前、フサルクが群れのボスになったころから、不思議な変化が起こったのです。群れは、このあたりを離れなくなりました。もうツンドラへは戻らず、一年中フィヨルド地帯で過ごすようになったのです」
「どうして?」
「誰にもわかりません。ただ人々は、フサルクはブロンズが戻ってくると信じて、それを待っているのではないかと噂しているのです」
「伯母さんはどう思うの?」
 伯母はくすりと笑った。「私は詩情のない人間なのか、死んだ女の帰還をトナカイが待ち続けるとは思えません。トナカイは野生動物です。野生の動物のほうが、生や死の論理を、人間よりもはるかに深く理解していることでしょう。死んでしまった女を待ち続けるトナカイがいるとは、私にはとても考えられません」
「ふうん。ねえ、その女の人、本当はどういう名前だったの? ブロンズというのはあだ名なんでしょう?」
 私はよく覚えているが、私がそう質問すると、伯母はひどく困ったような顔をした。
「ええ、もちろんあだ名です。でも私も、彼女の本当の名前は知らないのですよ。直接会ったことはないのです。緑色がかった黒髪をしていたことから、そうあだ名されたそうです。瞳も、髪に合わせたような青と黒の中間のような色合いだったとか」


 この修道院は山の奥も奥、これよりも北へ行く道は存在しないという場所にあった。修道院の北側は、それほど険しいものではないが、丘に面していた。この丘が数百メートル続いて、本格的に山岳地帯に入ることになる。とがった岩でできていて、標高が高いから、茂みや孤立した木がぱらぱらあるほかは、森もできない場所だ。
 私は、修道院の中庭から、その丘や山を眺めるのが好きだった。ここへやってきた翌日から私はそうしていたのだが、丘の中腹にある小さな小屋のことには、もちろんすぐに気がついた。それは木でできていて、本当にマッチ箱のようにちゃちに見えた。ある本の中で、主人公ごと簡単に竜巻に巻き上げられてしまうあの家のように、丘の上でほんの少し平らになった狭い場所にぽつんと置かれていた。よく見ると、修道院の裏門から細い道が、くねくね曲がりながらその小屋へ向かって伸びているのがわかった。
 そのとき、私は学校から帰ってきた直後だったが、夕食まではまだまだ時間があったので、ちょっと見にいってみることにした。中庭を横切って、耕されて黒い土がつやつやしている畑や、古めかしい形をした鋳鉄製のポンプがある井戸のわきを通って、裏門に近寄った。
 あまり使われている様子はなかったが、裏門は壊れてなどいなかった。鍵はかかっていなかったから、私はすぐにカンヌキをはずし、門扉を開けることができた。門扉は、木の板と細い角材を組んで作ってあったが、砂ぼこりをかぶって、全体が白っぽくなっている。私が触れると、砂が取れて手の跡が残った。本当にかなり長いあいだ人の手が触れていないようだった。
 門を出て門扉を閉め、私は山道を歩き始めた。真っ白な土の道で、思っていたよりも急な坂道だったが、私は登っていった。
 ぐねぐね曲がりながら、道は高度を稼いでいった。ときどき、ひじのように急角度でかくんと曲がる。私は何度か振り返って、景色を眺めた。修道院は、そのたびに小さくなっていった。楕円形の城壁に囲まれて、ミニチュアか箱庭のようにかわいらしい城だ。これを修道院に改造するというのは、とてもいい思い付きだと思った。今、自分がその中に住んでいることをとても幸運に思った。
 中庭をヘルターが歩いているのが目に入ったので、私は大きく手を振った。ヘルターもすぐに気づいて、振りかえしてきた。また前を向き、私はずんずん坂道を登っていった。
 小屋の前には五分ぐらいでついた。近寄ると、下から見ていたよりは大きなものだった。でも、住むとしても、せいぜい一人しか暮らせない程度の大きさだ。縦も横も五メートルぐらいの正方形で、その上に四角い屋根が乗っている。入口はドアが一つ。ぐるりとまわりを歩いてみたが、窓は南側と西側に一つずつしかない。窓にはすべてガラスがはまっていて、よく見ると、かなりしっかりした作りの建物のようだった。ただの粗末な小屋ではなくて、小さいものではあるが、大工や職人がちゃんと手をかけたもののようだ。のぞき込んでみたのだが、きちんと石を積み上げたしっかりした土台が、床下に見えていた。
 私は不思議に思った。始めは狩猟小屋か何かだと思ったのだが、そうではないようだった。小屋というよりも、小さな家というほうが正しい。でも誰が、何のためにこんな場所に建てたのだろう。修道院の物置としても立派すぎるし、こんなに離れていては、ずいぶん不便ではないか。
 私は一瞬、何か秘宝のようなものが修道院にはあって、大切だがとても危険なものであるから、こんなに離れたところに保管場所を作ったのだというようなことを空想しかけたが、すぐにやめた。あの修道院には金目のものなどとてもありそうにないし、それ以上に、数百メートルも離れた場所にわざわざ保管しなくてはならないようなものなど考えられないではないか。
 もちろん私は、窓から小屋の中をのぞき込もうとした。でも窓には白いカーテンがぴっちりと引かれていて、何一つ見えなかった。だから私はあきらめて、修道院へ戻ることにして、また急な坂道を歩きはじめた。
 翌朝、馬車で学校まで送ってもらっているときに、私はヘルターに言った。
「あの丘の上の小さな小屋は、何のためにあるの?」
 前にも言ったように、ヘルターはまだ三十歳にもなっていない若い人だった。だからきっと、修道院がかかえている秘密については知らされていなかったのだろう。今から思えば、私を馬車に乗せて学校まで連れていくという仕事をあてがわれたのだって、それが理由だったのだろう。知らない秘密は漏らしようがない。
「ああ、あの小屋」手綱を持ったまま、ヘルターはのんきそうに答えた。「十年ぐらい前に、女の人が一人で住んでいたそうよ。私が来る前だから、会ったことはないけれど」
 馬車は修道院の門を出て、下り坂にさしかかったところだった。ヘルターは軽くぺダルを踏んで、ブレーキをかけながら下っていった。
「どんな人だったの?」もちろん私は胸がどきりとしていたが、顔には出さないようにしていた。
「知らないわ」ヘルターは歯を見せて笑った。「それより学校の調子はどう?」
 ヘルターは親切な人だったと思う。でも、このときの私にとってはまったく役に立たない人だった。私は適当に話をあわせながら、頭の中ではまったく別のことを考えていた。ゴトゴト揺れながら、馬車はゆっくりと走り続けた。馬はときどき振り返って、座っているだけで自分たちは何もしない二人の女たちを恨めしそうに眺めていた。
 この馬の名はヒマワリといった。でも名前とはぜんぜん違って、明るくからっとしたところのないじめじめした性格の馬だった。私はあまり好きではなかったが、ヘルターは馬の性格に気がつかないのか、気がついても気にならないのか、よく世話をし、かわいがってやっていた。でもヒマワリは、たてがみをなでられても迷惑そうに見つめ返すだけだった。私はときどき、そんなことをするよりも、しっぽを思いっきり引っ張ってやるほうが、よっぽど生き生きした表情をこの馬から引き出すことができるんじゃないかという気がした。
 馬車がケンネルについた。少し早い目についたのだったが、私は店の中をのぞき込んだりせず、すぐに学校に向かってかけていった。アリシアは、校門を入ってすぐのところにある大きな木の幹に寄りかかって、他の女の子たちとおしゃべりをしていた。でも私の姿を見ると、すぐにかけよってきた。
「おはよう」
「うん、おはよう」
 私はアリシアの顔を見つめた。あの馬とは逆で、アリシアは底抜けに明るい子だった。ヘルターと似ているといえるかもしれない。アリシアと並んで庭を横切りながら、どう切り出したものかと私は言葉を探していた。
「どうかしたの?」アリシアが不思議そうな顔をした。
「ねえあんた」私は顔を上げた。「ブロンズって女のこと、聞いたことある?」
「ブロンズ? それが名前なの? 女の人?」
 私は黙ってうなずいた。だが私は、とても真剣な顔をしていたのだろう。そういう私の表情が珍しいのか、おもしろかったのか、アリシアは笑い始めた。「それは苗字なの? 名前なの?」
「あだ名らしいわ」
 そりゃそうよねというように、アリシアは大きくうなずいた。でも次にアリシアが口にした言葉は、私をひどくがっかりさせた。
「聞いたこともないわ。どこに住んでた人?」
 もちろん私には、アリシアを責める気はなかった。アリシアは私とは同い年だ。十年前といえば、まだ二歳かそこらだ。何も知らなくて不思議はない。
「それがどうかしたの? あんた変よ」アリシアは言った。
「ううん、なんでもないの」私は首を大きく左右に振って、アリシアの手をとってかけだし、玄関を通って校舎の中へ飛び込んでいった。廊下の角を曲がるとき、控室にいるロバリー先生の姿がちらりと目に入った。
 机の上にカバンを置いてから、アリシアを振り返って私は言った。「ロバリー先生って、いつからこの学校にいるの?」
 アリシアは、鼻の頭に軽くしわを寄せた。考えごとするとき、いつもアリシアはそうした。そうやると、かわいらしい顔が台無しになって、昔話に出てくる悪い魔女のような顔になる。それを目にするたびに、あんな表情をしなければいいのにと私は思ったが、口に出したことはなかった。
 アリシアは明るい声で答えた。「五年ぐらい前だと思うよ」
「それは確かなの?」
 自信に満ちた表情で、アリシアはにっこり笑った。「石の中の悪魔に誓ってたしかよ。私が小学校へ行き始めて、少したったころだったもの」
 私は再びがっかりした。心の中で、ロバリー先生の名をリストから消した。
 その日は一日中、私は勉強に身が入らなかった。普段の日でもそうまじめではなかったのだが、この日は特にぼんやりしていて、しかられはしなかったが、何回かロバリー先生ににらまれた。
 でもにらまれても、私は反抗的な気持ちがしただけだった。たった五年前にやってきた役立たずのくせに、一人前の顔をするんじゃないという気分だった。
 授業がすんで、カバンをつかんで、私は校舎を飛び出した。本当はアリシアがお茶にさそってくれていたのだが、伯母から言いつけられている仕事があるから急いで帰らなくてはならないとウソをついて、私はかけていった。
 親友にウソをついて、罪悪感を感じなかったわけではない。でもあの日の私は、そんなことにはこだわっていられない気分だったのだ。私は船着場へ行き、材木倉庫の裏手に走りこんだ。いったん立ち止まって、倉庫の影からそっと振り返って、もうアリシアが店の中へ入ってしまったかどうかを確かめた。アリシアがこの日、腰のまわりにしめていた明るい水色のサッシュが、店の前に並べてあるコーヒー樽の影に消えていくのがちらりと見えた。
 私はそっと道に戻って、船着場を見回した。小さなベンチが二つあるだけの待合室があるが、今日は船のつく日ではないから、人影はまったくなかった。船に積み込まれるのを待っている荷物の山もない。ここには本当に誰もいないようだった。
 私はサミュエルじいさんを探していた。私は造船所のほうへ行ってみることにした。
 造船所は船着場の続きにあった。でも言葉から想像するような大きなものではなく、手漕ぎのボートや小型の帆船や、せいぜい貨物用の平底船が専門の町工場のように小さなものだった。フィヨルドに面した斜面を平らにならして、そこに作ってあるが、平底船を一隻陸揚げするのがやっとの広さしかない。ここで扱うのは木造の船ばかりなので、地面には木の切れ端や木くず、カンナくずなどが無数に散らばっている。その上に船を乗せて進水させるのに使う汽車の線路のようなものが一組、水面を向いて突き出しているが、今はその上には何も乗っていない。船にエンジンの部品などをつみおろすのに使う小型のホイストが一台、そのわきにぽつんと立っている。その向こうには事務所もあるが、今はどこかへ出かけているのか、窓からのぞきこんでも人の姿はなかった。もちろんサミュエルじいさんの姿もなかった。
 私はため息をついて立ち止まり、水面を眺めた。うねりはなくほとんどまっ平らだが、弱い風が吹いているせいで、表面はわずかに波打っている。赤い透明な水だ。とても静かだった。だが次の瞬間、町の中が不意に騒がしくなったことに私は気がついた。最初に聞こえてきたのは、人の声だった。塀や建物が邪魔になって直接は見えないが、ここから少し離れたところで、男たちが叫び、声を上げているのだった。
「そっちへ行ったぞ。気をつけろ」
「なんてこった」
 なんだろうと思って、声がする方向を向いて、私は首を伸ばした。そのとたん、別の音が聞こえてきた。
 何かが地面の上を勢いよく走る音だった。ひづめを持った足の裏の固い動物のように聞こえた。だが、聞きなれた馬のひづめとはどこか違うような気もした。なぜだろうと思った。リズムが違うのだろうか。
 そうかもしれないという気は確かにした。そうだ。馬のように足を前後に忙しく動かして走っている感じではない。バネのようにしなやかにジャンプを繰り返しながら、空を飛ぶように走っているのに違いない。ひづめが地面に触れても、毎回その後に、音のまったく聞こえない瞬間がある。そのときこの動物は、猫のように地面の上を高く飛んでいるのだろう。それだけではない。ひづめの音そのものも馬とは違うようだ。
 ひづめの音はまだ高く聞こえている。やはり建物の影なので姿は見えないが、町の通りをまっすぐに走っているようだ。その動物が移動するにつれて、人々が叫び声を上げる場所も移動していった。
「よけろ、危ないぞ」
「くそ、何を考えてやがんだ」
 いま、通りでちょっとした騒ぎが持ち上がっているのは間違いないようだった。それが何なのか、あいかわらず私がいる場所からは見えなかった。私の心は、再びひづめの音のことに戻っていった。そして不意に気がついた。やはりそうだ。音の質が馬のものとは違う。石の上を踏むときに聞こえるはずのカチカチした金属的な感じがないのだ。あのひづめの持ち主は、蹄鉄など持っていないに違いない。
 次の瞬間、音の主がとつぜん私の前に姿を現した。造船所は、通りとは背の高い木の塀で仕切られていた。そのせいで私には通りの様子が見えなかったのだが、その動物はその塀を飛び越えて、私の前に姿を現したのだ。足を前後に伸ばし、三日月のように身体を丸くして、本当に軽くひょいと飛び越えてきた感じだった。着地したのは私から何メートルも離れていない場所で、散らばっていた小石や木クズをいくつも弾き飛ばしたが、本人はバランスを崩すこともなかった。
 フサルクだった。
 思わず、サミュエルじいさんの言っていたことは本当だと私も感じずにはいられなかった。首都に住んでいたころ、私は父に連れられて、大通りで行われた陸軍のパレードを見物に行ったことがあった。戦車を何台も連ねた行進だったが、キャタピラで石畳を踏みしめながら、大きな騒音を立てて走っていた。私は、戦車たちの大きさにひどく驚いたことを覚えている。四角や三角に切った何枚もの鉄板をリベットで組み合わせて作ってあって、全体がゴツゴツしている。車体に比べて砲塔は小さいが、それでもキツツキのくちばしのように、砲を誇らしげに前方に突き出している。あれはたしかルノー戦車といったが、私の目の前に現れたフサルクは、本当に同じぐらいの大きさがあるように思えた。フサルクは立ち止まり、ルノー戦車が砲塔を回転させるときのように首を曲げて、目の前にいる私をじっと見つめた。
 もちろんサイズはぜんぜん違うが、フサルクの頭の上に広がっている角は、ルノー戦車の砲塔の上に取り付けられていた無線機のアンテナに似ていなくもなかった。誇らしげに空を向いて突き出している。
 どのくらいの間フサルクと見つめ合っていたのか、私にはわからない。私は呆然と見上げ、フサルクは見下ろしていた。大きな茶色の瞳に、私の顔が白く反射していた。
「あっちだ。造船所のほうへ行ったぞ」
 また人の声が聞こえてきた。振り向くと、造船所の門が勢いよく開いて、数人の男たちが飛び込んでくるところだった。みんな殺気立っている。木の棒を手にしているものもいる。
 どうしたの、と私は言おうとした。でもその前に、フサルクがさっと動いた。男たちをちらりと見つめ返し、まるでじらすようにゆっくりと歩き始めたのだ。長い脚を一本ずつ、そっと地面から引き抜くようにして前へ送っていくところは、ハイヒールをはいた女の脚を連想させた。フサルクはメスだということを、私は思い出した。
 そうやってフサルクは、小石だらけの岸辺へ向かって進んでいった。足をぬらし、すぐに赤い水が、ざぶざぶとフサルクの身体を包んだ。頭だけを水の上に出して、フサルクは泳ぎ始めた。男たちのことなんか露ほども気にしていない様子で、岸から遠ざかっていく。水の中では足を忙しく動かしているのだろうが、私のいた場所からは見えなかった。午後の光を受けて、水面はきらきら光っていた。巨大な角が、三角形をしたヨットの帆のようだ。
「けっ、逃げちまったか」私のそばまでやってきて、男たちの一人が言った。でもそれが、わざと私に聞かせるために大きな声で言ったような気がして、なぜだろうと思った。すぐにその男は私のほうを向き、「ケガはなかったか?」と言った。
「うん」男のほうを向いて、私は答えた。だがすぐに、私はまた水面に目を走らせた。もうフサルクは、かなり遠くまで行ってしまっていた。フィヨルドをへだてて、この町の反対側にも陸地があって、このあたり独特の険しい尾根のような形に盛り上がり、樹木に覆われていた。フサルクはそこへ向かっているようだった。
 私はその場にとどまって、水の上を眺め続けたが、男たちはすぐにどこかへ行ってしまった。ただ、そのときに聞こえてきた会話の断片から、彼らがかなり驚き、恐怖まで感じていたらしいのは感じ取ることができた。確かに、めったに姿を見せない、しかもあんなサイズのトナカイが町の中にとつぜん姿を現したのであれば、驚くのも当然かもしれないが。
 ところで、私にはもう一つ気づいていることがあった。あの男たちの中に、木の棒を手に持っている男はいたが、それ以外は全員が丸腰だったことだ。この町には猟師もいるから、猟銃の一本や二本が持ち出されていても不思議はない。きこりが使うナタやノコギリだって、立派な武器になるはず。でもそんなものは、誰一人持ち出してはいなかったのだ。木の棒を持った男というのだって、私は後になって気がついて、一人で笑い始めたのだが、あれはパン屋の主人が使うもので、テーブルの上でパン生地を伸ばすための丸棒だったのだ。だからあの男は、武器としてあの棒を持ち出してきたのではなく、フサルクが町に現れたと聞いて、思わず飛び出してきたのだろう。ちょうど仕事中で、自分が手の中に何を持っているのかも気づかずに。
 つまり町の男たちは、驚いてあとを追いかけただけで、フサルクを殺したり傷つけたりする意思はまったくなかったのだろう。都会にいたころ私も経験があるが、公園で遊んでいたら、不意に上空に飛行船が姿を見せたことがあった。気象観測用に海軍が飛ばしたものだったが、子供らはみんな叫び声を上げ、すべての遊びを中止して、夢中になって駆け出し、追いかけたものだった。飛行船が運河を越えていってしまい、もう追いかけることができなくなるところまで。
 男たちみんながいなくなってしまった後も、私は造船所に残って、フサルクがフィヨルドを渡りきって、向こう岸の森の中へ姿を消してしまうまで見送っていた。私は、飛行船を見たときと同じような気持ちでいたのかもしれない。
 フサルクの姿が完全に見えなくなってしまってから、カバンを握りなおして、私は歩き始めた。男たちが通っていった門を抜けて、通りに出た。修道院へ向かって歩き始めた。
 この日の夕食がすんだ後、部屋へ行って、私は伯母に話しかけた。
「ねえ、伯母さん。そこの丘の上にある小さな小屋は、誰が管理してるの?」
「どういう意味なの?」とつぜん不審そうな顔になって、伯母は私を見つめ返した。ここ数日かすかに感じていたことだが、フサルクのことを質問して以来、伯母が私を見る目が変化しているようだった。それをこのとき、私は再び感じていた。伯母は何かを隠しているのかもしれないという気がした。
 ぎこちない表情に見えるに違いないと自分でもわかっていたが、私は伯母に微笑みかけた。「だって、存在する以上は誰かの所有物なのでしょう?」
 伯母は大げさにため息をついた。それはまるで、何にでも興味を持つ私にあきれたという表情を装ってはいたけれど、実は伯母は恐怖か怒りを感じているのに違いないという気が、なぜか私はした。伯母は言った。
「ええ、あの小屋はこの修道院の一部なのですよ。私が管理しているのです」
「私、あの中が見たいわ」
 私が大きな声でそう言うと、伯母は目を大きく見開き、とんでもないという顔をした。鼻の穴から息を吐き出しながら、再び口を開いた。「なぜあんなものを見たがるのか、私には理解できないわ」
 できるだけ無邪気に見える表情を作って、私は答えた。「見られては困るものが置いてあるの?」
「そんなものはありませんよ。何を言うのです」伯母は怒ったような声を出した。
「じゃあ中を見せて」
 伯母はわざとらしく大きなため息をつき(伯母は、私がどうしようもないわがまま娘であると印象付けたかったのだと思う)、机の引き出しを開けて、キーを一つ取り出した。古めかしい形をした真鍮製のキーで、引き出しの一番底、古い教区月報の束の下にいれてあった。きっと隠してあったのだと思う。
 伯母は私に向かってキーを差し出しかけたが、私が手を伸ばすとすぐに引っ込め、触らせないようにした。私を見つめ返し、まじめな顔で言った。とても強い調子だった。
「小屋の中を見てもいいけれど、あなた一人ではだめですよ。ヘルターを呼んできなさい」
「はい、伯母さん」
 おとなしく言うことをきくことにして、くるりと振り返って、私は部屋を出た。廊下に出て、ヘルターを探しにいった。
 ヘルターはすぐに見つかった。礼拝堂で、夜の祈りのための準備を手伝っていた。私はヘルターに話しかけ、伯母の部屋へ連れて戻った。ヘルターは目を丸くしていたが、仕事を中断して、一緒に来てくれた。
「ヘルター」ヘルターの顔を見て、すぐに伯母は言った。「このキーを使って、明日、この子にあの小屋の中を見せてやりなさい。危ないことなどないけれど、念のため、あなたがずっとそばについていなさい。終わったら鍵をかけて、キーはあなたが私のところへ返しにくること。いいですね?」
 伯母の声の調子に驚いている様子だったが、手を伸ばし、ひざを軽く曲げてキーを受け取りながら、「はい」とヘルターは答えていた。
 翌日、私は学校が終わるのが待ち遠しくて仕方がなかった。やっと午後の授業がすむと、カバンをひっつかんで、アリシアに手を振って、私は校舎を走り出た。ほとんど走るようにして、私は山道を上がっていった。修道院の門を通り抜けるころにはハアハア息をついていたが、自分の部屋へ戻ってカバンを置くと、すぐにヘルターを探しにいった。
 ヘルターは台所にいて、他の何人かの修道女たちと一緒に洗い物をしていた。顔を赤くして、私が汗だらけでいるのを見て、すぐにカップに水をくんで、飲ませてくれた。私は一息に飲み干し、言った。
「ねえヘルター、あの小屋を見にいこうよ」
 まわりの修道女たちがくすくす笑い始めるのが聞こえた。
「ここはいいから、行ってらっしゃいな。ヘルター」その中の一人が言った。
 だから二分後には、私はヘルターの手を引いて、中庭を歩いていた。裏門を出て、丘の坂道を登っていきながら、私はうれしくて仕方がなかった。なぜなのか自分でも理解できなかったのだが、小屋の中を見ることができるというだけで、踊りだしたいほどだったのだ。ヘルターの手を引いて、私はずんずん上っていった。
 小屋は、前のときとまったく変わらない様子で立っていた。気のせいに違いなかったが、ずっと私を待っていてくれたのだろうかという気がした。
 ヘルターが鍵を開ける間も、私は待ち遠しくて仕方がなかった。正直に言うと、ヘルターが慣れない手つきで南京錠をいじくっている間、私は少しいらいらした。
 やっとドアが開いた。ヘルターのことも何もかも一瞬で忘れて、私は小屋の中に足を踏み入れた。この小屋は私を待っていたのだという思いは、小屋の中に入っても消えることはなかった。部屋の中のすべて、壁や床や天井や、並んでいる粗末な家具のすべてが、私をさっと包み込み、歓迎してくれているような気がした。コートを手に持ったメイドが、若い女主人の肩にさっと着せかけてやるときのように。本当に私は、自分はこの小屋の主人であり、この小屋は私のものであるという気がした。
 もちろん、お世辞にも豪華と言える部屋ではなかった。壁も床も木の板がむき出しで、ペンキも塗っていない。天井は低く、しかも屋根の梁が丸見えになっている。カーテンを開けてみたが、窓ガラスは薄く、ちょっと強くたたくだけで割れてしまいそうだ。厚さにもばらつきがあって、外の風景はわずかにゆがんで見えている。ベッドと戸棚、イスとテーブルがあるが、どれも田舎っぽい古くさいものだ。都会のしゃれた店の製品ではなく、いかにも田舎の職人が不器用に手作りしたという感じがする。それでも分厚い材料を使い、ゆるみはなく、表面もきちんと仕上げてある。ていねいな仕事ぶりだ。
 私は、もう一度部屋の中を眺め渡した。イスに座ってみた。ベッドに腰かけてもみた。見上げると、手の届きそうなところに天井があるというのが、くすくす笑い始めたいような感じだった。少し遅れてヘルターも入ってきたが、おもしろがるというよりも、びっくりした顔で見回している。
 ベッドの上に、私はごろんと横になった。部屋がもう一度、私をさっと腕の中に包み込んでくれたような気がした。うっとりして、私は目を閉じた。
 何分ぐらいそうしていたのか、私にはわからない。目を開いてみると、ヘルターはもう部屋の中にはいなくて、戸口の外に出て、修道院の方向を眺めていた。しなくてはならない仕事でもあって、それが気になっているのだろうかという気がした。
 私はベッドから起き上がり、戸口から外に出た。ヘルターは振り返り、ほっとした様子で私を迎えた。
「もういい?」とヘルターが言うので、私は黙ってうなずいた。ヘルターはまた不器用に、南京錠をかけ始めた。
 この日の夜、なぜか私は眠ることができなかった。ランプを吹き消して、ベッドに入って目を閉じると、すぐにあの小屋のことが思い出された。小屋の中の風景が頭に浮かんで、まるで今この瞬間も自分があの小屋の中にいて、あのベッドの上に仰向けに横たわっているかのような気がした。
 自分はどうしてしまったのだろうと思った。小屋の天井や壁の木材の一本一本、クギやボルトの一本一本までがありありと目に浮かんで、消し去ったり、ほかのことを考えたりすることができなくなってしまっていた。これでは眠ることなどできそうもない。何がどうなっているのか、何が原因なのか、さっぱり見当もつかなかった。あの小屋には何か霊的な作用があって、私はそれに取り付かれてしまったのだろうかという気までした。それどころか、自分は気が狂い始めているのだろうかという気までした。でも私にはどうしようもなくて、眠り込んでしまうことだけを期待して、じっとしているしかなかった。
 だが、そうやって暗闇の中で目を閉じていると、私の頭の中の映像は、小屋の中から外へと移っていった。まるで、自分がまだあの小屋にいて、戸口を通って小屋の外へ出ていったかのような気がした。その途中で、もちろんベッドやその他の家具や、床やドアの様子も目に入ってきたが、それらもさっきの天井や壁と同じように、いま目の前に現物がそのまま置かれているかのような感じがした。それぐらい鮮明で、木目やキズといった細かな部分までがきちんと再現されていたのだ。まるで、とても腕のよい写真師が撮った写真のように。
 このままでは絶対に眠ることなどできないと思った。身体は疲れているのだが、私の心が、眠りにつくことをかたくなに拒否しているのだ。頭を振りながら、私はベッドの上に起き上がった。毛布をはねのけて、ひんやりした夜の空気を上半身に感じながら座っていることにしたのだが、それでも、頭の中に巣食った映像は消えてはくれなかった。あきらめて私は、ベッドから出ることにした。
 どこへ行くというあてがあったわけではないが、私は少し外を歩いてみることにした。夜の空気に当たれば、あの小屋も私に取り付くことをやめてくれるかもしれない。
 私は着替えて、寒くないように念のために上着を着て、火をつけて、風が当たらないようにガラス板で囲まれたロウソク立てに入れたロウソクを持って、廊下に出た。伯母や修道女たちの目を覚まさせないように、足音を忍ばせて歩き始めた。
 そっとドアを開けて、私は中庭に出た。建物の中とは違う、さらにひんやりして、どこか湿っぽい空気が、さっと私の身体を包み込んだ。見上げると、よく晴れた、星のたくさん出た夜だった。煤煙の多い都会とは違って、天球が、無数の白い点々でいっぱいになっている。天の川は、ぼうっとした白い幽霊のしっぽのようだ。地平線がその下に、くっきりと黒く浮き出している。その線よりも下には、光と呼べそうなものは一つも見えない。インクで塗りつぶしたように真っ黒だ。
 どっちが北だったかと、空を見上げながら私は考えた。でも私の持っている天文学の知識など限られているから、星の形から方向を知ることはできなかった。私はロウソクを高くかかげ、闇の中を見透かそうとした。そうやって突然、自分が何を考え、何をしようとしているのかに気がついてため息が出てきたが、私は自分の思うとおりにすることにした。それ以外に解決する方法はないように思えた。小屋が取り付くことをやめてくれないのなら、私から出向いて、理由を質問してみるしかないという気分だったのかもしれない。私は、中庭を横切って歩き始めた。花壇と菜園の間を通って、北へ通じる裏門へ近づいていった。
 裏門を通り抜けて、足元に気をつけながら、私は急な坂道を登り始めた。昼間よりは時間がかかったかもしれないが、小屋がぼんやりと見えてくるところまでやってきた。
 月や星の光をはねかえしながら、小屋は、私が想像していた通りの様子で立っていた。窓はまるで大きな目のようだが、カーテンが閉まっているので、今はまぶたを閉じているように見える。ドアはもちろん閉じているし、私はキーを持っていないから、中へ入ることはできない。でもここに立って、小屋を眺めているだけで、私はとてもいい気持ちだった。小屋も機嫌よく私を迎えてくれているような気がした。それどころか、こんな夜中にこんな場所まで来させてしまってすまないと言ってくれているような気までした。これ以後、小屋の姿が私に取り付いて苦しめることは二度とないに違いないという気がした。
 私は、十分間ぐらい小屋の前に立っていたと思う。気がすんだので、ベッドに戻ろうと思った。ぐっすり眠って、明日の朝は元気よく起きることができるような気がした。でも小屋に背中を向ける前に、私は思いついた。そうだ、せっかく来たのだから、小屋のまわりをぐるりと一回りしてから帰ることにしよう。
 私は歩き始めた。私の靴の裏が小石を踏む音がまわりに響く。なぜか小さなころから、このぽこぽこいう音がとても好きだったことを思い出した。
 私は小屋の東側に出た。さらに進んで、北側へ出ようとした。角を曲がって、小屋の北面へ一歩踏み出して、私は気がついた。私は一人ではなかったのだ。誰かがそこにいた。私が裏門を抜けて、坂道を上がってくる前からここにいたに違いない。小屋の壁越しに私の気配を感じ、足音を聞き、私が口にした独り言だって聞いていたかもしれない。
 私は立ち止まって、相手を見つめた。私は呆然とした顔をしていたかもしれない。相手も、私をまっすぐに見つめ返している。その頭の上には、クリスマスツリーのように大きな角がある。フサルクだった。
 フサルクは一頭だけで、暗闇の中に立っていた。ロウソクの光を、茶色の瞳が反射していた。
 長いあいだ私は、身体を動かすことができなかった。フサルクもじっとしていた。でも私とは違って、フサルクは驚いて声が出せないというのではない様子だった。フサルクは、私がここへ来ることを知っていて、じっと待っていたに違いないという気がした。
 フサルクは、トナカイとしては赤みがかった毛色をしていたかもしれない。角も、毛に合わせた赤っぽい色をしていた。その角が、単にロウソクの光をはねかえしただけだったのかもしれないが、一瞬明るく燃え上がる炎のように輝いて見えた。そういう燃え上がる炎を、くさびのような形の頭が軽々と支えている。私は再び、パレードで見たルノー戦車のことを思い出していた。だが、エンジンやキャタピラが騒々しい音を立て続ける戦車とは違って、フサルクはとても静かだった。脚を動かしもせず、石像のようにしっぽをおしりに張り付かせたまま、首だけを曲げ、私をじっと見つめていた。
 だが、私とフサルクが見詰め合っていたのは、そう長い時間ではなかっただろう。せいぜい数分間のことだったろう。フサルクがゆっくりと頭を動かし、前を向こうとしていることに気がついた。フサルクは私から視線をはずし、きりっと前を向いた。そして、一歩を踏み出して歩き始めた。すぐにロウソクの光の届く範囲の外に出てしまい、フサルクの姿は暗闇の中に見えなくなってしまった。
 想像していたとおり、フサルクと別れて修道院に戻り、ベッドに入ると、私はぐっすりと眠ることができた。小屋の映像にも、もちろんフサルクのまなざしにも邪魔をされることはなかった。朝になって、私は気分よく目を覚まして、ベッドの上で大きく伸びをした。この日は学校で数学の試験がある日だったが、そんなこともまったく気にならなかった。私は着替えて、朝食をすませて、カバンを抱えて、ヘルターがあやつる馬車の御者台に駆け上がった。
 学校へ行って、授業があって、この日もいつもと同じようにすんだ。ロバリー先生の授業は、いつもと同じように退屈だった。
 とにかくそれがやっとすんで、教室に居残ってアリシアと少しおしゃべりをしてから、私は帰り始めた。校舎を出て、道を歩き始めた。前の晩に小屋を訪ねたことや、フサルクに会ったことは、私は誰にも話してはいなかった。アリシアやヘルターはもちろん、伯母に話すなんて考えられもしなかった。私には、伯母やその他の人たちを自分の世界へ招きいれる気がなかったのだろう。
 私はとても楽しくて、山道を歩きながら、スキップでも始めたいような気持ちだった。雲のない、太陽の高い明るい日で、インディゴ染料の色見本のような青空が、私の頭の上に広がっている。その空を、ぎざぎざした山の頂が、左右から川のように切り取っている。首を大きく伸ばして真上を見上げたとき、水面に映るかげのように自分の姿が空にないのが不思議に思えるぐらいだった。
 曲がり角を曲がって、ケンネルが見えない場所まで来たとき、私は大きな声で歌を歌ってみたくなった。ここなら、誰にも聞かれることはない。
 だが結局、私の歌は唇を離れることはなかった。その前に、もっと別のものが私の心をとらえたのだ。角を曲がってすぐのところ、そこの道の真ん中に立って、フサルクが私を待っていた。
 フサルクは私を待っていたのだと、私には一目でわかった。フサルクは銅像のように動かずに立っていたのだが、私を見ると少し身じろぎをし、甘える子供のように足踏みをした。とても大きな身体をしているのに、その様子はとてもかわいらしかった。
 歩みをゆるめもせずに、私はフサルクに近づいていった。まっすぐに見つめたまま、フサルクも私を待っていた。私は歩き続けた。
 だが、私がフサルクの角の真下まで行くのと同時に、少し奇妙なことが起こった。フサルクの身体が不意に小さくなったような気がしたのだ。私は目をぱちくりさせていたに違いないが、それでもやはりフサルクは見上げるほど大きく、目を合わせるためには、私は幼児のように顔を上に向けなくてはならなかった。しかしフサルクの身体が、一瞬で小さくなったように私には感じられていたのだ。
 どういうことなのだろうと思ったのだが、すぐにわかった。もうフサルクの身体が、戦車のように巨大には感じられないということなのだろう。この瞬間までの私の目には、フサルクの姿は現実よりも何倍も大きく感じられていたのだろう。それがもとに戻って、フサルクの真の大きさを正しく感じることができるようになったというだけなのだろう。戦車と同じぐらいの大きさがあるトナカイなど、ばかげている。それでも、フサルクが大きな動物であるということに変わりはない。アリシアが言っていたとおり、農耕馬よりも一回り大きい。
 フサルクの角を、私はほれぼれと見上げた。何百年も生きている古木のように、複雑に枝分かれし、こぶやデコボコでゴツゴツしている。魔法使いのホウキがさかさまに立ててあるところに似ていなくもない。だが、もしあれがホウキなのなら、それに乗るのはかなり位の高い、力のある魔女なのだろうという気がした。
 ゆっくりとだったが、私はフサルクのまわりを一回りしてみようと思った。フサルクも承知しているのか、身動きをせず、おとなしく立っている。首を動かして、視線だけで私を追いかけている。私がおしりの真後ろにまわったとき、突然しっぽがプルプルとかわいらしく動いたので、思わず笑ってしまった。
 フサルクはじっと動かずにいた。私が手を伸ばして、そっと胸に触れても、身体を動かさなかった。それどころか、私が手を引っ込めようとすると、追いかけてきて、ぺろりとなめてくれた。私とフサルクは、そのまま並んで歩き始めた。
 どちらが先に歩き始めたのだったかはわからない。でも気がついたら、二人は並んで歩調を合わせていたのだ。
 私はとても幸せだった。天気のよい明るい山道をゆっくりと歩いている。すぐ隣には、このあたりでもっとも大きく力のある生き物が、私に付き添っている。私はフサルクの横顔を見つめ続けたが、フサルクも左目で私をじっと見つめているのに違いなかった。フサルクが右で私が左側。私たちは歩きつづけた。もちろん、坂を上りきって、もう少しで修道院が見えるというところまで来ると、フサルクはさっと駆け出し、獣道の一つに入り、姿を消してしまった。私は、フサルクの白っぽいしっぽが木々の下の暗闇に消えていくのを見送っていた。この日から、学校帰りにはいつもフサルクが私に付き添ってくれるようになった。
 フサルクはいつも、町が見えなくなるあの曲がり角のところで待っていた。石像のようにじっと動かないが、私の姿を見ると角を大きく振り、足踏みをして、しっぽをプルプルと動かした。私も、曲がり角を曲がってフサルクと顔をあわせるのがとても楽しみになっていた。
 左右に並ぶと、フサルクと私はスピードを合わせて歩き始める。フサルクの大きな身体にはゆっくりすぎるに違いなかったが、まどろっこしく思っている様子はなかった。あるとき私はいたずら心を起こして、フサルクの角にハンカチを結び付けてやった。背伸びをして、左の角の根元に結びつけた。フサルクはおとなしくしていた。立ち止まり、されるままになっている。
 白いハンカチだったが、正直に言って、あまり見栄えはしなかった。スカーフのようにただ巻きついているだけだ。私は、旗のようにもっとはためかせてみたかったのだが。
 私はもう一度伸びをして、ハンカチをはずそうとした。フサルクは、再びされるままになってくれた。ハンカチを手に取り、私はもっともっと上、角の先端に近いあたりに結び付けなおそうとした。でも、手など届くはずはない。
「ねえ、頭を傾けてよ」
 その言葉が通じたのか、あるいは私の意志を察しただけなのか、フサルクは頭を左向きに倒し、私の前に角を差し出すようにした。私はそこにハンカチを結びつけた。
 いい思い付きだと自分でも思った。フサルクが角を高くかかげると、ハンカチは風を受けて、帆船のマストの頂上の旗のようにはためき始めた。しばらくの間、私はニコニコしながら見上げていた。
 フサルクが歩き始めた。私も歩き始めた。そうやって私とフサルクは、いつも別れる場所までやってきた。私は立ち止まり、カバンを地面に置いて、手を伸ばして、ハンカチを角からほどいてやろうとした。
 だがフサルクはいうことをきかなかった。嫌だとでも言うように角を遠ざけ、私から顔を背けた。もちろん私は追いかけた。それでもまだ、フサルクは顔を背けようとする。そうやって道の上で、私とフサルクは、追いかけっこでもするみたいにして、ぐるりと一周まわってしまった。
「何考えてるの?」
 私は大きな声を出した。でもフサルクは知らん顔をしている。私はにらむようにしてフサルクを見上げたが、それでもフサルクはなんでもない顔をしているではないか。
 私はまわりを見回し、道のわきにちょうどいい岩が一つあることに気がついた。すぐ横のがけから崩れ落ちてきたものらしいが、高さが一メートルぐらいあって、私が十分上に登ることができるほどの大きさがある。私はフサルクの後ろにまわり、おしりを両手で押して、そっちへ行かせようとした。
 角に触れられることについてはあんなに頑固だったのに、今度はフサルクは意外なぐらい素直だった。もっと苦労するに違いないと覚悟していたのだが、あっけないぐらい簡単に、私はフサルクをその岩の真横に立たせることができた。そうやっておいて、フサルクが動かないように横目でにらんだまま、私は岩によじ登った。それから手を伸ばした。だが、私が何をしようとしているのか悟ったのか、身体は動かさないが、フサルクはひょいと頭を横に向けた。するともう、私の手は角には届かない。
「フサルク!」
 私は再び大きな声を出した。でもフサルクが何を考えているのか、その表情からは何も読み取れなかった。
 私は少し腹を立てていた。おなかがすいていて、修道院の茶の時間に出される菓子が恋しくて仕方がなかったのだ。でもフサルクは、私に面倒をかけようとしている。私は一計を案じた。
 息を殺して、フサルクに気づかれないように注意しながら、身体の向きを変えて、私はフサルクの背中の上にぴょんと飛び移ってやったのだ。
 フサルクの背中の上は、下から見ていたよりも幅が広く、しっかりしていた。温かく、毛はやわらかいが、猫の毛のように頼りないのではない。シュロのようにごわごわしているのではないが、長く力強い。
「ほら、動くんじゃないわよ」私はフサルクの耳にささやこうとした。背中の上でひざ立ちになれば、ハンカチにも手が届くだろう。
 今になって思えば、フサルクはこの瞬間を待っていたに違いない。突然身体をゆすって、私を驚かせて小さな悲鳴を上げさせ、思わずしっかりまたがるように仕向けたのだ。転がり落ちてしまいそうな気がして、私はフサルクの首に両腕でしがみついた。
 それをフサルクは狙っていたのだろう。私を乗せたまま、さっと駆け出したのだ。もちろん私はもっと強くしがみついたが、フサルクが道を離れ、短い斜面を駆け下って、獣道へ入っていくことに気がついた。深い森の中へ続く道だ。私にはどうすることもできなかった。一瞬で日がかげって暗くなり、青っぽい匂いのするひんやりした空気が私の身体を包み込んだ。
 フサルクは何分間もそのまま駆け続けたが、立ち止まる様子はなかった。だがフサルクの走り方は安定していて、転げ落ちてしまうといったようなことは起こりそうもない気がしてきた。だんだんと怖さが薄れてきて、私も腕の力をほんの少しゆるめることができるようになった。私は、フサルクの背中の上でしっかりと座りなおした。両脚を落ち着け、ひざの間にフサルクの身体をしっかりとはさみこんだ。これで安定がとてもよくなった。おそるおそる私は両手を離し、フサルクの背中の上で身体をまっすぐにした。フサルクが立ち止まったのは、そのときのことだった。
 あまり突然のことだったので、私はきょとんとしたことを覚えている。フサルクは立ち止まり、ほっとため息をつくように大きく息を吐き出し、それからいかにも気持ちよさそうに、身体をぶるぶると震わせた。私が転げ落ちたり、身体のバランスを崩しそうになるほど強くではなかったが、遠心力でフサルクの耳が左右に広がるさまが、なんだかとてもおもしろかった。
 フサルクが何を考えているのかはわからなかったが、私はまわりを見回した。ここは森の中の狭い尾根のようなところで、平らに細長く盛り上がった頂上を道が走っていた。左右には樹木が何重にも生えているが、その向こうが急に落ち込んで谷になっているらしいのを幹や枝越しに見ることができた。かなり深い谷のようだ。後ろを振り返ると、前方と同じように、木の枝が分厚くおおいかぶさってトンネルのようになっている。そういう薄暗い場所に、私とフサルクはいた。
「ここが終点なの? あんたは私をここへ連れてきたかったの?」
 私が声をかけると、フサルクはまた歩き始めた。私は再びきょとんとした顔をしたに違いないが、そのまま背中の上にいることにした。フサルクはもう駆け出したりはせず、ゆっくりと歩いていった。私も機嫌よく、乗せられたままでいることができた。落ち着いたいい気持ちで、「さあ、このトナカイはこれから何を見せてくれるのかしら」と思っていた。
 フサルクは歩き続けた。まわりを眺めながら、私はフサルクの背中や首筋をときどきなでてやった。それでフサルクが振り向くとか、何か反応を見せるというのではなかったが、私に触れられることを嫌がっている風ではないのは、なんとなく感じられた。
 目的の場所に着いたときにも、フサルクが何かの反応をしめしたというのではなかったが、私にはすぐにそれと感じられた。私とフサルクは、さっきとは逆に狭い通路のような谷底の道を歩いていたのだが、最後に急な上り坂があって、フサルクがそこに差しかかるとなぜかすぐにわかったのだ。これを越えたら目的地なのだと。
 思っていたとおり、坂を上りきるとフサルクは立ち止まった。私は、額ににじんでいた汗をふき、少し伸びをした。だが、そんな必要はなかったのかもしれない。フサルクの背中の上は高く、見晴らしがよかった。
 私とフサルクは大きな岩の頂上に立っていて、目の前にはガラスのように平らな水面が広がっていた。フィヨルドと同じように赤みがかっているが、水はもっと透き通っている。ほぼまん丸な形をしているが、直径は数百メートルあるから、池というよりは湖というほうがいいかもしれない。岸はぐるりと、深い森の木々におおわれている。少し向こうで小川が一つ流れ出しているほかは、流れ込んでいる川は一つもないようだった。
 立ち止まったまま、フサルクが歩く気配を見せないので、私は地面に下りることにした。すぐにフサルクも気づいたのか、私のために足を踏ん張ってくれたようだった。高いところだから少し怖かったが、私は地面にぴょんと飛び降りることができた。
 足元は固い岩だが、ケガをするようなことはなかった。見回してみると、私が降り立った場所は平らだったが、そこから少しでも離れると、岩は波打っていたりデコボコだったりする。そういう中に一ヶ所だけ、ぽつんと平らな場所があるのだ。もしかしたらフサルクは、私のためにわざわざここを選んで立ち止まったのだろうかという気がした。
 岩のへり、もっと水に近いあたりへ私は行ってみることにした。この岩はちょっとした家と同じぐらいの大きさがあって、テーブルのように四角く、水の上に半分突き出していた。水面までの高さは三メートルぐらいある。私はこわごわ立って、水の中をのぞき込んだ。
 水は本当に赤くて、私はすぐにある種のリキュールのことを思い出した。小さいころ、父が飲もうとしていたものに指先を突っ込んでなめてみて、苦くてびっくりしたことがあったのだ。また一瞬私は、この底には巨大なルビーが沈んでいて、その光が広がって、湖全体がこんな色になっているのだというようなことを空想したりした。
 気がつくと、フサルクが私のすぐ隣にきていた。同じように湖を眺めているのかと思ったのだが、違っていたようだ。私が足を滑らせて水に落ちてしまわないかと心配していたのかもしれない。私のすぐそばまで頭を近づけてきて、何かあったらすぐに私の服を口にくわえることができるようにしていた気がする。
 フサルクがそういう心配そうな顔をしているのを見て、私は思わずにっこりした。安心させてやるために、腰を落ち着けることにした。私は岩の上に座った。もう一度額の汗をぬぐい、水の上を吹き抜けてくる風に顔を向けた。フサルクも安心した様子で、少しのあいだ私を高いところから見下ろしていたが、突然、少し不器用に足踏みを始めた。それから後ろを向いて足元を確かめ、一メートルかそこらバックしたのだ。何をするつもりなのだろうと見ていたら、フサルクは前足のひざを折り、次に後ろ足を片方ずつ伸ばして、岩の上に腹ばいになってしまった。私のすぐ隣だ。
 フサルクの大きな頭と角が、びっくりするぐらい近くにあった。濃いこげ茶色の目で私を見つめている。私は手を伸ばして、そっと額をなでてやった。
 フサルクが目を細めた。と思ったら、フサルクは不意に身体を横向けにコロンと倒してしまった。馬よりも大きな動物が、子猫のように甘える光景を想像して欲しい。私はびっくりしたが、それよりも愉快に思う気持ちのほうがよっぽど強かった。
 動物園にいる熊のように大きな首が、くすぐって欲しいというように私の前に投げ出されている。その下に続く胸は、ライオンのたてがみのように毛がたっぷりしている。もちろん私はすぐに手を伸ばして、フサルクの首筋や胸をなでてやった。
「もう少し色が薄かったら、あんたの瞳はトフィーにそっくりよ」私はかがんで、フサルクの首のわきにキスをしてやった。すぐに、洗濯をして一日太陽の下に干したやわらかい毛布の感触を思い出した。
 トフィーというのは、キャンディーの一種だ。小さいころから私はとても好きで、よく食べていた。小さいころすぎて意味がわからず、いまだに名も知らないのだが、箱いっぱいのトフィーを誕生日ごとに送ってくれる人がいたのだ。何があったのか、もう何年も届かなくなっていたが。
 いつの間にか、私はそういう物思いにふけってしまっていたようだった。そして、次に気がついたのは、自分は目を覚ましたばかりだということだった。フサルクにもたれかかり、胸をなでてやっていたのだが、いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。フサルクはずっと起きていたのか、私を見つめていた。
 眠り込む前と同じように、明るく涼しい湖のほとりだった。まわりの様子は何一つ変わったようには見えなかったから、長い時間眠っていたわけではないのだろう。私はもう一度フサルクをくすぐって、自分の身体を起こした。フサルクも起き上がった。鼻から空気を吐き出し、立ち上がる気配を見せた。私は先に立ち上がり、フサルクの角のてっぺんにちょんと触れた。角の表面は石のように冷たかった。ハンカチをはずしてやり、ポケットに入れた。
 フサルクが立ち上がった。さっと日がかげって、目の前に一瞬で巨大な塔が建ったような気がした。
「私、もう帰らなきゃならないわ」時間の見当をつけようと太陽を探しながら、私は言った。だが、まだ太陽は高いところにあったから、帰りが遅いといって伯母から叱られる心配はしなくてよいようだった。
 フサルクがゆっくりと歩き始めた。私を置いてどこかへ行ってしまうのかと思ったのだが、そうではないようだった。フサルクは岩のデコボコを上手によけて歩き、七、八メートル離れたところにある木を目指しているように見えた。そこから先はうっそうとした森になっているのだが、なぜかその木一本だけがそこで倒れて、こちらを向いて伸ばされた腕のように突き出しているのが見えた。何の木だろうと思って、私も近寄ってみることにした。
 木の種類などは、もちろん私にはわからなかった。都会で生まれ育って、田舎にやってきたばかりの子供なのだから。私がその木のそばまで行くころには、もうフサルクは立ち止まっていた。そばで見て始めて、根元で折れて倒れている木なのだとわかった。何年も前に枯れて、葉も失われて、枝は丸裸になっている。幹の直径は一メートルほどもある。フサルクはその幹に身体を沿わせて立っていて、まるで駅のプラットホームに止まっている汽車のようだった。
 私はそばに立って、フサルクを見上げた。フサルクが目玉をくりくり動かしたような気がした。まるでいたずら小僧のようだ。
 何が言いたいのだろうと思って、私はもう一度まわりを見回した。そして気がついた。私は足を上げて、木の幹の上に登った。手でつかまることができるように、フサルクが角を差し出してくれた。
 偶然ここに倒れた木なのだろうが、台の代わりにするのに本当にうってつけだった。ただ、幹の上面の皮がこすれて、少しはがされたようになっていたので、過去にも誰かが何回か、私と同じように台代わりにしたことがあるのだろうかという気がした。
 私は、再びフサルクの背中の上に身体を落ち着けることができた。フサルクはゆっくりと身体の向きを変え、歩き始めた。またあの急な坂道を通って岩を降り、暗い森の中へ入っていった。
 十五分もたたないうちに、私とフサルクは、もうすこしで修道院が見えるあの場所まで戻ってきていた。私のカバンは置かれたときのまま、誰にも手を触れられずにそのままになっていた。誰かの目に触れることもなかったのだろうという気がした。
 私はフサルクの背中からぴょんと飛び降り、カバンを手にして、修道院へ向けて歩き始めた。そうしながら振り返ると、身体の向きを変え、獣道へ消えていくフサルクの後ろ姿がちらりと見えた。まるで手を振るみたいに、白いかわいらしいしっぽがプルプルと揺れていた。
 翌日の午後にも私は学校の建物から出てきて、山道にさしかかったが、フサルクが待っていることは期待していなかった。もうフサルクは姿を見せないだろうという気がなんとなくしていたのだ。だがあの曲がり角が近づいてくるにつれて、少し胸がどきどきするのを感じないではいられなかった。ひどく固い顔をしたまま、私は歩き続けていただろうと思う。
 だがフサルクはそこにいた。私はうれしくなって駆け出して、カバンを持ったままの手で首に抱きついた。フサルクの首筋にほおを押し付けると、やわらかく温かくていい匂いがして、とても気持ちがよかった。
 どうするべきか私にもわかっていると、フサルクも知っていたのだろう。すぐに歩き始め、道端にある小柄な柳の木の幹に身体を沿わせた。見ると、確かにちょうどいい高さに枝が一本張り出している。私はそれに足をかけ、フサルクの背中に登った。
 合図も何もなしに、フサルクは歩き始めた。すぐに道を離れ、獣道へと入っていった。もう私も、不安に思ったりはせず、身をまかせていることができた。フサルクは道を外れ、斜面をとんとんと降りて、森の暗がりの中へ入っていった。森の中へ入ると、日がかげって涼しく、空気はしっとりと心地よかった。私はフサルクの上で座りなおし、まわりを眺めた。
 フサルクが私をどこへ連れて行こうとしているのか、見当はついていた。湖のはたのあの気持ちのいい岩の上だろう。赤い湖面が反射する光を眺めながら、風を浴びることができる。
 ときどき手を伸ばして、そこらのツタや葉に触れながら、私は運ばれ続けた。突然、目の前に野うさぎが飛び出してきた。何かに追われているのか、単にびっくりしただけだったのか、あるいは何も考えてはいないのか、私とフサルクの前に現れたのだ。わきの茂みから飛び出してきて、こちらに背中を向けていたが、すぐに私とフサルクに気づいて振り向き、とっさに駆け出した。全力で十メートルばかり私たちの前を走り、またさっとわきの草の下に飛び込んで見えなくなった。姿が見えなくなっても、何秒かの間、私の目の中には、ふわふわした野うさぎの後ろ姿の映像が残っていた。
 私とフサルクは、湖のそばについた。昨日と同じ場所だ。昨日と同じように私は岩の上に腰かけ、フサルクは私の隣にごろんと横になった。
 この日から毎日、私はフサルクと一緒にこの湖を訪れるようになった。だが、自分で歩いて山道を越えるよりも、フサルクに運んでもらうほうがよっぽど速い。それに山道とは違って、獣道は最短距離をまっすぐに進んでいる。私はいつも、伯母や修道女たちに怪しまれない時間には修道院へ帰りつくことができた。


 修道院にある私の部屋のことだが、すみの壁に小さな鏡がかけてあったので、私はよくのぞき込んだ。そうすると、もちろん自分の顔と向かい合うことになる。私の顔は、鏡の中から遠慮なく見つめ返してくる。
 小さいころから、怖い顔をした娘だと私はよく言われた。どういう意味なのかよくわからなかったが、このころになると、鏡を見て、なんとなく納得できるようになっていた。私の髪は色が濃く、瞳も同じようだ。茶色やこげ茶色というよりも、ほとんど黒と言ったほうがいい。眉は太く長く、でも両端はカミソリで切り上げたかのようにとがっていて、どこかで見たことのある機関車の運転台のひさしのようだ。二つの目は、ヘッドライトのように前を照らしている。薄い唇は我ながら頑固そうで、いかにも情がなさそうな感じがする。鏡の中から見つめ返してくる視線は本当に突き刺すようで、自分でもたじろいでしまいそうだ。
 この顔が母に似ているのかどうかなのか、誰も教えてくれなかった。私の手元には母の写真は一枚しかないし、小さくてしかも不鮮明だった。写真の中の母の顔は、ぼんやりした白い塊にすぎず、顔つきも表情もわからない。娘時代の写真だが、母は馬を持っていて、家の前でその馬と並んで撮った写真だった。今となっては、腕の悪い写真師を恨むしかない。
 母のことは、私はほとんど何も教えてもらってはいなかった。馬を持っていたこと、歌を歌ったり、絵を描いたりすることが好きだったこと。父と結婚して、私を生んで数年で死んでしまったこと。
 次の日曜に、こんなことがあった。
 日曜の礼拝は朝九時から始まるのだが、近所の村や町や農場から人々が馬車に乗って集まってくるのは、ちょっとした眺めだった。二十台ぐらいがかたまって、修道院の城壁の内側はいっぱいになってしまう。それだけでは足りなくて、外にも何台かあふれ出す。
 礼拝は十一時すぎまで続き、終わると人々はいっせいに帰り始める。馬のいななきや馬具のカチャカチャいう音、しつけの悪い犬の鳴き声が修道院の中を満たす。修道女たちは、城門のわきに並んで人々を見送っている。礼拝になど興味はなかったが、伯母の手前、私も仕方なくいつも参列していた。参列しなくても、伯母はお小言など言わなかっただろうが、トラブルの種をわざわざ作ることはない。
 だからこの日、城門のわきに修道女たちと一緒に並びながら、人々が帰っていくのを私は眺めていた。そこへミス・アイシクルズが現れたわけだった。
 ミス・アイシクルズは小柄な老女で、もう八十歳近かったかもしれない。このあたりの人々の間では、信心深い人物とはみなされていなくて、礼拝に顔を出すのだって、ほんのときどきだった。そのアイシクルズがなぜかこの日は姿を見せていて、何台もの馬車が同時に出発しようとしている喧騒の中を、私に向かって歩いてくるのが見えた。
 アイシクルズは金持ちで、私は行ったことはなかったが、ここからケンネルを越えて何キロか行ったところに大きな屋敷を構えているということだった。とても大きな屋敷だそうで、先祖がどこかで金鉱を見つけたので、それで大金持ちになったという話だった。だがアイシクルズはその家の最後の生き残りで、跡継ぎもいないまま、その大きな屋敷の中で、何人もの使用人に囲まれて、人生最後の数年間を過ごしているところだということだった。
 修道女たちの列に混じった私は、伯母とヘルターにはさまれて立っていたのだが、アイシクルズは、まるで隕石が吸い寄せられでもするみたいに、私のところへまっすぐに歩いてきた。
 とてもいい服を着ていたが、身なりにはかまわない人のようだった。髪はすっかり銀色になっているが、フェルトの本体に長い鳥の羽が三本飾られた帽子の下で、その髪は、ゴーゴンの頭のヘビのように踊っている。杖を持っている手の手首は、木の枝のように細く、肌は灰色をしている。その灰色の下に、血管が青く浮き出ている。
 アイシクルズは私の前で立ち止まり、杖の柄を手の中でぎゅっと強く握った。何秒間か私をまっすぐに見つめていたが、すぐに伯母に顔を向けた。
「今からこの子を昼食に招待したいのだが、かまわないだろうね」
 アイシクルズの声は、見かけよりもはるかにしっかりしていて、力強かった。腰が曲がって、指先でちょんとつくだけで転んでしまいそうに見える人だが。
 伯母はびっくりした様子で目を大きく見開き、アイシクルズを見つめ返した。「どういうことなのでしょう?」
「どうもこうもないよ。ケイトを昼食に招くつもりで、もう仕度も言いつけてある。困ることはなかろう?」
「それはそうですが」伯母は当惑している様子だったが、微笑を装う余裕はまだ残っていた。ただ、伯母の鼻の穴が大きく広がり、顔が赤くなっているのを見て、腹を立てているらしいことは感じられた。
「あまり突然のことですから…」伯母は少し口ごもった。
「悩むことは何もなかろう? 行きたいか行きたくないか、ケイトに直接きいてみればよい」
 アイシクルズは私を見た。だがそれは、あまり好意的な目つきとは思えなかった。少なくとも、私のことをとてもよく思っているという感じではなかった。それでも私は、アイシクルズの屋敷へ行きたいと思った。まだ見たことのない場所だからというだけではなくて、行けば何かしら得られるものがあるかもしれないという予感のようなものがあったのだ。昼食に招くのはただの口実にすぎず、本当はアイシクルズは、何か私に話したいことがあるのだろうという気がしていた。
 だから私は、伯母が首を縦に振ってくれることを望んでいた。いつの間にか馬車たちはほとんどが帰っていってしまい、城壁の内側は空っぽになっていた。まわりの修道女たちが聞き耳を立てていることに私は気がついた。ヘルターも、ちらちらこちらを見ている。見られていることに、伯母も気がついたようだった。伯母ののどがごくんと動いて、つばを飲み込んだ様子だった。伯母の顔が再び微笑み、口が動いた。
「ええ。ケイトさえよければ、私は異存はありません」
 だから私は、すぐにアイシクルズの馬車に乗せられ、修道院をあとにした。礼拝に出るために少しはきれいな服を着ていたので、よその家を訪問するからといって、特に着替える必要はなかった。もっともアイシクルズは、私がどんな服装をしていたとしても、そのまますぐに馬車に乗せただろうが。
 アイシクルズの馬車は、大きくて立派なものだった。修道院の馬車はもちろん、町の人たちが乗っている馬車と比べても、一回り大きかった。もちろん本体は木でできているが、前を向いている大きな窓があるのだが、それにわざわざカーブをつけて、曲面ガラスを使ってあるのが目立った。その両脇には大きなランプがあり、客室に乗り込むためのドアは、真鍮製の大きな蝶番で止められている。車内にはふかふかのイスがあって、深い緑色のビロードがはってあり、どこかの家の応接間のようだった。乗り込むときに驚いたのだが、バネがとてもやわらかくて、私がステップに足を乗せると、車体が大きく傾いた。馬は二頭つないであり、ヒマワリとは違って生き生きした様子で、御者に鼻面をなでられながら、機嫌よく長いしっぽを揺らしていた。
 馬車に乗り込んで、もちろん私はアイシクルズと並んで腰かけたのだが、動き始めるとすぐに、修道院の馬車とは乗り心地がまるで違うことに気がついた。その表情を見て、アイシクルズが言った。
「どうしたね?」
 私は見つめ返したが、アイシクルズがもう、伯母の前にいたときのような緊張した顔をしていないことに気がついた。私を馬車の中に連れ込むことに成功して、ほっとしたという表情だ。アイシクルズがいたずらっ子のように笑っているような気がした。
「この馬車は、乗り心地がとてもいいのね」石ころを踏みしめて、坂道を下っていくのを感じながら、私は言った。
「そりゃあね、荷物用のとは違うさ」アイシクルズも機嫌よさそうに言った。
「私に何のお話があるの?」イスの上で座りなおして、身体をねじって、私はアイシクルズをまっすぐに見つめた。いくら高価な馬車だといっても、鉄道の客車のように広いわけではない。でも私は十二歳だったのだ。狭い車内でも、身体の向きを変えるなど簡単なことだった。
「さあ、それよ」アイシクルズは前を向き、窓の外を眺めた。私もすぐにその視線を追いかけたのだが、ガラス窓の外には御者の背中があるだけで、見て楽しいようなものは何もない。アイシクルズは何を考えているのだろうと思った。
 アイシクルズは私を見つめ返し、これからする悪さの相談をする子供のような表情で笑った。
「だけどさ、話は屋敷についてからにしようじゃないか」
「はい」伯母やロバリー先生が相手のときとは違って、なぜか私は反抗する気持ちにはならなくて、そう返事をして、身体をまっすぐ前に向けた。もう馬車は急な坂を下り終えて、長い直線にさしかかっていた。このまま行って小川を渡り、ぐねぐねしたカーブを超えるとケンネルに出る。
 馬車はケンネルにさしかかった。古びた小さな建物がいつもと同じように並んでいたが、修道院の馬車の上からや、歩きながら眺めるときとは、なぜか少し違うふうに見えた。私とは直接関係のない遠い国の風景であるかのような。
 ケンネルを通り過ぎて、馬車は別の道へ入っていった。この道はケンネルの通りからそのまま続く形になっていたが、修道院へ行く道よりも少し広く、よく平らにならされてもいた。アイシクルズがお金をかけているのだろうかと思った。
 馬車はごとごといいながら、走り続けた。整備されているといっても、夏の日のことだから、振り向くと砂ぼこりのしっぽが、煙のように馬車の後ろにずっと続いていた。五分ほど走って、道が小川沿いになって、小さな尾根とそれに続く丘を回り込んだところで、アイシクルズの屋敷が見えてきた。
 アイシクルズの屋敷は、古めかしいデザインではあったが、よく見るとそう古いものではない感じがした。四角く切り出した石灰石を積み上げて作ってあるが、石の角はどれもまだきっちりとしていて、風化した形跡はない。全体が真四角なまま背が高いところは、外国の寺院のようだ。三階建てだが、北のはしに小さな塔があり、その一番上の階のぐるりを、背の低い柵のついたバルコニーのようなものが取り巻いている。四角錐にとがった屋根の上には避雷針がある。
 門はもう開かれていた。男の使用人が一人、そのそばに立って待っていた。馬車が通り過ぎると、この男がすぐに門を閉じはじめるのが見えた。馬車はそのまま庭に入って停車したが、アイシクルズが植物好きな人間だというのは確かなようだった。この季節には森の中でも花はたくさん見られたが、この庭は花だらけというか、うるさいぐらい色とりどりだったのだ。赤や黄、ピンクや白といった花が、大きいのや小さいのや、一つずつ咲いているのや小さいのがかたまっているのやらが面積の大部分を占めていて、葉の緑や土の茶色などほとんど見えなくなってしまうほどだったのだ。いくらなんでもこれはやりすぎではないかと私は思った。おまけに屋敷の裏手には、ガラスの壁を持つ温室らしい建物まで見えているではないか。
 私はしばらくのあいだ、そういう光景をあきれて眺めていたのだが、アイシクルズはそれを称賛と勘違いしたようだった。とても機嫌のいい声で言った。
「さあ、お降り。おなかがすいたろう?」
 私には、アイシクルズの誤解を解いてやる気などなかった。その誤解が自分に有利に働くのなら、そのまま利用するつもりでいた。
 玄関の前に立っていたメイドがさっとやって来て、私の手をとって降ろしてくれた。アイシクルズはもう玄関の前に立ち、こっちを見ている。アイシクルズにうながされて、私は屋敷の中へ入っていった。
 屋敷の中は薄暗く、壁が分厚いせいか、ひんやりしていた。真四角に近いデザインのせいか、外から見るよりも内部は広かった。廊下もたっぷりとってあって、狭苦しくなくていい。廊下のわきのちょっとしたスペースには、名前もわからない外国の神の像や、私と同じぐらいの高さのある花瓶が置かれていたりした。手を触れて壊したりしたら大変だから、そういうものには絶対に近寄らないようにしようと心に決めた。
 食堂ではなく、私は裏のテラスへ連れて行かれた。大きなひさしが建物から張り出していて、その下に木の床が張られている。白く塗られたテーブルとイスが並べてある。目の前にはさっきの温室が見えているが、右手は、少し離れた山のがけになっている。危険なほど近くではないが、崩れて露出した黒い岩肌がある。ところどころツタにおおわれていて、垂直な面から顔を出して、九十度曲がって上を目指している木も何本か見える。この木たちは、一生このがけに張り付いて生きるのだろう。
 かすかな水音が聞こえることに気がついた。見回すと、屋敷の表で見た小川から分流させてきたのか、幅の狭い人工の川が、テラスのすぐわきを流れていた。駆け寄って手すり越しにのぞき込むと、私の影に驚いて、小さな魚が岩陰にさっと飛び込んだ。
 アイシクルズがイスに腰かける音が聞こえたので、私は振り返った。アイシクルズは私を見つめ、手招きをしているところだった。魚が再び顔を見せるのを待っていたいような気がしたが、私はアイシクルズのいうことを聞くことにした。私がアイシクルズに向かい合って腰かけると、メイドたちが現れて、テーブルの上に料理を並べ始めた。
 すぐに私たちは食べ始めたが、小柄なくせに、アイシクルズはやたらとよく食べる人だった。マスの切り身を油で揚げて、ぱりっと冷やしたものがあったのだが、アイシクルズは四切れか五切れ、あっというまにパリパリと食べてしまった。私は目を丸くして眺めていたに違いないが、アイシクルズは気づきもしないようだった。
 食事はとてもおいしかった。サラダが出てデザートが出て、コーヒーが出ておしまいになった。油のようにとろりとしているんじゃないかと思えるほど黒くて濃いコーヒーだったが、これもとてもおいしかった。このコーヒーは、キャリッジの店で売っている品では絶対にないだろうという気がした。都会から特別に取り寄せた上等なものだろう。
 食べながら、私とアイシクルズはいろいろ話をしたが、父のことや、私が以前住んでいた首都での生活のことや学校の様子などで、私もお付き合いしていたが、たいした内容ではなかった。アイシクルズが本題に入る気になるのを、私はじっと待っていた。
「それでさ」やっとアイシクルズはその気になったらしかった。「あんたにここへ来てもらったのは、フサルクのことが話したかったからさ」
「フサルク?」
 アイシクルズは満足そうにうなずいた。「あんたの伯母さんのいるところでは話しにくいことだからね」
 それは私もとっくに想像していたことだったが、アイシクルズを安心させるために、納得した表情をして、まっすぐに見つめ返した。メイドたちがやってきて、デザートの皿を片づけ始めた。メイドたちが行ってしまってから、アイシクルズはまた口を開いた。
「私は家の中に花を飾るのが好きでね、手に入る限りいつも切らさないようにしている。大部分の花は、そこの庭や温室からやってくるのだが、それだけでは飽きてしまうこともあるのさ。改良された園芸種とは違う野生味が恋しくなるのかもしれないね。そういうときには使用人に言って、森へ花をとりに行かせるのさ。
 といっても、もちろん森の奥深くへではないよ。あの森は地形が複雑で、獣道も入り組んでいるから、すぐに道に迷ってしまう。私が花をとりに行かせるのは、森のほんの取っ掛かりの部分さ。そこにだってきれいな花はいっぱいあるからね」
 アイシクルズは私を見つめ返し、もう結論は想像がついたかいとでもいうような、いたずら小僧のような顔をした。だが私には何も想像できず、仕方なくわずかに微笑み返しただけだった。すぐにまた、アイシクルズは口を開いた。
「そうやって、うちの使用人が花をとりに行ったときのことだが、そこであんたを見かけたのさ。あんたは見られていることに気がついていなかったに違いないが、フサルクの背中に乗って、森の中へ入っていく姿をね」
 私は、肺と心臓を同時にきゅっと締め付けられたような気がした。とうとう人に知られてしまったのだという気がした。私は真っ青になっていたと思う。森の中をフサルクと共に行くことを、ひどく不道徳で恥ずべき行為であるように感じていたのだと思う。絶対に秘密にしておかなくてはならないこと。
 私は唇を震わせていたかもしれない。アイシクルズの顔を見つめ返した。だがアイシクルズは、必ずしも不道徳な行為だとは思っていないようで、それが表情に見えていたので、私は少し安心した。それでも私は、念のために口にしてみることにした。
「あなたは、それを伯母さんに話すつもりなの?」
 アイシクルズは両目を丸くし、それからにっこりした。「そんなことをするもんかね。それなら、さっき修道院の庭で直接伯母さんに言ったさ。私は誰にも言わないから安心おし」
 アイシクルズはいったん言葉を切り、息を吸った。それから再び言った。
「ところであんたは、ブロンズって女のことは聞いたことがあるかい? あのフサルクを育てた女さ」
「あるわ。伯母さんが話してくれた」
「おや、そうかい」意外そうに、アイシクルズは再び目を丸くした。それから目を細め(そうやると、おとぎ話に出てくる魔法使いの老婆のような表情になる)、少しおもしろがるような調子で言った。「伯母さんはどう話してくれたんだい?」
 私は、特に何の疑問も感じずに答えた。
「少し離れたどこかの場所にブロンズというあだ名の女が住んでいて、身の回りの世話はどこかの女の人にしてもらっていて、ある日、山の中で迷子の子トナカイを見つけて、フサルクと名づけて育てていたのだけど、ブロンズはそのうちに死んでしまった。それでフサルクは、トナカイの群れに返された」
「ふうん」アイシクルズはもう一度、いかにもおもしろそうな表情で笑った。「修道女の誓願の中には、ウソはつかないというのは含まれていなかったかねえ」
「どういうことなの?」
 アイシクルズは、ぷっと吹きだして笑った。会話の途中に目の前でそんなことをされて、少し気分が悪かったが、私は顔には出さなかった。
「伯母さんがあんたに話したことは、ウソとはいえないかもしれないが、感心するほど正確でもないねえ」
「なぜ?」
 アイシクルズは突然まじめな顔になって、テーブルの上に身体を乗り出した。イスのひじ置きを握っている指に力がこもって、皮膚の下に血管と腱が浮き出す。
「ブロンズは少し離れたどこかの場所に住んでいたって? 『少し離れた』ねえ。あんたのいる修道院から北へ歩いて数分というのは、そう表現できるのかねえ」
「あの小屋なの?」
 その通りというように、アイシクルズはうなずいた。身体の力を抜いて、イスの背にゆっくりともたれかかった。胸の前で両手を組み合わせ、肖像画を描かれるために画家の前でポーズをとる人のような格好をした。
「あの小屋は、私が金を出してブロンズのために建ててやったのさ。都会から大工たちを呼んでね。あんたの伯母は最初、ブロンズを修道院の敷地内に住まわせようとしたが、ブロンズが嫌がってね。その妥協の産物ということさ。ブロンズの身の回りの世話をしていた女たちというのは、あそこの修道女たちのことさ。あんたの伯母も含めてね」
「あんたはブロンズを知っているのね」
 アイシクルズは顔を上げ、種をばらすときの手品師のような得意げな顔をした。「私の親戚だったのさ。そう血縁が濃いわけではなかったが、なぜか昔から行き来があってね」
「どういう関係なの?」
「私の家系とブロンズの家系は、もとは同じ家だったのが、何代か前に分かれたのさ。姓が違うから、見かけだけではわからないが」
「だけどブロンズは、なぜあの小屋で一人で暮らさなくてはならなかったの? どういう理由で家族から離れたの?」
 私がそう言うと、アイシクルズはふうとため息をついた。「それをきかれるだろうと覚悟はしていたが、いざきかれると困るものだねえ。どう説明してよいのやら」
 私は黙ったまま、アイシクルズの次の言葉を待っていた。だがアイシクルズが次に口を開いたとき、出てきた言葉は、期待していたものとはまったく違っていた。
「ところでさ、私が送ってやったトフィーはおいしかったかい?」
「えっ?」
 その瞬間、私の口の中に甘いトフィーの味がさっとよみがえっていた。舌の上をつるつる転がって、歯に触れてかちかちいう感じも。ただそれは、記憶の再来というような生やさしいものではなく、爆撃を受けていると表現するほうがよいと思えるほどの強烈なものだったが。
「あれは、あんたが送ってくれたものだったの?」数秒して記憶が攻撃の手をゆるめてくれてから、やっと私は口をきくことができるようになった。
「そうさ。あんたが三歳か四歳になるころまでだけどね。そのあと引っ越したきり、あんたの父親は住所も教えてよこさなかったのさ」
「どうして?」
「知るもんかね」アイシクルズは笑った。「おかげで私は、菓子を送って喜ばせてやる相手がいなくなってしまった。それと同時にいろいろあって、こんな山奥に引っ越してくる気になったというわけさ。それまでは、あんたの家からそう遠くない場所に住んでいたのだよ。どうせ引っ越すのならと思って、ブロンズのことで何かと思い出のあるこの町にしようと決めたのだよ。小屋を建ててやる手配やら何やらで、ケンネルには何度か来たことがあったからね。あのころはまだホテルもあったし」
「ホテル?」
「ほら、造船所の少し先に四角い土地があるだろう? 今は木材置き場の続きになってしまっているが、あそこに小さなホテルが建っていたのだよ。船の便数が増えたから廃業してしまったが、あのころは週に二便しかなかったからねえ」
「ブロンズとは親しかったの?」
「ああ、さっきも言ったように親戚でもあったしね」アイシクルズは私を見つめ返し、くすりと笑った。「あんたはだいぶブロンズに興味があるみたいだねえ」
「だって、フサルクは私の友だちだもの」
「そうだねえ。ブロンズはフサルクの親代わりだったねえ」
 しばらくのあいだ、私とアイシクルズは黙って向かい合っていた。私の耳には、小川を水が流れる音と、ときどき庭やがけを吹きぬけていく風が葉や木を動かすざわざわいう音だけが聞こえている。アイシクルズが顔を上げた。
「私は、ブロンズについては、一つだけ疑問に思っていることがあるのだがね」
「なんなの?」
 私は見つめ返したが、アイシクルズはなかなか続きを言わなかった。頭の中で考えをめぐらせ、言葉を選んでいるのだろうかと思った。それでも、アイシクルズはとうとう口を開いた。
「死ぬ何週間か前のことだが、ブロンズから私の家に小包が届いてね。当時、私はまだ首都に住んでいたのだよ。開けてみると、ボール紙製の箱が一つ入っていて、手紙が添えられていた」
「箱には何が入っていたの?」
「まあお待ち。そうせくもんじゃないよ。箱のおもてにはブロンズの手書きの文字で、『どうかアイシクルズ、あなたはこの箱を開封しないでください』と書いてあった。だから私は箱には手を触れず、手紙に目を通した」
「なんて書いてあったの?」
 私は思わず身体を乗り出していたと思う。アイシクルズは楽しそうに笑った。
「私あての手紙で、腕のいい信用できるガラス職人を探して、ボール箱は開封せずに、そのままそのガラス職人に渡して欲しいと書いてあった。箱の中身を見てよいのはその職人だけで、職人への指示書もボール箱の中に同封してあるということだった。手に持ったときにわかったのだが、ボール箱の中には何か小さくて固いものが入っていて、かたかたいっていた」
「どのくらいの大きさの箱だったの?」
「このくらいだったよ」アイシクルズは手でやってみせた。縦横十五センチ、厚さ八センチほど。
「それからどうなったの?」
「私には、ガラス職人を探すのは簡単な仕事だった。すぐに見つけて、私の手でボール箱を届けたよ」
「もちろん中は見ていないのね」
「もちろんさ」アイシクルズはうなずく。
「それで?」
「二週間ばかりして、ガラス職人から連絡があった。仕事が終わったということだった。だから私はまた馬車に乗って、ガラス工房へ行ったよ。職人はすぐに出てきて、私に手渡してくれた」
「何だったの?」
「それがさ」アイシクルズは吹き出すように軽く笑った。「またまたボール箱さ。前の箱よりもだいぶ大きかったが、厳重に封がされていて、中身はわからない。職人の言うには、このボール箱も中身を見ずに送り返して欲しいとブロンズからの指示書には書かれているということだった」
「あんたはその通りにしたの?」
「もちろんさ。私は職人に礼を言って代金を払い、家に帰った。すぐに荷造りをして、ボール箱をブロンズのもとへ送り返した。そのあとがどうなったかは知らないね」
「へえ。でも、どうして私にそんな話をするの? ブロンズから口止めされてたんじゃないの?」
 アイシクルズは、ゆっくりと首を横に振った。
「そのあたりのことは、あんたにはすべては話せない。でも私は、あんたに頼みたいことがあるのさ。そのために、今日ここへ来てもらったのだからね」
「頼み?」
「そうさ。詳しい事情は話せないが、ある理由があって、私はそのボール箱の中身が何だったのかを知らなくてはならない。そういうことになってしまったんだ。でもごらん、私はもうこんな年だ。自分で歩き回ることなんかできない。だから若いあんたに、私の助手になって代わりに調べて欲しいのさ」
「そんなことをしてもいいの?」
「ブロンズの意思を踏みにじることになるのではと心配しているのかい?」アイシクルズは、私の瞳をのぞき込んだ。私はうなずいた。
 アイシクルズはにっこりした。「その心配はないよ。ブロンズからもらった私あての手紙の中に、『正しい時期が来たら、あのボール紙の中身が何だったのかを知ってもらいたい』ときちんと書いてあったからね。ブロンズもそれを望んでいたのさ。理由は話せないが、今がその正しい時期なんだ」
「だけど、これ以上詳しいことは私には話せないというのね」
「そうさ。あんたは私の助手に過ぎないからね。私の代わりに資料集めをしてほしいというだけなのさ」
「わかったわ」私はうなずいた。「あんたの助手になる。何をすればいいの?」
 一時間後、また馬車に乗せられて、私は修道院まで送り返された。今度はアイシクルズは一緒ではなかったが、私はそのほうがうれしかった。馬車の客室を一人で占領しながら、頭の中は、アイシクルズから聞かされたことや、これからの計画でいっぱいだったのだ。私は、聞かされたことを何度も何度も違う角度から眺めなおし、見落としている部分がないかと計画を見直した。うまくいきそうな気がした。
 私が修道院へ帰りついたのは、茶の時間がすんだ直後のことだった。廊下で伯母と顔を合わせたのだが、「おかえり」と言うだけで、アイシクルズの家でどんなものを食べたのかなどとまったくきかれないのが不思議だった。伯母はそのまま自分の執務室へ入っていってしまった。私は自分の部屋へ行き、ベッドに腰かけて、作戦の続きを考え始めた。
 私が伯母に話しかけたのは、翌日の夕食後のことだった。少しでも怪しまれにくいように、一日あいだを置くことにしたのだ。執務室へ行って話しかけたのだが、伯母はその間じゅう、ずっと不審そうな顔をしていた。「あんたは自分の姪の言うことが信用できないの?」と言ってやりたくなったが、私もウソをついていたのだから仕方がない。
 私は、首都に住んでいたころの友だちから誕生パーティーの正式な招待状が届いたと言って、その手紙を見せたのだ。ちゃんと封筒に入っていて、私の名前と、それらしい少女の名が差出人として書いてある。もちろん私の文字ではない。アリシアに手伝ってもらって偽造したものだった。きちんと切手も張ってあり、かすれていて読めないが、消印のスタンプも押されている。
 この偽造もアリシアがやってくれたものだった。事情を打ち明けるとアリシアは興奮し、自分から協力を申し出てくれたのだ。アリシアの家が郵便局も兼ねていたというのは、とても好都合だった。もしかすれていなければ、この消印は『ケンネル簡易局』と読めたに違いない。
 伯母は、私あての手紙がなぜ修道院あての他の郵便物と一緒にヘルターに手渡されなかったのか不審に思ったようだったが、その言い訳もちゃんと用意してあった。アリシアが偶然見つけて、学校へ持ってきてくれたのだと私は言った。
 伯母は、とうとう納得してくれたようだった。首を縦に振り、私が首都へ旅行することを許可してくれた。
 これは数日がかりの旅行になった。ケンネルから船に乗って、船内で一泊する。首都に着いて〃友だち〃の家で二泊し、帰りの船でまた一泊。
 はじめ伯母は、ヘルターを同行させようとした。でも私は断った。船賃が余計にかかるし、ヘルターにだって仕事がある。それに私は、以前にも一人で同一のルートを旅しているのだ。
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