第一章

文字数 6,972文字

 さて、ここで場面はオースチン校の図書館に変わる。いよいよ吾等が主人公が登場するわけだが、彼・ウィリアム・クーパー・ポウイズ、十二世紀から続く魔術師(ネクロマンサー)の家系に生まれ、悪霊を鎮め、呪いを解く超能力の持ち主、こう紹介するといかにも派手派手しいBGMや白い煙の噴き上がる舞台装置とともにお目見えするかのようだがもう読者の皆さんはご存じでしょう。彼は世間一般にはオースチン校の司書として認知されており、その役どころにぴったりの地味な様相で物語に登場する、すなわちその日の午後、彼はいつものように生徒たちが返した本を台車に積み、布できちんと埃を払い、はたまた生徒たちが本を傷つけていないかどうか確認しながら一冊ずつ丁寧に書庫の本棚に戻しているところだった。
「ウィリアムさん」と呼ばれてウィリアムが振り向くと、生徒が一人、書庫の扉から手招きをしている。
「ウィリアムさん、面会のかたが」
「面会?」
 ウィリアムはハンカチーフで手を拭くと、図書室に戻ることにした。いったい面会とは誰だろう、と首を傾げながら。
(男爵、ってことはないな。あの人はOBだから勝手に入ってきて、勝手にやってくるもの)
 このところ男爵のことを考えてもウィリアムの心はあまり騒がない。それは少し前、アーサー・ロビンが弾みで狼に変身した事件がきっかけだった。
 とてつもない変人で傍若無人な男爵だが、家族への深い愛情、そして誰とも結婚しないと宣言したことなど、ウィリアムには男爵がたいそう好ましく思えるようになり……一言で言えば、かなり「好き」、時々は「愛してる」と思ったりすることもあり、なぜ「時々」なのかと言えば、男爵があまりに無体でかつ自己チューだったりするからで、まあそれはともかく。
(誰だろう?)
 呼びに来た生徒と図書室に戻ると、そこにはなんとアーサー・ロビンが真剣な顔をして立っているではないか。ウィリアムはきょろきょろと辺りを見回すが、他に図書室にいるのは学校の生徒たちだけだ。
「アーサー・ロビンくん、どうしたんだい? 一人で来たのかい?」
 アーサー・ロビンは真新しいオースチン校のジャケットを着ている。そこでウィリアムは思い当たった。
「そうか、今日は学校の見学かな? それじゃあ僕よりもスコット君に案内してもらったほうがいい」
 アーサー・ロビンはいいえと首を振った。
「違います、ウィリアムさんにたっての頼みがあるのです」
「僕に頼み? なんだい?」
 アーサー・ロビンは小声で「ここでは言えないことなのですが」と答えた。
 なんだろう? とウィリアムは再び首を捻る。
(ひょっとしたら寮に入るのが不安なのかも知れないな)
 それはウィリアムも日本からの留学生・志門少年が転入してきたときに知ったことだった。パブリックスクールの伝統、新入生へのイニシエーションはかなり荒っぽかったりするらしい。
(坊ちゃんのアーサー・ロビンにはきついかも)
 そのことだったら在校生のいる前では訊きづらいだろう、とウィリアムは思い当たり、「じゃあこっちへ」とアーサー・ロビンを手招きした。
「ちょっと埃っぽいけれど、こっちへおいで」
 書庫の奥には小部屋があって、そこには書架に並べきれない本や、OBから寄付された本などが箱に詰められて置いてあった。
 ウィリアムはそこへアーサー・ロビンを招き入れると、扉を閉める。
「さあ、ここならいいだろう? 頼みってなんだい?」
 するとアーサー・ロビンはぎゅっと細い眉をつり上げ、ウィリアムを見上げた。
「ウィリアムさん、お願いです、キスしてください!」
「ええっ?」
「早くっ」
 アーサー・ロビンはウィリアムの上着の襟を掴み、必死で頼み込む。
「お願いですっ」
 アーサー・ロビンの手に自分の手を重ねると、ウィリアムは「ちょっと待った!」と言い渡す。
「アーサー・ロビンくん、それがどういうことか、知ってるだろう? 君は狼に変身してしまうんだよ?」
 そう、どういうわけかウィリアムの口づけでアーサー・ロビンは狼に変身してしまうのだ。満月の光だけでなく。
 アーサー・ロビンはうんと肯く。
「僕、変身したいんです」
 ええっ、ともう一度ウィリアムは驚いた。
「いったいなぜだい?」
「実は……」
 アーサー・ロビンはいったんウィリアムの襟を離す。そして「昨日のことです」と口を開いた。
 以下はアーサー・ロビンの回想である。
 それは前日の午後のことだった。
 アーサー・ロビンが姉たちの部屋の前を通りかかると、扉が開いていて、中からおしゃべりとごそごそと衣擦れの音がする。開いた扉から、双子がコートを着ようとナニーの手を借りているところだった。ナニーはすでにボンネットを被っていて、お出かけの支度だった。
 今日はお呼ばれの予定はないはず、ただの散歩なら一緒に連れて行ってくれるかもとアーサー・ロビンは期待を込めて扉から顔を部屋の中へと突っ込んだ。
「お姉ちゃまたち、また散歩?」
 するとマッティが振り返り(アーサー・ロビンにはどちらがどちらか解るのだ)、「ううん、お見舞い」と答えた。
「お見舞い? 誰の?」
 ナニーから帽子を受け取って被ろうとしていたオルウェンも振り返る。
「リジーよ。リジーが病気なんですって」
 アーサー・ロビンは驚いて部屋に飛び込んだ。
「ええっ、リジーが? 僕も行く!」
 姉たちは顔を見合わせたが、「ま、いいんじゃない」と肯き合う。
「ね、メアリー? アーサー・ロビンも一緒に連れて行きましょうよ」
 ナニーのメアリーは「そうですね」と答えた。
「お友達が病気とあっては、お見舞いに行かないといけませんね」
 こうして四人が馬車でモルダヴィア侯爵夫人邸に着くと、侯爵夫人が玄関まで出迎えたので、いかに夫人が心配しているかが解ろうというもの、さらに玄関ホールはお見舞いの花でいっぱいだった。
 マッティとオルウェンも花束を差し出す。侯爵夫人は疲れた表情で受け取り、小さく微笑んだ。
「お花をありがとう、マッティにオルウェン、アーサー・ロビン」
 アーサー・ロビンは心配で一秒でも早く、エリザベスの顔が見たくてしょうがない。
「リジーのお加減はいかがですか?」と尋ねた。
 すると侯爵夫人は「リジーは病気ではないの」と言うではないか。
「実はねえ……」
 そして侯爵夫人の口から出たのはとんでもない言葉だった。
 双子であるがゆえに完璧にシンクロしてマッティ&オルウェンは叫び、そしてちょっと遅れてアーサー・ロビンが叫んだ。
「ええっ、フラッグが誘拐された?」
 ナニーのメアリーは片方の眉を上げ下げし、これは彼女がとても興味深いと思っていることをあらわす。もちろん雇われている身分なので、自分の意見は口にしなかったが、やはり相当驚いたのだった。もし意見を言える立場だったら「マジっすか!」と言ったに違いない。
 侯爵夫人は皆をドローイングルームへと招き入れながらほうとため息をついた。
「ええ。脅迫状と一緒にフラッグの首輪が届いたの。(ここでマッティとオルウェンはお互いに顔を見合わせ、アーサー・ロビンは身体をぞくりと震わせる)このところ、貴族の飼い犬を誘拐して身代金を要求するという事件が多発しているらしいわ。まったく、動物愛護の精神からしても許せない蛮行」
 侯爵夫人の握りしめた両の拳がふるふると震える。
 エリザベスもさぞ悲しんでいることだろうとアーサー・ロビンにも想像がついた。
「警察に届けたのですか」と言ってみる。
 侯爵夫人はさらに拳を震わせた。
「もちろんよ、ロンドン警視庁に乗り込んだわ。ところが相手にしてもらえなかったのよ。この私がよ!」
 夫人の声は怒りで震えた。
 そう、脅迫状は三日前に届いていた。あのお茶会のあと、フラッグの姿は忽然と消え、エリザベスは心配で夜も眠れず泣き明かし、そこに忌まわしい手紙が届いたのだ。教養のない無骨な男が書いたものだと一目で分かる、汚い紙に殴り書きされ、フラッグの首輪に手紙は縛り付けられていて、門のところに投げ込まれていたのだ。拾ったメイドがすぐフラッグの首輪と気づき、エリザベスに見せてしまった。
「まったく気の利かないメイドったら!」
 夫人はメイドにも怒りの矛先を向ける。
 その紙に書いてあった文面は。
「金を用意しろ、10万ポンドだ、さもないと犬を殺す、またあとで連絡する」
というもの。
 脅迫状を読んだエリザベスは真っ青になってその場に倒れてしまった……。それを聞いたアーサー・ロビンはエリザベスの心を察して自分も顔を青ざめさせる。
 夫人はすぐさま馬車を仕立ててロンドン警視庁へと向かったのだが……。
「あのレストレイドとか言う男ったら! たかが犬のことで、我々の手を煩わせないでもらいたいですなあ、ですって! 我々は凶悪犯罪で手一杯なんですよ、とかも言ったわ、可愛らしい天使のような少女の飼い犬をさらうことが凶悪犯罪でなくてなんとするの! ぜったい、ぜったい、許してやらない!」
 天井へ向かって一気に侯爵夫人は不満を吐き出し、アーサー・ロビンはその勢いに首を縮めた。
 それより、と侯爵夫人はマッティ&オルウェン、そしてアーサー・ロビンを振り返る。
「リジーを元気づけてやってくださいな」
「もちろんですとも、小母様、そのために来たんですから!」
 マッティとオルウェンが同時に答え、アーサー・ロビンもこくこくと首を縦に振った。
「リジーは部屋にいるわ」
 ドローイングルームを抜け、長い廊下を通って、一行は大寝室(グレートチャンバー)の隣の部屋に入った。そこはピンク色の壁紙と淡いグリーンの絨毯の敷かれた可愛らしい小部屋で、大きなガラスの填った扉が庭に面した壁にあり、真ん中には小型だが天蓋のついたベッドが置かれていた。
 ベッドの真ん中は僅かに盛り上がり、しくしくという悲しそうな泣き声にシンクロして掛け布団が動く。
「おお、リジー、泣きやんでちょうだい、お友達が来てくれたわよ」
 侯爵夫人は悲痛な声を上げてベッドへと駆け寄る。マッティたち一行も後を追った。
 むくり、と掛け布団が動いて、焦げ茶色の巻き毛が覗いた。
「ありがとう、お見舞いに来てくれて」
 か細い声が上がり、エリザベスが顔を出したが、目は泣きはらして真っ赤、顔色はいつもより白く、いや、真っ青といっていい。
 さすがのマッティ&オルウェンも深刻な顔になってエリザベスに近寄った。そしてベッドの両脇からエリザベスの肩を抱く。エリザベスは二人の顔を代わる代わる見ながら「フラッグになにかあったらあたし、もう生きていられない」と言うと、またさめざめと泣き出した。
「おお、リジー、あたしたちに何かできることはあるかしら? いいえ、何もないけれど、お祈りするわ、あたしたち」
「ええ、フラッグが帰ってくるまで、毎日三回はお祈りするわ、きっと!」
 アーサー・ロビンは真剣な表情で天蓋を睨んだ。天蓋が憎いわけでもなんでもないがそれぐらいしか今の時点ではできなかったわけで。
(僕に出来ること……)
 絶対天蓋を睨むこと以外にもあるに違いないのだ、とアーサー・ロビンは必死で頭を巡らせる。愛しい女性のためなら何だってする、それが英国紳士のたしなみだ。
「ご主人さま」
 ノックとともに召使いが扉を開けた。
「なあに?」
「ご主人様、キース様がお見えです」
 言葉が侯爵夫人の耳に達するよりも早く、細身の青年が部屋に歩み入り、それはもちろん侯爵夫人の遠縁に当たるキース・トランパースにして化学オタク、そして侯爵夫人を密かに想っているあのキース君。今日はオースチン校の制服ではなく、大人びたグレーのディットーを着ていて、中産階級の品の良い若紳士といった風、読者の皆様、驚くには値しません、キース君だってきちんとした席ではたいそう素敵な青年なのです、それはむろん、キースの父親は素晴らしく品が良く、またセントトーマス病院の優秀な外科部長であるから当然予想されることで、それはともかく、胸には深紅の薔薇の花束をしっかり抱えていた。キースは恭しく侯爵夫人の前で腰をかがめ、花束を差し出した。
「ルシンダ、お加減はいかがですか? 母があなたのところへ花束を贈ったので、もしやお病気ではないかと思い、居ても立ってもいられなくなって参上したこと、お許しください」
 侯爵夫人は可愛い甥の差し出す薔薇を微かな笑みを浮かべ、受け取った。
「ありがとう、キース。私ではなくて、孫のリジーなのよ。実は」
「なんですって!」
 頭の良いキースは、三人の女の子がさめざめ涙を流しているのを見て、小声で「なにがあったんです」と尋ねた。
 侯爵夫人は憂い顔で「説明するわ」とドローイングルームへとキースを案内する。アーサー・ロビンも殿方として独りだけ残るわけに行かないので、あとをついて行った。
 ドローイングルームで侯爵夫人はこれまでの経過を簡単に説明した。そして椅子にぐったりと身体をもたせかけ、ハンカチーフで口元を隠した。
「リジーはフラッグがいなくなってからご飯をいっさい食べないのよ……あの子が病気になったらどうしたらいいかしら……」
 キースの顔色が変わった。侯爵夫人がこれほどまで悩んでいる顔を見せたことはなかったのだ。ルシンダ命のキースにとって、これは全世界の終わりに等しい。
「ルシンダを悲しませる奴は僕が許さない!」
 キースは椅子のそばに跪くと、侯爵夫人のスカートを片手で掬い、そこに口づけする。
「僕が必ずフラッグを見つけます!」
 中世の騎士が姫君に忠誠を誓うのをそばで見たようにアーサー・ロビンは思った。
 キースはさっと立ち上がり、「失礼します」と決然とした態度でその場を去る。
 かっこいいお兄さんだ、とアーサー・ロビンの心には刻まれた。
(僕もあんな風な立派な男にならなくちゃ)
 アーサー・ロビンも決意を新たにする。
(そう、僕だって!)
 そして「僕がきっとフラッグを連れ戻します!」と侯爵夫人に宣言したのだった。
 ここで回想と説明が終わり、アーサー・ロビンはウィリアムを見上げる。
「というわけで、これを借りてきました」
 上着のポケットから取り出したのか、赤い小さな革の首輪と、薄汚れた片方だけの手袋だった。
「この首輪が……フラッグの?」
 はい、とアーサー・ロビンは頷いた。
「そしてこっちが庭に落ちていたものです。侯爵夫人の召使いたちは誰もこんな手袋を使っていないそうです。きっと犯人のに違いありません」
 それは解ったが、ウィリアムにはなぜアーサー・ロビンが自分にこれを見せたのか理解できなかった。
「だが、これをどうするつもりだい?」
 アーサー・ロビンは身を乗り出した。
「ですから、僕が狼に変身すれば、この二つの匂いをたどれると思うのです、ウィリアムさん、キスしてくださいっ」
 ええっ、とウィリアムはのけぞった。
「だめだ、絶対!」
 するとアーサーロビンは首輪と手袋をきちんと上着にポケットにしまった。
 納得して帰るのかとウィリアムは判断し、ほっと息をつく。
 しかしアーサー・ロビンは真面目な表情を崩さず、こう続ける。
「仕方ありません、紳士としてはきちんと承諾を得てからと思ったのですが」
「は?」
 ウィリアムが聞き返すより早く、アーサー・ロビンはウィリアムに飛びついた。ぐいと首を伸ばし、無理矢理キスをする。
 柔らかなものが唇に押し当てられたのを感じ、ウィリアムは思わず眼を閉じた。柔らかだったものが、すぐさま湿って冷たい感触に変わる。
 慌てて眼を開けたウィリアムの前にはすでに見慣れたアーサー・ロビンの顔はなかった。唇に押し当てられていたのは真っ黒で濡れた鼻だ。
「ああっ」
 次の瞬間、ばさり、とオースチン校の制服が床に落ちる。その中から見上げているのは得意そうに鼻を天に向けている小さな狼、というか子犬だった。
 ウィリアムは唖然としてアーサー・ロビン狼を見下ろす。「うう、仕方ない」と呻いた。
 それでもここで甘やかしてはいけない。じろりとアーサー・ロビン狼を睨むと、人差し指を一本、黒い濡れた鼻に突きつけた。
「今回だけだよ、もうこんなことをしたら決して許さないからね」
 うんうん、とアーサー・ロビン狼は首を縦に振り、さらにしっぽも振る。
 その姿を見ながら、ウィリアムは溜息をついた。
(この強引さは間違いなく男爵の血だなあ……)
 あともう一つ言っておくことがあった。ウィリアムは横の扉へと歩きながら、アーサー・ロビン狼に言い渡す。
「君だけに誘拐犯を追っかけるなんて危険なまねはさせられない。僕も一緒に行く。それから助っ人を呼ぼう」
 賢明なる読者諸君、もしあなたがこの「愛しの人狼」シリーズの愛読者であり、さらにエピソード4「東から来た少年」を憶えておられるのなら、すでにウィリアムが誰を念頭に話をしているかお解りでしょう。その人物とは……詳しくは第二章で!

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登場人物紹介

ウィリアム・クーパー・ポイズ

ビクトリア朝英国のパブリックスクールオースチン校の司書にして
悪霊を祓う魔術師。

ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵

スコットランドの貴族にしてフェンリル狼の血を引く人狼。
かなり自己チューなお殿様。

九条志門

日本の熊野から来た留学生。
南朝の血を引く巫女の家系で、動物の言葉が解る。

アーサー・ロビン。

ジョン・ウルフの甥で、こちらは心優しい小さな紳士。

キース・トランパース
オースチン校の学生。

化学オタクで実験が大好き。
実はロンドンカムデンタウンのヤサグレキッズの親分。

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