第1話

文字数 1,064文字

 いつまで経っても忘れられない患者さんがいる。
 今から約10年前、その患者さんは当時99歳の老婆だった。誤嚥性肺炎を繰り返し、嚥下障害のため胃瘻(いろう)による経管栄養をしていた。日常生活は車椅子で自走可であった。
 沖縄県出身で名を○○〇さんといった。長い白髪を束ねていた。顔は赤銅色で深い皺が刻まれていた。目じりはやや吊り上がり、眼光が鋭かった。前歯は抜けて犬歯だけが残っていた。アルツハイマー型認知症の症状が強かったが、発語はしっかりしていて、声には張りがあった。
 日中は車椅子に乗ってナースステーションで過ごし、沖縄民謡を聞いてご機嫌だった。
 「沖縄いいとこ~一度はおいで~」

 ところがだ。ある朝、研修医たちと病棟を回診した時だった。彼女はベッドサイドで車椅子に座っていた。
 「○○〇さん、おはようございます。」
 「…。」
 「どうしましたか? 調子はどうですか?」
 「…。」
 彼女はゆっくりと顔を上げた。上目遣いでこちらを見た。右手で私の左肩の背後を指さした。目も私の背後の何かを見ていた。やがて私を指さした。彼女は私の顔を見つめている。数秒の沈黙があった。
 「おまえ、死ぬぞ~っ!」
 「えっ?! ○○〇さん、朝から悪い冗談は止めましょうよ、ねっ。」
 「お、お前、死ぬぞ~っ!!」
 私を指さして、顔を凝視したまま彼女は言った。眼は爛々としていた。

 私の背後に何かが見えたのかも知れない。私も何人もの認知症の患者さんを知っている。認知症の症状は、短期記銘障害(近々の記憶がスポッと抜け落ちる)、失見当識(日時、場所、人物や周囲の状況について認識できない状態)、被害妄想(「財布を取られた」「若いもんが悪口を言っている」などの事実ではない間違った内容)などであるが、およそ自分の置かれた立ち位置が正確に理解できずに苦しんでいることが多い。自分のことではなく、いきなり具体的に相手を攻撃する内容には出会ったことがなかった。
 回診の(たび)に老婆から、「お前、死ぬぞ~っ!」と指をさされる日々が、それからしばらく続いた。怖かった。
 そして10年以上経過したが、私は元気でいる。ふ~。

 さて写真は 2014年2月16日、東京で開催された世界らん展で撮影した。

 (らん)は桜と比較すると個性が強い。桜は水彩画とすると蘭は油絵だ。桜は散り際が美しいが、蘭は満開で爛漫(らんまん)がいい。桜は風景に溶け込むが、蘭は単独で主張する。桜の花びらは薄いが、蘭の花びらは肉厚だ。
 蘭の花を見ると、99歳になってなお存在感十分なあの老婆を思い出す。

 んだっけの~。
(2023年1月)
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