第3話 第3番小さな編成のブルックナー

文字数 2,797文字

 しばらく大昔のコンサートのメモ書きになりますので、ご容赦のほどを。
 サントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムはスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮で、前半がモーツァルトのドン・ジョヴァンニ序曲とルトスワフスキの交響曲第4番、後半がブルックナーの交響曲第3番(ノヴァーク版)でした。

 サントリーホールの改装が終わって池袋まで行かなくてよくなったんで、わたしとしてはそれだけで楽なんですが、どこがどう変わったのかよくわかりませんでした。障害者用のトイレが増設されてお蔭で一般のトイレが狭くなったのか、途中の休憩時間が終わりそうになってもまだ男子トイレに行列が出来てました。外に出てアークヒルズの中のトイレに行き、一服もして来ました。

 夜ともなるとすっかり秋めいてすがすがしい感じで、ファストフードの店もいくつかあります。値段が高いのに社交場の雰囲気が感じられない(これはホール側の問題じゃないんですが)バーで飲み食いすることもないような。

 これから来年の3月までは同じ席になりますが、コントラバスの真上って感じの指揮者から見て斜め45°の席です。こんな偏った席にしたのは安いからというのがいちばんの理由ですが、指揮者やオケが何をやってるかが見えるのと、絶対にCDでは聞けない音が聴けるからということもあります。

 その思惑どおりに最初のドン・ジョヴァンニ序曲ではティンパニが弦と少しタイミングがずれてバタバタ鳴る、ホールに響く前の音を聞くことが出来ました。それで何がわかるわけではありませんが、かえって臨場感があるなあって思いました。音楽のリアリティってそういう手触りの粗い音の集積のような気もします。

 低音部ばかりでヴァイオリンが聞こえないとか、ギスギス硬くて疲れる音だとかいうのはある程度覚悟してたんですが、昨日の演奏に関してはそういうことはありませんでした。打楽器や金管の強奏はすぐそばだけにガンガン来ますが、スパイシーな感じで好きですし、弦は硬い直接音がやわらかい間接音にくるまっているようで、やっぱりこのホールってよく出来てるんだなって思いました。コンマスらのソロもとてもいい感じで響きます。

 さて、各曲についてですが、ドン・ジョヴァンニ序曲はブゾーニ版ってことで、いちばんの違いは6重唱「これが悪人の最期だ!」の部分が入っていることです。曲としてのまとまりはオリジナルより悪くなりますが、オペラのおいしいとこ取りでブッファ的な掛け合いの楽しさが立ち昇ります。定食メニューじゃないいい工夫だと思いました。

 ルトスワフスキのは前半の曲としては異例の巨大編成で、木管だけでもピッコロ、イングリッシュホルン、E♭クラリネット、バスクラリネット、コントラファゴットが3つずつ追加されています。

 聴いてて印象的だったのは2台のハープの最高音部をしゃらしゃら鳴らしたトーンクラスターっていうのか、音の雲でした。チェレスタも出てきて、ベリオのOrchestral Transcriptionsにちょっと似てますね。

 かたやピアノに鐘に銅鑼にマリンバとヴィブラフォン(マリンバ奏者の兼任)が2台ずつあって、なんだかメシアンの「われらの主、イエス・キリストの変容」を思い出させます。……もちろんこじつけですが、20分くらいの曲にこれだけの奏者をつぎ込んじゃうのも1992年のロスアンジェルス・フィルによる初演って知るとなるほどねって感じです。

 わかるわからないで言えばちっともわかりませんが、いろいろな楽器でいろいろな奏法を聞かせてくれて飽きさせない曲でした。この作曲家はたぶん初めて聴くんですが、かなり興味を惹かれました。

 後半のブルックナーはそういう楽器のおもしろさはなくて、編成が小さくなってピアノが隅っこに置いたままになってるのがなんだかおかしかったです。19世紀の肥大したロマンティシズムも20世紀末期の資本主義にはかなわないと言うか。

 穿ちすぎを承知で言えば意外と古典的でコンパクトなブルックナーっていうイメージを与えたかったのかな。指揮者の解釈も前回以上にオーソドックスで、指示も的確だし、オケの演奏もこの曲のノリのいいところや力強いところはよく表現できてたと思うんですが、それだけに曲自体の問題点がはっきりしたような気がしました。

 この3番はいろいろ注釈のつく曲で、それを繰り返しても仕方ありませんが、通常演奏され、この日も使われた第3稿が作曲家の出した結論だとすると実験作、失敗作だと思います。一つの楽章で魅力的な曲想が次々出てくるけれど、有機的にまとまらないまま小麦粉のダマみたいになっている、そんな感じです。

 4月に聴いた4番と違ってきれいに無難にまとめようとしたものかなって。スクロヴァチェフスキはそういった通常の理解の逆を行こうとして4番についてはまとまりきらない感じを出して成功?し、3番については完成したものとしてまとめられなくて失敗??したんじゃないかって。

 そのいちばんの原因は第2楽章のアダージョだろうと思います。この稿で聴いていてヴァーグナーを想起させるのはこの楽章しかないと思うんですが、それだけに自分として何を言いたいのかブルックナー自身が未整理に思えます。そのため、スクロヴァチェフスキが一生懸命叙情性を醸し出そうとしても聴く側の感情が高まるのには(変な言い方になりますが)音符が足りないのです。ブルックナーのアダージョって冬のひなたぼっこみたいにあったまるのに時間がかかります。

 この曲で唯一安心して聴けるのが第3楽章のスケルツォです。まぎれもないブルックナーのスケルツォとして不器用に完成されています。たぶんこの曲と第4番の楽想は言葉にしてしまうとほとんど同じだろうと思います。少なくとも私にはそうで、さっき4月のコンサートのときに書いたものを読んで、今回考えたこととあんまり似てるんで笑ってしまいました。

 でも、音楽は違います。ブルックナーなんかみんな同じだと言う人はいるでしょうし、別に間違ってると反論はしません。それは上高地から見える山並みを眺めてみんな同じだねって言ってる人に反論してもしょうがないのと同じです。同じようなものなのになぜそれぞれ独自の魅力があるのかなって思いながら聴いたり、登ったりするのが楽しいんですから。

 スクロヴァチェフスキの指揮はいわゆる感動を与えるものではないかもしれません。例えばジョージ・セルのようにベートーヴェンの線で押し切ってしまえば事は簡単かもしれません。でも、彼の趣味なのか、時代の要請なのか、そういう行き方はせずにあえて先入見を崩すようなアプローチを取っているように思います。偏った席からいろいろ眺め、いろいろ考えてみたいわたしのような人間にはちょうどいいのかもしれません。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み