第1話

文字数 2,000文字

 ああ、もう何もかもが嫌。疲れた。
 問題が起これば上司は雲隠れ、手柄は横取り。
 毎晩深夜まで残業しても、残業手当は毎月20時間分だけ。
 いっそ倒れれば楽になれるのかな、なんて不謹慎なことを思っても、意外と人間の体は頑丈らしい。

 フラフラと終電の終わった繁華街を歩いていく。
 陽気な酔っ払い。強引な客引き。
 毎日ボロボロになるまで働く私の存在は、そんな彼らにすら見えていないかのよう。

 人混みを避け、路地裏に入ると、一つの看板が私の目を引いた。

【あなたのユートピア体験をお約束します】

 こんなお店、今まであったっけ?

 吸い寄せられるように看板の前に立つと、小さな文字で注意書きが続いていた。

【ただし、写真撮影はお断りさせていただいております】
【お代は、お気持ちで結構です】

 どうせ今日も終電逃しちゃったし。
 それに、明日は久しぶりの休日。
 ちょっとくらい寄り道したっていいんじゃない?

 思いつく限りの言い訳の言葉を並べ立てながら、私はその怪しげなお店のドアを押し開けた。


「ママ帰ってきた! おかえりなさぁい」
 柔らかい明かりの灯った玄関に、5歳くらいの女の子がパタパタと駆けてくる。
「ママ……?」
「パパがね、今日の晩ご飯は、ママの大好きなハンバーグだよって言ってたよ」
「ぱ、パパ……?」
「おかえり、ユキ」
 奥の扉から、一人の男性がひょいと顔を覗かせる。
 その私に向けられた優しげな瞳に、私は思わず息を呑んだ。
「アキ、ト……なんで」
「うん? 『今日も遅くなるから、ハルのお迎えと晩ご飯の支度お願い』ってメッセージくれたでしょ?」
「いや、そうじゃなくて……」
 なんでアキトがここにいるの?
 それに、この女の子は……?
 高校時代から付き合っていたアキトとは、入社一年目で別れたはずなのに。
 そこで私の人生計画はすべて狂ってしまったはずなのに。

 25歳で結婚。27歳で出産。
 今年32歳になる私には、この女の子——ハルちゃんくらいの子どもがいる……予定だった。
 アキトと別れたとき、今ならまだこの人生計画通りにできる。そう思った。
 だけど、現実はそううまくいく訳もなく。
 昼まで寝ていたかったのに……と心の中で愚痴を言いながらアキトとの待ち合わせ場所に向かう……なんて、今思えばすごく贅沢な不満だったなと思う。
 アキトと別れてからの私は、仕事、仕事、仕事。
 恋なんて、たとえ目の前にぶら下がっていたとしても、気付く余裕さえなかった。

「ほら、ハンバーグ冷めちゃうよ」
 アキトの声に、ハッと我に返る。
「ハル。手を洗ってきて、パパのお手伝いしてくれる?」
「はーい!」
 ニコニコ笑顔で元気よく手をあげると、パタパタと駆けていく。
 そんなハルちゃんの背中を見送ったあと、アキトが私の方に視線を戻す。
「ほら、ユキも早く着替えといでよ」
「うん……」
 一体これはどういうこと?
 ここって、お店……だよね?
 そして、看板の文字を思い出す。

【あなたのユートピア体験をお約束します】

 ああ、そういうことか。
 これは、私の理想の人生計画そのものなんだ。
「どうした、ユキ?」
「ううん。なんでもない」
 いくら鈍感な私でも、そろそろ気付くというもの。
 ここは、そういう意図のお店だったのだ。
 ならば堪能しない手はない。
「すっごくいいニオイ。おなかすいちゃった」
「いつも遅くまでご苦労様」
「ううん。アキトも、仕事も家事も、いつもありがとね。本当に助かってる」
「なんだよ、急に」
「ううん、なんでもない」
 これは、私がもう一歩積極的にアキトとの未来を考えていれば、本当に手に入れられたかもしれない理想郷。
「パパとママ、仲良しさん?」
 いつの間にか洗面所から戻ってきたユキちゃんが、私とアキトの間で交互に二人の顔を見比べる。
「そうだよ。ハルちゃんとパパとママもね」
「うんっ!」
 私とアキトは、ハルちゃんに手を引かれ、ダイニングへと向かった。
「わっ、これ本当にアキトが作ったの⁉」
「今さら何言ってるの。夕飯は大体僕の担当じゃないか」
「あ、あー……そうだったね。ごめん、ごめん」
 着替えは後回しにして、三人でテーブルにつく。
 私の前にはアキト。そしてハルちゃんは、私とアキトの間に。
「それじゃあ——」
 アキトの音頭で三人同時にぱちんと手を合わせる。
「「「いっただっきまーす」」」
「パパのハンバーグおいしいねえ」
 ソースをお口の端っこにつけながら、ハルちゃんが幸せそうにハンバーグにかぶりつく。
 そんなハルちゃんが愛おしくて、私はスマホのカメラをハルちゃんに向けた。

 カシャッ。

 機械的な音がダイニングに響くと——私は繁華街から一本入った路地裏にぼーっと突っ立っていた。
「あれ……私、こんなとこで何してたんだろ」
 まるで記憶にぽっかりと穴が開いてしまったかのよう。
 けど、ここに来たときのような、もう何もかもが嫌っていう気持ちは、不思議となくなっていた。
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