一話完結

文字数 1,997文字

 夕方、浪人の松岡平馬は江戸藩邸が建ち並ぶ通りをうな垂れながら歩いていた。この日、平馬は遠縁の者に仕官の口をきいてくれるよう頼みに行ったのだが、藩財政の厳しさを長々と説かれ、断られたのだった。
 二年前、藩が取り潰され、平馬は浪人になった。多くの藩士は右往左往していたが、平馬は動じなかった。自分はまだ三十前であり、剣術道場で師範代を務めているので、江戸に出れば仕官先は見つかると考えていた。ところが、現実は厳しかった。あらゆるつてを頼って仕官しようとしたが、全て断られた。剣術の腕前は、太平の世では必要とされていなかったのだ。
 平馬は住んでいる裏長屋の木戸の前に着くと、背筋を伸ばした。
「今、お帰りですか?」
 平馬に声を掛けてきたのは、大家だった。
「松岡様にお話があるんですよ」
 平馬は溜めている店賃を催促されると思い、大家に向かって手を合わせた。
「店賃はもう少し待ってくれ」
「店賃のことはまた今度。話というのは仕事のことなんです。私の知り合いの居酒屋で働いてみてはどうかなと」
 平馬はときどき商家の用心棒をして日銭を稼いでいた。
「居酒屋の用心棒か。いくらだ?」
「用心棒の話ではないんです」
 平馬が首を捻ると、大家が説明を始めた。小さな居酒屋を営む老夫婦は跡取り息子を亡くし、人手が足りなくなった上に働けなくなったときのことを心配している。それで、夫婦が引退したらタダで店を譲る代わりに、店を手伝ってくれて、引退後の夫婦の世話をしてくれる人を探している。大家の話は大体このようなことだった。
「悪い話じゃないでしょう」
「身共に居酒屋の店主など務まるはずないであろう」
「手前は松岡様が適任だと思ったんですがね。松岡様なら客が暴れてもねじ伏せられるだろうし、料理の腕もなかなかだ。仕事はおいおい覚えればいいんだから、引き受けたらいかがですか?」
 平馬は一年前に妻を病気で亡くした。それ以来、六歳になる一人息子の宗太郎を男手一つで育てている。仕方なく料理もするようになったのだが、長屋の連中の評判は良かった。
「松岡家は少禄だったとはいえ、先祖が大坂の陣のおりに藩主から褒美を貰った家柄。武士を捨てることなどできん」
「そんな大昔のことにこだわったって。まあ、急いだ話ではないので、気が変わったら教えてください」
 平馬は不服そうな大家をその場に残して木戸をくぐり、真っすぐ自分の家に向かった。
 平馬が引き戸を開けると、四畳半しかない座敷の奥で、宗太郎が母の位牌に手を合わせていた。
「父上、お帰りなさいませ」
 平馬は「うむ」とだけ発して座敷に上がると、位牌の前に置かれている切り花を目にした。ぼた餅も一つ供えてある。
「これはどうした!」
 平馬は花を指差して怒鳴った。宗太郎に銭を持たせてないので盗んだと思ったのだ。
「ぼた餅は花売りのおじさんの仕事を手伝った駄賃で買いました。花はそのおじさんがくれました」
 宗太郎は緊張気味に答えた後、自ら花売りに仕事をさせて欲しいと頼んだこと、客の女たちが可愛がってくれたこと、花売りがいつもより売れたと喜んだことなどを楽し気に話した。平馬はこんなに楽しそうに話す宗太郎を見たことがなかった。
「我が家は武家、町人とは違うのだ。なぜ、町人の真似をした?」
 平馬に詰問された宗太郎はうつむき、ややしばらくして口を開いた。
「銭が欲しかったから」
「童が銭を欲しいなどと、卑しいとは思わんのか!」
「だって、今日は母上の命日だから……母上の好きだったぼた餅をお供えしたかったから」
 平馬はハッとした。
「今日が命日だっな」
 そう言った平馬の脳裏には、妻が病床で言った「宗太郎を幸せにしてあげて」という言葉がよみがえっていた。
(仕官して宗太郎を公に認められる武士にしてやりたがったが、この先も仕官はかなわぬだろう。宗太郎も浪人として生きるしかないのか。武士という身分にしがみ付いて貧乏暮らしに絶えることが宗太郎の幸せだろうか。虚しいだけではないか)
 平馬は座り直して宗太郎を見つめた。
「父は士分を捨てようと思う。宗太郎も町人になるが、よいか?」
「僕は町人の暮らしが好きだよ。だから、町人になってもいいよ」
「町人になったら、武士には戻れぬのだぞ」
 平馬が念を押すと、宗太郎はうなづいた。
「情けない父で済まぬ」
 平馬は手をついて深々と頭を下げ、額を床に付けた。背中が小刻みに揺れてる。
「父上、頭を上げて」
 宗太郎に促され、平馬は顔を上げた。平馬の頬を伝った涙がぽたぽたと床に落ちる。
 宗太郎は位牌の前にあるぼた餅を手に取って、半分にちぎった。
「一つしか買えなかったから、半分こ」
 宗太郎はぼた餅の半分を平馬に渡し、残りを食べ始めた。
「とっても甘いよ。父上も食べなよ。あっ、これからは父ちゃんだね」
 平馬もぼた餅を口に入れる。
「何だか、しょっぱいな」
 流れ落ちる涙が平馬の口を濡らしていた。

<了>
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