九月の海

文字数 1,915文字

 九月の海は、私が一番好きな海だ。
 夏の喧噪も過ぎ去り、日差しも弱くなって砂浜からの熱も冷めて、海は本来の優しく本来の大らかな姿を取り戻す。海水浴客や浜辺で遊ぶ人間達の声が消え去り、波打ち際の波がはじける低い音が和らいだ暑さと共に心地よく感じられる。八月の賑やかな海も嫌いではないが、海が本来の姿を取り戻したような気がして私は好きだった。
 その落ち着いた海を堪能しようと学校が終わると私は自転車に乗って、落ち着きを取り戻した海岸に向かった。私のお気に入りの場所に向かう県道は夏休みシーズンを過ぎた事もあって、柄の悪い県外ナンバーの車は消えて地元の車しか走っていなかった。途中、自動販売機に立ち寄って缶コーヒーを買う。空を見上げると、浮かんでいる雲は少し輝きが鈍くなって、灰色の部分が濃くなっているのが見えた。
 私は自転車に再び乗り、また少し走ってお気に入りの海浜公園に着いた。車の居なくなった駐車場に自転車を停めて、横断歩道を跨ぎ道路向かい側の海浜公園に入る。この公園は波が高く潮の流れが速いので遊泳禁止の場所だったが、かえってその方が海の持つ迫力が増すような気がした。
 私は近くの石のベンチに座り、缶コーヒーの栓を開けて一口飲む。甘ったるい苦みが汗ばんだ身体に妙に心地よく感じられる。沖合の方から吹いてくる風は思ったより強く、砂浜に打ち付ける波の音と同じように低く鈍い音を私に伝えてくる。
 この光景がすぐ近くにある地元の高校生である私は、もしかしたら恵まれた環境で育っている人間なのかもしれないと思った。来年には進路を決めなければならない時期だったが、上京して都会の大学に通う意思は持っていなかった。地元で生きて自分の人生を消費する。その方が野心も特技も無い私には合っている気がする。
 そんな事を考えていると、背後でまた一台自転車が停まる音が聞こえた。私は気にせず海を見つめていたが、降りた人間が近くまで来た気配がしたので振り返ると、そこに居たのは一学年下で人気のある男子生徒の清水君だった。
「ああ、石上先輩」
 振り向いた私に気付いた清水君は私の名前を呼んだ。私ははっとして彼から視線をずらした。
「ああ、清水君。こんにちわ」
 私は彼など興味がないという振りをして、当たり障りのない返事を返す。清水君は変事をせずに進み、石のベンチに座らず立ったまま波がとどろく大海原を見つめる。彼は私より年下の筈だったが、落ち着いた眼差しで大海原を見つめるその姿は年齢や性別を超えた説得力と芯の強さがあった。
「どうしてここに来たの?」
 その眼差しに吸い込まれるようにして、私は清水君に質問する。
「お気に入りの場所だから。海は強さと同時に優しさも持っている気がするんです」
「そう」
「それに、死んだ父に会えるような気がして」
 清水君の言葉に、私は喉が凍り付くような感覚を覚えた。彼がここに現れた事も、父親と死別している事を告白されるのも、すべてが突然の出来事で整理が出来なかった。
「僕の父は遠洋漁業の漁師でした。でも僕が小学校に上がる一か月前、船が転覆して死んだんです」
 淡々と自分語りをする清水君に対して、私は言葉を返すことが出来なかった。困惑してその場を離れようかと思ったその瞬間、清水君は私にこう訊いた。
「先輩は、どうしてここに居るんですか?」
「九月の海が好きだから。落ち着いて何かと向き合える気がするから」
 私は自分が九月の海に抱く感想を述べた。
「僕も同じです。九月の海は優しい気持ちにしてくれる気がします」
 私と同じような感想を清水君はぼそぼそと呟いた。私と同じような感覚を持っている人間がすぐ近くに居ると思うと、心が晴れるような気がした。
「ここには、これからも来ますか?」
 不意に清水君が漏らす。
「何でそんな事を訊くの?」
「ここが先輩にとって大切な場所なら、邪魔をしたくないから」
 清水君の謝るような言葉に、私は動揺してこんな事を口走ってしまった。
「そんな事ないよ。また来なよ」
「いいんですか?」
「私は構わない。またここに来て、何か話そうよ」
 私の言葉を聞いた清水君は、私の方を向いた。彼の表情は、先程私が見た時よりも少し柔らかくなっていた。
「ありがとうございます。嬉しいです」
 清水君の言葉が、波の弾ける音と共に心地よく響いてくる。海は平穏になったのか、先程より波の音が柔らかくなっていた。
 夏はもう終わったが、この海を見た私達には新しい何かが始まる。そんな予感が私にはした。


                                      (了)
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