ホットミルクチョコレート

文字数 2,660文字

 まだ、やり直せるような気がしていた。
 バレンタインだからと奮発して買ったチョコレートを持って自分の家を出た時は、そう思っていた。

「姉貴と住んでるから、家は無理」

 そう言われて、彼の部屋に連れて行ってもらったことはない。
 住所だけは知っていたけれど、彼のお姉さんに会ってしまうことを考えると、今まで無理に訪ねたこともなかった。
 大学の同級生だった彼との交際が順調とは言えなくなったのは、卒業後の彼が就職して、私が大学院に進学してからだったと思う。
 学生ではなくなった彼の行動範囲はどんどん広がり、自由な時間は減ったけれど使えるお金は増えていった。
 私たちは、いつの間にか、会えばやるだけの関係になっていた。
 秋の終わりからは、修士論文の追い込みもあって、やるだけの関係ですら無くなっていた。
 論文の提出が終わった後、どういう関係になるにせよ、はっきりさせておかなくてはと思っての今日だった。



 玄関のチャイムを押すと、すぐに反応があった。

「どなた?」

 彼の声ではなく、女性の声だった。
 同居しているお姉さんだろう。

「私、あの……」
「弟ならいないし、今日は帰って来ないと思うけど」
「……そうですか」
「電話でもしてみたら?」
「なんか、勇気が出なくて」
「家には来れるのに?」

 お姉さんの声には軽く笑いが含まれていた。

「……」

 そうだよね、笑えるよね、たぶんもう私たち終わってるのにね。
 自嘲気味に声を出さずに笑った。
 この引きつった笑顔、モニター越しに全部お姉さんに見られてるんだな、と思うと泣きそうだった。
 ほどなく玄関のドアが開いた。

「上がったら?」

 彼と雰囲気のよく似た女性が立っていた。
 同じ生地のベストとスカート、白いシャツの胸元にはスカーフを巻いていた。
 どこかで見たような制服だった。

「いいんですか?」
「いいも何も、そんなところで泣かれたら困る」
「そうですよね。すみません、帰ります」
「いいって言ってるでしょう」

 お姉さんは、帰ろうとした私の腕を掴んで玄関に引きずり込んだ。
 私はバランスを失って、お姉さんの腕の中にすっぽりと納まる形になった。
 落としてしまった自分の鞄と紙袋が足元に転がっていく。
 お姉さんのシャツからは彼と同じ柔軟剤の香りがした。
 本当に一緒に住んでるんだなと思いながら、懐かしさでお姉さんの胸元に顔を埋めてしまう。

「弟さん、元気ですか?」
「元気よ。あなた、弟との関係は?」
「彼女のつもりだったんですけど、自然消滅しているかもしれません」
「言いにくいこと、言っていい?」
「どうぞ」
「たぶん、自然消滅してると思うけど」
「そうですよね」

 私は、お姉さんの胸元に顔を埋めたままで、ため息をつく。
 彼の口からではなかったけれど、答えがはっきり分かってよかった。

「泣いちゃう感じ?」
「どうでしょう」
「泣くならベストだけは脱がせてよ。これ、制服だから汚れると面倒なの」
「どこの制服ですか? 見たことあるような気がするんですけど」

 お姉さんは携帯電話会社の名前を言った。
 見覚えがあると思った。
 自分がお世話になっている携帯電話会社だった。

「で、泣くの?」
「泣きません。でも、もう少しだけこのままでもいいですか?」
「それは困るかも」
「どうしてですか?」

 私がお姉さんを見上げると、彼女は目を逸らした。

「……このままだと、私、ムラムラしちゃう。てか、もうしてる」
「ムラムラ?」
「私、弟とは好きなタイプが被るのよ」
「え?」
「だから、タイプなの。あなたが」

 これは予想してなかった展開だった。
 私は、どんどん速くなる彼女の鼓動を聴きながら、どうしていいか分からなくなっていた。

「失恋したばかりで、正常な判断ができない状態なのですが」

 とりあえず、今の心境だけは伝えてみた。

「私はそこにつけ込もうとしてるんだけど、いいかな?」

 お姉さんは私の顎に手を添えてくる。
 彼女の瞳が軽く潤んで光っていた。

「私、あの、女の人と経験ないんですけど」

 そう言いつつも、拒めない気がするなと思った。
 彼と同じ香りがするシャツや、彼と似ている目元に感じた親しみだけでは説明できない感覚が体の内側から湧いてきている。

「私が女の人だってこと、少し閉じててあげるから」

 そう言って、お姉さんは自分の首に巻いていた制服のスカーフを外し、私の目元を覆った。
 カラフルな生地から透けて見えるお姉さんの指先が私の顎に伸びてくる。
 綺麗な爪の色だから、あとでマニキュアのこと訊こうと、間抜けなことを考えた瞬間、彼女の唇が重なってきた。
 優しい柔らかさだった。
 目隠しされたせいで、感覚が際立ってしまい、余計に女性の唇だと意識してしまう。
 気が付くと、私はお姉さんの背中に自分から腕を回していた。

「女の人、大丈夫そう?」

 彼女が唇を離して訊いてくる。

「……大丈夫かも」

 私の返事を聴いて、彼女が目隠ししていたスカーフを外してくれた。

「これ、弟へ持って来たの?」

 彼女が足元に落ちた紙袋を拾い上げた。

「そうです。チョコレートなんですけど」
「一緒に食べようか」

 お姉さんは私の返事を待たず、部屋の奥に進む。
 私は慌てて靴を脱ぎ、お姉さんについていった。

 「カカオばっかりだとあれだから」と言いながら、彼女はホットミルクを作ってくれた。
 私は彼に渡すはずだったチョコレートの包みをバリバリと破り、一粒つまんで彼女の口元へ持っていった。
 お姉さんは躊躇することなく、チョコレートをパクリと食べた。
 一瞬だけ彼女の口に含まれた自分の指先が火照る。

 駄目だ。
 何かのスイッチが入り始めている。
 私は自分を落ち着かせようとしてホットミルクをひとくち飲んだ。
 彼女を見ると、箱からチョコレートをつまんで自分の口に入れていた。
 私には食べさせてくれないんだな、と思っていると、彼女の顔がおもむろに近づいてきた。
 半開きの私の口の中に、彼女の舌先でチョコレートが押し込まれてくる。
 彼女に見つめられながら、濡れたチョコレートをかみ砕いて飲み込んだ。
 またすぐに彼女の唇が重なる。
 口の中ではホットミルクとチョコレートの名残が、何度もとろけて混ざり合っていった。

 

<完>


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