アイスティー

文字数 1,607文字

 やっと課長から解放された。僕はふらふらの体を階段に押し付けながらようやっと一階まで下り、玄関扉を開けた。ぎらつく太陽が全身を焼いた。炎天下、いつものカフェへ歩いてゆく。意識が朦朧としているのは暑さのせいだけではない。
 ランチを注文し、振り返るとさっきまで開いていた席が塞がっている。仕方ない、包んでもらって公園で食べよう。課長への当てつけに熱射病で死んでやってもいい。
「相席で良ければどうぞ」
 肩を叩かれた。ふり返るとチームリーダーの駒井さんだ。僕はたじろぎつつ礼を言い、駒井さんの向かいに座った。
「あのう。さっきはありがとうございます」
 三十分前、僕は課長の席に呼びつけられ、叱責されていた。
「新施行の課金料金表、税込み金額が明記されてないわよ! 四月一日から総額表示が義務化されたの、とっくに周知したでしょ!」
「その通りです。申し訳ありません」
 いつものことだ。でも僕は知っている。課長がお気に入りの部下のミスはこっそり教えてあげたり、自分で直してあげているのを。だけど自分の不注意が悪いのだから、だまって耐えるしかない。
 みな、知らんふり。僕が叱られている間は自分にとばっちりが来なくて助かったと思っている。……駒井さん以外は。
「あのー、さっき課長がチェックされた表、旧施行のままなんですけど。至急納品しなきゃいけないんで、確認していただけますか?」
「あー、ごめんごめん」
 駒井さんが割り込んでくれたお陰で叱責から解放された。今日だけじゃない。駒井さんはたびたびこうやって、たぶん、……助けてくれている。
「ありがとうってさっきの事? ちがうよー、本当に急いでたから割り込んだだけだよ」
「そうですか……」
「あのさ。職場以外では敬語はいいよ」
「でも、上司だし」
「かたいなー、久野君。同い年なのに、気恥ずかしいよ」
 アイスティーを啜りながらそう言って笑った。駒井さんとは一年前、このアウトソーシング会社に共に中途入社した。この部署では携帯電話HP制作の請負業務を担っている。学年も同じ彼女は社交的で賢くてすぐ頭角を現し、半年後にはチームリーダーに昇格した。対する僕は人見知りで物覚えが悪く、研修をなかなかクリアできなかった。今でも彼女のチームの一員に過ぎない。
「余計なお世話かもしんないけどさ。いっぺん暴れてやれば? 課長、久野君が大人しくて絶対に言い返さないのに付け込んでるでしょ、絶対」
「でも、自分のミスが多いのは確かだし」
 駒井さんは背もたれに体を投げかけて、ふう、と息をつきながら、
「それに久野君さ、チェックミス表に他人の分全然付けてないでしょ。ちゃんと付けないと久野君のミス率だけ上がっちゃうよ」
「別にいいよ」
「久野君さあ、そうやってい……」
 口を噤んだ駒井さんに少し腹が立って、つい言葉を荒げた。
「いい人ぶって、と言いたいんでしょ。僕はいい人じゃないよ。単に気が弱いだけだよ」
「いい人なんかこの世にいないわよ」
 大きな目をみひらき、間を入れず返された。胸がちくりとした。僕は気づいた。久野君はいい人、と皆に言われて、得意になっている自分がいたのを。恥ずかしさに消え入りたくなった。
「みんなちょっとずついい奴で、ちょっとずつヤな奴なのよ。誰しもそんなグラデーションを孕んでいるんだと、私は思ってる」
「じゃあ、課長もちょっとはいい奴なの?」
「あいつは100%ヤな奴」
 大声で笑い合った。

 その後も相変わらず僕はミス表に付けれなかったし、駒井さんも何も言わなかった。ただ、課長の僕への叱責が目に見えて減った。噂では、どうやら駒井さんが役員に密告してくれたらしい。課長が異動となりその後任を打診されたものの、駒井さんは退職した。ベトナムへ行き、日本語学校を作りたいと言っていた。
 外堀通りのカフェに入る。アイスティーに浮かんだミント。グラスに反射する光。あの日、大きな口を開けて笑っていた彼女を僕は思い出す。



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