僕から君へ。

文字数 3,343文字

 今年の夏が終わる前後の時期で、僕は死んでこの世から消えて無くなる。
 僕が死ぬという事は、僕が存在を知覚している外側の世界が消える事を意味している。客体と言う外側の世界は、世界内存在である君を含めて残るけれど、僕はそこから消えて、僕の中にあった〝世界〟さえも消えてしまう。僕は外側からも内側からも消えて、痕跡さえ残さずになくなるんだ。でも悲しい事は無い。それが当然の事だから。
 最近になって新しい発見があった。天国だの地獄だの考えるのは人間が唯一の動物だという事を。研究用に飼育されていたゴリラに文字を教えて、タップコードという意思疎通法を覚えさせて会話できるようにしたんだ。そのゴリラは人間とは全く異なる世界観、人生観を持っていて、様々な発見を人類に教えてくれたんだ。そしてそのゴリラが死の床に就いた時、研究者はこう質問したんだ。
「ゴリラの君でも、天国に行きたいという気持ちはあるかい?」
 その質問を受けたゴリラはこう答えたんだ。
「ゴリラに天国と地獄はない。暗く何もない小さな穴に入る。それだけ」
 ゴリラはそれから数日後に死んだんだ。暗く何もない小さな穴に入ったんだ。この事はあまり話題になってはいないのが残念だけれど、ゴリラの言っていた事は間違いないと思う。僕らは道徳を司る全知全能の存在とは無縁の場所から生まれて、気付いたら天と地の間にある存在としてこの世にいた。そして自分の生きる意味は何だろうと考えて行動し、結局人生を満たしたのか満たされなかったのか分からずに、一生という与えられた時間を過ごして年老いて死んでゆくのだと思う。死の淵にいる僕の意見ではあるけれど。
 今僕は海の見える場所にいる。僕の目の前には海があって、曇り空を反射して深い色の海が白い波を所々立てている。反対側にはくすんだ色の砂浜があって、その先には緑に覆われた草原や山がある。具体的な地名は言えないけれど、僕は陸と海、そして空が密接する場所に、もうすぐ終わる命を持つ人間として存在している。なにか文化的、社会における人間らしい行為と言えば、こうして君に宛てた手紙を書いていることくらいだ。

 僕は海岸に用意された木の椅子に腰掛け、テーブルに紙を置いてペンでこの手紙を書いている。椅子もテーブルも白いペンキが塗られていたけれど、潮風を受けてみすぼらしくペンキが所々剥げている。それを思うと、このイスとテーブルも人間と同じように年老いて何も無いところに消えてゆくのだなと思う。
 その傍らには、水の入ったガラスのデキャンタとコップがある。もうアルコールは飲もうという気がしないんだ。以前はよく飲んでいたけれど、明日で僕の命が終わると思うと、いまさら酔おうなんて気が起こらない。昔はよく西部劇の真似でライ・ウイスキーをよく飲んでいたけれど、今はもう懐かしい思い出になってしまった。成人式のお祝いの時、君は白ワインが好きでよく飲んでいたね。透き通っているけれどほんのりと色づいて、甘酸っぱい風味は君の溌溂とした部分を表していたね。でももう味や色があったりするのはもう必要ないんだ。僕はこれから透明な存在になるのだから、もう飲み物に付加価値なんて不要なんだ。

 この手紙が届く時、僕はもうこの世に居ないはずだ。手紙が届く手間と君のスケジュールを考えると、多分一日以上、或いはもっと時間が立っているかもしれない。たとえ君が年老いてしまっても、問題は全くない。僕の気持ちがそっくり記憶に残り、何らかの形で伝わればそれでいい。誰かが口述しても、点字に訳されても君に伝わればそれでいい。

 話が前後してしまうけれど、僕にとって君はどんな存在だったと思う?君と言う相手を目の前にして話す事は出来なかったけれど、今はこうして手紙に書いて伝えることが出来る。自分の唯一の特技をこんな時に披露するなんて夢にも思わなかったよ正直。
 君は誰よりも輝いていた。溌溂としていて明るく、そしてすべてを包むような優しさを持っていた人だった。だから僕は君を好きになった。狂っているかもしれない僕を認めて、僕の立場を擁護さえしてくれた人だったから。僕は君が好きだから求めて手に入れようとしたけれど、それをすれば君が不幸にすると理解していたから、出来なかった。そして一番不幸になったのは僕だった。何も出来ずに大切な気持ちを否定しなければならなかったから。
 
 そして僕は本当に狂った。誰からも相手にされず、一人だけですべてをまかなう世界。それがしばらく続いて僕は狂った。そして君の面影を求めて、とうとう居場所を見つけた。僕と君は高校生で、別々の学校に進学してまだ若木として花を咲かせるのが精いっぱいの時期だった。けれど、同じ若木でも君は美しい花を咲かせて、高校時代を謳歌していた。僕が本当に若木で動いたり叫んだりする事が出来ない存在だったらよかったのだけれど、僕は人間で言葉を紡いでメッセージを送る事が出来た。だから君がやっていたプロフィールのコメント欄に僕は色々な事を書いた。バロック時代の音楽、例えるならバッハのチェンバロ協奏曲に合わせて君をレイプするみたいな言葉を僕はまくしたてた。君はひどく怯えて、その後高校に通えなくなってしまった。でも君は復活して、成人前に高校卒業の資格を取ったと聞いたよ。

 それから暫くして、僕と君は再会した。成人式の時に同級生の集まりで。君は僕とあいさつを少し交わしたくらいで、あまり話さなかった。僕は君の事を殺しても構わないと思っていたけれど、出来なかった。もしあの時君を殺していたら、僕は自分を異常者として客観的にとらえる事が出来たかも知れない。でも僕に出来たのはパーティ会場から立ち去る君の背中を見送るだけだった。

 それから僕は大学を中退して、様々な仕事を五年間やって来た。普通の仕事に、人に言えない仕事などもね。狂った僕には別に何という事もない仕事だった。そして、その異常な仕事内容にふさわしい収入を得たけれど、満たされる事は無かった。何故なら僕の近くに君は居なかったから。唯一の精神的支えであった君が居なかったから。

 そして僕は今こうして手紙を書いている。去年の十一月に医者から年は越せるが新年度は迎えられない。と宣告されてしまったんだ。たぶん異常者であるために、その意味付けをしようとして色々な薬を飲んだ副作用だろう。僕は空と海の間にある人間らしき存在であったから、空か海のどちらかになろうとして色々試した。そして命の終わりが見えた時に、僕は初めて人間だという自覚を持った。僕は狂っていたから、その狂った精神にすべてを捧げていたのだけれど、その一言がきっかけで僕は人間に戻れた。不思議だよね、人間は自分で自分の事を人間だと自覚する機会が無いのだから。死の淵に立って、ようやく自分と言う存在がちっぽけで大した事ないものと気づかされるのだから。

 僕は今、透明な存在になりつつある。僕の肉体はやがて消えてなくなり、僕を形作っていた様々な元素は地球に還元されて、空や海に流れて、雨になり地表に落ちて流れ、海を通って雲になり空気に浮く。不思議だね、僕達の住む世界は僕達が生まれる前に死んだ人達によって作られ、また生まれてくる命の構成要素になるのだから。人の一生は明確に区切られていても、人間の歴史、生命の繋がりは時間が存在する限り永遠に続くのだから。だから僕は天国も地獄も信じない。僕は僕と言う人間の一生を明日で終えるけれど、僕の構成要素だったものは永遠に巡るんだ。僕も君も誰かの構成要素だったから。僕は目に見えない透明なものになり、様々な形になってこの世に居続ける。人生と言う時間を越えて永遠になり、また何かの存在の一生になるんだ。

 もし君が僕を意識するか思い出すならば、僕は何処にでもいると思ってくれ。僕は透明な存在になり、姿形を失うのだから。空と海の間、道端の雑草や蛇口から出てくる水にも僕は居る。そして君が死んだとき、僕と君は一つになって、暗くて小さい穴の中で永遠の存在になるんだ。それだけは忘れないでいて欲しい。この手紙を読んでくれてありがとう。



(了)
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