第3話 星霜

文字数 1,982文字

 僕ら三人は、リビングを抜けて、廊下に出て、和室の襖を通った。
和室は少し暗めに照明が灯されている。
線香の香りがする。
正面にある小さいが立派な作りの黒く艶のある仏壇。
そこから線香の煙がほぼまっすぐに昇っていたが、僕らが部屋に入ると、その煙がたなびいた。
仏壇の正面に正座をして、手を合わせていた彼女はふと、顔を上げて、微笑んだ。
その視線の先には彼女の父親、母親、そして僕の写真がある。
彼女の言葉が聞こえてくる。
「いつも、見守ってくれてありがとう。お父さん、お母さん、そして、和男さん。おかげ様で、今年も私は健康で過ごすことができています。私ももう七五歳になりましたよ。だんだん、そちらへ近くなってきました。でも、今年は少し大変だったの。夫に病気が見つかって、入院して手術したりして。でも、偶然すごく早く見つかったから、まだまだ元気で過ごせそうです。夫はいつもは健診なんか、受けない人だったのに、なぜか、今回は受けたほうがいいような予感がしたんですって。不思議ね。あと、ほら、テロ事件があったでしょ。あれもそこに私と娘が行く予定だったのよ。でも、直前に忘れ物して、出発が予定より遅れたの。行ったらもう事件が起きていて、途中までしか行けなくて、おかげで命拾いしたのよ。きっと、あなた方が見守ってくれているおかげだわ。こんなことは、被害に遭われた人達のことを考えると口に出しては言えないから、心の中だけのことにしておきます。とにかくありがとう。和男さん、あなたが生きていたならきっと結婚したはずね。でもあなたの無垢な愛情を受けたおかげで、私は私の人生を歩むことができて、今の夫とも幸せに暮らせることができています。夫も結婚する時にあなたの事も知った上で全てを受け入れてくれました。夫は私にあなたと同じような無垢の愛情をみせてくれました。だから、私はあなたの愛を思い出し、だからこそ、決してしないと決めていた結婚を今の夫に対して決意することができました。私は本当に幸せです。ありがとう。今年も家に来てくれているかしら。ゆっくりして行ってくださいね」
 横を見ると、二人とも優しい眼差しで微笑んでいる。
もう、はっきりと思い出していた。
僕は和男。彼女と婚約していた。彼女とはこの地元で会い、彼女の優しさ、素直さに魅かれ、交際を始めた。大学生の頃に両親を亡くしてしまった僕に彼女は本当の愛情というものを見せてくれた。だからこそ、彼女を愛おしく思い、そして一生を共にすることを決心した。
一生の宝物を見付けた気持ちだった。彼女に与えられた以上の愛情を注ぎたかった。
それが幸せだと思った。
でも、僕は、そうだ、あの時、事故に巻き込まれた。
そして人生を終えた。
僕は、そのまま浄化することもできたようだ。でも、僕は選んだ。彼女をずっと守ることを。そして、彼女の幸せな一生を見届けようと。いや、選ぶというより、真の愛情を持っていると、自然にそうなるようだ。彼女の両親も同じだった。両親にも深く愛されていたのだから当然だろう。
生きている人たちは守護霊とか呼んでいるようだが(僕は自分がそんな立派なものだとは思っていない、もっと曖昧な存在だろう、いや存在と表現していいのかどうかさえわからないが)、そういうものになると、普段の意識はない。ただ、その人物の周囲に漂い、自然と守るのだ。意識的にではない。そしてその強さはその愛情の深さが関係するらしい。愛情が深ければ、それだけ、その人物をいわば反射的に守ることになる。
彼女にはそんなものが三人もいるのだ。強固に守られているはずで、それは彼女の家族にも影響が及ぶのだろう。
ただ、僕らにはその時の記憶も無いし、意識もない、存在すらわからない。つまり、自分でやろうと思ってやっているわけではない。
しかし、この呼ばれた時期だけは、記憶、意識が蘇り、その呼んだ人物が想像した時の姿で現れることができる。そうやって、自分の立場が思い出される。
そして、その時だけはその共通する人物が呼んだもの同士ならコンタクトが取れるようになるようだ。
だから、彼女のご両親とも話をすることができた。
とても楽しい時間だ。幸せだ。
ただ、彼女とは話すことはできない。彼女が心の中でこちらに呼びかけたことだけが、聞こえてくるだけ。彼女がこちらを見ることもない。
それに、僕らが見ることができるのも呼んでくれた彼女だけだ。つまり、僕らは彼女以外の人間を見ることがない。

それでいい。充分である。
そうやって、彼女を愛していたことを確認できるだけで。
そして、いつか彼女が訪れるその時まで、また、続けるだけ。

僕のことはわからなくてもいい。

ただ、彼女の全てを守れるのであれば、それでいい。

そういうものを人は愛情と名付けた。
だがそんな名称はどうでもいいことだ。

彼女と出会ってからまだ、五十三年しか過ぎていない。

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