第1話:誕生日、生まれた日を祝福する

文字数 8,636文字

 みんな、ケーキを前にして丸く座っている。一番目を光らせていた者は多分エヴァンだ。

 彼がもっとも俺の誕生日を待ち続けていてくれたから。


「ねぇ、お兄ちゃん。どんな願い事をしたの?」


 セナが聞いた。すると圭範(けいはん)がセナを自分のひざに座らせた。


「セナ、願い事はろうそくの火を消しながらするものだ。」


 エヴァンが話を遮って言う。


「違う。消した後でも良くないか?

 オレは聞いてみたい。(なぎ)が何を願ったのか。」


 時は、俺が15歳になって吹雪が止んだ深夜の3時。


「俺なら、ずっとず〜っとお兄ちゃんと一緒にいたい、って願う☆。」


 セナが俺に向かって笑顔を見せた。

 その頃は、それがとても嬉しくて口角が上がっていた。


「…いいな。それにしようかな。」


 リビリエが俺を言い止めた。


「駄目。あなたの願い事なんだから、あなたがちゃんと考えないと。」


 エヴァンが言い添える。


「そう、そう。 もちろん微笑ましいけど、

 がんばってね。渚。」

『がんばる、か。』


 俺は実感があまり湧かなくて、いつもそういう部分に弱い。


「なぎ、もうすぐです。」

「…あっ。」


 だから神様が尋ねた時もうまく答えなかった。


「はい。」


 フッ。と明かりが消えて、あの子が飛んできた。


「お兄ちゃん。お誕生日おめでとう」



 ありがたい時間が経て、ようやく二十歳を迎えた俺は靑蓮(しょうれん)神社で過ごしてる。


「渚!」


 あの頃と同じく、エヴァン、セナ、圭範、リビリエ、咲耶(さや)、そして美冬(みふゆ)と一緒にいる。


「…エヴァン。どうかしたのか?」

「いや。顔が見えたから。

 セナのこと見てきたのかなって。」

「……」


 先日、またおかしなことができた。


「渚お坊ちゃん、渚お坊ちゃんさま!」


 ラス枢機卿(すうききょう)が慌てて俺を探していた。


「…ラスさん、どうかしましたか?」


 彼は息切れして、唐牛にこう言った。


「美冬さまが、…美冬さまが倒れられました!!」


 確かにここ最近、不安定なところはあったが、

 まさかと思いつつ、俺はあまり顔に出ないように気をつけた。


 それが、部屋の前に着つとそこにセナがいたんだ。


「…セナ?」

「お兄……、ちゃん」


 ぐったりして動かない、俺に手を伸ばして触れようとしたが。

 そのままセナは気絶した。


「見つかってよかったです…。」

「……はい。」


 あとで聞くと、ラスさんは最初からセナのことを話しに来ていて

 肝心の美冬は状況を知らなかったと。


『…俺以外の全員が、そう覚えている。』


 彼女が無事でよかったが、たまにこういう矛盾ができて混乱している。

 それを、知っているのは俺だけだ。


『気にしすぎないように。』


 俺は心を入れ替えた。


「セナはすっかり元気になって遊びたがっている。

 よかったら見に行ってくれないか。」

 
 俺が聞くとエヴァンが悩んだ。


「このあと…リビリエの演奏を聞きに行く予定だったけど。

 まぁいいや。寄ってから行くことにして、あとで怒られるさ。」


 彼が手を振る。


「じゃあ、また会おうな!」

「うん。」


 俺が見送った。


「…さて、今日は。」


 人から頼まれたことを成すために振り返ったら、彼女が現れた。


「なぎ。」


 美冬。この神社の神様が微笑みを浮かべた。


「宴会を開きます。あなたの成人式とともに誕生日パーティーです。

 どうですか?」

『…え。』


 今更、俺は彼女に告げた。


「美冬、俺は別に」

「ラスさん。これをみんなにお伝えください。

 頼みますね♣️。」

「はい!喜んで!」


 彼が素早く行ってしまった。


「あ……。 お祝いなんてしなくていいのに…。」


 だって、もう2年ほどやっていないんだから。


 俺だけ、誕生日パーティーが遅くなっていた。

 1月9日だから、忙しい時期だってことが大きくて俺も理解している。


「だめです。あなたはすぐ疎かにするんですから。」


 彼女が頬を膨らませる姿が可愛くて、つい笑った。

 すると彼女がしゃべり続く。


「もう立派な大人でしょう、それくらい自分で大事にしてください。

 …なぎ。」

「……うん。」


 ごめんな。美冬。


                    ●

「渚お坊ちゃん、準備はよろしいですか?」

「…あんまり。」


 何日かが経って、宴会の当日になった。

 俺は彼女たちが用意した袴を着ることになる。


『黒い着物に紺色の袴、か。』


 俺の青い瞳によく似合っているとセナが言ってくれた。


「どうでもいいけど。」


 すると決まったら、やっぱするしかない。


 俺は顔を上げてドアを開けた。


「待たせてしまってごめんなさい、ラスさん。」

「…お!」


 彼が笑顔になった。


「いいえ。お似合いです。

 さ、さ。参りましょう。」

「…はい。」


 行けばもう始まるのか。俺は少し緊張していた。


『俺と美冬の関係はどうなるだろうな。』


 みんなは俺たちが付き合っていると踏んでいる。

 だが、それは間違いだ。そもそも美冬はそれをはっきりしていない。


『あれは、禁忌に関わる問題だから。』


 軽々しく口にできないんだ。


『でも、成人にまでなれば。』


 何かが変わるだろう。とみんな期待している。


『……無駄だろうが。』


 俺は苦い笑みを浮かべた。


「なぎ。」

『じゃあ、始まりだ。

 俺と神さまとの縁を試すときが来た。』


 その方法とは…

 開幕のあと、ラスさんが涙を流しながらこっちに向かってきた。


「渚お坊ちゃん、もうすっかり大きくなって私…。

 感服いたします…。」


 その横にはいつの間にか人々が集まっている。


「ご立派になられましたね。」

「お顔がとっても綺麗です。なぎさま♡。」

「なぎさま、私と付き合って~。」

「無礼者!なぎさまの身体が目当てなのね。」

「もちろん体の筋肉もとっても素晴らしいだけど、

 唇とか、首筋とか。やさしい(こころざし)もいいよね。」

「バカ!丸聞こえでしょ!」

『…あはは。』


 美冬が聞いたらぶち切れそうだな。


「なぎ。」

『来たか。』


 彼女が前に立って微笑みながら、手を差しのべた。


「今はもう用意できましたか?」

「…何がですか。」


 彼女が目を合わせる。


「願い事です。

 何でもひとつ叶えてあげますので、言ってみてください。」


 大胆な発言にみんな注目した。

 俺は笑みを浮かべて彼女の名前を呼んだ。


「じゃあ、お願いです。」


 その先の言葉は誰も予測できなかった。


「俺を逃がしてください。この神社から」


 永遠に。


「……え…?」


 彼女は俺と繋いだ手から力を抜けようとした。


「美冬さま。お返事を。」

「…っ!」


 だが、俺はそれを許さない。

 力を入れて彼女を止めた。視線と視線がぶつかり合って、彼女が息を漏らす。


「ラス枢機卿!」


 ついに、彼女が神力を使って俺から離れた。


『…痛いな。』


 俺に彼女は信じられない、と言わんばかりな目を向けて言い添える。


「監禁しなさい!今すぐ彼を月恵(げっけい)の部屋に閉じ込めてください!」


 月惠の部屋、そこは靑蓮で一番奥の部屋であって。

 昼には太陽の明かりが全く入らない場所。


『そこに閉じ込めるってことは、本当に怒ったんだね。お姉ちゃん。』


 美少年の姿をしたあくまが隠れて笑みを浮かべる。


『捨てられちゃったな〜。お姉ちゃん。』


 あはは。あはははははは。

 ははははは♪。


『だから、忠告したのさ。お姉ちゃんじゃ無理だって。』


 この神社には三つの存在がいる。

 なぎお兄ちゃんのようにいっぱいいる人間が一つ。

 残りは神とあくま、この仕込みは変わらない。


『もはや後戻りはできないよ。』


 お姉ちゃんは終わり。二人の愛もそこまでだ。


『あ〜あ。哀れなお姉ちゃん♪。』


 あはは、あはははははは★。


 セナの姿をしたあくまは、彼の背中が見えなくなるまでずっと笑い続けた。

 彼女はうつむいたまま、拳を強く握る。

 悔しそうに唇を噛み締めて、みんなに告げた。


「六日です!あと六日間、彼は絶対に外を出歩けない。

 頭を冷やして反省しなさい。

 わかりましたね。」


 余計に怒られた信者たちが怯えて答える。


「は、はいっ!」

「かしこまりました!神様!」


「……渚、」


 エヴァンがつぶやいて、彼を見つめた。

 なんの感情も持たない落ち着いた瞳の彼を。


「…到着いたしました。」


 震える声でラスが言うと、彼がうなづく。

 なぎは淡々としていた。


「あなたは…。一体…っ。」


 彼女が去ると人々がざわつく。彼はひそかに長いため息をついた。


『……解ってるって。』


 苦い笑みが消えてなくなり、時間は過ぎる。

 もう四日目になった日に圭範が訪れた。


「…バカか、お前は。」


 彼が瞬きをした。


「…久しぶりだな。」

「誤魔化すんじゃねぇ。お前、彼女がどんな思いをしているのか解っていて

 わざとあんなことを言ったんだろ。」

『…まぁ、その通りだが。』


 俺は後ろを指差した。


「彼女、一緒に来たのか。」

「何っ?!」

「…!」


 美冬じゃなく。


「咲耶。」

「なっ、貴様。またか!」


 彼女が慌てて走っていった。


「…はぁ。もう何度目だ、あいつ…。」

『知らないだろう。』


 彼女がどれほど君にご執心(しゅうしん)なのか、結構長引いているけど。

 本人が言わない限り、俺に手はない。


「とにかく、今は咲耶じゃない。

 美冬の話をしているんだ。」

『だろうな。』

「…彼女の心を知っているはずだが。」

「……まぁ。」


 かれこれ20年ほど見ているんだ。気づくだろう。


 俺はうなづいて言った。


「彼女には申し訳なく思っている。

 …あんなに怒っていれば彼女本人も疲れただろうな。」

「そうじゃない。」


 圭範が俺の肩を掴んだ。


「…あれだけ騒ぎを起こして、それが。

 それが正しい枢機卿の真似事かって言っているんだ。」

『……またか。』


 彼が俺に向ける視線、それは同士だから許せないと言う自分勝手な感情だ。


「俺は認めないぞ。

 例え、お前が彼女と結ばれるのが嫌で。その上で未来の枢機卿として諫言したとしても

 あれは良くなかった。」


 もっと。


「…もっと気遣ってあげることはできただろうが。お前は。」

「……」


 確かに。他に言葉を選ぶことはできた。


『けれど。』


 それが俺たちには必要なんだ。


「ごめん。」


 俺は長い時間の間、圭範の苦情を聞いてあげた。

 終わったらもうすっかり夜になっていて、空に月が見えている。


『…今日も曇っているな。』


 惜しい気持ちを抑えて、目を閉じた。


                    ●
「お兄〜ちゃん♪。」


 セナか。

 俺は窓を開けてその子を発見した。


「セナ、おはよう。」

「おはよう、お兄ちゃんっ。」

「……ぇ」


 セナがベランダから入って来ようとした。


「セ、セナ!」


 俺は思わず、あの子を引っ張ってあげてしまう。


「ワーイ★。お兄ちゃん、最高。」


 軽く着地したセナは振り向いて俺に笑顔を見せた。


「寂しかったよ。お兄ちゃんがいないから…」


 セナが抱きついた。


「…俺、耐えられなくて……。」

『…っ』


 可愛い。

 俺はとても彼に弱い。くっついてきたその体を力一杯抱きしめてやった。

 すると彼が喜びの声をこぼした。


「…あたたかい。お兄ちゃん、やっぱ好き。」


 ぎゅっとしがみついて、俺はセナの首の後ろに息をかけた。


「…危ないから。もうやめてくれ。」

「…うん。」


 セナがささやく。


「お兄ちゃんの心臓、バクバクいってるもん。

 もうしないよ。」

『…バレたか。』


 子供は本当に素直だ。


「どうしてここに?」

「う〜ん。会いたかったから?

 それ以外はわかんない★。

 誰かに言われてここに来たんじゃないよ。」


 彼の水色の瞳が俺を映した。


「俺がお兄ちゃんに会いたかった。それだけ」

「…セナ。」


 俺の可愛い弟。

 俺に安心感を与えられる。貴重な存在。


「ありがとうな、セナ。」


 俺はもう一度セナを抱きしめてあげた。


「…ねぇ、お兄ちゃん。」


 珍しくセナがおねだりをした。


「一緒に寝てくれない?」



 その夜、言った通りに彼が訪ねてきた。


「お兄ちゃん、セナだよ。」


 その影にあくまが潜んでいるとは知らず、ドアを開けた。


「いらっしゃい。セナ。」


 彼を中に入れて鍵をかけた。

 もしも彼女に見つかると厄介だから。

 これも密会に入るだろう、たった一人の弟とただ寝るだけなのに。


 少し窮屈だが、彼女は知っているんだ。彼がセナである同時にあくまであることを。


「来てくれてありがとう、セナ。」


 この頃の俺は、まだ知らなかった。


「ううん。俺が頼んだもん。

 感謝しなくていいよ、お兄ちゃん。」


 彼が抱きついて、顔を隠した。


「…いい匂い。お兄ちゃんといると落ち着くよ。

 今夜はよく眠れそう。」


 その逆だ。

 少年の中にいるあくまが目覚めた。


『やめてくれ。』


 近づけば近づくほど。明らかになる渚の心臓の音、温もり、命の香り。


『ドクン、ドクン。』


 鮮明に動く、それを食べたくなってしょうがないんだから。


「お兄ちゃん、よく寝てた?」


 あくまが本心を隠して、彼に聞く。


「…寝てたと思うが、どうだろうな。

 俺も寂しかったせいであまり覚えていない。」


 そうかい。あくまが彼の襟を握った。


「…明日でお兄ちゃんは自由になれる。」

「…」


 六日目。朝になったらきっと、仕事ですぐ夜になっているはずだから。

 
『ずっと、利用しているくせに。』


 少年は無口で腹が立つ。


『なにが監禁だ。なにが閉じ込めるだ。

 ずっと、ずっと。お姉ちゃんの代わりに会議に出席させて

 掃除をして、料理をして。他にも書類仕事や見回り、補佐の仕事まで…』


 全部、全部。任せっきりじゃないか。


『生意気な水神(すいじん)め…』


 あくまが暴走し、力に飲まれて震えている頃。


「……セナ。」


 よし、よし。と彼が頭を撫でる。


「ぇっ」


 少年は息を呑んで、耳元に聞こえる強い拍動に目が冴える。


「ありがとう。心配してくれて。

 …そしてごめんなさい。

 君を一人にするような言葉を言ってしまって。」

「……」


 なにを…。


『俺、お兄ちゃんに向けて怒っていたんじゃ、ないのに。』


 それが何故かとても心に響いて、涙が流れた。


「…いか、ないで…」


 少年は唯一の家族のもとで拳を和らげる。


「おいていかないでよ」


 お兄ちゃん…。


『…やっぱり。』


 俺はこの子に弱い。

 たくさん泣いて、セナと俺は眠れた。


 そしてその次の夜も俺たちは一緒に睡眠をとった。

 まるで8年前のように仲良く、な。


「お兄〜ちゃん。」


 朝の5時、小さい手が俺を起こした。


「…ん、っ」


 すると、鋭い声が耳を叩く。


「なぜ。あなたがここにいますか。

 セナ。」

「……美、冬?」


 そう。彼女が現れたんだ。


「あははっ。昨日も一昨日もいたんだよ。

 一緒に寝て過ごした♪。」

「出ていきなさい!!」

「ワハハ★、お姉ちゃん怖い!」


 くるりと回ってセナが逃げる。

 俺はゆっくり起き上がって彼女と目を合わせた。


「お久しぶりだね。」

「…」


 彼女はすぐ視線をそらした。


「約束でしたから。当然です。」


 会いたくなかった、かな。

 俺はうつむいた。


「…この部屋にした意味は解りましたか。」

「……」


 もちろん知っている。


「美冬、最近月を見たかな。」

「…?」


 俺は観た。毎日のように。


「月惠の部屋で見る月は、とても美しく静かだけど

 全てを映しているため、俺たちの心も映る。」


 だから、見ているとお互いの思いが伝わってくる。


「…ずっと曇っていたのは、君が悲しんでいたから。」


 なんだろう。


「……っ」


 正解。彼女が腕を抱えた。


「…出ていきたいですか。まだ。」

「……うん。」


 体が震える。美冬が切ない声で言った。


「なぜ、行きたがるんですか。

 私のそばにいればいいのに。

 ずっと一緒にいるといいのに。」


 何も心配すること、ないのに。


「…フッ。」


 俺が笑うと彼女が狼狽える。


「美冬は、考えたことがあるか。」


 ここが自分の居場所であるかあるまいかを。


「…何をですか。」


 俺は告げる。


「ここは、安定しているよな。」


 一見して、平和に見える。


「居心地良くて、人があたたかくて。

 ほっとする。」


 だけど、そこが悪い。


「俺は邪魔な者だ。」

「…え……?」


 圭範と咲耶、エヴァンとリビリエ、そして美冬とラスさん。他にも色々…

 いればいるほどハッキリするんだ。


『俺がいなかったら、きっとみんな幸せだったはず。』


 ついになって、圭範も素直に笑えただろう。


『それを遮ったのは俺だ。』


 にっこり口角が上がる。


「…俺にはいない。入る隙間なんて。

 一緒にいる資格なんて何一つ。」


 彼女が悔しがった。


「っ…。あなたは何も悪くない!」


 手が震えた。…彼女が抱きしめたから。


『離れて。』


 俺には、荷が重い。


「……俺が、お前に触れない理由は」


 抱きしめ返さない、愛していると告白しない理由は。


「俺にはできないからだ。」


 禁忌に触れる。罪を犯すという覚悟が俺にはないんだ。


『それでも構わず、』


 美冬は俺を庇った。


「何も考えなくていい。

 何も怯えなくていい。

 …私があなたを保護したのは、あなたをあの日拾ったのは

 そんな不安からあなたを救うためだったんですから。」

『……胸が、痛い。』


 神様はやさしい。

 行く場所がなくても、名乗る名前がなくても。

 何者でもない、赤ん坊の俺を拾ってくれた。


「ありがとう…。」


 ありがとう、美冬。

 母親代わりの彼女が俺は好きだ。


「美冬。」

「……ぇっ。」


 顔を近づけて、目を瞑った。


「あ、あのっ」

『叶わなくても。』


 俺は願うさ。


『お前との絆を。』

「…っ」


 唇が重なる寸前に、人が来る。


「美冬さま。」

「…だ、誰ですか?」


 この声は、リタ御夫人。


「おはようございます。リタさん。

 出迎えもせず、申し訳ありませんでした。」


 長旅から戻ってこられた御夫人を歓迎したら、リタさんが微笑む。


「いいですよ。むしろ私のほうこそ遅くなってすみません。」


 リタさんの手が俺の胸の上に置かれる。


「…会いたかったです。あなたのご成人おめでとうございます。」

「……ありがとうございます。」


 笑みを浮かべると美冬が眉をひそめた。


『しょっちゅうこうだよな。』


 もう飽きた。


「…リタさん、前にお話ししていた『紅雲』の本がリタさんのお部屋に届いています。

 よかったら読んでみてください。」

「わぁ、ありがとうございますね。

 では…」


 リタさんが指で首筋に触れた。


「後で部屋に来てください。」


 名前を囁かれて、去っていく後ろを見ていると美冬が喉を鳴らす。


「そんなことより、部屋を片付けしてください。

 日常へお戻りを。

 みんな待っています。」

「…ああ。そうだな。」


 彼女は一人廊下を歩く。


『人目が多すぎます。』


 彼が安定的に過ごせる場所にしないと。


『力不足はもう嫌です。』


 考えてたら、影から異様な気配がし始めた。


「また、捨てられちゃった?」

「…くっ。」


 あくまが。


 セナ、正確にはその中身・ダニーが現れて声をかける。


「お兄ちゃんはお姉ちゃんのこと嫌いだって。言ったでしょ?

 なんで理解しないのかな〜。」

『黙って。』


 彼は私のことを望んでいる。

 なぎも、私と同じく願っているんだ。


「へぇ。」


 見抜いたようにあくまが喋り出す。


「それは本当にお兄ちゃんだった?」

「…あなたが。」


 首を捕まえて、強く絞める。


「っ……ぁ」


 あなたごときが私となぎのことを語らないで。


「…死ね。」


 死んで償っていただく。


「くっ……、」


 少年が涙を流して、苦しい声を出すとあくまがそれに反応する。


『汚い手で、我が主人に触るな。』


 少年の口を動かせて、声を聞かせる。


「子供は繊細(せんさい)なんだよ!!」

「ぐはっ…!」


 空中から蹴り飛ばされて、彼女が痛みを覚える。


『…今のは。』


 下手したら、中身どころか少年まで殺していたかも知れない。

 しかもその資格(しかく)すら得ていない状態で。


『……武神でない神々は、あくまを罰する権限(けんげん)を持ってはならない。』


 そんな馬鹿げたルールなど、


『やぶれない』


 彼女にはできなかった。


「もう自分をわきまえた?」

「…!」


 今度は横から蹴りが飛んできて彼女の頬を叩いた。


「くっ……っ」


 痛い。…けれど何もやり返せない。

 これは、先に始めたことだから正当防衛になる。


「お姉ちゃん。」


 美冬の体がぴくと震える。その緑の瞳に首元が蒼くなった少年が映った。


「俺、言ったよね。

 もっと考えてから行動してって。」


 彼がしゃがんで言い添える。


「お姉ちゃんは俺を殺せない。

 まず、俺がこの体を使って悪事を働いたことがないから。

 その証が見つからない今、殺すのはルール違反。

 卑怯なことになる。

 それともう一つ、なぎお兄ちゃんが悲しむから。」


 あくまが少年の姿でにっこり笑う。


「お姉ちゃんに俺だけを殺せる実力はない。

 水神の力じゃ、俺に敵わないよ。」

「……っ」


 おっしゃる通り。自分は無力だ。

 そのことに絶望し、黙っているとあくまがため息をつく。


「…好きな相手がら愛想つかれて願いだの、出ていく宣言までされちゃって。

 解っているの?お姉ちゃんは無理矢理人を六日も閉じ込めたりして、

 自分はちょっと聞きたくない嫌がらせをされたくらいで、他人を殺そうとしたの。

 ご立派な神様ご降臨(こうりん)だね。」

「…くっ…」


 ぐうの音も出ない。あくまがとても冷たい目線で彼女を見下ろした。


「ちゃんとやってね。お姉ちゃん。

 水神さまは守ることがお上手なんだから、できるでしょ。

 好きな人一人くらい、自分の場所にしかと縛り付けておきなさいよ。」


 俺が出る前にな。と思ってあくまが少年と共にいなくなる。


「…一体、いつから……」


 いつからあのあくまは取り憑いている。


『私の大事な人の弟に…いつ、どんな手で入ってきて。』


 もう迷っている暇はない。


「…キリハに会いにいきます。」


 彼女の古い友人、温厚神(おんこうがみ)であって現役武神の一人。

 美冬は彼に会う準備を進めた。


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