Dr.ニコルの検死FILE

エピソードの総文字数=1,898文字

「ここ、か?」
 目的の場所に着いた時のデイヴィッド警部の第一声は、まさにその一言だけだった。
 いや、この反応も無理ないことだろう。なにしろ目の前にあったのはぼろぼろの壁と大きな建物、そして建物の中からは子ども達のはしゃぎ声。なんらかの有力な情報が得られそうな場所とは到底思えなかったからだ。
 そう、いま二人の眼前にある建物は、
「ええ、ここはイースト・エンドに古くからある孤児院で、(セント)ニコラオス孤児院って言うんですよ」
 このニコルの言のとおり、なんの変哲もないただの孤児院だったのだ。
 だからこそいつも強気一辺倒のデイヴィッド警部が、
「ここでいったいどんな情報を得ようって言うんだ?」
 そう不安げに訊ねたのも、これはこれで当然のことといえよう。
 だが、それに対するニコルの返答はいともさらっとしたものだった。
「実はここのシスターたちの何人かはこのホワイトチャペル地区の出身で、長年この一帯で活動をしているっていう人が多いんです。で、実際そのうちの何人かとは顔見知りなんで、もしかしたら有力な情報の一つぐらい教えてもらえるかもって思ったんですよ」
 すると、さすがは切り替えの早いデイヴィッド警部である。このニコルの発言を聞いた途端、パッと顔を輝かせ、
「なんでぇ! そういうことならここでまごまごしてる道理はねぇな。さっさとそのシスターとやらに会って、話を聞こうじゃねぇか!」
 そう力強く言うやいなや、
「ただ、ちょっとだけ問題がありまして──って、人の話は最後まで聞いてくださいよぉ!!」
 ニコルの発言がまだ終わっていなかったにもかかわらず、大きな門の前にずいっと進み出て、ガンガンと門柱を叩き出したではないか。
「おーい、誰かー! 誰か、いねぇかー?」
 これにはニコルも溜め息を禁じ得なかったが、時すでに遅しであった。なぜなら警部の呼び出しに応じて、奥からバタバタと大きな足音が響いてきたかと思えば、
 ギィィィィ。
 重そうな音とともに、孤児院の大きな扉が開かれたからだ。
 しかも開くが早いか、一人の太ったシスターがかくも好奇心旺盛な様子で、そそくさと顔をのぞかせている状態となっていた。いや、そればかりか、見た目に三十代と思しきそのシスターははたとデイヴィッド警部の存在を確認するや、
「はい、どなたでしょう?」
 訝しげな言動とは裏腹に、なんとも興味津々そうに訊ねてくる始末だった。
 だが、そこはそこ、すでに切り替えの済ませたデイヴィッド警部がこれまた軽い返事で応じてみせた。
「あ、こりゃどうも。自分はスコットランドヤードの者で、デイヴィッド・ターナーと申します」
「あらまぁ、警察の方ですか。で、そのデイヴィッドさんがこの孤児院に、いったいどのような御用時で?」
「ああ、いきなりで驚かれたでしょうが、実は今日来たのはこいつの紹介で──って、なにそんなところでコソコソしてるんだよ」
 言って、デイヴィッド警部がぐいっとつかんだのは、自分の陰に隠れていたニコルの襟首。
 おかげで拾われた子猫のような格好になったニコルには、
「や、やぁ……」
 引きつった笑顔を振りまきながらの、申し訳なさげな会釈を送ることぐらいしかできなかった。
 しかしその瞬間、それをいともあっさり打ち消すかのように、相対する太ったシスターの素っ頓狂な声が上がった。
「あー! あなたはー!!」
 耳をつんざくその声に思わず顔をしかめるニコル。それでもなんとか、
「シ、シスター・マギー・フランクリン。お、お元気そうで……、なによりです」
 穏やかな口調で応じておいた。
 だが、マギーと呼ばれたシスターはそんな言葉など耳も貸さない。今度は孤児院に向かって、またしても大声を張り上げていたのだ。
「マリアー! ちょっと、シスター・マリア!」
 すると、その声に応じて、一人の若いシスターが孤児院から出てきたではないか。
 ロングの金髪が印象的な、見目麗しい若いシスター。見たところ二十代の前半、花も盛りの年頃である。
 しかも、声音もマギーとは対照的に、
「マギーさん、どうしたんですか? そんな大声出しちゃって」
 その言動が示すとおり、なんともおしとやかそのもの。そんな魅力的な物腰で、
「あら、はじめまして。私、マリア・フローレンスと申します」
 にっこりと太陽のような笑顔を向けられながら挨拶されたものだから、対するデイヴィッド警部の方は堪ったものではなかったようだ。
 なにしろ挨拶を返すのも忘れて、
「綺麗だ……」
 そうポツリと呟く他はなかったのだから。

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