第一章⑦

エピソード文字数 1,898文字

「ここ、か?」
 目的の場所に着いた時のデイヴィッド警部の第一声は、まさにその一言だけだった。
 いや、この反応も無理ないことだろう。なにしろ目の前にあったのはぼろぼろの壁と大きな建物、そして建物の中からは子ども達のはしゃぎ声。なんらかの有力な情報が得られそうな場所とは到底思えなかったからだ。
 そう、いま二人の眼前にある建物は、
「ええ、ここはイースト・エンドに古くからある孤児院で、(セント)ニコラオス孤児院って言うんですよ」
 このニコルの言のとおり、なんの変哲もないただの孤児院だったのだ。
 だからこそいつも強気一辺倒のデイヴィッド警部が、
「ここでいったいどんな情報を得ようって言うんだ?」
 そう不安げに訊ねたのも、これはこれで当然のことといえよう。
 だが、それに対するニコルの返答はいともさらっとしたものだった。
「実はここのシスターたちの何人かはこのホワイトチャペル地区の出身で、長年この一帯で活動をしているっていう人が多いんです。で、実際そのうちの何人かとは顔見知りなんで、もしかしたら有力な情報の一つぐらい教えてもらえるかもって思ったんですよ」
 すると、さすがは切り替えの早いデイヴィッド警部である。このニコルの発言を聞いた途端、パッと顔を輝かせ、
「なんでぇ! そういうことならここでまごまごしてる道理はねぇな。さっさとそのシスターとやらに会って、話を聞こうじゃねぇか!」
 そう力強く言うやいなや、
「ただ、ちょっとだけ問題がありまして──って、人の話は最後まで聞いてくださいよぉ!!
 ニコルの発言がまだ終わっていなかったにもかかわらず、大きな門の前にずいっと進み出て、ガンガンと門柱を叩き出したではないか。
「おーい、誰かー! 誰か、いねぇかー?」
 これにはニコルも溜め息を禁じ得なかったが、時すでに遅しであった。なぜなら警部の呼び出しに応じて、奥からバタバタと大きな足音が響いてきたかと思えば、
 ギィィィィ。
 重そうな音とともに、孤児院の大きな扉が開かれたからだ。
 しかも開くが早いか、一人の太ったシスターがかくも好奇心旺盛な様子で、そそくさと顔をのぞかせている状態となっていた。いや、そればかりか、見た目に三十代と思しきそのシスターははたとデイヴィッド警部の存在を確認するや、
「はい、どなたでしょう?」
 訝しげな言動とは裏腹に、なんとも興味津々そうに訊ねてくる始末だった。
 だが、そこはそこ、すでに切り替えの済ませたデイヴィッド警部がこれまた軽い返事で応じてみせた。
「あ、こりゃどうも。自分はスコットランドヤードの者で、デイヴィッド・ターナーと申します」
「あらまぁ、警察の方ですか。で、そのデイヴィッドさんがこの孤児院に、いったいどのような御用時で?」
「ああ、いきなりで驚かれたでしょうが、実は今日来たのはこいつの紹介で──って、なにそんなところでコソコソしてるんだよ」
 言って、デイヴィッド警部がぐいっとつかんだのは、自分の陰に隠れていたニコルの襟首。
 おかげで拾われた子猫のような格好になったニコルには、
「や、やぁ……」
 引きつった笑顔を振りまきながらの、申し訳なさげな会釈を送ることぐらいしかできなかった。
 しかしその瞬間、それをいともあっさり打ち消すかのように、相対する太ったシスターの素っ頓狂な声が上がった。
「あー! あなたはー!!
 耳をつんざくその声に思わず顔をしかめるニコル。それでもなんとか、
「シ、シスター・マギー・フランクリン。お、お元気そうで……、なによりです」
 穏やかな口調で応じておいた。
 だが、マギーと呼ばれたシスターはそんな言葉など耳も貸さない。今度は孤児院に向かって、またしても大声を張り上げていたのだ。
「マリアー! ちょっと、シスター・マリア!」
 すると、その声に応じて、一人の若いシスターが孤児院から出てきたではないか。
 ロングの金髪が印象的な、見目麗しい若いシスター。見たところ二十代の前半、花も盛りの年頃である。
 しかも、声音もマギーとは対照的に、
「マギーさん、どうしたんですか? そんな大声出しちゃって」
 その言動が示すとおり、なんともおしとやかそのもの。そんな魅力的な物腰で、
「あら、はじめまして。私、マリア・フローレンスと申します」
 にっこりと太陽のような笑顔を向けられながら挨拶されたものだから、対するデイヴィッド警部の方は堪ったものではなかったようだ。
 なにしろ挨拶を返すのも忘れて、
「綺麗だ……」
 そうポツリと呟く他はなかったのだから。
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登場人物紹介

●ニコル・クロムウェル(Nicol=Cromwell)


グレーター・ロンドン庁からスコットランドヤードに嘱託検死医として派遣されている、第二検死課の医師。しかし、派遣以降、ニコルに回ってくる仕事は、第一検死課の手伝いか、最近実験的に導入されたばかりの指紋照合の研究をさせられるぐらいで、後は若手警官が医務室代わりに第二検死課へと来るぐらいのもの。だが、デイヴィッド警部に巻き込まれ、急きょ連続殺人の捜査に駆り出されることになるのだった。

●デイヴィッド・ターナー(David=Turner)


スコットランドヤードの熱血警部。5年前の切り裂きジャック事件で、新米警官として事件にあたった経験から、「今回の一連の事件は、やつのしわざじゃねえ!」と捜査本部の方針に猛反発。しかし、単身捜査をするのには限界があるため、前々から目を付けていたニコルを巻き込むことに。

●マリア・フローレンス(Maria=Florence)


聖ニコラオス孤児院で孤児たちの世話をする修女(シスター)。

もともと彼女自身も捨て子であり、ニコルと同じ聖ニコラオス孤児院で育った過去を持つ。性格は明るく、ニコルに頼まれ、同じシスターのマギーとともに街のうわさを聞きこむことに。なお、マリアに一目ぼれしたデイヴィッド警部から、それとなくアプローチを受けるが、本人はいたって気づいていない。

●スティーヴ・マルサス(Steve=Malthus)


スコットランドヤードのエリート警視で、デイヴィッドの上司。捜査の手法の違いからデイヴィッドと対立することが多い。新たにロンドンを恐怖の渦に巻き込んだ連続殺人犯を、切り裂きジャックの再来と信じて疑わない。

●マギー・フランクリン(Maggie=Franklin)


聖ニコラオス孤児院のベテラン修女。おしゃべり好きで、かつ、うわさ好きな性格なので、今回の事件のこともいろいろとニコルやデイヴィッド警部に聞き込んでくるが、その反面、町で聞き込んだうわさもいろいろと話してくれる、迷惑であり、ありがたい人物。


●ミネルバ・ファーガソン(Minerva=Ferguson)


聖ニコラオス孤児院の筆頭修女。真面目な性格で、厳格なクリスチャン。マリアやマギーが事件に首を突っ込むことをこころよく思っていない。

●ウィリアム・スチュワート(William=Stewart)


聖ニコラオス孤児院のあるイースト・エンド教区に務める優しき老牧師。孤児院に常駐しているのは修女たちで、ウィリアム牧師は週一回礼拝のときに孤児院を訪ねている。

●連続殺人の被害者 case1

アニー・スコット(Annie=Scott)


27歳。第一の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で夜明けに死体が発見される。18箇所に及ぶ切り口が見られた。

職業は売春婦。

事件日は十月十四日。

●連続殺人の被害者 case2

ローズマリー・ジョーンズ(Rosemary=Jones)


23歳。第二の被害者で、死因は頚部を掻き切られたことによる窒息死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で悲鳴を聞きつけた巡査がかけつけるも、事切れた状態で発見された。切り口は、死因となった頚部の一箇所と、腹部の七箇所の刺し傷。

職業は売春婦。

事件日は十一月十五日。

●連続殺人の被害者 case3

アイリーン・コックス(Irene=Cocks)


24歳。第三の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で夜明けに死体が発見される。29箇所に及ぶ切り口が見られ、ずたずたに腹まで割かれていたが、内臓はすべて揃っていた。

職業は売春婦。

事件日は十一月二十九日。


●連続殺人の被害者 case4

メアリー・リトル(Mary=Little)


21歳。第四の被害者で、死因は頚動脈の切断。

テムズ川のほとりで死体が発見される。腹がずたずたに割かれていたが、内臓はかろうじてすべて揃っていた。

職業はメイド。

事件日は十二月四日。


●連続殺人の被害者 case5

マーガレット・ウォルポール(Margaret=Walpole)


22歳。第五の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で、夜明けに死体が発見される。腹がずたずたに割かれており、内臓の一部が持ち去られいた。

職業は教師。

事件日は十二月五日。


●連続殺人の被害者 case6(未遂)

フェアリー・コールズ(Fairy=Coles)


第六の被害者になりかけた女性。3件目の被害者アイリーン・コックスと顔見知りであり、その遺体の第一発見者でもある。

職業は売春婦。


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