悪夢

文字数 2,327文字

 怒りに狂っています。狂うと云うならば、何れ程のものか。嘗て母胎から這い出た時は純情無垢だったこの蒼眼の両が、蜘蛛の巣の様な血管を張り巡らせて、不揃いの歯々がガリガリと音を鳴らして、一度たりとも暴力に振るったことのない、寸分と純潔を保つ我が拳骨が、いきり立って震え上がり、かの男のリング入りを今か今かと待ち構えておるほどです。怒りと云うならば、其れは今朝の今朝迄、一度たりとも味わったことのない、珍味と云うにはヒトの食を成していない、其れは其れは悍ましく、其れ自体が吐き気を孕んでいる様で、連なる山脈の様に、天井板の支えにならないガタガタの私の口内で、其れは彈けて至る所に飛び散り、私に不快な感触を齎すのです。
 如何様にして、彼に私のこの怒りが伝わりましょうか。否。到底彼には理解できないでしょう。彼に分かりましょうか?この気持ちが…………キチガイと扱われたこの私の気持ちが! 
 あれ程に不愉快な目覚めはありませんでした…………私を縛り上げた拘束具の軋む、あれ程に不愉快な音が! 私を目覚めさせたのです! 混凝土の壁が私を押し潰さんと四方を囲み、初めから開閉を前提としていない様な頑丈な作りの鉄扉が私の眼前に置かれておりました。眼前?今しがた私はそう云いましたか?眼前。眼前など、真っ暗闇でありましたよ! 老婦の下着でもあれ程の悪臭は放てないでしょう! 凡そに塵溜めからでも拾ってきた様な悪臭を放ったあの布切れが! 私の視界を遮っておりましたので! 私は暫し男どもが荒い息を吐きながら押すその何かが、重い重い鉄扉であると断定したのです。
 ワタクシの怒りの元凶は此処に現れるのです。私の、ワタクシの、怒り狂うワタクシの、眼の上の瘤などと言い表すには生温い……その男の名は! ジーアスだとかゼシディアだとか、その辺の名を名乗っております! この男は実に奇怪な男で、此奴の家は拝火教なのですが、此奴は両親を火事で亡くしております。こんなに神聖で皮肉な話がありましょうか! 私は“風邪”の噂で其れを知った時、其れは其れは、院内であったのにも構わず、他の患者どもの針の様な視線の中で、腹が千切れるほどに笑ったものです。偶然にもこのバーバスだかセニョリータだかとか云う男は私の近くに居合わせていたのですが、あの時の顔は何と表現したらいいのでしょう…………其れは其れは可笑しく、萎れた果物と云えばいいのでしょうか?厭、萎れたと云うより、潰れたと云ったほうが適するのでしょうか?兎にも角にも、この男はそういう悲劇の主人公、ヒーローなのであります! 私と敵対する、ヒーローなのであります! ならばワタクシは、ビランというやつなのでしょうか、ヴィランというやつなのでしょうか、どちらでもいいでしょう! この男は何処の何奴の袖口か、散々自身の御愁傷を笑いものにした私の前に、精神病院の院長として現れやがりました! 目隠しを取るなりに私を思い出したか、其れともカルテを見たときには、怒りに拳を震わしたか、其れはもう分かりません…………これはとても悲しいことです。彼の身は軈て、彼の家の式たり通りに火に炙られるのでしょうが、その前に私の証を残してやりたくなりました。清々しい程に忌々しく今し方、此の部屋は血濡れております。女の看護師が、数えるに二、三人居りましたが、今では誰が誰で、何れが誰の歯か指か……此の眼の球は誰のでしょう……。彼等の死因をここに述べましょう……其の一、私の舌廻りを甘く見てしまったこと……其のニ、私をキチガイだと思って甘く見たこと……其の三、私の“スパイス”は甘いと勘違いしたこと……そう、彼等は甘いのです! 何もかもが! 甘々の甘なのです! 此のゴツゴツとした男の……レオターニだとかセバスチャンだとか云う男のものだと思われる爪の垢は、甘いものではなかったのですが……苦かったです。女のは、珍味というやつでした。食べれます。女の爪の垢を三人分穿り出して、自分の爪の隙間に詰めました。此れで、しばらくの小腹は満たせます。これより……私の大逃亡劇が始まるわけです。大胆にも開かれた鉄扉から、誰にも憚れること無く、このロンドンだかベルリンだか和歌山だかの街に繰り出すのです。 
 いざ逃げ出さんと扉を出た瞬間、後頭部に雷撃が落ちました。一撃に私の意識は吹き飛ばされ、最後に見えたのは……何だったのでしょうか?
 次に目を覚ました時、妙に目が痛みます。鉄針の様なものが……視界に数本映っております。
「目覚めたようです」
 そう云う、淡々とした声が背後から聞こえました。
「途中から脳波が異常な上がり方をしていました。興奮状態だったようです」
「そんなの聞かなくたって分かるさ。ほれ、見てみろ。おッ勃ってる」
 もう一人の男の声で、股間の違和感に気づきました。
「どうした?エロい夢でも見てたのか?なんだ?どんな女を抱いたんだ?ブロンドか?厭、お前は普通じゃないからな、アジアの女でも抱いたのか?厭、お前は本当に頭がおかしいからな、黒んぼのドレッドでも抱く夢を見てたのか?厭、お前は本当に狂っていてキチガイだからな! 男でも抱く夢を見てたのか?気持ち悪い! 本当に気色が悪い! お前は!」
 スキンヘッドの軍服男が、ワタクシの長くて美しい黒髪を、恨めしそうに引っ張ります。
「今日は終わりだ。明日、またお前に映画を見せる」
 そう云うと、白衣を着たイモどもがワラワラと湧いてきて、私の両の眼につけられた、瞼の開閉を制限する器具のようなものを取り外しました。
 虚な目。と云うのは、今の私のことでしょうか……大凡そんな顔をしているような気がします。どこか夢心地のような、半睡状態でした。
 
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