第9話 飲みかけのペットボトル

文字数 2,536文字

 翌朝、どういう顔をしてリコに会えばいいのか。老女の話を聞いてから、ずっとリコのことを考えている。夜も眠れず、やっと寝付いたのは午前三時頃だった。起きたら頭が重く目が回る。顔を洗い会社に行くというより、リコの顔を見るために家を出た。
 駅に着くとリコの姿が近づいてくる。彼女が例のゴミ箱を離れてから声をかけようかと思ったが、ゴミ箱に寄りはしなかった。それもそのはずだ。手にはペットボトルを持っていない。そのまま改札を潜っていく。
 すぐに階段を駆け上がり、リコが待つベンチへと近寄った。リコは相変わらず静かに笑う。二日ぶりだというのに、随分会っていない気になってくる。
「おはようございます」
 冷静を装い声をかける。
「だいぶ暖かくなってきましたね」
 リコはスプリングコートを羽織っていた。
 スマホの時計を確認してしまう。残り四分しかない。
「あの…今日のお帰りは何時くらいになりそうですか」
「え、たぶん八時くらいかと」
「夜会うのは難しいですか」
 リコの答えはわかっている。あえて聞いた。
「すみません。夜は難しいんです」
「いえ、こちらこそ。無理を言ってしまって」
 リコは少し僕の方に体を向けてきた。
「きっと…もうしばらくすれば、いろいろ変わると思うんです」
 彼女の眼差しが一瞬ばかり強くなった。
 本当に一瞬だけで、ふっと息を吐くといつものリコの表情に戻る。どこか寂しげで儚い笑み。今、僕はその理由を知ってしまっている。こういう表情をさせてしまうもの。彼女をストイックにさせてしまっているもの。不幸を背負わせてしまっているもの。そのすべてが彼女の養父に由来する。そこから救い出すには方法は一つしかない。そのことを僕は昨日から考え始めていた。
「電車、そろそろ来ますね」
 リコが先に立ち上がる。
「今週もがんばりましょう」
 僕は何も言えずただただ頷き、自分が乗る車両の列へと向かった。
 電車が到着しドアが開いた。前の人たちが満員電車に押し合いへし合いされるために乗り込む。いつもの日常が始まる。
 僕は前の人たちに追随しなかった。列から外れ、ドアが閉まり電車がホームから消えるのを見送った。
 あの中に間違いなくリコが乗っている。毎日、どういう気持ちで電車に揺られているのだろう。僕の足はさっき上ってきた階段を下っていた。
「すいません。忘れ物をしてしまって」
 駅員に許可をもらって改札を出る。
 これから電車に乗ろうとする人たちと行き交う。スマホを取り出し上司にLINEを送った。具合が悪くなり午後から出勤でもいいか、と。すぐに既読となり返事が届いた。
〈わかった。それなら直接、井上建設に向かってくれ〉
 アポの時間に間に合うように行くと送り返し、僕の足は商店街を抜け踏切を渡った。土日と異なり出勤前の慌ただしい雰囲気の中、僕は人の流れと逆行する。小径に差しかかったところで着ているジャケットを脱いだ。鞄から薄手の黒いナイロンジャンパーと黒のキャップ、軍手を取り出し身につけた。
 道には誰もいない。急ぎ足であの家の前に近寄る。老女の姿もなかった。インターフォンは鳴らさず門を開ける。身を屈め玄関戸の前でしゃがんだ。そっと手をかけ横に開く。指先が震え少し音が立ってしまった。戸は滑らかに開いた。中に身を滑らせ息を潜ませる。
 ジャンパーのポケットに右手を突っ込んだ。用意していたものをその手が握る。鞄を三和土に置き土足のまま上がり込んだ。足を忍ばせ居間と思われる部屋へと近づく。ドアが閉まっていたが、ゆっくりノブを回し体を静かに押し当てた。ドアは開きそのまま体をねじ込んだ。
 車椅子に座る男の背が見える。昨日着ていたようなシャツを羽織り、やはりスラックスを穿いている。養父に違いない。右手に握っているものを前に突き出し、その男の背に目がけて駆け寄った。
 養父は振り返りもしない。正面に回り込み、手にしているものを養父の腹に突き刺そうとした。それは鈍く光るだけで直前で止まった。
 息を飲んだ。養父の胸にはすでに僕が刺そうと思っていたものが深く刺さっていたのだ。養父は虚ろな目をして顔色を失いかけている。跳びのき養父から離れた。死体は見たことはない。養父が生きているとは到底思えない。
 声を上げそうになったが、何とか口を左手で覆った。自分の手だとは思えない。そのとき、僕の目は近くのテーブルの上にあるものをはっきりと捉えた。飲みかけのペットボトルがのっている。よくコンビニでも売られている濃いめの緑茶のものだった。
 慌てて居間を出て玄関に戻る。ナイフをポケットにしまい鞄をつかみ、細く戸を開いた。誰も家の前にはいない。体が抜け出せる程度まで開き家を出ると門を閉め、辺りを見渡した。老女の家も覗き込んだが、特に物音もしない。
 誰にも見られていない。来た道を走りたくなるのを我慢して行きすぎる。豪徳寺駅に戻る勇気はなかった。物陰で身につけたものをすべて脱ぎ鞄にしまう。体が冷えている。シャツは汗でぐっしょり濡れていた。それを隠すようにジャケットを羽織ると少しばかり気が静まってくる。
 宮の坂駅へと向かう坂道を下った。自動車が忙しくなく通り過ぎる。誰がリコの養父を殺したのか。僕がやろうとしたことを誰がやってしまったのか。真っ先に僕の頭に顔が浮かぶ。数十分前に僕に「今週もがんばろう」と言ってくれた女のものだった。
 その瞬間歩くのをやめた。今から引き返した方がいいのかもしれない。このままではリコが犯人にされてしまう。僕の頭に半分くらいまで残っていたペットボトルが浮かんだ。あれがあそこにあったということは、彼女は今日は立ち寄らなかったのか。それとも養父を殺してしまいペットボトルどころではなかったのか。そうとしか考えられない。あの男を殺す動機があるのは彼女しかいない。
 己の胸に手を当ててみた。違う。リコだけではない。厳密にいえばリコだけではなかった。僕自身がまさにそうなのだ。リコを救うべく養父を殺そうと思い詰めあの家に行き、実際ナイフを突き刺そうとしたのだ。僕にも動機があるといえる。それならば…。
 足を動かし、やはり坂道を下った。先を越されたのかもしれない。一方で先を越してくれてよかったと思ってもいた。
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