episode1 キミとボク

文字数 2,677文字

 彼女と出会ったのは大学の教室の一つだった。何気なく入った教室に彼女はいた。教室の中には白く光が差し込んでいて、真木 依織(まき いおり)はぼんやりと病室を連想した。
 教室の中は懐かしさを感じる油の臭いが充満していて、普段自分が使っている教室とはまるで別世界のようだ、と依織は感じた。その油臭い別世界の中で、彼女は静かに絵を描いていた。依織の立てる物音に全く気づく様子もなく、ただ静かに絵を描き続けている。
 依織の存在に全く気づかないのは、単に集中しているからかもしれない。しかし、依織にはその姿がある人の姿と重なってしまった。
 -そうか、あの子の世界には音はないのか。
 不意に、しかし、確信めいてそんなことを思った。

 春の終わりのやわらかな光の中、ゆっくりと振り返る彼女と視線が合った。
 これが、依織が彼女・新田 光(にった ひかる)と出会った瞬間だった。

 実際、光の耳はほとんど聞こえていなかった。
 依織と出会った日も、「なんとなく誰かいる気がしたから振り返ってみた」と、彼女は言っていた。
「依織くん。」
 と、光は依織のことを呼んだ。彼女曰く、「学部が違うから先輩ではない」とのことだ。従って敬語も使わない。そんな光の依織に対する接し方が、依織にとってはどことなく心地よかった。
 二人が出会った教室は、使われることのなくなった音楽学部の教室のようで、音の狂ったC3サイズのグランドピアノとちょっと古いイスと机がいくつか置いてあった。そこに、光の私物と思われるイーゼルとキャンバス、絵の具などが散らばっていて、少し不思議な空間になっていた。
「依織くん、ピアノ弾かないの?」
 窓際の壁を背もたれに、床に座り込みぼんやりと本を眺める依織に、光が不意に声をかけた。キャンバスから視線を外し、依織の方を見ている。
 出会ってから二週間ほど。いつの間にか依織は、この教室に頻繁に通うようになっていた。
「そのピアノ、弾かないの?」
「音が狂ってますからね。」
 室内のピアノを指しながら光が言う。
 耳の聞こえない彼女は良く喋った。良く喋るものだから、依織はつい普通に返してしまう。「そうだ」と思い直して、机の上に出していた筆談用の紙に『音が狂ってるから直さないと弾けない』と書いた。
「直せないの?」
 依織の文字を確認して、少し首を傾げながら光が言う。
 『やろうと思えばできるけど、道具が必要だし面倒。』
「えー、直して弾いてよ。」
 言って、光は唇を尖らせてみせた。その姿を見て、「弾いても聞こえないでしょ。」と依織は言いかけたが、やめた。
「あ、聞こえないくせにって思ったでしょ。」
  光の指摘に依織は何も返せなかった。とはいえ、光の聴力は等級でいえば日常生活で聞こえる音は、保母聞こえないレベルだ。ピアノの音も当然まともに聞こえるはずはない。それでも光は「ピアノ弾いてよ」と、しきりに依織にせがんだ。そのため、この二週間ほどで、同じようなやりとりを数度くり返していた。
 図星にギクッとした依織を見て、光が笑う。このやりとりはここで終わるのが今までのパターンだった。
「聞こえないから、楽しくないってわけじゃないのにな。」
 ひとり言のように光がつぶやく。笑ってはいたが、少し寂しそうな表情を光は浮かべた。その表情のせいなのか、光のひとり言のようなつぶやきが依織の旨の中にじわりとシミのように広がった。
「光さんは聞こえなくても楽しめる人なわけですね。」
 依織が独りごちた。依織を見つめる光は「何て言ったの?」といった表情で小首を傾げた。
「な・ん・で・も・な・い。」
 ゆっくりと唇の動きを強調するようにして依織が言った。それを見て、「あっそう」といった表情で肩をすくめ、キャンバスに視線を戻した。依織もまた、開いていた本に視線を戻した。依織もまた、開いていた本に視線を戻した。


「またあの教室に行ってたの?」
 依織が光と過ごしていた教室をあとにして講義に向かっていると、背後から声をかけられた。ふり向くとそこには、阿久津 直がいた。
 依織と直は、専攻は違うものの高校の時からの友人だった。気づけば同じ大学に進み、同じ単位を落とす仲となっていた。
「由奈さまから逃げるのにちょうど良くてさ。」
 依織はため息まじりに返した。
 七種 由奈。一学年上の彼女は、依織にとって大学入学以来のやっかいごとである。
「あの人も執念深いというか…。そもそも、今年から院生なのに大学に出没しすぎじゃない?」
「それな。」
 あきれたような、どこか同情するような口調でいう直に、依織も同意した。
「由奈さまのこと、嫌いってほどではないんだけど…。」
「けど?」
「好きじゃない。苦手。面倒臭い。」
「それってさ、その三拍子揃っちゃったら、ほぼ嫌いってことなのでは?」
 直の指摘に、依織は今気づきましたというようなわざとらしい表情で「あぁ。」と声を漏らした。
「まぁ、嫌いというところまで感情がないですね。面倒臭いにつきるわ。」
「それって、嫌いよりも辛辣なんだが。」
 そんな会話をしていると、講義室の前に辿り着いた。
 決して狭くはない大学内で、あの人もよくも毎度毎度自分のことを見つけるものだ。依織はぼんやりとそんなことを考えた。

 依織が七種 由奈を認識したのは、大学一年の夏だった。入学後初めての公開で行われる実技試験が終わったあとだった。試験後間もなく、声をかけられた。「コンサートの伴奏を頼みたい。」そんな内容だったと思う。
 由奈の専攻は声楽で、学内コンサートに選抜される程度に優秀な学生のようだった。
「自分のことで精一杯なので、他を当たってください。」
 そう言って断った。
 相手の優秀さもどうでもいいし、伴奏のスキルが欲しいわけでもない。声をかけられるのも煩わしかった。
 そもそも、その当時の依織の状況は「自分のことで精一杯」といっても嘘ではない状況だった。
 その頃負っていた傷は未だに乗り越えたとは言いがたい。よくぞ毎日学校へ通い、ピアノを弾き続けたものだ、とさえ思う。
 そんな状況だからこそ、めげずにつきまとってくる由奈のことを煩わしく感じていた。その反面、状況が違ったら自分の心も動いたのだろうか、と考えてしまう。そんな歪な感情を依織は抱いていた。
 年年という短くはない時間を、由奈は依織に気持ちを傾け続けた。決して向き合ってはくれない相手に好意を向け続けるのは、あまりにも不毛だ。そんなことを考える度、由奈に対する依織の感情は一層歪んでいった。
 いい加減、ケリをつけないと。そんなことが頭をよぎったとき、講義の終わりを告げるチャイムが鳴った。
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