episode4 夏のはじめの憂鬱
文字数 1,936文字
いつもの教室に行くと、光の姿はなかった。示し合わせて集まっているわけでなないので、そう珍しいことではない。
依織は、直によって調律されたピアノの鍵盤を一つ鳴らしてみる。
適当に選んだA の音がポーンと部屋のなかに響いた。
部屋に響くピアノの音を感じながら、ケリをつけようと決めた事柄が頭をよぎった。
窓の外を見やると、季節を変えようとし始めた空が青く広がっているのが視界に入った。
初めて由奈に声をかけられたときもこんな空だった。そのときの由奈の声も、指先の震えも鮮明に覚えている。
気位の高い彼女が、どれだけの勇気を振り絞って声をかけたのだろうか。もしも断られたら、と不安に震える指先が切なかった。
それなのに、そこまで分かっていてもどうしても依織は由奈に気持ちを傾けることができなかった。
由奈の気持ちに気付いてからは、目を見る度に罪悪感が胸に広がった。
依織にはどうしてやることもできない。由奈は依織にとって、傷を埋めてくれる存在にはなり得なかった。
依織は、自分の心があるところで止まっていたことを自覚していた。そのままで良いとも思っていた。しかし、光と出会って少しずつ砂が崩れるように動き出したことを感じていた。
青い空をゆっくりと泳いでいく雲を眺めながら、依織はある人の言葉を思い出した。
「私は、あなたがいつか私を置いて大人になっていくのが耐えられない。」
彼女は確かにそう言った。その震える声も、唇も、その人の全てが何よりも鮮明に、鮮烈に記憶に残っていた。
依織は、記憶を振り払うように大きくため息をつくと、ピアノの蓋を閉じ、教室を後にした。
校舎から出ると依織は空を見上げた。窓から見た空と同じように、季節の変わり目を感じさせるような青空が広がっていた。
ぼんやりと空を見上げていると、誰かに呼ばれたような気がした。
耳の奥で響く懐かしい声に、依織は顔をしかめる。
彼女とはじめて言葉を交わしたのも、今くらいの季節だった。
梅雨の走りで雨が続く季節だった。
試験終わりのその日は、たまたま晴れ間がのぞいていて、依織は校内のお気に入りの場所でぼんやりと雲を見送っていた。
「あれ、真木くん。」
木漏れ日のなかでぼんやりと過ごしていると、不意に声をかけられた。声のしたほうに視線を向けると、講師の田中 楓 が立っていた。
ふわりと笑いながら立つ彼女を見て、木漏れ日が降り積もってできた人のようだな、と依織はふとそう思った。
楓は依織が通う高校の講師だったが、声楽を教える彼女とピアノを専攻する依織とではほとんど接点はなかった。
「先生、俺の名前知ってたんだ。」
「知ってるよ。音楽コース、大人数ってわけでもないしね。」
そう言いながら、楓は依織の隣に座り込んだ。
「それに、真木くんなんか目立つし。」
「…なんか目立つ、とは?」
そう聞くと、楓はフフッと笑いながら小首を傾げてみせた。
「そうだな…はじめての実技試験で、いきなり超絶技巧な練習曲弾くところとか?」
「それは…練習曲が指定でしたからね。」
「ほとんどノーミスでしたよ。素晴らしい、花丸!」
少しうっとうしそうにあしらう依織とは対照的に、楓は機嫌良さそうにそう言った。
「それ、講評のつもり?」
「うん、そう。花丸、書いてあげようか?」
そう言って楓は持っていたペンを顔の前で振ってみせた。
「…いらない。」
呆れたように依織が答えると、楓はまたふわりと笑った。
この日をきっかけにして、依織と楓はちょくちょく言葉を交わすようになった。
楓はよく笑い、よく喋る人だった。
どちらかというと社交的とはいえない依織は、最初の頃こそ少々うっとうしいと思うこともあったが、次第に楓と過ごす時間を心待ちにするようにさえなっていった。
流れていく雲を眺める依織の脳裏に、高校時代の一瞬がフラッシュバックのようによぎった。その当時の感情まで蘇り、軽いめまいを覚える。
少し前まで青かった空は、流れる雲に覆われてどんよりとよどみ始めていた。
いつになったらこの感情は終わるのだろうか。ふと、そんなことを思った。
光と出会ってから、心の一部が動き始めたことに気付いている反面、全く埋まらないままの傷があることも確かだった。心が動き始めたために、残ったままの傷が一層深まるような気さえすることもあった。
依織は、楓を思い出す度に、失ったものを埋める方法などないことを確信していく。あったとしても、時間が経ちすぎたとも思う。
そんなことを考えながら、学内をふらふらと歩いていると、ポツリと水滴が落ちてくるのを感じた。
「あぁ…やっぱり。」
依織は小さくひとりごちた。
スッと鼻から息を吸い込むと、もうすぐ春を終え季節が動こうとしているのを感じた。
依織は、直によって調律されたピアノの鍵盤を一つ鳴らしてみる。
適当に選んだ
部屋に響くピアノの音を感じながら、ケリをつけようと決めた事柄が頭をよぎった。
窓の外を見やると、季節を変えようとし始めた空が青く広がっているのが視界に入った。
初めて由奈に声をかけられたときもこんな空だった。そのときの由奈の声も、指先の震えも鮮明に覚えている。
気位の高い彼女が、どれだけの勇気を振り絞って声をかけたのだろうか。もしも断られたら、と不安に震える指先が切なかった。
それなのに、そこまで分かっていてもどうしても依織は由奈に気持ちを傾けることができなかった。
由奈の気持ちに気付いてからは、目を見る度に罪悪感が胸に広がった。
依織にはどうしてやることもできない。由奈は依織にとって、傷を埋めてくれる存在にはなり得なかった。
依織は、自分の心があるところで止まっていたことを自覚していた。そのままで良いとも思っていた。しかし、光と出会って少しずつ砂が崩れるように動き出したことを感じていた。
青い空をゆっくりと泳いでいく雲を眺めながら、依織はある人の言葉を思い出した。
「私は、あなたがいつか私を置いて大人になっていくのが耐えられない。」
彼女は確かにそう言った。その震える声も、唇も、その人の全てが何よりも鮮明に、鮮烈に記憶に残っていた。
依織は、記憶を振り払うように大きくため息をつくと、ピアノの蓋を閉じ、教室を後にした。
校舎から出ると依織は空を見上げた。窓から見た空と同じように、季節の変わり目を感じさせるような青空が広がっていた。
ぼんやりと空を見上げていると、誰かに呼ばれたような気がした。
耳の奥で響く懐かしい声に、依織は顔をしかめる。
彼女とはじめて言葉を交わしたのも、今くらいの季節だった。
梅雨の走りで雨が続く季節だった。
試験終わりのその日は、たまたま晴れ間がのぞいていて、依織は校内のお気に入りの場所でぼんやりと雲を見送っていた。
「あれ、真木くん。」
木漏れ日のなかでぼんやりと過ごしていると、不意に声をかけられた。声のしたほうに視線を向けると、講師の
ふわりと笑いながら立つ彼女を見て、木漏れ日が降り積もってできた人のようだな、と依織はふとそう思った。
楓は依織が通う高校の講師だったが、声楽を教える彼女とピアノを専攻する依織とではほとんど接点はなかった。
「先生、俺の名前知ってたんだ。」
「知ってるよ。音楽コース、大人数ってわけでもないしね。」
そう言いながら、楓は依織の隣に座り込んだ。
「それに、真木くんなんか目立つし。」
「…なんか目立つ、とは?」
そう聞くと、楓はフフッと笑いながら小首を傾げてみせた。
「そうだな…はじめての実技試験で、いきなり超絶技巧な練習曲弾くところとか?」
「それは…練習曲が指定でしたからね。」
「ほとんどノーミスでしたよ。素晴らしい、花丸!」
少しうっとうしそうにあしらう依織とは対照的に、楓は機嫌良さそうにそう言った。
「それ、講評のつもり?」
「うん、そう。花丸、書いてあげようか?」
そう言って楓は持っていたペンを顔の前で振ってみせた。
「…いらない。」
呆れたように依織が答えると、楓はまたふわりと笑った。
この日をきっかけにして、依織と楓はちょくちょく言葉を交わすようになった。
楓はよく笑い、よく喋る人だった。
どちらかというと社交的とはいえない依織は、最初の頃こそ少々うっとうしいと思うこともあったが、次第に楓と過ごす時間を心待ちにするようにさえなっていった。
流れていく雲を眺める依織の脳裏に、高校時代の一瞬がフラッシュバックのようによぎった。その当時の感情まで蘇り、軽いめまいを覚える。
少し前まで青かった空は、流れる雲に覆われてどんよりとよどみ始めていた。
いつになったらこの感情は終わるのだろうか。ふと、そんなことを思った。
光と出会ってから、心の一部が動き始めたことに気付いている反面、全く埋まらないままの傷があることも確かだった。心が動き始めたために、残ったままの傷が一層深まるような気さえすることもあった。
依織は、楓を思い出す度に、失ったものを埋める方法などないことを確信していく。あったとしても、時間が経ちすぎたとも思う。
そんなことを考えながら、学内をふらふらと歩いていると、ポツリと水滴が落ちてくるのを感じた。
「あぁ…やっぱり。」
依織は小さくひとりごちた。
スッと鼻から息を吸い込むと、もうすぐ春を終え季節が動こうとしているのを感じた。